降り注ぐ月光が静かに廊下を照らしている。
 微かに開いたふすまの隙間から、千鶴は顔を出してきょろきょろと見回していた。
 辺りには人の姿はないようだ。
 こんな時間なのだから当然だろう。

 よし、誰もいない。

 一人強く頷くと、足音を立てないようにして廊下を走った。
 そうしてまた曲がり角で止まって、誰もいないかと辺りを探る。
 こそこそと人目を気にして歩き回る姿は、まるで屯所を脱げ出すみたいだ。しかし、ここから逃げ出すのが目的ではない。そんな気持ちはとうの昔に消えている。
 彼女の目的は、山南の腕を治すという薬を探し出すことだ。
 ここに来て随分と経つが、それらしい薬を見た覚えはない。
 恐らく彼女が踏み入れた事のない場所のどこかにあるのだろう。土方の部屋や、八木邸の奥。それから八木邸の道向かいにある前川邸。
 土方の部屋に薬が保管されているのならば、まず見つけだすのは無理だろう。彼が部屋を空けている隙に家捜し、なんて到底出来るはずもない。見つかったら斬られていまいそうだ。
 だがそれ以外ならば千鶴でも探せないこともない。それでももし見付からなかったとしたら、腹をくくって土方の部屋を捜さなければならないだろうが。とりあえず今日は一度も足を踏み入れた試しのない、前川邸から回ってみることにしよう。
 千鶴はそう決めると、足早に廊下を行き過ぎた。
 遅い時間を見計らって部屋を出たからか、誰かが出てくる気配はなく、すんなりと玄関まで辿り着くことが出来た。
 念のため後ろを振り返って誰かが追ってきていないか確かめる。やはり誰の姿もない。
 これならば思ったよりも簡単に前川邸にたどり着けるに違いない。
 と、千鶴が確信して再び前を向いた時、
「……」
 何故か目の前に沖田が立っていた。
 それはまさに、突然降って湧いたという言葉が相応しいくらい。
 足音も気配もなかった。ほんのつい先程までは。
 思わず、千鶴は凍り付いた。
「こんばんは、千鶴ちゃん」
 そんな彼女に、常と変わらぬ笑顔で沖田は挨拶をしてくる。
 千鶴は咄嗟に応えられなくて、ぱくぱくと口を二度程開閉させた。
「どこに行くつもり? まさか脱走とか?」
 きらりと妖しげに翡翠が光った瞬間、はっと千鶴は我に返った。呆けている場合ではなかった。
 頭を千切れてしまいそうな程にぶんぶんと横に振って、
「違います!」
 と答えた。
 こんなところを見られては脱走を疑われても仕方がないが、断じて違うのだ。逃げ出そうなんてこれっぽっちも考えてはいない。
 必死で訴えれば、彼はふぅんと笑顔のままで呟いた。
「まあ、別になんでもいいけど。どうせ君には逃げるあてもないしね」
「……」
 なんだか彼の言葉に落ち込んでしまう。
 確かに彼の言うとおり行く宛はないし、だからといって江戸に戻ったところで父親の消息は分からないままだろう。ここにいるしかないのは誰の目から見ても明らかだ。でもそうじゃない。千鶴は自分の意志でここにいるのだ。逃げようだなんて思っていない。嫌々彼らと共にいるわけではない。自分の意志でここに残ると決めた。彼らの為に自分の出来ることはないかと、何か出来るはずだと、そう信じて屯所を抜け出そうとしたのに。
 そう決めつけられて、こちらの言い分などどうでもいいという態度にはやはり落ち込んでしまう。
「ともかく、君は部屋に戻りなよ。子供が夜遊びする時間じゃないんだから」
 ほら、と沖田は小さな肩を掴んでくるりと反転させる。そうしてとん、と押せば、彼女は俯いたままでとぼとぼと歩き出した。
