9
「そっか……そんなことがあったか」
涙ながらに抱えていた不安を打ち明けた後、が困ったような顔で呟いた。
石段に腰を下ろした千鶴の前でしゃがみ込むその人の綺麗な顔は夕焼けに染められている。途中嗚咽に掻き消された時に、が頭をくしゃくしゃと撫でて「急がなくて良いよ」と優しく言ってくれたものだから、涙が溢れて止まらなくなって、何とか全て話し終えた時にはお日様は西の空へと沈んでしまうところだった。
手拭いに半分顔を隠し、ぐずぐずと鼻を啜っている彼女の目は真っ赤だ。
沢山泣いたが、まだそれでも不安の全てを吐き出しきれていないらしい。時折何かを思いだしてはぽろりと涙が溢れるのを見て、余程溜まっていたのだなと言うのがうかがい知れる。
確かに大変だっただろう。
突然行方知れずになった父を探しに京にやってくれば、突然新選組に捕まって、あんなものを見て。なおかつ新選組の連中は癖のあるものばかり。父親の行方も分からない。自分がどうなるかもわからない。
そんな不安を抱えて、でも必死で仲間の為にと頑張っていた彼女に、あの仕打ちは流石に酷いというものだ。
そりゃ泣きたくもなる。むしろ、今まで千鶴が堪えていたのが不思議なくらいだ。
「す、みま、せっ」
ひっ、としゃっくり上げながら千鶴は謝る。
「いいよ、気にしないで。私が聞かせてと言ったんだ。それより辛い話をさせて悪かったね」
頭をよしよしと撫でてやると又、千鶴は泣いた。
「ごめん、なさっ」
「もう、良いから謝らない。今だけは思う存分泣いていいから」
どうせ屯所に帰ればこんな風に泣かせてやることも出来ないのだ。今だけ充分甘やかしてやろうとは思う。まあこれほどに泣いたら後が辛いかもしれないが、仕方ない。
それよりも、とはため息を漏らした。
「問題は、あの馬鹿だ」
忌々しげに呟くのは無論、馬鹿と呼ばれた男のこと。沖田のことだ。
千鶴はもう一度謝った。心の底から申し訳なく思った。は千鶴を心の底から心配して話を聞いてくれているのに、彼が血を吐いたという話だけは出来なかった。彼が望んだから。それをは気付いている。だけど何も言わずに千鶴が話したいことだけで良いと笑ってくれた。それが有り難くて、申し訳なくて、またじわりと涙が込み上げてくる。
「あいつは図体ばっかでかくなって、中身はまったく大人になってないんだから」
「おき、たさんは……悪くない、です」
呆れ口調で言うに、千鶴は頭を振ってみせる。
手拭いの下から顔を出すと、すんと鼻を啜ってからしっかりとした口調でこう告げた。
「私、何も知らないのに……仲間とか、調子に乗ってしまって……沖田さんが怒るのは、当然のことです」
何の役にも立ってないのに。彼らのことを何も分かっていないのに。それなのに仲間だと言われて彼は良い気分なんてしなかったはずだ。何を図に乗っているのかと怒られて当然のこと、と千鶴が言えばはやんわりと言葉を遮った。
「それは、違う」
そう、違うのだ。
沖田は彼女をそんな風に思っていない。
むしろ、何も知らないくせに、どうしてそこまで他人に対して必死にあれるのかと戸惑っているのだ。
戸惑い、それを認められないが為に、突き放すようなことを言ったのだろう。
傷つければ離れると思ったから。そうすれば自分を掻き乱されることがないとでも思ったに違いない。
本当に馬鹿な奴だ。
傷つけて、苦しんで、また八つ当たり……なんて、子供じみている。
「私……沖田さんに、嫌われ、たくないです」
やれやれと溜息を吐くと、千鶴が本当に悲しそうな声で零した。
またじわりと涙を浮かべて、ぐっと唇を噛みしめて、嫌われたくないですともう一度震える声で。
それが千鶴の何よりの想いなのだろう。
彼に嫌われたくないと言うその想いが、偽らざる気持ち。仲間ではないと他の面々に拒まれるよりもずっとずっと、千鶴は沖田に嫌われるのを恐れている。多分、殺されることよりも。
「うん、大丈夫だよ」
小さな頭をぽんぽんと軽く撫でる。
「あいつは嫌っちゃいないよ」
その逆だ。
好きなくせに認められないだけ。彼女を好きという気持ちを認められなくて、闇雲に拒んで傷つけているだけ。本当は大切にしたい癖に、大切に出来ない自分にも苛立って、それを全部彼女にぶつけるだなんて馬鹿げている。
ただ認めれば良いだけなのに。千鶴を好いているのだと。そうすれば、二人はこんなにすれ違うことも無かっただろうに。
