なんて思い上がっていたのだろう。
 自分はただの客人で、彼らの目的を果たす為にここに置いて貰っているだけにすぎないのに。
 彼らの仲間になれたなんて思い上がりもいいところだ。
 自分は何も分かっていないのに。彼らのことを何も理解していなかったのに。そもそも理解出来るはずもないのに。
 何一つ、彼らと同じものを背負っていないのに。
 仲間になれた気がしていた。

 本当に馬鹿だな、と自分の愚かさに笑いが込み上げてくる。

 それなのに、ぽたりと頬を涙が伝う。
 笑っているはずなのに、涙が後から後から込み上げた。

『君は仲間なんかじゃない』

 彼の言葉がまるで、戒めのように頭の中をぐるぐると回る。
 二度と忘れるなとでもいうのか。千鶴の耳の奥に染みついて、離れない。
 その度に、涙が溢れて留まらなかった。
 悲しむ理由なんてないのに。
 傷つく理由なんてないのに。
 彼の言葉は正しいのだから。

「っ……」
 千鶴はぐいと目元を乱暴に拭った。
 泣いたって何も変わらない。どれほどに泣いて喚いても、彼らの仲間にはなれないのだ。
 だから、泣くな。
 自分に言い聞かせるように言って、また視線を上げた。
 真っ直ぐに前を見つめた。

 空が白んでいく。
 深い闇は光に溶けていく。
 ―― 一日が始まる。

 また……ここからはじめよう。
 千鶴は弱い心を叱りつけるように、一度頬を叩く。

 出来ることをやろう。自分に出来る精一杯を。
 彼らに感謝されたいわけではないのだ。認められたくてやっているわけではないのだ。ただ、彼らから貰ったものを返しているに過ぎない。
 それあまりに大きくて、千鶴に返しきれるとは思っていない。自分が出来ることなど限られているのだから。
 だから、自分にできることを精一杯やろう。
 それしか自分には出来ない。でもそれで、いい。
 それが今の自分に出来ること。



 結局、山南は一命を取り留めた。
 人ではなくなってしまったけれど、彼は確かに生きていた。そして、左腕も動くようになった。
「私はもう、人間ではありません」
 あっさりと化け物だと認めた彼は、新撰組を束ねる一人となり、表向きには葬られることとなった。
 闇の中、ひっそりと『生きる』ことになったのである。


 そうして季節は巡り、新選組は西本願寺へと屯所を移すことになった。



「おはようございます」
 ぱたぱたと慌ただしい足音と共に、元気な挨拶が飛んでくる。
 爽やかな朝にはぴったりの、彼女の声だ。寝惚けた頭もその元気な声に釣られて、引き締まるというものである。
 今日もいつものように、彼女の明るい声と笑顔で始まった。
 昨夜遅くまで呑んでいたせいで未だ眠いのか、欠伸をしながら廊下を歩いていた藤堂はその声に気付いて顔を上げる。と、廊下を洗濯物が歩いて向かってきた。否、歩いていたのは洗濯物ではないのだが、山のように盛られたそれのせいで彼女の姿が見えないのである。
「ち、千鶴!? おまえどこ行くんだ?」
「あ、平助君。おはよう」
 忙しそうな千鶴の足が止まる。にこりと笑いかけられてつい眩しさに目を細めたが、今はそれどころじゃない。
「もしかして、その洗濯物の山……おまえ一人で洗濯するのか?」
「うん。平助君もお洗濯するものある? あるなら一緒に洗っちゃうよ」
 にこりと満面の笑みで言われて、一瞬藤堂はそれじゃあなんて甘えてしまいそうになった。
「い、いやいや、大丈夫!!」
 だがこれほど山積みになった洗濯物を抱えている彼女に、ついでにこれも、などという気にはなれない。それが出来るのは鬼だ。
「そう? あったら遠慮無く出してね」
「お、おう……って、もう少ししたら巡察だけど、千鶴、今日一緒に行くんじゃなかったのか?」
 確か今日の昼の巡察に彼女も同行すると聞いていたのだが、この洗濯の量では難しいだろう。折角一緒に出かけられると思ったのに少し残念だな、と藤堂が苦笑を浮かべると、千鶴はふるふると頭を振ってこんなことを言った。
「ううん。一緒に連れて行ってもらうつもりだよ」
「ええっ!? で、でもこの洗濯の山じゃ」
 半日は掛かるのでは、と言えばあっさりと彼女は笑ってみせた。
「大丈夫。大急ぎで終わらせちゃうから」
「え、で、でも」
「ごめんね。私急いでやってくるから」
 巡察までに間に合うようにするからね、と千鶴は慌てて走って行ってしまう。
 その背中を見送りながら、本当に大丈夫なのか、と藤堂は心配になるのだった。