 先程まで上向いていた気持ちが一気に沈む。自分にも彼らの為に出来ることがある、そんな希望が急速に萎んでいく。感謝されたいなんて微塵も思わない。だけど父親を捜す為に協力してくれる彼らに、身を挺して自分を守ってくれる彼らに、何か恩を返せたらと思っただけ。そして喜んでもらえたらと思っただけ。
 千鶴にだって何かが出来ると思っていた。でも、薬一つも満足に探し出せない。結局自分は何も出来ない。彼らの為に出来ることなんてない。そう、誰かに言われた気がして酷く落ち込んだ。
「千鶴ちゃん」
 溜息を零しながら門戸を潜ろうとした時だった。
 静かな声に呼び止められた。
 振り返ると、彼は先程と同じ所にずっと立って、こちらを見ている。後ろを向くまでにやにやと浮かんでいた意地の悪い笑みは消えていて、代わりに真剣な面もちでこちらを見ていた。どきりと、胸が高鳴る程に、彼の瞳は真剣に、真っ直ぐに自分を見ている。
「もし怖いものを見たら、すぐに声を上げて助けを呼ぶんだよ」
「……え?」
 突然、何を言われたのか分からない。
 声を漏らせば、ふわりとその表情が和らいだ。
「ひとりでなにかしようなんて、思わなくていいから」
 酷く優しい笑みで、彼は言ってくれた。
 その言葉はもしかして、自分が山南の怪我を治さなければと気負っている自分への、彼なりの気遣いなのだろうか。一人で頑張らなくても良い、とそう言ってくれているのだろうか。
 千鶴には分からない。ただ、そう気遣われた気がして、それが嬉しくて、千鶴は力一杯頷く。そんな彼女を見て沖田は満足そうに笑った。
「あの……でも、怖いものって?」
 そのままおやすみなさいと言って大人しく屯所の中に戻ろうとしたが、つい気になって訊ねてしまう。
 屯所の中で怖いものなんてあっただろうか?
 問いかけに、沖田は目を瞬いてから、何故かにっこりと笑い直した。
「怖い夢とか、怖いお化けとか」
「……沖田さん、私を子供扱いしてませんか?」
「うん? 君はまだ子供でしょ?」
「確かに。沖田さん達よりは子供かもしれませんが、怖い夢を見たからって誰かに助けを求める程子供じゃありません」
「そう? あ、じゃあ大穴で鬼副長なんてどうかな?」
 それは、と思わず千鶴は言葉に詰まった。
 彼をお化けなんかと同列にして良いのか、そんなことを言えば彼が気を悪くするんじゃないかと思ったが、
「……怖そうです」
 正直に言うと、その中で一番怖いのは鬼副長だろう。
 そうだ。勝手に出歩いていたところを土方に見つかろうものなら、思いっきり怒鳴りつけられるに違いない。いや、怒られるだけで済むかどうか……下手をしたら、斬られる。
 ぞっと、背中を震えが走った。
「――私、部屋に戻ります!」
 こうしてはいられない。千鶴は早口に言うと、くるりと背を向けた。
 背中に「見つかって斬られないようにね」と縁起でもない声を掛ける沖田の声を聞きながら、慌てて部屋へと引き返すのだった。
「さて……僕は庭の方でも見回りをしてこようかな」
 すっ飛んでいく小さな背中を見送り、のんびりと沖田はひとりごちる。
 空にはぽっかりとまん丸い月が浮かんでいた。雲はない。夜風は冷たいが穏やかで、平和そのものであった。
 こんな平和な夜に何が起こるとは思わない。だけどでも、と沖田は双眸を細めて静かに視線を足下へと落とした。
 ざわざわと、肌の下がざわついて、仕方がなかった。何か嫌な事が起こる気がした。
 こんな平和な夜に。


