10


「すまないなぁ」
 彼はそう言って、,剃髪した頭をゆったりと撫でながら困ったような顔をした。
 どこか愛嬌のある顔立ちのその人物は、ひょんなことから近藤と意気投合し、新選組の隊士の様子を見に来た医者だった。
 その人の名は、松本良順。
 その人こそ、千鶴が探していた人だった。
 父親が何かあった時に頼れと言い、遠路はるばる京に来たのも彼ならば父親の行方を知っていると思ったからだ。
 しかし、
「綱道さんの行方は、私にも分からんのだよ」
 松本は申し訳なさそうに、そう口にするのだった。



「千鶴?」
 とぼとぼと頼りない足取りで、おまけに俯いて歩く千鶴に原田は気付いて声を掛ける。
 だが気付いていないようでため息を吐くと俯いたままでその歩みを進めている。その目の前に板塀があった。
「千鶴!!」
 そのままでごちんと頭をぶつけてしまうところで、原田は慌てて腕を引くとついでに頭を庇って引き寄せる。腕の中でひゃあと素っ頓狂な声を少女が上げた。
「危ねえ」
「す、すみませんっ!」
 びっくり眼で固まっていた千鶴は、気が付くと原田の腕に抱きしめられる形になっていた。塀と激突するところだったのを助けて貰ったのは分かるが、だからと言って男に抱きしめられることなど今まで無かった彼女にとってはとんでもない出来事である。それこそ頭から火が出てしまうほどの。
 飛び上がり、慌てて彼から離れると真っ赤な顔のままぺこりと頭を下げる。もう恥ずかしくて堪らない。耳まで赤くして顔も碌に上げられない初心な少女に、原田はくつりと喉を震わせて笑った。よほど男慣れをしていないのだろうなと思うと同時に、ほんの少し沖田が彼女をからかいたくなる気分が分かった。こんなに素直にわかりやすい反応をしてくれるのでは、ついつい意地悪したくなるのが男心というものなのだ。
「いや、怪我が無くて何よりだが、考え事をしながら歩くのは危ねえぞ」
「は、はい! 気をつけます!!」
 すみませんと深々と頭を下げたままの少女にやれやれと原田は肩を竦めた。
 まあ彼女が物思いにふけるのも理解出来る。だからそれ以上厳しくは言わず、その頭にぽんぽんと大きな手を乗せた。
「おまえが落ち込む気持ちはよく分かるぜ。なんせ松本先生を頼ってわざわざ京までやってきたんだもんな」
 江戸から京まで、たった一人でやってきた。消えた父親を捜すためにここまでやって来て、京に来て沢山恐ろしい目に遭わされた。それでも逃げださずに必死で捜して、やっと松本と出会えたというのに、その頼みの綱であった彼は父親の行方を知らなかったのだ。新選組も進展はない。
 落ち込みたくもなるというものである。
「悪いな。俺たちの方も成果が無くて」
「い、いえそんなことは!」
 すまなさそうな声で謝る原田に千鶴は即座に頭を振った。
「皆さんには、本当によくして戴いてます!」
 確かに綱道捜しは一向に進んではいないが、彼らには本当によくして貰っている。皆一生懸命彼の行方を捜してくれているし、千鶴をこうして巡察に同行させてもくれる。巡察に同行すれば危険はつきもので、実際何度も千鶴は危ない目に遭っては彼らに助けられているのだ。色々と迷惑を掛けてしまっているにも関わらず、彼らは嫌な顔をせずに、そればかりかこちらの身を気に掛けてくれる。有り難いやら申し訳無いやらだ。
「それに、私の方が、」
 ――まるで役立たずだ。
 その言葉はすっと唇に押し当てられた人差し指で止められた。
 固い、男の指の感触が唇に触れ、それだけで千鶴はまたぴたりと動きを止めた。一瞬何が起きたのか分からないという顔をしていたが、自分の唇に押し当てられているのが彼の指だと気付くと見る見るうちにその顔を赤く染め上げていく。
 原田はそんな彼女を見て、苦笑を漏らした。
「それは、言わない約束だぜ」
 彼女の口から、その言葉はもう言わせない。
