7
闇の中を千鶴は手を引かれて走った。
何度も何度も振り返りながら、でも止まることも出来ずにひたすら走った。止まろうとすれば腕を引かれて、後ろを見たままに走れば躓きそうになる。その度に腕を強く引かれ、転ばないように支えられた。
もう戦いの音は聞こえない。聞こえるのは二人分の足音と、自分の乱れた呼吸だけ。
は振り返りもしない。ただ前を見て走っている。その手をしっかりと繋いだまま。
気付けば辺りは真っ暗だった。先程まで雲一つなかったくせに、いつの間にか現れた雲が月を、空を覆ってしまっている。夜目の利かない千鶴にとっては真っ暗闇にも等しい。頼りになるのは手を引いてくれるの手だけだ。
「っはぁ、はぁっ」
自分の荒い息づかいを聞きながら、千鶴はひたすら彼女の後を追いかけた。
(あれ?)
その時不意に、ぼんやりと目の前の景色が霞んだ。霞んだのではなく、今見えている景色に何か別の景色が重なって見えるようだ。
の背中に、別の小さな背中が重なる。
――それは彼女の記憶の欠片だ。遠い昔の記憶の。
昔、誰かにこうして手を引かれて走った。そうだ、あの時も逃げていた。何からか分からない。ただ、必死に逃げていた。誰かに手を引かれて。
確か、そうだ。途中で手が離れてしまって。それからどうしただろう?
必死で思い出そうとする。自分の中の記憶を探れば、ばらばらにされた記憶が蘇り、
「っ」
だが何故かずきりと頭が酷く痛み、それ以上探ることが出来ない。まるで思い出すなと言うみたいにずきずきを鈍痛が走って、千鶴は顔を顰めたまま走り続けた。
一度も休むことなく西本願寺の屯所にたどり着いた時には、千鶴は息が上がっていた。
屯所の中はしんと静まりかえっている。それもそのはず、ほとんどの隊士は二条城警護に駆り出されているのだ。
「千鶴ちゃん、悪いけど私は戻るから」
は漸く彼女の手を離すと、振り返ってそう告げた。呼吸は僅かにしか乱れていない。同じように走っていたはずなのに、すごいと感心せざるを得ない。
「は、はい。部屋に、戻っています」
一刻も早く戻りたいだろうの気持ちを察し、千鶴は乱れる呼吸の中でそう告げた。だがそうすると、彼女はふるりと頭を振ってみせるのだ。
「いや……今は、誰かと一緒にいた方がいい」
「……」
真剣な彼女の様子に、千鶴は青ざめる。まさかここまで追っ手がくるとでも言うのだろうか。それはつまり、彼らと戦っている新選組の皆は。
「まさか、あの人達がやられるわけがないよ」
は一瞬面食らったような顔になって、ぷっと噴き出した。微塵もそんな心配はしていないと言いたげに笑って、すぐに困ったような顔を見せる。
「そうじゃなくて……ほら、ここに残ってるの、新撰組の連中だから」
「……あ」
それは違う意味でぞっとする。
ここに残っているのは彼女の言うとおり、新撰組――血に飢えた獣のような彼らしかいない。無論、近付かなければ危害は加えられないが、あの夜のように屯所を抜け出して血を求めて彷徨っていたら。考えると背中をひやりと汗が伝い落ちていく。
「一応山南さんが見張ってるとは思うけど、念のためね。あ、先に言っておくけど幹部連中の所にいること。平隊士じゃ申し訳ないけど頼りにならないからね」
それ以前に平隊士のほとんどは駆り出されていて、残っている新撰組以外と言えばあの二人なのだけど、とは心の中でだけ呟いた。
それからちらりと千鶴の様子を盗み見る。自分の言葉に千鶴ははっとした顔をして、それから視線を落とした。
残っている二人というのは、具合が悪いと自ら名乗り出た藤堂と――土方に待機を命じられた沖田。
恐らく千鶴は藤堂の元へと向かうだろう。彼女の落ち込んだ顔を見ればすぐに分かる。こちらも早く解決させなければなと内心で一人ごち、はあと一つ溜息を吐くとは再び顔を引き締めた。
「とにかく、分かったね?」
「……はい」
こくりと千鶴は一つ確かに頷く。