「まさか、沖田さんが見張っていただなんて」
 千鶴は溜息を漏らしながら廊下を一人、歩いていた。
 豪快な鼾が聞こえてくる。永倉の鼾だ。幹部の部屋の前を通っているのだから彼の鼾が聞こえてくるのは当然。出来るならば早く通り過ぎてしまいたかったが、早足に歩けば彼らに気付かれかねない。千鶴は慎重に足音を殺して廊下を戻った。
 いきなり出鼻を挫かれてしまったな、と小さな溜息を何度も零す。
 彼が見張っているのでは前川邸に忍び込むことなど不可能だろう。
 となれば、やはり八木邸の中を探し回るしかない。
 だが日を改めた方が良いだろうか。沖田に屯所を抜け出そうとしたのを見つかってしまったから。でも、怪我を治すというのならば早い方が良い気もする。治療が遅ければ、治る可能性が低くなるというのは、父の診療所を手伝っている時に何度も見てきたじゃないか。
 よし、と今一度気を引き締め、ぴたりと足を止める。そうしてくるりと回れ右するとまた廊下を戻り始めた。
「……あれ?」
 そうして何歩か歩き出したところで、不意に疑問が浮かんできた。
 何故。
 こんな時間に、沖田があんな所にいたのだろうか。
 どこかへ出掛けるつもりだった、というわけでもあるまい。自ら進んで屯所の見張りを、というのも考えにくい。彼は出ていくわけでも、外からの敵に備えていたわけでもない。
 そう、彼は八木邸の中から出ていく誰かを待ち構えていたようだった。
 多分、千鶴ではない。
 では一体、誰を?