 役立たずだなんて哀しい言葉は二度と。
 だって彼女は新選組の一員なのだから。彼女は彼らの仲間なのだから。役立たずなんて思わない。彼女は一生懸命仲間の為に何かをしてくれている。彼女に出来ることを必死に。実際、彼女がいなければ新選組の台所は回らないし、掃除も洗濯もままならない。こういう面では彼らの方がてんで役立たずなのだから。だから、彼らは彼らの方法で仲間の為に戦う。それで良いのだ。
「……原田さん」
「言っただろ。おまえは新選組を影から支えてくれているんだってな」
 自分たちが出来ないことを、彼女がやってくれている。だからこそ、彼らは安心して戦いに赴くことが出来るのだ。
 千鶴にはまだそれがよく分からない。ただ食事を作って、掃除を、洗濯をして、命を賭けて戦う彼らと釣り合うことが出来るのかと。でも、それで彼らが良いと言うのだから。そんな自分を仲間だと言って迎えてくれるのだから。それで、良いのだ。
「はい」
 やがてふわりと微笑み、千鶴は頷く。原田もその笑顔を受けて、よし、と満足げに首を縦に振った。
「とりあえず今日は、ゆっくり休むとしようぜ。俺も腹が減って、」
 そういえば屯所の目の前だった。とっとと戻って夕餉を、と原田が顔を上げた時、門の前でじっと立ち尽くしてこちらを見つめる平隊士たちの姿が見えた。
「どうした、おまえら」
 彼らは原田の十番組の隊士たちである。何故か彼らは複雑な面持ちで立ち尽くしている。
 どうしたと訊ねると、彼らは顔を見合わせた。それぞれが目で会話をしているが、原田には分からない。
「なんだ。言いてえことがあるならはっきりと、」
「い、いえその、別に原田組長の趣味をどうこう言うつもりはありません」
 短気な男が僅かに眉根を寄せれば、先頭に立っていた一人が慌てて頭を振った。
 趣味?
 突然飛び出した言葉に彼は首を捻る。一体彼らは何を言っているのやら。
 隊士はその、と照れたような顔で頬を掻きながら、ちらりと千鶴の方へと視線を向けて、またすぐに下ろしてこう続けた。
「確かに、雪村は、女子のように愛らしい顔立ちをしていますから、組長が惹かれるのも、なんとなく分かりますし」
「……はあ?」
 彼は何を言っているのだろう。
 千鶴が女子のように愛らしいなんて、そんなの当たり前じゃないか。だって彼女は女なのだから。だからなんだと言うのか。
 そう言い掛けて、はたと気付いた。
 そうだ。新選組には男しかいない。そう、新選組には女はいないのだ。だからつまり、雪村千鶴は――
「ちょ、ちょっと待て!!」
 原田は揃って声を上げた。
 違うそうではない。彼らは勘違いをしている。いや、だからといって彼女の性別を明かすことは出来ない。それが原田に二の句を継げ無くさせる。だが黙っているわけにはいかなくて「誤解だ」と慌てて言えば、それは図星だと隊士らには見えたのだろう。
「い、いえ! 自分たちは原田組長を尊敬していますから!」
「だから、誤解だ!!」
「良いんです! 組長は、組長のお好きなように生きて下さい!!」
 そう言い切ると失礼しますと言って彼らは走り去ってしまう。それを慌てて原田も追いかけていってしまった。
 残されたのはただ一人。千鶴のみ。
「え、えと……」
 置いてけぼりにされた彼女は、困惑したように呟くだけしか出来なかった。


 新選組には男しかいない。
 だが、実際は女がいる。無論それを知るのはごく一部の人間のみ。知っているとは言ってもある程度の配慮をしてもらえるのみで、ほとんど男としての扱いを受けてきた。隊士では無いとはいえ、千鶴も同じく、だ。それを今更嫌だと言うつもりは無い。新選組にいる以上必要なことだと理解している。
