6
まん丸い月がぽっかりと、暗い夜の空に穴を開けるかのように浮かんでいる。そこから青白い光が注がれているかのようだ。
見上げる余裕があるならば、綺麗だと口にしたことだろう。
だが、少女は美しい月夜になど気付く余裕もないと言った風に、ぱたぱたと城門の前を西へ東へと忙しく走り回っている。二条城の警護にあたっている彼らは皆持ち場を離れるわけにはいかず、そんな彼らの代わりに千鶴が伝令に走っているのだ。伝令とは言っても千鶴は部外者。重要な役目などは任せて貰えない。大抵は交代を告げに行ったり、何かを持ってきたり、誰かを呼んできたりと、そういった細事ばかりだ。因みに今は二番組に交代を告げに行くところである。まだ刻限までに猶予はあるのだが、新選組の面々は今夜寝ずに警護に当たるのである。ずっと敵襲に備えて気を張って。そんな彼らを見ていると千鶴も気を引き締めなければと言う思いになって、気付けば全力で城門前を往復していた。
しかしやはりずっと走り詰めというのは疲れるというもの、
「っきゃっ!?」
疲労が溜まった足下が、砂利に縺れてしまった。
そのまま前のめりに倒れ込み砂利に顔面から突っ込む――と目を瞑ると、ふわと腹部に手が回され身体が浮遊した。
「大事ないか」
ほうっと溜息を吐くのも束の間、驚く程近くで聞こえた声に千鶴は慌てて振り返った。
「さ、斎藤さん!?」
思ったより近くにある彼の無表情な顔に驚き、ついで、腹部にしっかりと回された逞しい腕に気付くと千鶴は飛び上がった。
「す、すみません!!」
どうやら彼に抱き留めて貰ったらしい。
彼は何も言わずにしかと千鶴が体勢を整えるのを待って手を離した。申し訳ないやら恥ずかしいやら、真っ赤な顔でぺこぺこと頭を下げると、彼は頭を振って静かに口を開いた。
「あまり走るな」
「す、すみません」
ばたばたと煩くしていたから警護に集中出来なかっただろうか。千鶴は更に申し訳なくて頭を下げる。
そういえば彼らは走る時も静かに走っている。無音というわけではないが、千鶴のように無駄に足音を立てたりはしない。きっとそれも鍛錬で身に付くのだろう。こんなことならば道場に通って稽古をつけて貰うべきだった。
申し訳なさそうに項垂れる彼女に、斎藤は自分の言葉が足りなかったと気付く。彼女を責めているわけではない。そうではなくて、
「転んで怪我でもしたら、任務を全う出来ぬだろう」
と言いたかったのだ。
「……」
しかしそう言えば更に千鶴の表情が曇ってしまう。
彼の言うとおりだ。転んで足でもくじいたら折角の仕事が出来なくなってしまう。これは数少ない自分が出来る仕事なのだ。無理を言ってさせてもらっている仕事なのだ。数にもならないかもしれないけど、少しでも役に立たなければ。これくらいしか出来ないのだから。
「あんたは、よくやっている」
その時、頭上から降ってきた。静かな、だけど優しい声。
驚いて顔を上げれば真っ直ぐにこちらを見つめる青い瞳とぶつかった。相変わらずの仏頂面だが、その瞳は穏やかな色を湛えている。彼はその目を千鶴に向けて、ほんの少しだけ口元を緩めた。笑ったかのように見えた。
「あんたは任務を全うしている。それは胸を張って良い」
「……」
千鶴は目をまん丸く見開いた。
まさか、斎藤からそんな言葉を言って貰えるだなんて思わなかったのだ。
常に仕事に忠実で、真面目で、真摯である彼から見れば、千鶴の仕事なんて子供のお使いのようなものだ。命を掛けて戦っている彼らとは全く違って、簡単で優しい仕事。むしろ全うできないのがおかしい仕事。誰にだって出来ることだ。それを褒めて貰えるとは思わなかった。
じわりと胸の奥が暖かくなる。思わず目頭さえも熱くなる程に嬉しかった。