 す、とその時音が微かに聞こえた。
 ぎくりと肩を震わせ、きょろきょろと辺りを見回す。誰かが部屋から出てきたのだろうか。見付かったら大変だ。
 しかし、廊下には誰もいない。聞き間違いかと思って廊下の角から先を見ると、すっと広間のふすまが閉まるのが見えた。誰かが広間へと入っていったようだ。
 こんな時間に広間に、何の用事だろうか。千鶴は黙って見守っていたが、灯りが点くこともなければ、中からは物音一つ聞こえてこない。
「………」
 千鶴はこくりと息を飲んだ。
 一度辺りをきょろきょろと見回し、やはり誰も出てこないのを確認する。
 こんなところを見付かると厄介だから人と会わないにこしたことはない。広間に誰かが入っていったとしても、千鶴には関係のないことだし、そのまま部屋に戻るのが一番なのだろう。そうすれば、真夜中に部屋を抜け出したことは誰にも気付かれずに済む。沖田が口外しなければ。
 でも、だけど、
 妙に広間の気配が気になった。
 千鶴は意を決して廊下を進み、そっと広間のふすまに手を掛ける。
 なるべく音を立てないように、ほんのちょっとだけ隙間を作って中を覗き込んでみた。
 これで鬼の副長が憤怒の表情で立っていたら……きっと大声を上げてしまうだろう。
 だが有り難いことに、闇に染められる室内に静かに佇んでいたのは山南であった。
 思わずほっとした、と言えば土方に悪いだろうか。それでも安堵に溜息を漏らして、千鶴は声を掛けようとした。
「……」
 が、言葉が何故か喉の奥に張り付いたまま出てこなかった。
 そこに立っているのは山南敬助その人であるのは確かなのに、妙にその背に違和感を覚えた。まるで、山南の皮を被った別人が立っているような。
 何故、と戸惑っているとゆるりと彼が髪を揺らして振り返る。
「まさか、君に見つかるとはね。正直、予想していませんでしたよ」
「え……?」
 彼の言葉の意味は分からなかったが、それ以上に、彼の表情に千鶴は驚いた。
 ここ数日、思い詰めたような顔でふさぎ込んでいたその人の顔は、全ての悩みが解決したような、不思議なくらいにさわやかな笑顔を浮かべていたのだ。
「さ、山南さん?」
 戸惑いがちな呼びかけに、彼はにこりと笑う。
 以前の彼のように穏やかに。否違う。何かが違う。以前の彼とは何かが。
 ふと、彼の手元で何かが揺れた。きらりと輝く何かに意識が奪われる。
「……これが、気になりますか?」
 その千鶴の視線に気付くと、山南はそっと掌をこちらに向けた。
 しっかりと握りしめていたのは硝子の小瓶だった。
 一瞬にして釘付けになったのは、瓶の中に毒々しい、深紅の液体が揺れていたからだろう。
 あまりの禍々しさに恐れさえ覚えた。
「これは――『変若水』。君の父親である綱道さんが、幕府の密旨を受けて作った薬です」
「……え……?」
 彼の言葉が理解出来なかった。
 何故一介の蘭方医にすぎない父が、幕府の命を受けることになるのだろう。幕府にならお抱えの、腕の良い医者がいるのではないか。それなのに何故、江戸の片隅で細々とやっている自分の父に?
 理解出来ない千鶴を置いて、山南はゆらゆらと液体を揺らしながら言葉を続けた。
「元々、西洋から渡来した物だそうですよ。人間に劇的な変化をもたらす、秘薬としてね」
「……」
 千鶴は無言のままだ。それを薬がもたらす変化の意味が分からないのだろうと解釈したのか、彼女にも理解出来るようにと教えてくれる。
「単純な表現をするのでしたら、主には筋肉と自己治癒力の増強でしょうか」
「すごい……」
 素直に、感嘆の声が漏れた。
 筋肉と自己治癒力の増強などということが本当に出来るのかは分からないが、もしそれが出来るならば凄いことだ。
 自己治癒力を高められれば傷や病の治りは良くなり、そうなれば必然命を落とす人も少なくなる。診療所で何人もの人を見送り、遺族の嘆きや悲しみを、肩を落とす医師達の無力感を、幾度と見てきた千鶴にとっては素晴らしい薬だと思えた。だけど、この世の中というのはとても無情に出来ているのだ。妙薬だと諸外国から渡来してきた薬のほとんどが眉唾もので、たちどころに傷も病も快復させる薬などこの世には存在しなかったのだ。
 ――そう、目の前にあるその薬もきっと、同じ。