それを確かめは満足げに頷くと、ふわりと衣を翻して再び夜の町へと走っていった。
ぼんやりとその後ろ姿を見送り、立ち尽くしていると、ひゅと不意に首の後ろを冷たい風が吹き付けてくる。風だと分かっているのにびくりと大袈裟な程に震えて、慌てて振り返った。無論誰もいない。
ほっとして、すぐに慌てての言葉を思い出す。
「……い、行かないと」
なるべく一人でいるなと言われたばかりなのだ。
千鶴は歩き出そうとして、ここに残っている幹部二人の顔を思い浮かべてその足を止めた。
沖田と藤堂、いずれの場所に行くべきか。
『君は……』
また、脳裏に過ぎる声。
千鶴はふるりと頭を振った。そうして静かに歩き出す。
向かう先は藤堂の部屋だった。
『彼』の所には、行けなかった。
「平助君は部屋にいるかな」
薄暗い廊下を、一人歩きながら呟いた。
いつも歩き慣れているのに、人がいないとどうにも不気味に見えて仕方ない。寺という場所もよろしくない。あちこちに存在する闇からひょっこりと青白い手でも出てきそうだ。
だからその恐怖を紛らわす為に、千鶴は独り言を呟きながら廊下を早足で進む。
この廊下を曲がって、広間を越えて、その先に幹部の私室がある。きっとそこならば灯りも点いているだろう。そうすればもう安心だ。
でも、例えばこの角を曲がった所で誰かが出てきたら悲鳴でも上げてしまいそうだ。
例えば、あの赤い目をした彼らとか。
或いは、あの風間とか言う男が出てきたり――
「そ、そんなわけ」
あるわけがない。分かっているのに恐怖で声が震えた。
そんな自分を笑い飛ばすみたいにあははと笑って角を曲がったその時だった。
――ざ――
突然、ふすまが開いた。
「ひっ!?」
思わず口から悲鳴を上げ、千鶴はその場に凍り付いてしまう。
しかし、開いたふすまから出てきたのは、
「あれ、千鶴ちゃん?」
見慣れた人の姿だった。
「お、きた……さん」
だがそれはそれで、千鶴にとっては新撰組の連中や風間と同じくらい――と言ったら失礼かもしれないが――会いたくない一人だった。否、顔を合わせてはならない人物というのが正しいだろうか。
沖田は目をまん丸くしてこちらを見ている。どうやら驚いているようだ。
「どうしたの一人で? 二条城警護についていったんじゃなかったの?」
「え、あ、その……」
ばくばくと心臓を押さえてしどろもどろになっていると、さては、と沖田の表情が意地悪く歪む。
「ヘマして土方さんに追い返されたりとか?」
ヘマは、していないつもりだ。だがいずれにせよ彼らに迷惑を掛けたのは確かだろう。理由は分からないが、あの風間とか言う男達に自分は狙われているのだから。
鬼とか、一族とか、意味が分からない。何も分からないのに一緒に来いと、否、強引に連れて行こうと彼らはした。それを、新選組の皆が助けてくれたのだ。
今更のように身体を押し流す勢いで感情が押し寄せてくる。彼らに連れて行かれるかもしれないという恐怖と、未知なるものへの恐怖に、千鶴はがたがたと震えた。
「何か、あった?」
その怯えようは尋常ではない。これは何かがあったと瞬時に察した沖田は真剣な声音で問うた。
真っ直ぐに彼の翡翠色の瞳がこちらを見つめている。それを見た瞬間、千鶴は自分でも知らずその双眸を歪めていた。だってその人の目はとても強くて、怖いことなど吹き飛ばしてくれそうな程に強くて、だから千鶴は酷く安心してしまったのかもしれない。
「聞かせてくれるかな?」
千鶴の顔が泣き出しそうな顔に歪む。瞬間、胸の奥をずきりと痛みが走り、知らず沖田はその声音を優しいものにしていた。
少女はおずおずと、一つ頷くのだった。
灯りのついた広間で、千鶴は沖田に二条城で起こった事を話した。警護の最中、突然現れた三人のことを。彼らは自分たちを鬼と呼び、そして千鶴を連れて行こうとした。理由は分からない。でも確かに共に連れて行こうとしたのだと。