感激して目を潤ませる彼女に気付き、斎藤はぎょっとして、それからさっと顔を背けてしまう。その頬が少し赤いのに千鶴は気付かない。
ただ嬉しくて、そして同時にもっと頑張らなければと思った。こんなことで調子に乗ってはいけない。少なくとも千鶴は未だ、与えられた仕事を全うしてはいない。今だって伝令に向かうところなのだ。褒めて貰えたからといって調子に乗って、伝令が遅れたのでは意味がない。
「ありがとうございます」
すっと千鶴の背筋が伸びる。先程まで重たいと思っていた身体は、彼の言葉ですうっと軽くなった。疲れたなんて泣き言は言わない。言いたくない。頑張っていると認めてくれる人がいるのだから。だから、その言葉にもっともっと応えたい。
強い眼差しを向けてぺこりと頭を下げると、また千鶴は走って行ってしまった。先程よりも強い足取りだった。
どうやら労うつもりが発破を掛けてしまったらしい。やれやれと斎藤はその背中を見送りながら小さく嘆息を零した。
「斎藤」
不意にじゃりと砂を踏む音が聞こえ、斎藤は振り返る。
松明の揺らめく炎に照らされ、どこか楽しげな顔で近付いてきたのは彼だった。
「副長」
どうやらお偉方との話は終わったらしい。ぺこと軽く会釈をすると、土方は苦笑のままで呟いた。
「ったく、あいつは変なところで鈍い奴だな。斎藤はそういうことを言いたいわけじゃねえってのに」
「副長、それは」
苦笑混じりの言葉に、斎藤が僅かに狼狽する。
きっと彼には全てお見通しなのだろうが、改めて言葉にされると面映ゆくて堪らない。
土方は分かってると笑って、それからまた遠ざかっていく小さな背中を見つめて双眸を細めた。
その後ろ姿は決して頼り甲斐があるというものではない。寧ろ頼りなげで、見ているこちらが不安になる位だ。だが、一生懸命さが伝わってくる。千鶴は驚く程に器用というわけではない。無論強くもなければ、頭がべらぼうに切れるというわけでもない。何事においても普通だ。そんな彼女の取り柄と言ったら―― 何事に対しても一生懸命であること、だろう。
彼女はどんな小さな仕事も一生懸命に真剣に取り組んでいる。大した仕事ではない、誰にでも出来る仕事と分かっていても、決して力を抜かない。一生懸命に与えられた仕事を全うしようとする。
自分の保身などこれっぽっちも考えずに、ただひたすら彼女は一生懸命走り続けるのだ。
新選組の為に。
彼女は覚えているだろうか。自分は軟禁されている状態だということを。殺されそうになったこともあると。今だって自由を奪われて、閉じ込められていることを。きっと彼女はそんなものとうの昔に忘れてしまっているだろう。新選組の面々を、恩人だと本気で思っているのだろう。それが愚かではあるが、
「いいもんじゃねえか」
土方は笑った。
彼女の一生懸命さは滑稽ではあるが、嫌いじゃない。
確かに千鶴は弱いかもしれない。戦になれば役に立たないかもしれない。出来ることよりも出来ないことの方が多いだろう。いてもいなくても、大差はないのだろう。
だが、仲間の為に必死に走る姿は間違いなく、
「あいつは――千鶴は、新選組の一員だ」
彼女は気付いているだろうか。いつの間にか『千鶴』と、その名を呼ばれていることに。
仲間の一人として、彼らに受け入れられていることに。
いや、きっと前だけを見る彼女は未だ気付いていない。がむしゃらに、前だけを見て走っているから。その姿がやはり少しだけ哀れだと思う。
「土方さんが認めたなら、本物だな」
ざくざくと暗闇の方から大地を踏みしめる音が聞こえてきた。
二人がそちらを見れば、長い槍を携えた原田が近付いてくる。その表情はなんだか嬉しそうだ。