 今まで沢山の薬を見てきた千鶴にとって、その薬は他のどれよりもずっと禍々しいものに見える。なんせ、それは血のような赤をしていたのだ。傷や病を治る薬というよりは、毒のように見える。飲めばたちどころに毒は広まり、身体の中から崩壊して、死んでしまいそうな。
「しかし、この薬には致命的な欠陥がありました」
 ゆらりと揺れる赤を、山南は何故か自嘲じみた笑みを浮かべながら見つめている。まるで自分と同じ欠陥があるのだと言いたげに。
「強すぎる薬の効果が、人の精神を狂わすに至ったのです。投薬された人間がどうなるか……その姿は君もご覧になりましたね?」
「っ!?」
 ぎくりと身体が勝手に震えた。意識するよりも先に、身体があの恐怖を思い出して。
 それから怒濤のように蘇ってくる。
 忘れるべきだと自分の内に封じ込めた、あの夜の光景。
 彼らと初めて出会う事になったあの夜の、彼女が見た『人』ではないもの。
 恐怖が蘇り、顔からざあと血の気が失せていく。山南はそんな彼女の様子を見て、笑った。
「どうやら思い当たられたようですね。……君が出会った、あの隊士たちに」
 そう、あれが『新撰組』の正体。
 彼女が知ってはならない、新選組の闇。
 そして、千鶴が知ってはならない闇こそが、彼女の父親が新選組に持ち込んだ毒――
「薬を与えられた彼らは理性を失い、血に狂う化け物と成り下がりました」
 ただただ、人を殺して血を啜る化け物へと成り果てた。彼らには感情などない。意志もない。あるのは血を吸いたいという欲望だけ。それだけの為に生き、それだけの為に罪のない人間を殺し続ける。
「そんな薬……どうして」
 そんな恐ろしい物に何故、父親が関わっていたのだろう。
 千鶴は恐ろしくて堪らなかった。
 いくら幕府の命令だからと言って、人を人ではないものに変えてしまう薬なんて。
 本当に父なのだろうか。そんな恐ろしい物を作り出していたのは。
 否違う。父なはずがない。そんな恐ろしいことをするはずがない。
 信じない。いや、信じたくない。
「戦場で血が流れるたびに狂っていては、例え強靱な肉体を手に入れようと意味がありません」
 混乱し頭を抱えてしまう千鶴に、彼は残酷にも言葉を続ける。
 それはまるで、彼女に罪を押しつけるかのように。冷たく残酷な事実をその唇から吐き出し続けた。
「ですから、綱道さんは『新撰組』という実験場で、この薬の改良を行っていたのですよ」
「っ!」
 千鶴は目を見開いた。
 そんなの何かの間違いだ。父がそんなことをするはずがない。
 頭の中ではそんな言葉で塗り潰されるのに、言葉が何も出てこない。否定の言葉が一つも出てこない。
 苦しくて苦しくて、吐き出してしまいたいのに言葉が何も出てこない。
 苦痛に顔を歪め、はくはくと喘ぐ千鶴を山南は哀れなものでも見るような目で見詰める。
 やはり彼女は何も知らなかった。この薬に関わる一切を知らされていなかった。山南もそうだと分かっていた。彼女が知るはずがない。それは彼女の父が独断でやっていたことなのだ。罪は彼本人にある。否、罪は彼にもあるし、幕府にもあるし、そして手を出した自分たちにこそ、ある。彼女にこの罪を押しつけるなど、烏滸がましいにも程があるというものだ。
 ふっと吐息を漏らして、山南は再び薬へと視線を向けた。
「残念ながら彼は行方不明となり、薬の研究は中断されてしまいました。あの人が残した資料を基にして、私なりに手を加えた物が「これ」です」
 たぷん。
 と手の中で赤い液体が揺れる。
 綱道が持ち込んだ変若水の原液を可能な限り薄めた物。
 何度も実験を繰り返す内に辿り着いた彼なりの理論。これが正しければ、この薬は成功しているはず――
「正直なところ……これが成功しているかは分かりません」
 未だ、誰にも試していないものですから、と彼は含みを持たせるように言った。
 その口元が寂しげに笑う。千鶴はまさかと喉を震わせた。
 瞬間、山南の口元から笑みが消えた。彼は酷く真剣な面もちでこう告げるのだ。
「服用すれば私の腕も治ります。薬の調合が成功させしていれば……」
「まさか、使うつもりなんですか!?」
 ひゅと張り付いてしまった喉から必死に声を絞り出した。
