8
二条城を襲った鬼について何か知っていることはないか?
翌日、警護から戻って来るなり土方に部屋に呼ばれて訊ねられた。
千鶴は首を振り、何も知らないと答えた。本当のことだった。彼らが薩摩長州と関係があることで新選組の敵であるのは明らかだが、それ以上は何も分からない。
そう正直に告げれば彼は渋い顔で一つ唸って、それから呼びつけて悪かったと言った。お咎めはなしのようである。それが申し訳なくて深々と頭を下げると、変な顔をされた。そしてとっとと部屋に戻れと追い出されてしまった。
部屋に戻る途中、大丈夫かと、原田や、後で事情を知った藤堂に心配された。
大丈夫と笑いながら、ちくりと胸が痛む。
こんなにも心配してくれているのに、自分が鬼と言われたことは、言えそうになかった。
雪村の姓、それから、小太刀。
それらが鬼となんらかの関係があるということは言えずじまいだった。
――私は一体なんなんだろう?
ぼんやりと、千鶴は形見の小太刀を見つめた。
自分は一体、何なのだろうか。
居場所はここしかないのに、新選組の一員にさえなれない。
確かに人であるはずなのに、鬼だと彼らは言った。
自分は一体、何者なのだろうか。
考えても何も分からなくて、雪村千鶴という存在がひどく危うげなものに感じた。
今日はいつもよりも人が多いせいか、通りは人でごった返している。
祭があるわけでもないのに、人の往来は激しい。将軍上洛は彼ら市井の者には関係が無いというのに、何故こうも盛り上がれるのだろう。お陰でこちらは警護だなんだと連日駆り出されて大変だというのに。
「千鶴ちゃん、はぐれないようにね」
それよりもこの人波に流されていないだろうかと背後を振り返る。すると少し離れていた千鶴は慌ててぱたぱたとすぐ後ろへと駆けてきた。
「あ、はい!」
は千鶴が来るまで足を止めて待ってくれている。すみませんと謝ろうとしたが、ふわりと微笑まれて遮られてしまった。
「こうやって千鶴ちゃんと市中に出るのは初めてだったよね」
「はい!」
千鶴の声は固かった。それもそのはずだ。と一緒に出歩くのも初めてならば、こうやって二人きりで町を歩くのも初めてなのである。いつもは巡察に出掛ける時にしか千鶴は外出出来ない。だから必然、幹部隊士と同行するのと同時にその組の平隊士とも共に出歩くこととなる。
一方は副長助勤ではあるが、どうやら他と違って自分の隊を持たないらしく、たった一人での行動となるのだ。
しっかりしなくてはと気を引き締める彼女には笑った。
「だから、今日は息抜きなんだって。気を張る必要はないよ」
「で、でも」
「でもは、なし」
ほら、とがその腕を突然取った。
「とりあえず人気のお団子やさんから行ってみましょうか」
そうして悪戯っぽく笑うその人に、千鶴はただただ翻弄されてしまうのだった。
四条にある人気の茶屋で団子を堪能した後は、普段回ることがない小間物屋へと連れて行ってもらった。女の子が好きそうな小物が揃っていて、千鶴も可愛い、綺麗だと目を輝かせていた。それから巡察ではまず立ち寄ることがない神社やら寺やらを回って、景観を楽しみ、ここは穴場なのだと静かでのんびりとした裏通りでお勧めの蕎麦を食べた。
その間は色々な話をしてくれた。新選組の中で起こった面白い話やら、屯所の外で見かけた珍事件やら。閉じこもってばかりだった千鶴には色々と新鮮で、そしてそのどれもが面白かった。人の失敗談なのについつい噴き出して笑ってしまう程だ。
最初こそは気を張っていた千鶴もいつの間にかそんなことを忘れていた。まるで普通の女の子に戻ったかのように、はしゃいでしまっていた。それをは咎めない。一緒になってはしゃいでくれた。
蕎麦を堪能して次に移動しようとした時、通りで物取りと出くわしてしまった。その盗人の捕獲もまた鮮やかなものであった。しれっとした顔で前を横切る男の足先に自らの足を出して転ばせた、かと思うと弾みで落とした財布を刀の鞘でさらりと掬い上げて取り上げる。それはとても鮮やかで思わずおおっと拍手が起こった程だ。あまりに鮮やかすぎて盗人は何が起こったのか分からずにおろおろしていたが、そんな彼に態とらしく「大丈夫ですか?」なんて言うのも可笑しかった。我に返ってに掴みかかろうとしたが、彼女の鮮やかさに衆目が集まっているので、結局盗人はくそと悔しそうに吐き捨てて逃げ出してしまったのだ。それから何故かは財布を持ち主へとぽーんと投げると走り出してしまったのだ。手を取って走り出す彼女に千鶴は目を白黒させたものだが、悪戯っぽく「逃げろ」だなんて言う彼女があまりに楽しそうで、気付けば一緒になって笑いながら駆けていた。本当に楽しかった。