その隣にはもいる。
耳敏い連中だと土方は内心で呟いたが、きっと彼らも土方と同じ。千鶴が気になって此処へやって来たのだろう。
「でもまああれだけ一緒にいて、今更一員じゃないってのもおかしな話ですよね」
そう言って笑うと、隣の原田は何言ってるんだと口を開く。
「千鶴は俺たちの為に頑張ってくれてるんだ。これで仲間じゃなかったら変だろ」
「左之さん、言ってて恥ずかしくないですか?」
は困ったような顔をしたが、多分彼の言いたいことは皆が思っているそのものなのだろう。千鶴は自分たちの為に頑張ってくれている。一生懸命に自分が出来ることを。微塵も見返りを求めず、ただ彼らの為だけに。これで仲間ではないなんて思うわけがない。仲間の為に身体を張ってくれる彼女を認めないはずがない。
いつからなんて明白には分からないしそんなことはどうだって良い。気付いた時にはもう彼女は彼らの仲間になっていたのだ。
「これで、納得してねえのは総司だけってことだな」
きっと藤堂や永倉あたりは、とうの昔に仲間として扱っているだろう。逆に、今更と笑われてしまいそうだ。それ程、千鶴という存在は彼らの中に浸透してしまっているのである。
「総司はきっと認めたがらないでしょうね」
「そういうおまえはどうなんだよ?」
苦笑で他人事のように呟くにそう訊ねてみる。
と、彼女は一瞬ほんの僅かに目を丸くして、
「私は、土方さんが仲間だって言うならそれに従います」
などと言うのだった。
自分はどうとも思っていないと言うのだろう。実に彼女らしい言葉だった。
はいつだってそうだ。
他人に興味など抱かない。特別に思い入れることもなければ、嫌うこともない。ただ彼らに命じられたことを粛々と受け止めるだけ。そこに自分の感情があるのは邪魔だと思っているのだろう。確かに私見が混じれば公平に、冷静に物事を判断するのは難しくなるのは事実だ。だからは余計な感情を持たない。誰にも思い入れることはない。
でも、
「おまえも、大概鈍い奴だよな」
土方はこう思う。
本当はだって千鶴のことを他の皆と同じように思っているのだと。彼女を、仲間だと認めているのだと。
言葉では何とも思っていない、命令に従うだけだと言っているが、最近の千鶴への干渉はどう見ても命令に従っているだけとは思えない。この間島原に連れていってやりたいと言われたが、そんな命令は出していないし、彼女を島原に連れて行ったところで新選組としては何の足しにもならない。逆にこちらとしては出費になるだけ。だからそれは『彼女を喜ばせてやりたい』というの勝手な考えなのだ。組織が云々などというものはどこにもない。ここ最近の千鶴の多忙っぷりを気に掛けるのもそうだ。彼女があれこれと仕事をやってくれるのは逆にこちらとしては有り難い。だけどそれをは心配している。あまりに忙しそうだと彼女の手伝いまでする始末だ。新選組副長助勤は、洗濯をしていられる程暇ではないのに。やることは沢山あるし、考えることも沢山ある。でも気付けば最近は千鶴のことばかりだ。今日は少し具合が悪そうだった。忙しそうだから後で様子を見に行ってみようと思う。沖田と何かあったらしい、大丈夫だろうか、と。これで――なんでもない、はずがない。
は千鶴のことが好きなのだ。
きっと今、土方が以前のように「千鶴を斬れ」と命じたら、は躊躇うだろう。土方の命令は絶対だと分かっていても、迷うに決まっている。それで良いと、土方は思うのだ。
「と、噂をすれば……」
ぱたぱたと足音を立てて千鶴が戻ってくる。どうやら永倉への伝令は終わったようだ。でもまだ走っている。今度は何を頼まれたのやら。
「ご苦労様です!!」