「まあ、そればっかはあいつ自身が越えないといけないことだしな」
沖田に関してはそれを解いたところで聞く耳を持たないだろうし、逆に違うと千鶴に更にきつく当たられても困る。
やれやれ困ったものだともう一度溜息を零した。
それから、茜色に染まっていく空を見上げて目を細める。
烏が鳴きながら西の空へと飛んでいくのが見えた。通りの人も疎らになってきている。直に、辺りは暗くなるだろう。
「そろそろ、帰ろっか?」
「は、はいっ!」
千鶴は慌てて顔を手拭いで拭って、立ち上がった。
一通り吐き出してすっきりしたのか、その顔は連れ出した頃よりも随分と晴れやかに見える。が、その赤い目はどう見ても誤魔化せそうにない。泣いたというのは一目瞭然だ。
「平助とか、新八さんに何か言われるだろうな」
きっと屯所に帰ったら心配されるだろうし、下手をすれば自分が泣かしたと誤解を受けるかもしれない。
いやそれ以前にこんな時間まで外に引っ張り出したことを土方に怒られるかもしれないが、それはもう甘んじて受けておこう。ほんの少しでも千鶴の気持ちを軽くしてやれたならば、彼の説教なんて安いものだ。
とんとんと石段を下りて、通りを戻る。
千鶴はの後ろを数歩遅れてついてきた。
人通りの少ない通りに長い影が二つ。自分たちの影だ。茜色に染められた大地に伸びるその影の一つが、酷く寂しそうに見える。きっと泣き顔を隠すように俯いているせい。
「千鶴ちゃん、手を出して」
振り返ると突然が言った。
「手?」
不思議そうに問いかけながら、千鶴は素直に手を差し出してくる。
「はい」
その手を、は繋いだ。
今までしていたように手首を取ってではなく、繋いだ。
「え?」
そのまま振り返らずはずんずんと歩き出す。手を繋いでいるから、自然、千鶴も引かれて歩くことになって、後ろで戸惑うような声が聞こえた。
「さん?」
「なんかさ、いいと思わない? こういうの」
大地に伸びる長い影も、手を繋いでいる。先程までしょんぼりしていた小さな影は、もう寂しそうに見えない。
良いな、とは笑った。
しかと繋いだ手から、の温もりが伝わってくる。
父親以外の男の人と手なんて繋いだことなどない千鶴にとって、それはとんでもなくいけないことをしている気分になった。しかも、相手はとんでもなく美形ので。ドキドキと心臓が煩いくらいに高鳴っている。
緊張しすぎて居心地が悪い。手のひらに汗を掻いていないだろうかと冷や冷やしたものだった。
でも何故だろう。
「……」
暫くその手に包まれていると、酷く落ち着く気がした。
だってなんだか優しくて、懐かしいとさえ思うのだ。
幼い頃、こんな風に誰かに手を繋いで貰っていた気がした。その温もりに、のそれはよく似ている気がしたのだ。
「さん」
「んー?」
顔だけを少し振り返って彼女はどうしたと訊ねる。
夕日に照らされるのは、優しい顔だ。それに、優しい記憶が重なった気がした。
「私……さんと出会ったことがあると思います」
そういえばも言っていた。最初に出会った頃。
出会ったことはないかと。
千鶴にはそんな記憶はない。彼女と出会った記憶なんてものは。
でも、繋いだ手の温もりを確かに知っている気がした。
こちらを振り返る優しい顔を確かに見た気がしたのだ。
「うん、私もそう思う」
そう告げれば、は目を細めてただ笑った。
屯所に帰り着いた頃はもうとっぷりと日が暮れていた。
当初の予定では陽が落ちる前に戻る予定だったからか、玄関先には斎藤、藤堂、原田、永倉が雁首を揃えて待っていて、思わずは笑ってしまったものだ。そしてやはり思った通り真っ赤に目を腫らした彼女を見て、何をしたのかとは問い質される羽目になる。特に藤堂や永倉なんかは「苛められたなら遠慮無く言えよ」なんて言う始末で、千鶴はおろおろとしてしまった。彼女が悪いわけではないと言いたいのだが、そのどれもがを庇うと見られてしまうらしい。
そんな彼らを見てはけらけらと笑った。千鶴を心配してのことならば、誤解も甘んじて受け止めようじゃないかと。
「そうだ。」
ひとしきり文句を聞き終えて、草履を脱いで上がろうとしたところで原田に苦笑混じりに言われた。
「土方さんが帰ってきたら、俺の所に来いってさ」
「心配ならここにいりゃいいのに、あの人も素直じゃないんだから」