「いやあ、流石に将軍様が上洛したとなると町も浮き足立つね」
「そうですね。いつもよりも町が活気づいてます」
童のように通りを走り抜けた身体の火照りを、冷や水が鎮めてくれる。
鴨川縁から通りを見ればまだまだ賑わいは続いているようだ。それをぼんやりと見つめながらも一口、ごくりと冷や水を飲み込み、やがて苦笑でこう呟く。
「こういう時って、気が大きくなった馬鹿が大騒ぎ起こすんだよね」
先程の物取りなどは可愛いもので、酔っぱらいの末に刀を抜いて町人を斬りつける連中などもいる。町娘に手を掛ける馬鹿なんかもだ。でも何より厄介なのは長州の連中だろう。彼らが暴れたりなんぞしたら笑ってはいられない。まあこのところ彼らも大人しくしているみたいだし、何より禁門の変以来連中は大きな顔をして通りを歩くことも出来ない。
「出来れば今日はそういう輩に出くわしたくないもんだ」
折角の息抜きなのにとが呟くと、そういえばと千鶴が声を上げた。
「前に巡察に同行させてもらった時も、そういう人がいました」
確かあれは将軍が上洛する前だっただろうか。今日と同じようにやはり、町の様子がどこか浮ついていた気がする。
くいと残りの冷や水を飲むとが手を差し出してきた。椀を返しに行くようだ。すみませんと謝って差し出すと、軽い足取りで同じように鴨川縁で休憩していた売り子に椀を戻しに行った。そうして戻ってくるとそろそろ行こうかと促される。
「その人、刀振り回して暴れてた?」
通りを歩きながらは先程の話の続きを振ってくるので、千鶴は緩く頭を振って口を開いた。
「いえ、そういうんじゃないですけど……女の人に無理矢理お酌をしろって」
これは後で藤堂から聞いた話なので正確なところは分からないが、どうやら攘夷を翳して女に酌を迫り、それを沖田が助けたんだそうだ。その時助けた相手が彼女――南雲薫だったらしい。
脳裏に自分そっくりの彼女を思い出し、知らず足が止まってしまっていた。
「っきゃ!?」
その時後ろを歩いていた人にどんっとぶつかってしまい、千鶴はよろけた。過ぎ去りざまに気をつけろと凄んでいった男は、次の瞬間ひっと顔を引き攣らせてそそくさと逃げてしまう。どうやらが睨み付けていたようだ。
は男を見送るとこっちを歩くと良いよと人通りの少ない右側を歩くようにと言ってくれる。お陰ですれ違う人をが避けることになったしまった。だってそんなに体格が良い方ではないのにと千鶴は申し訳ない気分になったものだ。
「まあ、そうでもしないとお酌してもらえないっていうのも、可哀想だよね」
と言うは女の人が群がってきそうな顔で笑う。
そういえば新選組の面々は何も言わずとも、女の人がお酌してくれそうだと千鶴は思った。無論、武士だ御上の為だと翳すことも彼らはしないのだろう。ただ黙って弱き者の為に戦う。だからこそ、何も言わずとも彼らの周りには女性が集まってくるのかもしれない。無論、顔の善し悪しのせいでもあるかもしれないが。
「その時、助けた人が……私に似ていたんです」
「千鶴ちゃんに?」
ふとに話してみる。同じ顔をした南雲薫という女のことを。
するとはひょいと意外そうに眉根を上げ、それから少し考えるかのように黙ったかと思うと、千鶴が不安に思っていることを察したのだろう。苦笑でこう言ってくれた。
「まあ世の中には、何人か同じ顔をした奴がいるって言うからね」
「そうなんですか?」
「うん。そうらしいよ。前に新八さんに似たごっつい男の人を見かけたことがある」
「ええっ!?」
熊みたいだったと悪戯っぽく笑うと、千鶴は驚きの声を上げる。
自分に似た人間など千鶴は見た覚えがない。だからあれ程までに似ている人を見て、不安になったのだ。だってあんなにそっくりだったから。自分なのではないかと。無論、似ているのは顔だけで所作はまるで違うのだけれど。
「まあ、この日の本にもたくさんの人がいるからね。似ている人の一人や二人はいるのかもしれないよ」
がのんびりとした口調で言ってくれる。
千鶴だけではなく、他の人間にだって自分と似た人がいるかもしれないのだと。出会ったことがないだけなのだと。
その言葉にすとんと胸の支えが無くなった気がした。ほっと安堵して笑うと、もにこりと笑ってくれる。相変わらず眩しい笑顔だ。直視出来なくて思わずと反らしながら、でも、と千鶴は言った。