しかし土方らを見付けると、わざわざ立ち止まってぺこりと頭を下げるのだ。そうして元気良く顔を上げると、また走り出す。その背中を見送りながら土方が苦笑で呟いた。
「斎藤の言葉は綺麗さっぱり忘れちまったみてえだな」
「そりゃまあ、必死で走らないと恩返し出来ないと思ってるんでしょうよ」
恩なんて感じる必要はないのにとも笑った。だってそれが当たり前なのだから。落ち込んでいたら言葉を掛けるのも、泣いていたら笑わせてあげたいと思うのも、それから、彼女が敵に襲われたら守ってやるのも。当然のことなのだ。
仲間――だから。
「ほら、な」
ふわりとの目元が優しく綻ぶ。
ほら、と土方は小さく呟いた。
そんな顔をさせる人間のことを、彼女が嫌いなはずがない。そんな優しい顔、仲間以外に見せない癖に。
「ちょっと土方さん……その顔止めてくれません?」
ふっと笑う土方に気付いて、は唇を尖らせた。
「その顔ってどういう意味だよ」
「初孫を見るおじいちゃんみたいです」
ぶっと原田が噴き出すのが聞こえる。確かに彼は年上だが爺扱いは酷い。が、泣く子も黙る鬼の副長が爺扱いされるのはなんだか可笑しくて噴き出してしまった。因みに爺扱いされた土方当人はこめかみに青筋を浮き上がらせて手を震わせている。
これは下手をすると拳骨が落ちるかもしれない。は早々に退散しようと、悪戯っぽい笑みを浮かべてくるりと踵を返そうとした。
その瞬間だった――
空気が突然変わった。
ぴんっと見えない力がその空間の空気を引き絞るかのように、張り詰める。
「っ!?」
その場にいた全員が一瞬にして顔色を変えた。
息を吐くことさえ躊躇われる緊迫感。吐息を漏らせば引き絞った辺りの空気が弾けてしまいそうだ。
誰もが無言で辺りを探る。
一体、どこからこの緊迫感が生まれるのかと。
緩く頭を巡らせ、琥珀が何かを見付けた。
「――千鶴ちゃん!!」
見付けた、というよりは、感じたのだ。
肌を刺すというよりは、貫くような鋭い殺気に千鶴は震えた。闇の中からとろりと溶け出した三つの影に、彼女はただただ恐怖した。
刃を向けられているわけでもなければ、彼らが人外の姿をしているわけでもない。ただ立っているだけ。それなのに彼らから異様な気を感じるのだ。千鶴など簡単に押し潰してしまえそうな程の気を。
つうと首筋を汗が伝い落ちる。逃げなければ。そう思うのに身体は動かない。
そんな彼女の前に、一歩男が進み出た。赤い瞳を持ったその男は見覚えがある。否、忘れるわけがない。あの日、池田屋で刃を向けた男。名前を確か、
「風間、千景」
「ほう? 俺を覚えていたか」
愉快げに赤い瞳が細められた。ぞっとする程に妖艶だが、千鶴にはただ恐ろしくて堪らない。
その両隣に立つ彼らには見覚えはないが、恐らく彼らが――天霧九寿、不知火 匡と呼ばれる浪士だろう。
池田屋、禁門の変と、ことあるごとに新選組の前に姿を現した薩摩長州に属する彼らは、幕府側である新選組の敵だ。
それもかなりの強敵。
沖田と風間の戦いを見ている千鶴は知っている。あの沖田が子供のようにあしらわれたのだ。新選組最強と言われた沖田が。
「ど……どうして、ここにっ」
そんな彼らが何故ここにいるのか。千鶴は震える声で訊ねた。
また彼らが戦わなければならないのか。また誰かが彼らに傷つけられるのか。そう考えると堪らなくて、千鶴はぎろっと彼らを睨み付ける。そんなもので彼らを追い返せるわけもないのに。
「どうしてってのはオレらがここまで来た方法を聞いてんのか? なら答えは簡単だ。オレら鬼の一族には人が作る障害なんざ意味をなさねぇんだよ」
千鶴の問いに答えたのは不知火だった。彼はにやにやと楽しげに笑みを浮かべている。