ね、と優しくその手を握られて、千鶴は目を丸くした後に嬉しそうに笑った。
嬉しくて涙が溢れそうだったけれど、もう、泣かない。こんなに優しい仲間がいるのだから。千鶴は今度こそ、そう思うことが出来そうだ。
空き部屋なのかと思う程、の部屋には何もない。申し訳程度に置かれた葛籠がの荷物の全てで、部屋の中はがらんとしたものだった。
ふすまを開けると闇一色の室内に月明かりが差し込む。
土方に呼ばれているようだから、ついでに今夜の支度でもしておこう。どうせそのまま屯所を出ることになるだろうから。
そう思って足を一歩踏み入れた瞬間、
――っ
ぞわりと背筋を駆け上る殺気を感じ、即座に刀へと手を伸ばす。
しかしそれより早く伸びた手が、
「っ!」
だん、と力任せにを床に押し倒した。
まさか賊かと思ったが、この新選組屯所に易々と入ってこられる賊などいるわけもない。しかもが部屋にはいるまで気付かせぬ程の手練れなどそうそういるわけがないのだ。それに、その若草のにおい。きっとまた草の上で寝ころんでいたのだろう。
ついと目を細めれば闇の中に見えるのは思った通りの人物の姿。
闇の中でぎらぎらと、獣のような獰猛な瞳が輝いていた。
「総司」
呼びかけに、彼はにぃと口元を三日月に刻んだ。
「副長助勤が散歩なんて、随分と暢気なもんだね」
にこにこと常と変わらぬ笑顔を浮かべる男は、しかしいつもの彼らしくもなくを乱暴に床に縫い止めている。みしりと骨が軋む程きつく。
は一瞬振り解こうかと悩んだが、止めた。溜息を零して腕から力を抜いてみる。そうしなければ痛いだけだから。
「総司、ここは私の部屋だと思うんだけど、どうしておまえがいるのかなぁ?」
しかも、我が物顔で。
なおかつ、部屋の主にこんな無礼をしているのか。
問いかければ彼は笑った。
「うん。を待ってたんだよ」
「私を、どうして?」
「付き合って貰おうと思って」
付き合うとは一体どういうことか。
訝しげに眉を寄せれば、見上げる瞳に激しい色が浮かぶ。
それは怒りの色。
「っ――」
突然、乱暴に首筋に噛みつかれた。
がりと音を立てて皮膚でも引き裂かれそうで、は咄嗟にその肩を掴んで押し返す。
「そ、総司っ! 何考えてっ」
だが残念なことにびくともしない。これが男と女の力の差というやつで、酷く腹立たしい。は奥歯をぎりっと噛みしめると、更に強く歯を立てられて、顔を顰めながら声を上げた。
「久しぶりにいいでしょ? なんかが抱きたい気分なんだ」
漸く首を噛むのを止めてくれた。が、その言葉にぎくりとする。
正気かと見れば彼はにたりと闇の中で妖しく笑い、その手を衿から差し込んできた。
「ちょ、馬鹿、何考えて、」
ここは屯所の中なのだ。屯所の中で女を手篭めになんて間違いなく士道に背くことだ。まず切腹は免れないし、の立場も危うい。女であると露見してはならないのだから。
「大丈夫大丈夫。が声を上げなければ見付からないから」
「そういうことじゃ、」
びりと嫌な音が聞こえた。どうやら乱暴に乱すあまりに衣が裂けてしまったらしい。
「ほら、が暴れるから破れちゃったじゃない」
「誰のせいっ」
「もう良いから、暴れないでよ」
「そうっ」
ぐっと圧倒的な男の力で肩を押さえつけられ、至近距離に男の顔が迫った。
彼は酷く嫌な笑みを浮かべてこう言うのだ。
「初めてでも、ないくせに」
何を恥じらう必要があるのかと彼は言いたいのだろう。
確かにそうだ。初めてではない。それは、初めてを奪った沖田が一番よく知っているだろう。沖田が、を女にしたのだ。そしてが沖田を男にした。それは間違いない。
ただ、を抱きたいという理由だけで、求められ、肌を合わせた。彼を嫌ってもいないし興味がないわけではなかったので、は乗った。男を知っていた方が色々と良いと思ったこともあるからだ。彼との交合いは気持ちよかった。身体の相性は悪くないだろうと思った。がなんだか虚しいと思ったのをは覚えている。それから、一度だって男と肌を合わせてはいない。
別に彼を嫌っているわけではないが、でも、今は彼の享楽に付き合うわけにはいかなかった。
「総司、は、なせっ!」
「いいから付き合ってよ」
「断る!」
「文句なら後で聞くからさ」
「総司っ!」
「うるさいなぁ」
酷く煩わしげな声で沖田は言って、
「んっ――」
荒々しく唇を重ねた。
噛みつくような口付けだった。反論に開いた隙間から滑り込んだ舌が、いとも簡単にの舌を捕らえ、吸い上げる。