 下手をすれば狂ってしまうかもしれない。そんなものに手を出してはならない。そんなことをすれば彼だって、かつて見た隊士のように狂って、
「こんなものに頼らないと、私の腕は治らないんですよ!」
 驚く程強く、そして悲痛な声で彼は叫んだ。
 大声ではない。だけど彼は確かに叫んでいた。心の底から、その苦しみを、怒りを、迸らせた。
 そして彼は……悲しそうに笑った。
「私は最早、用済みとなった人間です。平隊士まで陰口をたたいているのは知っています」
「そんなことありません!!」
 そんな彼があまりにも苦しそうで、辛そうで、千鶴の方が泣きそうになりながら声を上げた。
「用済みだなんて言わないでください!」
 誰もそんなこと思っていない。幹部の皆も勿論千鶴だって、思っていない。思ったこともない。
「皆、優しい山南さんのことが好きです!」
 左手が動かないくらいなんだ。そんなことがあったって彼は彼のままだ。何も変わらない。前と変わらず、優しい彼が好きなのだ。
 だからこそ、自暴自棄になって周りを寄せ付けなくなっても彼を見放さなかった。根気よく声をかけ続けて、彼が立ち直ってくれるのを待った。皆信じていたのだ。信じて待っていたのだ。
「なのに……自分は用済みだなんて、そんな悲しいこと言わないでください!」
 必死で千鶴は言葉を続けた。
 彼らの想いを、必死で山南にぶつけた。きっと届く。受け止めてくれる。信じていた。
 しかし、
「――剣客として死に、ただ生きた屍になれと言うのであれば……」
 彼には届かない。
 絶望に塗り潰されたその目に、千鶴など映っていない。
 ただ禍々しい赤へと向けられているだけ。人を壊す毒へと向けられているだけ。破滅へと。
「人としても、死なせてください」
「だめっ――!」
 もう何も考えられなかった。
 千鶴は身体全部で想いをぶつけるように、彼の胸へと飛び込んでいた。
 随分と勢いがついていたのか、そのままどんと壁まで彼を突き飛ばしてしまった。どん、と鈍く壁が音を立てる。からんと床に何かが落ちる音がした。それでも千鶴は彼の身体を離さない。
 思いとどまってくれと、それだけを必死に願った。
「……っ」
 不意に、頭上で苦しげな吐息が零れた。
「山南さん!?」
 はっと我に返り、千鶴は見上げる。苦悶の表情を浮かべ、彼は唇を噛みしめていた。
 まさか傷に触れてしまっただろうか。慌てて彼の左手を見て――凍り付いた。
 ほんの少しも動かなかった彼の指先が、ざわりと。まるで何か別の生き物のように蠢いたのだ。
 まさか。
 千鶴は掠れた声を漏らした。
 震えた足が一歩、下がる。と、からりと何かが踵に触れた。
 転がっていたのは小さな硝子の瓶。ざあと血の気が引いた。瓶の中に満たされていたはずの赤い液体は……もうほんの一滴も残っていなかった。
「うっ、ぐぅううっ!」
「山南さん!!」
 苦しそうな声を漏らす彼に、千鶴は取りすがって叫んだ。
「山南さん、吐き出してください!!」
 まだ間に合うかもしれない。
 毒は彼の身体をまだ蝕んでいないはずだ。今すぐ吐き出せばまだ、間に合う。彼を化け物になんてしてたまるものか。彼は、彼は……
 ――ぎらり、とその時闇の中で赤が光った。
 何かと思う間もなく、突然伸びてきた何かに首を掴まれた。
 首を掴んでいたのは、手。彼の、動かなかったはずの左手。
「さん、なっ……さっ」
 遠慮のない力でぎりぎりと首を締めつけられ、息が出来ない。
「さ……なっ……」
 何故、どうして。彼がこんなことを。
 やめてくれと必死に訴えるように、千鶴は彼の顔を見た。
「っ!?」
 さらりとこぼれ落ちる白髪の向こうに、禍々しい赤があった。
 それは山南の瞳の色であった。
 あの薬よりもずっと毒々しい、激しい色を湛えた赤い色だった。
 理性の欠片もない、ただ狂った色だった。あの夜彼女が見た『何か』の目と同じ。
 ああ、と千鶴は思う。このまま殺されてしまうのだと。彼に首をへし折られて死ぬんだと。
 怖いと思った。まだ死にたくないと思う。でも、もう抗う術はない。だってこんなにもきつく、首を締め上げられている。ぎちぎちと骨がなる程に締め上げられている。頭に空気が回らなくてくらくらしてくる。目の前が暗くなってくる。
 もう、駄目だと千鶴は思った。