違う。そんなことが聞きたいわけではない。千鶴が知りたいのは彼らがやって来た理由だ。
問いかけるよりも前に一歩静かに大男が踏み出す。その大きさに思わず千鶴は息を飲んだ。
「私たちはある目的の為にここに来た」
水の色をした冷たい瞳が、真っ直ぐに千鶴を見据えていた。
「君を探していたのです。雪村千鶴――」
何故彼らが自分の名を知っているのかと不思議でならなかった。名乗った覚えなどないからだ。千鶴の存在は新選組の中でも隠されている。だから彼女の素性を知る人などいるはずもないのに、何故。いやそれよりも何故、彼らは自分を捜していたのか。薩摩長州に与する彼らと接点はないはずなのに。なのに何故。
分からないことがより千鶴を混乱させ、恐怖を増長させる。
「い、言ってる意味がよくわかりません。鬼とか、私を捜しているとか……私をからかっているんですか!?」
恐怖を紛らわすように大きな声で反論すれば、風間の静かな声で一蹴された。
「鬼を知らぬ? 本気で言っているのか……我が同胞ともあろう者が」
不愉快げに呟いた男が一歩を踏み出した。一際深い闇を纏って。闇を引き連れて。
「い、や…」
気圧されるように千鶴の身体が一歩後退する。
そのまま踵を返して逃げ出したいのに、赤い瞳が引き絞られると身動きが取れなくなった。まるでその真紅に囚われてしまうかのようだ。怖いのに目を逸らすことも出来ない。
「君は――すぐに怪我が治りませんか?」
「っ!?」
「並の人間とは思えないくらい――怪我の治りが早くありませんか?」
天霧の静かな問いかけに、千鶴は目を見開いた。
何故彼らがそれを知っているのだろう。確かに、物心着いた頃から怪我がすぐに治るという特異体質であった。父に何故かと問うてもそれは教えて貰えず、誰にも秘密にしなければならないと言われてきたのだ。だから新選組の誰も知らない。父以外知るはずがない。自分だって知らないのに、彼らはそれを知っているのだろうか。
「そ、れは……」
千鶴は言い掛けて口を噤んだ。誰にも秘密だと父にきつく言われているではないか。彼ら敵に教えてはならない。
そんな彼女に気を悪くしたのか、
「あァ? なんなら血ぃぶちまけて証明した方が早ぇか?」
不知火が、物騒な台詞を吐きながらその腰にあったそれを引き抜いた。千鶴はぎょっとした。長い砲身を持つそれが自分に向けられていた。
銃だった。
刀よりももっと簡単に、人の命を奪うもの。ただ引き金を引くだけで、あっという間に人を殺せてしまえるもの。
ぎらりと月明かりに黒光りするそれが輝く。銃口がまるで、獲物を捕らえて大口を開けているように見えた。
殺される。千鶴は身体を震わせた。
「よせ不知火、否定しようがどの道俺たちの行動はかわらん」
今にもぶっ放してしまいかねない不知火を手で制し、風間がちらりと千鶴の腰へと視線を寄越す。彼女の腰に差された小太刀を。
「鬼を示す姓と、東の鬼の小太刀……それのみで証拠としては充分に過ぎる」
彼らの言っていることがさっぱり分からない。
姓がなんだというのか。雪村と名乗ることが何だというのか。
この小太刀が一体なんだと言うのか。
鬼が、自分が、一体なんだと言うのか。
分からなくて混乱する。ぐるぐると彼らがもたらした言葉が頭の中を意味もなく回る。
「言っておくが、おまえを連れていくのに同意など必要としていない」
千鶴の混乱などお構いなしに風間は言って、一歩を踏み出した。じゃりと音を立て、わざとこちらの恐怖心を煽ろうというのだろうか。
「い、いやっ……」
震える声で告げれば、赤い瞳がすいと細められる。不気味に笑った気がした。
「女鬼は貴重だ、共に来い――」