 ただやはり、不便でもあるのは確かで。例えば着替えの時などは絶対に誰にも見られてはいけないのでいつもひやひやしながら手早く着替えを済まさなければならない。それから女特有の月役の時なんかは面倒だし、大変だった。嫌でも月に一度は来るその度に身体は怠いし、下腹部は痛むし、何よりあの出血が厄介で、それでも彼らと同じように過ごさなければならない。人の目を盗んで厠に行くたびにひやひやとしたものである。
 それも月に一度。その間だけ気をつければ良いが、風呂はそういうわけにはいかない。これが何より厄介では無いだろうか。
 まず誰かに見られたら女だと一発で露見してしまう。だから絶対に見られてはならない。つまり彼女が風呂が入れるのは皆が寝た後だ。何度も言うが、誰にも見られてはならない。
「……」
 着替えを手に、千鶴は左右の確認をする。新選組が屯所を移してから、此処西本願寺には風呂場も増築された。以前いた八木邸のそれよりも大きな風呂場だ。皆寝静まっているから無論、風呂場の灯りは落ちている。誰かが最後に入った後なのだろう。格子戸からふわふわと白い湯気が立ち上っていた。
 千鶴はたたたと一目散に建物の前まで走る。そこでもう一度右、左、と確認をして。ほっとため息を吐いた。
 今日は誰とも遭遇しなかったようだ。
 まあまずこの時間に平隊士が出歩くことは無いだろうが、ごくたまに幹部隊士と顔を合わせてしまうことがある。それが土方ならばとっとと寝ろと叱られるし、斎藤や藤堂は顔を赤らめて逃げてしまうし、沖田は意地悪く一緒に入るかなんてからかってくるし、原田はそれじゃあ見張りをしていてやるだなんて言ってくれるし。
「そういえば、原田さん大丈夫だったのかな」
 千鶴は板戸の前で一人ごちる。あの後、夕餉の席で深いため息を吐いていたが、あの様子では誤解は解けなかったのだろう。彼ほどの色男が衆道の気がある、だなんて噂されては哀れすぎる。千鶴のせいで好奇の目に曝されるだなんて。だからと言って千鶴は自分が女だと明かすことは出来ないが、せめてその誤解だけはなんとか解いておきたい。
 彼は優しい男だから、だから自分を庇って……駄目だ、何を言っても悪化させてしまいそうだ。千鶴ははぁとため息を吐き、引き手に手を掛けて一気に板戸を開いた。
 考え事をしているとやはり色々と気が回らなくなるものらしい。いつもならば湯気が上がっている風呂場になんか入ろうとしない。何故なら誰かがまだやってくる可能性があるかもしれないから。それに脱衣所を開く時は注意深く開く。灯りが落ちているとはいえ誰かが着替えをしていないとも限らないのだから。
 だから、闇に紛れてその人が板戸の傍に立っていたことも気付かなくて、
「っ!?」
 袴の紐を解いたところで突然、背後から口を塞がれた。
 ぎくりと肩を震わせた瞬間、手の中から紐が滑り落ち、ぱさりと袴が床へと落ちる。その音がやけに大きく聞こえ、同時にしっと耳元で低く囁く声が聞こえる。
「声を、上げないで」
 それがその人――の声で。その人が自分の口を覆っていて、おまけにその腕に捕らえられていると分かって。それだけならばほっとしただろうが生憎場所が悪い。何故ならそこは風呂場に続く脱衣所で、しかも衣越しに感じるのは酷く熱い人の体温。それから柔らかな……
「い、いやぁあああああっ!!」
 因みに千鶴にその手の危機感はない。哀しいかな父親である綱道が悪い虫がつかないようにと可愛がっていたせいで、男に対する免疫もなければ危機感もないのだ。無論免疫が無いせいで抱きしめられたり手を繋いだりというだけで赤面はしてしまうが、男というものが本能のままに生きるものだとは知らない。すっかり信頼しきっているが新選組の幹部の面々も男で、そんな彼らが自分に無体を強いるなどということは一度たりとも考えたことは無かっただろう。