沖田は真剣に話を聞いてくれた。拙いながらも千鶴が話し終えるまで口を挟まずに。そんな彼に一瞬全てを打ち明けてしまいたいと思ったが、それでも自分が鬼の一族であると言われたことは話せなかった。何故ならそれは千鶴自身が到底受け入れられるものではないからだ。鬼が何なのかさっぱり分からないのだから当然だ。
――否、恐れていたのかもしれない。人と違う存在だと、彼らに告げるのを。そう告げた瞬間に、彼らが自分を畏怖の目で見るかもしれないことを。だから、千鶴はそれだけは話せなかった。
やがて千鶴が話し終えると沈黙が落ちる。沖田は畳をじっと睨み付けていた。何を考えているのだろうかと顔を盗み見ると、彼は怖い顔で畳を睨み付けている。ふと見れば彼は拳を握りしめていることに気付いた。その手は力を入れすぎるあまりに白くなっている。あの風間という男のことを考えているのだろう。彼は悔しげな顔で吐き捨てるように言った。
「あいつらが来ると分かってたなら、意地でもいくべきだった」
「だ、駄目ですよそんなの!」
今にも飛び出していきそうな勢いの彼を、千鶴は慌てて止める。
そんなことさせられない。彼は風邪を引いていて、本調子ではないのだ。そんな状態であの男と戦うだなんて無茶だ。この間から変な咳をしているのに。
「土方さんに大人しくしてろって言われてるじゃないですか!」
というか、彼は何故広間になどいたのだろう。部屋で休んでいるべきなのに。しかも腰に刀まで佩いて。
まさか此処を出て二条城の警護に行こうだなんて思っていたわけでは、と目を見開くと、沖田は悪戯っぽい笑みを浮かべて見せた。
「近藤さんの言葉に背くつもりはないよ」
それは土方の言葉ならば背くつもりということなのだろうか。一瞬千鶴は複雑な表情になってしまう。
「それにしても、そいつらの目的が気になるね」
顎に手をやり、思案顔で沖田が呟いた。
「鬼だかなんだか知らないけど、君を連れて行ってどうするんだろう?」
「それは……」
聞かれても千鶴は分からない。何故彼ら薩長に与する人間にそんなことを言われなければならないのか。
思案顔がひょいと意地悪く歪んだ。
「もしかして、君、あいつらの恨みを買ってるとか?」
「えぇっ!?」
「だってほら、池田屋で僕たちの邪魔をしてるし」
「そ、それは……」
あの時は必死で割り込んでしまったが、もしかしたらあの一件で風間を怒らせてしまったのだろうか。ならばあの場で斬り捨てればよいこと。連れて行く必要はない。
それじゃあとにんまりと笑みが深くなる。
「千鶴ちゃん、あの風間って男に一目惚れされちゃったとか?」
ちょっとした冗談は、千鶴をぽかんと間抜け顔にさせた。
誰が、誰に、一目惚れ?
え、と声さえ出せずに目をまん丸くする千鶴の思考は完全に停止してしまっていた。
誰かに自分が一目惚れをされる、なんて彼女は考えられないらしい。
沖田もそんな彼女の様子に「無いな」と失礼な台詞を心の中で吐いた。だって彼女はてんで子供で、女として見ることも出来ないのだから。
もしいたとしたら相当な物好きだ――そう意地悪な言葉を吐こうとする彼を窘めようとでもするのか、ひゅっと喉が不自然に鳴った。
「…っげほっ!」
「沖田さん!?」
突然咳き込む彼に千鶴ははっと我に返る。
「大丈夫ですか!?」
「ごめっ、ちょっと噎せて、」
彼の言い訳を遮るようにごほごほと咳き込んでしまった。
そういえば、彼は風邪をひいていたのだったと今更のように思い出す。部屋で休んで貰わなければならないのに、こんな所で長々と話し込んでしまった。
「沖田さん、部屋に戻りましょう!」
酷く真剣な顔で、彼女は言う。
大袈裟だと沖田は思った。彼女も、それから土方も、大袈裟すぎる。こんなのただの風邪なのに。ちょっとしつこい風邪をひいているだけなのに。
――それなのに、喉の奥からごぼりと熱い塊が込み上げてきて。
「っ!?」
突然、世界が染まった。