共にと言うよりは、乱暴に奪うように手が伸びる。
まるで千鶴を闇に引き込もうとするかのように、男の手が。飲み込まれればどうなるのか、分からない。ただ千鶴はもうここに戻ってこられないような気がして、それがなにより恐ろしくて。
「――っ」
嫌だと今度ははっきりと頭を振った。
彼らと共に行きたくない。此処にいてもなんの役にも立たないかもしれない。それでも、千鶴ははっきりと願うのだ。
――ここにいたい――
そんなささやかな願いを絶望で塗り潰すかのように、闇が目前まで迫った。
――ひゅ――
突如、風が吹いた。
千鶴に迫った闇を吹き飛ばそうと、一陣の風が吹き抜けた。
その強さに思わず悲鳴が漏れそうになる。強い風に吹き飛ばされてしまうのではないかと千鶴は思ったが、それは千鶴を守るかのようにふわりとその身体を包み込み、
「この子に何の用?」
目を開ければそこに、背中があった。
千鶴を庇うようにして立っていたのは、困っているといつだって声を掛けてくれる優しいその人の姿。
「……さんっ」
「もう大丈夫だよ」
涙声で呼ばれ、はちらりと肩越しに視線を寄越して笑った。それが酷く安心できて、千鶴は込み上げて涙をぐっと飲み込んでこくりと一つ大きく頷いた。
も頷き返し、再び彼らへと視線を向ける。
「なんだ、てめぇ。死にてえのか?」
突然降って湧いた邪魔者に、不知火が不機嫌そうに顔を歪めて銃口を向けてきた。それはの額、ど真ん中をぴったりと狙っている。が、彼女は臆したりなどしなかった。それどころか撃ち抜けるものならば撃ち抜いてみろと口元に笑みを湛えて、睨み返した。
「そりゃこっちの台詞だよ」
砕けた物言いをしながら琥珀がついと細められた瞬間、の身体から発せられた静かな殺気に、闇が――退いた。気迫などというもので夜の闇をどうにか出来るはずもないけれど、確かに闇は怯えるかのように静かに退いていくのだ。思わず、不知火が楽しげに瞳を細める程の気迫。
今まで斬り捨ててきた人間とは、一味違う。面白いと銃を構え直す不知火とは逆に、風間はつまらなさそうに眉を寄せただけであった。
「貴様には関係ない。用があるのは、その女だけだ」
「この子には用はないみたいだけど」
は相も変わらず軽口で応える。そうして一目だって彼らに千鶴を見せてなどやらない。それが酷く不愉快でならない。人間などに彼ら鬼の邪魔をする権利などないというのに。
「部外者が口出しするな。これは我ら一族の問題だ」
一族、という言葉にぴくんとの眉が跳ね上がる。どういうことかと訊ねたかったが、男は随分と短気な男らしい。の答えも待たずにすらりと腰の獲物を引き抜くのである。向こうがそのつもりならば、こちらも応戦するのみ。言葉など必要はない。は口を噤むと男と同じく、腰に手を伸ばした。
なるべく少女からは見えないように黒鞘から一気に抜き放ち、静かに構える。月の明かりを受け、その刀身は青白く光っていた。まるでその刀そのものが発光しているかのようにも見える。
「――それはっ……」
その時突然、男の一人が声を上げた。
驚きの声を上げたのは天霧で、彼はの刀を見てその冷たい瞳を大きく目を見開いている。
「……?」
何を驚いているのか分からないは訝しげに眉を寄せた。
細い瞳を限界まで見開いた男は、何故、と些か狼狽気味に口を開くのだ。
「何故、あなたが、」
「一人で飛びだすなって何度も言ってんだろうが、この馬鹿野郎が!」
強い声が、闇を完全にはね除け、霧散した。
ざぁっと砂埃を上げて間に割り込んできたのは、浅葱の衣。ふわりと夜風に靡き、やがて静かに舞い降りる時にはの目の前に二つの大きな背中があった。