「土方さんやさんみたいな方が、他にいらっしゃるとは思えないです」
こんな綺麗な人がそう何人もいたら困ってしまう。彼らは一人だからこそ良いのだ。
「何人もいらっしゃったら……贅沢です」
そう考えてみると、新選組は随分と贅沢な場所ではないだろうかと千鶴は思った。
幹部の皆が揃いも揃って美形だらけだ。今でこそそんな彼らを前にしても動じることは無くなったが、最初の頃はあまりの眩しさにまともに顔を見て話すことも出来なかった。無論今でもあまり至近距離で見詰めることは出来ないが。
「そうかなあ?」
は腕を組んで唸った。美形は思案顔も絵になるというものだ。
その隣を歩く千鶴としては酷く肩身が狭い。今日一日の間も、を見て近付いてくる女の子達から哀れみの眼差しを向けられたのである。人並みである千鶴は引き立て役として映るらしい。そんなの重々承知なのだが。
「あの人達が美形と言われても……中身があれだからな」
難しい顔のまま呟かれた言葉に、千鶴は一瞬対応に困った。そうだ、とは言えない。
「それ、他の方が聞いたら怒りませんか?」
と控えめに言えばにやりとその口元が悪戯っぽく歪んだ。
「怒らせるのが私の仕事だよ」
どこか得意げに言うに、思わず千鶴は目を点にし、
「ぷ、あはっ!」
笑った。
思えば今日は随分と笑った気がする。笑ってばかりいた気がする。本当に楽しかったのだから仕方ない。ここに来てからこんなに笑ったのは初めてだ。
「ちょっとは、気が晴れた?」
不意に穏やかな声で問いかけられた。
見ればは声と同じ穏やかな表情を向けていて、思わず驚いて立ち止まってしまう。
その手を、また彼女に取られた。立ち止まると危ないよと苦笑で言うの手は、今更のように気付いたけれどそう大きくない。見上げる背中もだ。だけど、千鶴とは違って強くて、賢くて、だから、彼らの仲間なのだ。
人混みを抜けて静かな通りへと入った頃、ぽつりと背後から消え入りそうな声が聞こえてきた。
「さんは……なんでもお見通しなんですね」
振り返ると彼女は俯いていた。
その唇を噛みしめて、狡いな、なんて呟いている。
「何か、あった?」
は、あの時沖田が口にしたのと同じ言葉を口にした。それが堪らなく辛くて、千鶴は更に赤くなるほどに唇を噛みしめた。
「昨日、現れたあいつらのこと?」
「………」
千鶴は何も言わない。
「それだけ、じゃないよね?」
「……」
頷くこともしなければ首を横に振ることもしない。
でもは分かった。
だって彼女を見ていたから。自分でも意識しない内に彼女を目で追いかけていた。屯所に戻ってきてからずっとそう。いつものように千鶴は笑っていたけれど、それが必死に無理をして笑顔を浮かべているのだと分かった。今までずっと張り詰めていた糸が切れて、今にも彼女が壊れてしまいそうで。だからは千鶴を連れだしたのだ。ほんの少しでも気分が晴れれば良いと思ったから。
だってそうしなければ彼女は壊れてしまうから。
壊れてしまっては意味がない。綱道捜しの役に立たなくなってしまうから。
だから気に掛けるだけ。それだけだ。
それだけだとそう思うのに、
「……だいじょうぶ、です」
気丈にもそう言って、笑う千鶴を見て。
今にも泣き出しそうな顔で、無理矢理笑いながら平気だなんて強がる彼女を見て。
――もう、駄目だ。
とは心の中で呟いた。
心の中でぱりんと、物わかりの良い振りをしていた自分の殻が割れた音を聞いた気がした。
認めたら辛くなる。分かっているのにもうどうにも出来なかった。どうにか出来るわけがなかった。それが人の心というものだから。
「あー、もうっ!!」
突然、は突然大声で喚いて、がしがしと頭を掻きむしる。
そうして正論だとか、組の為だとかそんな分かり切った尤もらしい言葉をはね除けると、やけくそ気味に千鶴の肩をがしっと掴む。彼女は目を丸くして驚いているようだった。
「ちがう、そうじゃない!」
そうじゃない。そうじゃないんだとは言った。
「これは任務とかそういうんじゃないんだ!」
誰に頼まれたわけでもない。新選組の為に取った行動でもない。
千鶴が壊れようがどうしようが、組にはなんの影響も無いことなのだ。
そんな尤もらしい理由で彼女を連れだしたけれど、それは個人の意志なのだ。そしてその本質は、
「君が……心配なんだ」
ただそれだけ。
酷く単純な理由だった。