『もし怖いものを見たら、すぐに声を上げて助けを呼ぶんだよ』

 その時不意に、彼の声が聞こえた気がした。
 聞こえたはずはない。彼はここにはいないのだから。
 でも、強く、彼の声が聞こえた気がした。
 だから千鶴は、力を振り絞って、自分の首を締めつける彼の力に抗って、叫んだ。

「沖田さん!!!」

 それは果たして大きな声だったのか、それとも小さな声だったのか分からない。
 ただ力を振り絞って声を上げたからか、ふうっと意識が遠のきそうになる。そのままぶつりと切れて、落ちてしまいそうになる。実際彼女はそのままどさりと落ちてしまうところだった。
 それを、大きな強い力が受け止めた。
「沖田君……ですか……」
 苦しそうな山南の声が聞こえる。
 理性が戻ったのだろうか、良かったと千鶴は思った。
 ほっと息を吐いたら急に苦しくなって、けほけほと噎せ返ってしまう。それからあれと気付いた。確か自分は首を絞められていたはずじゃなかっただろうか。山南の手に。でも、もう苦しくない。呼吸だって出来る。それに、なんだろう。この温もりは。何かが自分を受け止めてくれている。
 何が――
「こんばんは、山南さん」
 すぐ傍で、彼の声が聞こえた。
 千鶴ははっと目を見開いて、顔を上げた。
 見上げればそこに、彼の、沖田の横顔があった。
 千鶴の声を聞いて、駆けつけてくれたのである。
「……」
 沖田はちらりと驚きに目を見開いている少女を見遣った。顔色は良くはないが、とりあえず命に別状はないようだ。
 それから足下に転がる瓶へ。それから、真っ白い髪と赤い目を持つ、彼へ。
 結論はすぐに出た。それ以外にはあり得なかった。半ば予想していたことだ。だけど酷く悔しくて、腹立たしい。
 くそと吐き出す代わりに千鶴を離すと、腰の刀に手を伸ばす。山南はそんな彼を見てくつりと笑った。
「見ての通り……実験は失敗です。沖田君……お願い、できますか」
 苦しげに告げられた言葉に、沖田は小さく頷いた。
「山南さんが狂ったら僕が殺してあげるって決めてましたから」
「そう、でしたね」
「安心してください。苦しまないように楽にしてあげますよ」
 沖田は笑っていた。
 いつものように、目を細め、唇を柔らかく曲げて。
 それはどれを取ってもいつもの彼の笑顔なのに。
 全然彼らしくなくて、笑うと言うよりもそう……酷く辛そうに見えた。
 すらりと一気に彼は刃を引き抜いた。躊躇うことなく、その切っ先を山南へと向けている。
「冗談、ですよね」
 掠れた声で千鶴が言った。
「山南さんを斬るなんて、冗談ですよね?」
 握りつぶされるところだった喉を押さえ、彼女は真っ直ぐにこちらを見つめてくる。
 真剣な眼差しは、止めてくれと自分に乞うているようだ。
 そしてその瞳は、
『沖田さんがそんなことをするはずがない』
 と彼を信じている。
 馬鹿みたいに、信じているのだ。
 その瞬間、沖田はざわりと心の奥が酷くざわついたのを覚えた。
 その感情は、多分、
 苛立ちだ。
「……君さ」
 煩わしげに、沖田が千鶴を見遣る。それは恐ろしい程冷たい視線だった。
「やめてくれないかな、そういうの……部外者は黙っててよ」
 吐き捨てるような一言に千鶴は一瞬気圧され、だがすぐに口を開く。
「で、でも、私だって、」
 ――私だって?
 その言葉の後にどう続けるつもりなのだろう。
 私だって仲間だ、とでも言うつもりだろうか。
 何も知らないくせに?
 何も出来ないくせに?
 本気で、自分も仲間だと思っているのだろうか。

 違う。
 沖田は自分の心がぞっとする程冷たい声でそう否定するのを聞いた。
 彼女は仲間じゃない。

 今朝まで確かに感じていた穏やかな気持ちが、一気に嫌悪感へとすり替わる。
 あれはやはり幻だった。そんなことあり得るはずがなかったのだ。彼女と一緒にいて、穏やかな気持ちになどなれるはずもない。彼女は違う世界の人間だ。
 その手を血で汚さなければ、誰かの命を奪わなければ生き抜くことが出来ない。沖田達はそんな世界で生きている。
 綺麗事さえ並べていれば、信じていればきっと願いが叶うなんて、そんな生温い世界なんかじゃない。

 ――僕はそんな言葉に、そんな瞳に、懐柔などされない。
 されてたまるものか。

 自分でも分からないほどの醜い感情が広がって、それはやがて冷たい言葉となって、こぼれ落ちる。
「私だって、何? ……君、新選組の一員にでもなったつもり?」
 突き放すような言葉に、千鶴は頬を叩かれた気分になった。
 新選組の一員に、なったつもりでいた。
 屯所で暮らすようになってから、随分と経った。共に過ごした月日の中で自分はすっかり馴染んだ気になっていた。
 彼らに認めて貰えたと。彼らの仲間になれたのだと。
 思っていた。そう、信じていた。
 けれど……
「忘れたって言うなら、もう一度言ってあげるよ」
 けれど、千鶴は、
「君は利用価値があるから生かしているだけで、別に僕たちの仲間とかじゃない」
 そうだ。
 仲間じゃない。
 と、自分に告げるように繰り返すと、沖田はそれきり千鶴へと視線を向けなかった。

 世界が、急速に色を失っていく気がした。
 目の前に確かにあったものが、急速に遠ざかっていく気がした。
 自分の見ていた何もかもが遠く、幻のように感じて、千鶴はその場にへたり込む。呆然とただ見守ることしか出来なかった。
「ぐぁああ!」
 獣のような咆吼をあげて、山南が飛びかかるのも、
「………」
 無言の内に沖田が、刃を構えるのも――全部が遠くて。
 確かに目の前にあるはずなのに。
 手を伸ばせば届くはずなのに。
 遠くて手も触れられない。
 きっとこの手では。自分のか弱い小さな手では。何も出来ないのだ。
 触れることさえも。

 ――ざんっ!!