彼らは揃って獲物を手にして敵と対峙している。一人でだって決して遅れを取ったりはしないが、彼らがいてくれるならば安心だ。ついつい口元が歪んで軽口の一つだって零したくなる。
「だって、私が飛び出さないと間に合わないでしょうが」
「だからって一人で行くなっての、手柄独り占めするつもりか?」
冗談めかしたの言葉に、原田が口元を歪ませてそう返してくる。彼が手にした槍の穂先は、不知火に向けられていた。にやりと彼は好戦的に笑い、その銃口を原田へと向ける。
「先程のはどう見ても考えるよりも先に飛び出していた気がするが」
「ちょっと、人を無鉄砲みたいに言わないでくれる? 私平助とは違うんだからね」
淡々とを窘めるのは斎藤であった。彼は刀の柄に手を伸ばし、隙無く構えている。青い瞳が静かに捉えたのは天霧であった。問いかけを邪魔された彼は僅かに渋い顔をしてみせたが、同じく応戦すべく爪先に力を込めて構えを取った。
「じゃあ、私の相手は」
が切っ先をその男、風間へと向けようとした時、ぐいと無骨な手が肩を掴んで引いた。
「下がっていろ――」
ふわりと長い黒髪を靡かせ、の前に出たのは土方だ。
その大きな背中で彼女の壁になってしまうと、馬鹿、ともう一度振り返りもせずに言った。その背中を見ては唇を尖らせた。彼を守るのは自分の役目なのにと。自分が盾になるべきなのにと。
「馬鹿とはひどいんじゃないですか?」
なんだか悔しくて、ついつい不満げな声になってしまう。
「私が一番早いから走っただけなのに」
「一人で三人相手する気だったのか、おまえは」
それは無謀というものだ。いくら彼女が強かろうと、彼らの相手を一人で出来るわけがない。彼らは相当の手練れだ。あの沖田を打ち負かしてしまったのだから。だからこそは彼らを、特に風間という男の相手をしたかったのかもしれない。そう思えば納得出来るが、だからといって彼女の思い通りにはさせてやれない。
「こいつの相手は、俺がやる。おまえはそいつを連れて、戻れ」
何故ならここには千鶴がいるのだから。彼らの目的が千鶴だと言うのならば、彼女を殺すということはないだろうが、千鶴が目的ならばなおさらここにいさせるわけにはいかない。乱戦に乗じて連れ去られでもしかねない。
「私は、」
「行け」
何かを言いたげに口を開いたが、それを静かな言葉で遮る。
すらりと抜いた白刃は迷わず風間へと向けられていた。こちらを振り返りもしない。その必要はないと彼は知っているから。だからの逡巡は僅かの時間だった。
「……わかりました」
固い声で答え、は刃を収めた。
ここで自分が成すべきことは彼らと戦うことではない。正直、あの風間という男をぶん殴ってやりたい気分だが、それは土方に任せることにしよう。それよりも自分が今やるべきなのは。
はくるりと振り返り、千鶴の手を取った。
「千鶴ちゃん、今は退こう」
「でもっ」
「大丈夫、土方さん達が負けるはずないよ」
大丈夫と言って笑うその琥珀には、絶対の自信の色を浮かべている。彼らに対する信頼の色だ。負けるはずがない。土方達ならば何があってもとは信じている。だからここを彼らに任せるのだ。
それを見てしまっては、千鶴は嫌だと駄々をこねるなんて出来ない。彼らへの信頼を踏みにじるなんて真似は出来るはずもない。
分かりましたと頷くと、は何も言わずに掛けだした。
「待ちなさい!」
とその背に天霧の声が掛かるが、飛び出そうとしたところを斎藤の刃が閃いた。
「っ――」
緊迫した空気ごと切り裂くように一閃し、それが合図となって激しい戦いが始まったのであった。その戦いには名など――ない。
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