その瞬間だけは、千鶴の中から鬼と言われたことや他の全てが消え去り、代わりにその色で塗りつぶされた。
鮮やかな、赤。
血の色だった。
「沖田さん!」
それは彼の口から溢れたもの。
沖田が血を吐いたのだ。
「沖田さん! 沖田さん!!」
千鶴は悲鳴じみた声を上げ、身体を折り曲げて咳き込む男に取り縋った。
大きな背を丸め、げほげほと苦しげに咳き込むたびに畳の上に血の赤が飛び散る。そしてまた血が飛び散るたびに沖田の苦しみは増していく。まるで咳というよりは身体の中の全てを嘔吐するかのようなものとなり、やがては口を覆う手の隙間から大量の血を吐いた。びしゃりと畳の上に、血だまりが出来る程。
「し、しっかりしてくださいっ」
千鶴は青ざめ、辺りを見回した。背中をさすることしか出来ない自分では、最早対処出来ない。一刻も早く医者に見せなければ。でも千鶴一人では彼を医者に連れて行くことは無理なのだ。無力さに唇を噛み、千鶴は手拭いで彼の口元を拭うと立ち上がった。
「今、誰かっ……平助君を呼んで――」
「駄目だ!」
鋭い声が耳を打った。
腕を掴まれたわけでもないのに、千鶴は立ち止まらざるを得なかった。それほどに強い声だった。
振り返れば、沖田はこちらを睨み付けている。何故なのだろう、前髪から覗く瞳には明らかな殺意の色の色を湛えていた。
「今見たことは忘れて」
「で、もっ」
「忘れるんだ」
ぎらりと再び、翡翠の瞳が激しい殺意で光る。
何度も何度も「殺す」と言った彼が、本気で自分を殺そうとしている目だった。
そしてすぐにその瞳は和らいだ。
「大丈夫、ただ喉が傷ついただけだよ」
彼はそう言ったけれど、そんなはずがない。ただ喉が傷ついただけでこんなに血を吐くものか。そんな生易しいものじゃない。彼の今の様子はもっと、深刻な状態のはずなのだ。
「っ」
「大丈夫だから」
でも何か言おうとしても、彼の笑顔に止められる。
にこりと浮かべた完璧な笑顔。でも、その目はちっとも笑ってなんかいない。ただ彼は笑顔という仮面を張り付けているだけ。
それは――拒絶なのだ。
千鶴の詮索を、千鶴の心配を、拒絶しているのだ。
「……っ」
彼の身を案じることさえも、彼にとっては煩わしいことなのだろう。
そう思うと、泣きたかった。
それ程までに嫌われているのかと思うと、悲しくて苦しくて堪らなかった。
そしてそれ以上に、何も出来ない無力な自分が厭わしくて堪らなかった。
もっと力があれば、知恵があれば、そう願わずにはいられない程に。
だけどでも、もし自分に力や知恵があったとしても、沖田が自分を頼ってくれることはないのだろう。
だって――仲間ではないのだから。
千鶴は唇を噛み切らんばかりの勢いで噛んで、
「わかりました」
漸く言葉を吐きだした。
「誰にも、言いません」
「……」
「だけど、今日はお布団で休んでいてください」
本当かと探るように双眸が細められるのを、千鶴はしっかりと見つめ返す。
もう言葉も信じて貰えないのかと思うと悲しい。でも、信じて貰えるように、真っ直ぐに千鶴は彼を見つめ返すしか出来ない。
「お願いします」
「……」
真っ直ぐに逸らすことなく向けられる眼差しを、沖田は無言でじっと見つめた。
その瞳は相変わらず曇りなんてない。彼女の真っ直ぐで素直な心がそれには現れている。彼女の瞳に嘘や偽りはない。誰にも言わないと言うのならば、きっと彼女は誰にも言わない。分かっている。それでも沖田は信じられずに彼女の真意を探るべくその瞳をじっと睨め付けた。その奥に何かを隠していないのかと探るように。
やがて、沖田はふっと溜息を零して双眸を伏せる。
「しょうがないなぁ……」
やれやれといった感じで肩を竦めた彼に、千鶴はありがとうございますと言って、笑った。
それが酷く悲しそうな笑顔だったのを、沖田は見てしまった。
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