 それでも彼女が今悲鳴を上げたのは、女としての咄嗟の防衛本能だった。彼女は色恋になどまるで疎い子供だが、男と女が何をするかが分からぬほど無知では無い。男と接触する機会は少なく故に免疫力は無いが、その代わりに医学書で一通り学んでいる。文字で熟々と書かれていたものなのであまり詳細は分かってはいないが、それでも知識だけならある。だから千鶴はこの瞬間、あの医学書で読んだことが自分に降りかかると本能的に察した。そして恐怖した。本能的に。
 だから声を上げ、助けを求めたのだ。見られればきっと大事になるだろうが、それでも黙って奪われるわけにはいかない。まだまだ子供ではあるが、そこは千鶴とて女なのだから。
「――むぐっ!!」
 しかし声を上げてすぐに、その手に塞がれてしまった。そして強く身体を戒められ、更に強くなる熱と感触に心の中で悲鳴を上げる。涙まで込み上げてきた。このままに無体を強いられてしまうのかと。そんなの嫌だ。あの優しい人が自分に酷い真似をするなんて信じたくない。確かにの事は好きだ。でも、だからといって彼の者に抱かれたいとは思わない。それもこんな風に無理矢理だなんてあんまりだと。
「ふ、ううううっ」
 じわりと涙を浮かべる千鶴に気付き、背後の人物が狼狽する気配を見せた。
「ま、待った! 千鶴ちゃん、落ち着いて!」
 小声で窘められるが落ち着けるわけも無い。千鶴は嫌だ嫌だと頭を振って、その手から逃れようとする。
 は後ろから羽交い締めにしたまま、このままではまずいと顔を顰めた。今の声で誰かが駆けつけてこないとも限らない。早々に誤解を解いて、自分もこの状況をなんとかしなければならないのに。
「千鶴ちゃん、私は君に変な真似するつもりはない。ただ、ちょっと落ち着いて欲しいんだ」
「んーっ!! んんーっ!!」
 よほど混乱しているのか、千鶴には一切声は届いていないらしい。ああもう、とはやけくそ気味に声を上げると、その口に手を当てたままぐるんと彼女の身体を回転させた。
「っ!?」
 あっという間にと向き合う形となり、更に千鶴はひぃと声を上げたくなる。やはりその人は一糸纏わぬ姿をしていたのだ。そうして自分を抱き寄せ、拘束してしまうのだ。
 ああもう駄目だ。この人に奪われてしまう。絶望してしまいたいのに何故かその人の裸体に目を奪われてしまうのは、それがあまりに美しかったからだろう。だって闇の中でも淡く色づいた肌は艶めかしいし、ほっそりと浮き出た鎖骨は色っぽい。それにその身体だって見事に――
「……ふ、ぇ……?」
 間抜けな声が上がった瞬間、ぴたりと千鶴の抵抗が止んだ。逃げなければならないはずなのに、思考が停止してしまったのだ。あまりにもあり得ないものを見てしまったから。
 何故、そこにそれがあるのだろう。千鶴は理解出来ない。医学書で何度も人体の構造というものは学んできた。だから直接見たことはなくとも男女の身体というのは知っている。男というのは女よりも筋肉量が多く、骨格もしっかりしていて大きい。男女ともに同じ名称のものがあっても、その形はやはり違う。無論男女共に、お互いに備わっていないものや備わっているものがあるのも承知だ。だから男とて女のように胸があるのは知っている。しかし男のそれは固く、真っ平らである。未熟な子供の身体は平らではあるが大抵は年頃になるとふっくらとした女特有の丸みを帯びてくるもの。千鶴とてそうだ。ただまあサラシで押さえないでも良いほど、まだまだ小ぶりであり、それをちょっとばかり気にしているところもある。いや話が逸れた。とにかく男女共に同じ名のものがあっても、形は違うのが当然というもので。
 だがの身体に自分と同じような膨らみがあるのは何故だろう。否、同じでは無い。自分のそれよりもっと大きく、思わず嫉妬どころか魅了されてしまう程の見事な膨らみだ。しかし、何故――何故それがその人の胸元に、それが分からずまじまじと見つめながら千鶴は目を白黒とさせた。
「落ち着いて……くれた?」