「おい、さっきとんでもねえ洗濯物の山が走ってったぞ」
 廊下で彼女とすれ違った土方が、広間に入るなり苦い顔でそう声を掛けてきた。
「ええ、走っていきましたね。素晴らしく綺麗な山でした」
 がそう答えると、彼は眉間に皺を刻んだまますたすたとやって来てどっかと定位置に腰を下ろす。
 息抜きにお茶でも飲みに来たらしい。盆の上の茶注に手を伸ばすと、中は随分と温くなってしまっていた。
 入れ直してこようと立ち上がれば、手で制された。今は温いお茶で良いらしい。
 は伏せてあった湯呑みの一つにお茶を注ぎ、差し出した。
「よくもあんな量を、あいつが持てたもんだな」
「お陰で少し腕力がついたって、あの子喜んでましたよ」
「それは女が喜ぶことじゃねえだろ」
「ここにいるお陰で、すっかり彼女も男の子になっちゃったんじゃないですか?」
 いつものように返ってくる軽口に複雑な顔になり、一瞬考え込むように視線を落とす。それからなあと声を低くしてこう声を掛けてきた。
「最近のあいつは、おまえ並に忙しそうじゃねえか?」
 彼女と同等にするのは些か失礼だろうか。
 千鶴はのように身体を壊しかねない無茶はしていないし、そもそも身体を壊しかねない仕事なんてさせてもらえない。でも、それに近しいものはある。
 最近の千鶴は働き者だ。それはもう感心を通り越して呆れる程。
 彼女が任される仕事というのは、洗濯、掃除、着物の繕いといったものから、誰かのおつかいというものまで様々だ。隊士ではない彼女に重要な仕事をさせるわけにはいかないので、大抵が雑用となってしまうのだが、それでも雑用というのは土方が思う以上に大量にあって、そして大変だ。
 毎日走り回っている千鶴を見ればそれは分かる。
 朝は誰よりも早くに起きて、食事の支度。夜は皆が寝静まる頃まで繕い物に追われていた。洗濯も掃除も毎日欠かさない。毎日のことだから彼女の仕事が無くなることはないのだが、それでも何もすることがなくなると「なにかやることはありませんか?」と聞いてくる。
 一瞬たりとも息を吐くまいとしているようで、ああなるほど、そう言われればと同じだ。
「……ああしてると気分が晴れるんでしょ」
 ぼそりとがそう呟いた。
 彼女はああやって忙しく走り回って一心不乱に何かをすることで、自分から考える時間を奪っているのだ。
 そうしなければ余計な事を考えてしまうのだろう。嫌なことを思い出してしまうのだろう。だからそんな暇など作らないように、ああして忙しく働いているのである。
 には分からなくもない。考えたところで埒も空かないことを考えるのは無意味だ。そしてそういうものに限って嫌な方に悪い方にと考えて、自分を追い込んでしまう。ならば考えない方が良い。それを彼女も知っているが、あれではいつか壊れてしまうだろう。その身体も、心も。人というのはそんなに強くない。特に千鶴のように素直な少女が、自分の気持ちに背を向けていられるはずもない。
「そもそも、それじゃあ何も解決しないでしょうに」
「それが分かってんなら、あいつだってあんな真似はしてねえだろ」
 はあ、と溜息を吐いて土方はがりがりと苛立たしげに首の後ろを掻いた。
 山南の一件が漸く一段落着いたところだというのに、また悩み事の種が増えてしまった。
「あいつもあいつだが、総司の奴も酷えもんだぜ」
 千鶴は千鶴で問題だが、それ以上に彼の方が問題である。
「最近ぴりぴりしてることが多いですよね」
「声を掛けても返事もしやがらねえし、口を開いたかと思えば憎まれ口ばかり叩きやがる」
「そりゃ土方さんにとってはいつものことじゃないですか?」
「抜かせ。いつも以上にひでえんだよ」
「まあ、毎晩お酒を飲み歩く位には鬱憤溜まってんでしょうね」
 最近はなかなか夜に屯所にいることがない。どうやら毎夜飲み歩いているらしく、いつも酒のにおいをさせて帰ってくる。きっと彼のことだ。無茶な飲み方をしているんだろう。お陰でまた最近、変な咳をするようになった。
「……そろそろ外出禁止令ってのも考えねえとな」
「いや、総司には無理です。きっと抜け出すに決まってる。で余計無茶な飲み方をして、千鶴ちゃんに心配を掛ける」
「でもって堂々巡りか」
 はあ、と二人揃って溜息を零した。