思考さえも奪ってしまうような深い口付けだった。絡みついた舌に愛撫でもするようにゆるゆると撫でられるだけで、脳髄までとろけてしまいそうだ。
その間にも身体をまさぐる手がサラシの端を捉えたらしい。これまた乱暴に引きちぎるように解かれて、だが抵抗に身を捩れば舌先を甘く噛まれてしまって、腰が砕けそうになる。
女に興味がないとか言っている癖に、こんなところだけ巧みで、無性に腹が立つ。
そういえば初めて抱かれた時もそうだった。気付けば口付けに翻弄されて、衣を剥ぎ取られて、理性も奪われて、初めてを奪われていた。
だけど今は、あの時のように流されるわけにはいかない。
だってあの時とは全然違う。欲しいと求めてきたあの時とはまるで。
その目には欲の色なんてない。その手には優しさなんてない。口付けには愛しさも。ただあるのは、暴力。怒り。悲しみ。
――そしてなにより、彼が本当に欲しがっているものは、自分なんかじゃない。
「っ!!」
がりと、思い切り彼の唇を噛んでやった。
その瞬間じわりと口の中に血の味が広がり、沖田は慌てて顔を離した。
どうやら反撃されるとは予想していなかったらしい。呆然とした顔で口に手を当てて赤い血を確かめると、殺気立った目で睨み付けてくる。
「っ……」
そのまま首でも絞めて、捻り殺してやろうとでもするくらいの激しい怒り。
そんな彼をは静かに見て、常よりも冷たい声で言い放った。
「私に八つ当たりして何か変わるのか?」
言葉に、沖田の瞳が揺れた。
ぐらりと大きく不安定に揺れ、すぐに怒りの色を湛える。
分かった風な彼女に対して。否、持てあました自分の感情に対しての苛立ち。溢れて勝手に暴走しそうになるそれを、どうすれば良いのか分からなくて。どうすればこの感情が抑えられるのか分からなくて、この苛立ちを収められるのか分からなくて、ただ周りに当たり散らしているだけ。
そんなものをにぶつけられても迷惑なだけ。
「傷つけたのは、自分だろ……なら、自分で責任を取りなよ」
淡々とした言葉に沖田はただ唇を噛むしか無かった。反論なんて出来るはずも無い。彼女の言うことは、正しいのだから。
それでも素直に受け入れることが出来ず、沖田は唇をきつく噛みしめた。
「総司」
静かな声で名を呼ぶ彼女が、じっとこちらを見つめてくる。その真っ直ぐな瞳が彼女のそれと重なって、純粋で優しいそれから背けるように沖田は視線を背けた。
その瞳からはもう、激しい怒りの色は消えていた。横顔はただ、苦しそうで、哀しそうで、は不器用な悪友の肩をそっと押して身体を起こした。
「私に当たっても、何も変わらないよ」
「……」
沖田は顔を背けたまま何も言わない。
吐息一つを洩らして、乱された着物の衿をぐいと引っ張りながらその脇を通り過ぎる。残念ながらサラシは使い物にならなそうだし、着物は繕わなければならないだろう。こんな格好で土方の所に行けば何かを言われるに違いないが、だからと言って沖田を放り出して着替えも出来ない。これも怒られておこう。溜め息を零して部屋を出ようとすると、背後で小さく声が聞こえた。
「偉そうなこと言わないでよ、馬鹿……」
振り返ると彼は畳を睨み付けていた。拗ねた子供みたいに弱々しい横顔で、その唇から投げやりめいた言葉をぼそぼそと吐き出した。
「……今更どうしろって言うのさ。僕は、嫌われてるだけなのに」
もうあの子は昔のように、自分の前では笑わない。あの日、彼が酷い言葉を言ったあの日から、ずっと自分の前では硬い表情をしてばかりだ。そうして遠ざかってしまった。近付かないようになってしまった。彼女はきっともう、自分のことなど嫌いになってしまっている。それなのに今更何をしろと言うのか。どうしろというのか。
「そう思ってるなら、おまえは大馬鹿野郎だ」
嫌っているわけが無い。彼女は恐れているだけだ。
沖田に嫌われることをあれほどに恐れている。
知らないだろうとは内心で呟いた。彼女がどれほどに彼を想って、今日涙を見せたか。泣いて泣いて嫌われたくないと零したか。だから、沖田から離れようとしたのだ。彼にこれ以上嫌われたくないから。
それは誰がどう見たって、好いているに決まっているのに。
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