 そんな彼女の動揺を知っているのか、頭上から降ってくる声には笑いが含まれている。顔を上げると困ったような顔で見下ろすその人がいた。確かに見間違いでは無い、その澄んだ琥珀は間違いなく、
、さん?」
 その人のもの。
 分かっているのに問い掛けるような響きになってしまって、はふっと口元を緩めて笑うとこう名乗りを上げた。
「はい、です」
 やはり、その人だ。その目も、声も、全部全部、のもの。
「え、でもなんで」
 なんでなんでと何度も言う彼女に、は苦笑のままで冗談みたいな言葉を吐くのだった。
「ごめん。実は私、女なんだ」
 あっけらかんと紡がれたのは新選組の中でも最重要とされる極秘事項の一つだ。知っているのは幹部のごく一部で、決して露見してはならない秘密である。彼らと共に上洛する時に土方には自分たち以外には決して知られてはならないときつく言われた。もし一人にでも知られれば即座に日野に送り返すと。それをは守ってきたし、誰にも気付かせなかった。徹底して男を貫いてきたから。
 それなのにまさかこんな所で、彼女に知られてしまうとは。は僅かに苦笑を漏らした。土方には怒られるかもしれないが、里に帰れと突き返されることはあるまいて。ここいらが潮時だ。彼女を仲間だと認めているのならば、もう彼女にだって教えても良いじゃないかとは思う。
「……」
 千鶴はあんぐりと口を開けたまま、言葉を発さない。よほど衝撃が大きかったらしい。
 ついでに何度も確かめるように顔と、胸とを交互に見るので、それがおかしくては爆笑してしまいたくなる。
「偽物じゃないけど、なんなら触って確かめてみる?」
 濡れた髪をかき上げ、はにやりと妖艶に微笑む。壮絶なまでに色っぽい彼女の様子は、あまりに刺激的すぎて、千鶴の中で許容範囲を遙かに超えて何かがふつりと振り切れた。
「っは……ぅ……」
「ちょ、千鶴ちゃん!?」
 突然腕の中でくたりと気を失ってしまう彼女に、もさすがに慌てる。驚かれるとは思っていたがまさか失神までされるとは思わない。そんなに衝撃的だったのかと些か不安にもなってしまうというもの。
「おい、どうした!?」
 とにかく気を失ってしまった千鶴をどうにかしなければと床に寝かせてやったところで、ばたばたと足音が聞こえてきて、は身構える。素早く籠の傍まで走ると衣と久遠とを引っ掴めば、外から聞き覚えのある声が飛んできた。
「左之さん」
か? 今千鶴の声がしたんだが、何かあったか!?」
 先程の千鶴の声を、原田に聞かれてしまったらしい。
 外から妙に真剣な声音で千鶴はどうしたと問い掛けてくる。
 昼間、十番組の隊士があんなことを言ったから、まさかと思って駆けつけてきたのだ。千鶴を男だと思っているようだが、それでもなお彼女のことを「可愛い」などと顔を赤らめて言っていたのだ。その気があってつい手を、という輩がいないとも限らない。
「いや、大丈夫。ただ驚いて気を失ってるだけだから」
「驚いて、気をっ!?」
 ガタンと戸板を揺らす音が聞こえ、は待ってと鋭く告げた。
「今戸を開けたら問答無用でその目を潰しますよ」
「――」
 ひんやりと首の後ろに刃を突き付けられるような寒気に、男はぴたりと手を止める。の声にはそれだけの殺気が込められていた。とはいうもののは自分の裸を見られた位でそこまで怒ったりはしない。無論覗きをするような連中は問答無用で先程の言葉を実行に移すつもりだ。原田は違う。故意では無く心配して戸板を開けようとしているのは分かっている。だから万が一見てしまったとしても怒ったりなんかしない。だが千鶴は別だ。彼女は裸では無いが袴を脱いだ状態で、ちらりと見れば淡い桜色の裾からほっそりとした足が覗いている。これを彼に見られてしまうのはあまりにも可哀想だ。ただでさえが女と知った衝撃を受けているのに。
「わ、分かった」