 ただひたすらに走り回る千鶴は、鬼の副長とその助勤がそんな話をしていたなど何も知らない――


 巡察に行こうと門の所にやって来た時、既に千鶴の姿があって驚いた。
 あの洗濯の山を一体どうしたのかと聞けば、彼女は満面の笑顔で全部干し終わったと告げられて、更に驚く。
 この小さな身体のどこに、そんな力があるのだろう。藤堂には不思議でならなかった。
「疲れてたら無理しなくていいんだぞ?」
 優しい彼は心配して何度もそう言ってくれた。その気持ちが有り難く、同時に自分の不甲斐なさに落ち込みそうになる。千鶴がしているのはただの雑用に過ぎない。毎日危険な仕事をしている彼らから比べればたいしたことがないのに。それなのに彼らに心配を掛けてしまうのは自分がきっと危なっかしいからだ。
 いけない、これでは彼らの足をまた引っ張ってしまう。千鶴は表情を引き締めるように、頬をぱちんと叩く。そんなところを見られて、また大丈夫かと藤堂に声を掛けられてしまうのだった。

「今日は天気で良かったよなー」
 おおかた巡察とは思えない暢気な声で隣を歩く藤堂が言った。
 ここに鬼の副長や、生真面目な斎藤がいたならば弛んでいると怒られるところだろう。だが、千鶴も天気で良かったと笑いながら同意を示してしまう。それ程に、今日の天気は気持ちがいい。燦々と降り注ぐ陽射しが暖かく、だからというわけではないが洗濯にも精が出るのは致し方ないことだろう。
 すうと大きく息を吸い込む。滅多に屯所から出られないから少々開放的になるのもあるかもしれない。と同時に最近はずっと屯所の中の空気が重たかったから、つい外に出るとほっとしてしまうのだ。伊東の件もあり、山南の件もあり、その他にもある。因みにその屯所の空気を重たくさせる原因の中に隣を歩く藤堂も入っている。
「……」
 ちらりと横目で見遣れば彼は京の町並みを、眩しそうに目を細めて見つめていた。その横顔は、やはり以前のような元気はない。江戸から戻ってきて以来、ずっとそうだ。伊東一派の件で彼も悩んでいるのである。彼を新選組に引き合わせたのは彼だから、責任を感じているのだ。
「平助君、大丈夫?」
「ん? 何が?」
 声を掛けると大きな瞳がこちらを見て、笑った。いつもの彼に見える。でも、どこか無理をしているようにも見える。それは千鶴が少なからず彼らと共にいて、彼らを知ることが出来たから気付けたのである。
 無理をしていないだろうか。そう声を掛けたかったが、止めておいた。もしかすると余計なお世話かもしれないのだ。
 千鶴はううんと頭を振って、笑う。
「なんでもない」
「なんだよ。変なヤツだなー」
 けらけらと藤堂も笑った。やっぱり無理して見える横顔で。
「あれ?」
 何かを見付けたのか、その瞳が大きく開かれた。
 同時にぴたりと立ち止まる彼に、千鶴は遅れて立ち止まる。
「あそこにいるのって総司じゃねえ?」
「っ」
 突然、藤堂の口から彼の名前が出てどきりとした。思わずぎくりと表情も強張ってしまう。
 今日は八番組と一番組の巡察なのだから彼の姿が市中にあって当然だ。それでもそんな反応をしてしまうのは、この間の件が千鶴の中で尾を引いているせいなのだろう。
 これでは彼に失礼だ。千鶴はふるふると頭を振って、いつもの笑顔を浮かべた。
「あ、なんか女の子と一緒にいる」
 が、その笑みもすぐに引き攣ってしまった。