千鶴が心配だったから。
そんな辛そうな顔をして笑うのが。何かを堪えるのが。ただただ心配で仕方なかっただけ。
ほらなと意地悪く鬼の副長が笑うのが聞こえた気がした。ああそうだ。何が悪いと今ならば言い返してやる。彼女を心配して何が悪いんだと。
「君は仲間でしょ?」
――仲間を心配して、何が悪いのかと。
だから、彼女はもう強がらなくて良いのだ。仲間の、前なのだから。
「……」
千鶴は目をまん丸く見開いて立ち尽くしていた。
その胸の内で、彼女は自分に問いかけていた。
今聞いた言葉は、夢だろうか。幻だろうか。都合のいい、幻聴だろうかと。
そんなはずはない。彼らがそう思ってくれるはずがない。だって自分は役立たずの人間だ。彼らにとって何の役にも立てず、ただ迷惑を掛けるだけの人間。だからそんな風に思って貰えるわけがないのだ。
必死で自分に言い聞かせるのは、二度と傷つきたくなかったからなのだろう。仲間だと信じて、そうではないと冷たく拒まれることを。だって千鶴は彼らを大切な仲間だと思っているから。
は困ったような顔で、笑った。
「君は、私たちの仲間だよ」
何が出来たか、役に立てたかなんてどうだって良い。
ただ千鶴が彼らの為に必死に、何かをしようとしてくれた。思ってくれた。見返りなど期待せず、ただ彼らを守りたいという一心で自らの身を危険にも曝した。その小さな身体で必死に仲間を守ろうとしてくれたのだ。あんなに酷い言葉を投げかけた男のことを。そんな姿を見て、まだただの居候だなんて思う連中は新選組にはいない。何故なら彼らは、そんな愚かな程に真っ直ぐな連中の集まりだからだ。
彼女を守りたいと思うのは、決して千鶴が弱いからだけではない。傷つけたくないだけなのだ。彼女のことを。そんな風に思うのは、もう彼女が立派な仲間だから。
千鶴は大切な仲間なのだ。
だから、
「そんな顔……させたくないんだよ」
自分でも、なんて優しい声が出たものだろうと思った。
誰かが言った。
と沖田は似ていると。
確かに二人はよく似ていた。
は、他人に恐ろしいほど興味を持たない。恐らくその辺にある石と同じくらいの認識しか持ち合わせていないだろう。
それでも優しくするのは、相手から情報を探り出す為と、自分の内側に踏み込ませない為。
笑顔は壁だった。踏み込ませない為の。
最初は千鶴にもそうして接していた。
でも、今自分の口から出たのは、
紛れもない本心だ。
いつから、なんて分からない。そんなことどうだって良い。
気付いたらそうだった。それこそ恋に落ちるのと同じ。
千鶴はいつの間にか新選組の、の中に入ってきた。
自分だけは絶対に深入りしないと思っていたのに気がついたら、彼女をすっかり気に入っていた。
だって彼女はこんなにも真っ直ぐに自分たちを見てくれる。真っ直ぐにぶつかって受け止めて、そして愚かなまでに優しくあってくれる。
その優しい想いに、はほんの少しでも応えてやりたいと思う。捻くれた自分に出来るかどうかは分からない。でも精一杯彼女に向き合ってやりたい。そうして、自分が貰えた暖かなものを彼女にも、と。
そんなの思いやりが、張り詰めた心に浸透していく。
「………」
まるで凍った心が解けていくかのようだった。
氷が水に変わっていくかのようだった。
ぽたりと、大きく見開いた瞳から清らかな滴がこぼれ落ちた。
それは見る間にくしゃりと歪み、ぼろぼろと止めどなく溢れてくる。
「っっさ……」
ふぇ、とまるで子供が泣き出すみたいなそれになった瞬間、もうどうしようもなくを突き動かすものがあった。
それはきっと、母性というやつだ。子供を、守ってやりたい、愛してやりたいという母親の愛情と同じ。
は迷わずにその腕に千鶴を抱きしめた。言い訳なんかもう必要なかった。ただ、彼女を抱きしめてやりたいという己の意志に従ったまでだ。
「さ…っさ」
「もう、良いんだよ」
優しく言って背中を撫でてやると、千鶴は堰を切ったように声を上げて泣き出した。
小さな手を背中に回し、まるで母親に縋るみたいにして、泣いた。
その小さな身体を、その温もりを、やはりは知っている気がした。
でもそんなこともうどうでもいい。
知っていようがなんだろうが、もうどうだって良いことだ。
ただただ、泣きじゃくって縋るその子が愛しい。
そう思うのが真実だから、それでいいと、は思った。
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