 原田は強張った声を零し、とりあえず手を引いて、一歩下がっておく。
 戸板が動かなくなるのを確認すると、手早く身体を拭い着物に袖を通した。出来るならばサラシを巻いて戻りたいが、あまり千鶴を放置するわけにはいかない。原田が外にいてくれるから他の連中が来ないとしても、だ。
「……とりあえず、何があったのか聞いても良いか?」
 外から溜め息交じりの声が聞こえ、は苦笑で答えた。
「まあ掻い摘まんで言うと、千鶴ちゃんに見られたってところ」
「見られたって、何を」
「裸。正確には胸」
「……」
 恥ずかしげもなく言われて原田の方が動揺してしまう。別に裸を見られただけでいいのに、わざわざ何処を見られただなんて言う必要はないのではないかと。
「多分、私に手篭めにされるとでも思ったんじゃないですか」
 だから必死に声を上げたのだろう。あの時の千鶴の暴れっぷりはそれはすごかった。副長助勤であるも手を焼くほどだった。それ程に女というのは奪われることを恐れるのかもしれない。
 そんなことを他人事のように考えながら、はきゅっと帯を締め、久遠を腰に差す。そうして身支度を整えると千鶴の方へと近付いて彼女の袴を直し、そっと抱き上げる。女のにでも簡単に抱え上げられるほど、千鶴という少女は軽い。
「まあ、おまえを男だとすっかり信じ込んでたみてえだからな」
 無理もないと笑う男の横ですっと戸が開く。見ればが足で戸を開けていた。おいおいとさすがの原田も一言小言を言ってしまいたくなる。
「おまえなあ」
「はいはい、女らしくなくて悪うございました」
「まったく」
 溜め息を零し、彼女から千鶴を受け取る。逞しい原田の腕に抱きかかえられると千鶴はますます小さく軽く見えた。
 は千鶴の着替えと自分の着替えを持つと、忘れ物の有無を確認して戸を閉めた。夜風が火照った肌を撫でていく。
「それで、女だってばらしたら気絶されちゃった」
 砂利道を並んで歩きながらあっけらかんとは明かす。原田は眉根を寄せた。
「おいおい、そいつは知られちゃまずいことじゃねえのか?」
 土方にもきつく言われていることを原田は知っている。追い返すと言われた時には彼も同席していたのだ。あの厳しい男が目を瞑ってくれるとは思えない。下手をすると彼女は前線から退く羽目になる。それは困るというものだ。
 しかし隣を歩くは大したことじゃないと言いたげに肩を竦めて見せるだけ。
「その時は近藤さんに泣きつきます」
「……そいつは、一番土方さんが困る手だな」
 流石に副長助勤。伊達にあの男に仕えていないというところか。彼の弱点をよく知っている。そして自分の使い方もよく知っている。
「ああでも長々と説教されるんだろうなぁ、今日も」
 はふ、と月を見上げる横顔が疲れたような表情を見せる。今日もというのはまた何かをやったのか。聞きたいが、やめておこう。彼女と沖田の話は時折目眩がしそうな程無茶苦茶をしたりするのだから。
「お説教、やだなー」
「でも、そういう割には……すっきりした顔してるじゃねえか」
 今から長時間の正座を思うと身体を伸ばしておかなければ。はうーんと大きく手を伸ばして息を吸い込む。そんな彼女の顔は、今から説教をされるとは思えないほど晴れ晴れとしたものだった。
 何か良いことでもあったのか、と聞きたくなる。
 は、そりゃあと笑って、だけど続く言葉を飲み込んだ。
 これで漸く、千鶴の前でありのままでいられる――その言葉は少し恥ずかしすぎた。信じた仲間には嘘なんて吐きたくない。絶対の信頼を寄せてくれる彼女にはありのままの自分でありたい、なんて熱い言葉、の柄じゃ無い。だから何でも無いと誤魔化して、
「お説教、いやだなー」
 またそんなことを言って、楽しそうに笑うのだった。



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