 沖田は一人ではなかった。藤堂が言うように女の子と一緒にいたのである。
 しかも――可愛い女の子と。
 艶やかな黒髪に大きな茶色の瞳の少女。どこかあどけなさの残る顔立ちをしているものの、その仕草も表情も酷く大人びて見えた。すいと双眸を細めて微笑むその表情は、どきりとするほどに色っぽい。
「――」
 離れている千鶴には沖田とその少女が何を話しているのかは分からない。背中を向けられているので彼がどんな顔を彼女に向けているのかも。
 だが何故かその光景を見ているとちくりと千鶴は胸の奥が痛くなってくるのを感じた。まるで心臓を針でちくちくと刺されているみたいで、ひどく、不快だ。落ち着かない。自分でも何故か分からないが、今すぐ踵を返してしまいたい衝動に駆られる。
「おーい! 総司!」
 そんな千鶴になど気付かず、隣の藤堂が声を上げた。
 あの女に興味もへったくれもない男が、女と二人なんて珍しい。思わずからかいの言葉でも掛けてやりたくて、口元がにんまりと意地悪く歪んだ。
 沖田は声に気付くとこちらを振り返り藤堂を見付けて苦笑を、その隣に立つ千鶴を見付けて、何故か双眸を細めるとずんずんと大股にこちらへとやって来た。愉快という顔ではない。千鶴は慌てて頭を下げた。
「お、お疲れ様です」
「こっち来て」
「え? あっ」
 突然千鶴の腕を掴んだかと思うと、彼はくるりと踵を返した。ぽかんと一瞬呆けていた藤堂もすぐに慌てて追いかけてくる。
「い、一体どうしたんですか?」
 と声を掛けても返事はない。ただ半ば引きずるようにしてそちらへ――彼女の所へと連れて行かれる。見れば少女は大きく目を見開いて驚きの表情で立ち尽くしていた。突然の沖田の行動に驚いているようである。それも当然のことだ。
「ここに立って」
 沖田は少女の隣に千鶴を立たせて、手を離す。
 どうしたのかと問いたいが、真剣な眼差しを向けられてそれも出来ない。沖田は千鶴ともう一人をじっと交互に何度も見て、やっぱりと呟いた。
「似てる――」
 似ている。何のことだろう。
 首を捻れば沖田は双眸をすいと細め、口元に笑みを湛えながら再び口を開いた。
「君たち、そっくりだ」
「えっ……?」
 その言葉に驚いて、彼女の顔を見た。
 するとまるで鏡のように、彼女もこちらを見たのだ。その顔は……鏡に映った自分のようであった。
 どこか雰囲気が似ている、という言葉では片付けられない。そっくりだった。目鼻立ちも、顔の形も、髪の色も目の色も、ぱちくりと瞬きをする瞬間までも、全部、自分と同じ。まるでもう一人の自分がそこにいるみたいだった。
「……」
 だが、もう一人の自分は、自分ではあり得ないような艶めいた笑みを浮かべて見せるのだ。それが酷く奇妙に感じた。自分と全く同じ顔をしているのに、自分とはまるで違う表情を見せて、そして自分の意志とは関係なく動く――他人。なんだろう。これは夢でも見ているのだろうか。
「では、私は急ぎの用がありますので」
 ぼうっと見つめる千鶴から視線を逸らし、少女はぺこりと優雅に頭を垂れる。
 さらりと同じ色をした黒髪を揺らして再び顔を上げた時、沖田はすいとその目が知らず細められるのが分かった。
 彼女と同じ色をした瞳は、
「このご恩はいずれお返しいたしますね。新選組の――沖田総司さん」
 まるで彼女のそれとは思えぬ程、暗く、淀んでいた。


「ありゃあ、総司に惚れたんじゃねえの?」
 雑踏の中に消えていく背中をじっと見送る沖田を、藤堂が笑みを含んだ声でからかってきた。
 ちらりと見ると彼はにやにやと意地の悪い笑みを向けている。沖田は苦笑を浮かべた。残念ながら、彼が想像しているような展開にはならない。
「あれがそう見えるんなら、平助はいつまで経っても左之さんには勝てないね」
「な、なんだとー!?」
 彼女が自分に惚れたなんて冗談ではない。あの目には好意なんてものはどこにもなかった。あったのはどろどろとした黒い感情だ。憎しみや怒りがねじ曲がり、狂気さえ滲ませた負の感情。沖田には何故そんな目を向けられるのかは分からないが、とにかく危険な人間なのは確かだろう。香で誤魔化していたようだが、微かに血のにおいもした。
 ちらりと横目で立ち尽くしている千鶴を見れば、彼女は未だぼうっと少女が消えた方を見つめている。その横顔は心此処に在らずといった感じだろうか。
 沖田は少女に問いかけてみた。
「彼女南雲薫さんって言うらしいけど、知ってる?」
「……」
 鈍く、千鶴は頭を振る。
 やはり知らない名前だ。もしやすると親戚なのだろうかとも思ったが、確か父は他の縁のある人間はいないと言っていた。だから男手一つで自分を育ててくれたのだ。
 まるで見ず知らずの他人。だというのにあそこまで似た人間がいるだなんてとても信じられない。
 やはり知り合いではないか。いやそんなことはどうでもいい。それよりも彼女が一体何者なのかが気になる。特にあの目が、
「っぐ!」
 唐突に肺が苦しくなって、沖田はごほっと噎せた。一度咳き込むと、更に苦しくなって咳が止まらなくなる。まるで肺の中に入った空気を全て吐き出してしまおうとするかのよう。苦しいのに、息を吸うのもままならない。
「総司!?」
「沖田さん!?」
 大丈夫ですかと悲鳴のような声を上げ、少女の手が背中に伸びる。
 背中をさすろうとしてくれているのだろう。小さい頃、風邪をひいて苦しがっていた頃に姉や、近藤が良く背中をさすってくれた。それだけで楽になれたし、なにより安心出来た。
 だが、
「っ――!!」
 沖田はその手が触れるよりも前に払いのけていた。
 まるで千鶴の優しさを拒むように。
 それは、彼も無意識だったようである。
「あ……」
 沖田は驚きに目を丸くしながら、同じように驚いたように目を見開いている千鶴を見た。
 茶色い大きな瞳が自分をじっと見ている。それが、何故か耐えられなかった。
「大丈夫だから」
 固い声音で言うと、そのまま逃げるように歩き出してしまった。
 おい、と藤堂が背後で非難めいた声を上げているが、聞こえない振りをする。その時の千鶴がどんな顔をしていたかなんて……考えたくもなかった。

『君は、仲間なんかじゃない』
 声がまた、聞こえた気がした。



 慶応元年、閏五月某日。
 西本願寺の広い屯所内に、隊士が集められた。

 その広さに負けじと、近藤が朗々たる声を上げて皆に告げた。
 近々、第十四代将軍徳川家茂公が上洛することになるというのだ。そして将軍が二条城に入るまでの警護を、新選組がするということになったと。
 どうやら池田屋や、禁門の変での働きを認められてのことらしい。
 名誉なことだと胸を張る近藤は、早速編成にと幹部を見遣り、輝く顔でこちらを見ている彼を誰よりも一番に見て口を開く。がしかし、一番にその名を呼ぶ前に土方に遮られてしまった。
「総司は風邪気味みてえだから外してやってくれ」
 恨みがましい目を向けられたが、知ったことではない。恨むのならば自分の無茶な行動を省みろと言うのである。
 そして今回の警護では藤堂も自ら体調不良を申し出て、幹部隊士二名の待機となった。

 その代わりに、ではないが千鶴が参加することとなった。

 将軍の警護なんてそんな大変な仕事に自分がついていっていいものか。足手まといになるのではないか。ここは辞退すべきではないのかと千鶴は思った。
 しかしそんな彼女に、近藤はこう告げたのだ。
「君は今や、新選組の一員といっても過言ではない。是非参加してくれ」
「……」
 その言葉を受けて、千鶴は一瞬だけ、その瞳に影を落とした。
 それに気付いた人間はどれほどいただろう。
 ほんの一瞬。瞬きほどの瞬間に、彼女が酷く悲しそうな、苦しそうな色を浮かべたのに気付いた人間が。

 彼女を仲間ではないと言う人がいて、
 仲間だと言ってくれる人がいて、
 その言葉を馬鹿みたいに真っ直ぐに受け止めてしまう彼女を、どれ程に苦しめたか分からない。
 それでも、千鶴は、
「私でよければ、何かさせてください」
 真っ直ぐに近藤を見て、頷いた。

 何か自分に出来ることを。
 ほんの少しでも良いから。彼らの為に出来ることを。

 そう前を見つめる彼女が彼女がひどく――眩しいと思った。



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