「……が、ぁっ」
 涙にも似た赤が、空を舞う。
 誰が一体涙を零すのだろう、はらはらと、赤い涙の滴を振りまいた。
 千鶴はただ大きな背中を見ているだけだった。
 どんな表情を、彼がしているのか分からない。だって見えたのは沖田のその背中だけだから。
 やがてどさり、と重たい音を立てて山南が倒れ込む。
 ぴくりとも動かなかった。その彼の身体から赤い血だまりが溢れてきた。
「近づかない方がいいよ」
 知らず、千鶴は這い蹲って彼の元に向かおうとしていたらしい。
 自分には何も出来ない。分かっていたけれど、彼が傷を負ったと思ったら勝手に身体が動いていた。
 沖田はそんな彼女の肩を掴んで、阻んだ。
「どう、して……」
 何故、と非難めいた声が零れてしまう。
 彼を責める資格なんてない。それでもなお、千鶴は止めることが出来なかった。
 何故殺したのかと。それ以外に方法は無かったのかと。彼は仲間ではなかったのかと。
 悲しそうに歪められた瞳を、沖田はつまらなさそうに見つめて、またふいとそっぽを向いてしまった。
「……動けないように深手を負わせたけど、また襲いかかってこないとは限らないしね」
「……え?」
「あの薬を使ったのなら、この程度の傷では死にはしないし……死ねもしないんだよ」
 あれほどの血を流しても、人では到底助からない傷を負っても、彼らは死ぬことも出来ない。
 彼はもう、化け物になってしまったのだから。
 忌々しげに吐き捨てながら沖田は動かない山南を見つめる。
 千鶴はそんな言葉を聞きながら、ただ、小さくこう零した。
「よかった」
 化け物になったとか、そんなことはどうだっていい。
 ただ、千鶴は山南が死ななくて良かったと、それだけを思っていた。


 屯所内がにわかに騒がしくなったのは、そのすぐ後だった。



「総司!」
 一番に駆けつけたのはだった。
 ふすまを破らんばかりの勢いで飛び込んできたか、と思うと室内の様子を見て即座に何かを察したようだ。
「……死んだ、の?」
 倒れた山南を見て呟く。その声はいつもと同じ冷静なものだ。
 沖田は緩やかに首を振った。
「薬を飲んでるから、死ねないよ」
「そっか」
 でも、次の瞬間彼女の唇から零れるのはほっとした安堵の溜息だ。
 死んでいなくて良かった、と心底思う。
 それから転がる瓶に目をやり、一つ小さく舌打ちをすると、即座に頭を切り換えて動き出した。
 まずは山南を部屋に運ばなければ。
 と、そこへばたばたと慌ただしく土方と斎藤がやって来た。
 二人も揃って一瞬目を見開く。
「大丈夫。薬を飲んだから生きてます」
 そんな二人に短くは告げ、山南の傍に腰を下ろした。
 既に髪の毛は元の色へと戻っているので暴れることはないだろう。それでも注意深く、肩を掴んでゆっくりと引き起こした。
 着物の一部が真っ赤に染まっている。が血は止まっているらしい。それを確かめ、はすっと斎藤へと視線を向ける。
「一、手を貸して。誰かに見つかる前に山南さんを部屋に運ぶから」
「ああ」
 心得た、と彼は頷いての反対側へと回って、彼の身体を持ち上げた。
 傷が痛むのか、それとも変若水の影響なのか、山南の口からは苦しげな呼吸が漏れていた。
「山南さんが手を出すとはな」
 くそ、と転がった瓶を睨み付け、土方は悔しげな声を漏らした。
 眉根を寄せて地面を睨み付ける彼は、己を責めているように見える。否、実際己を責めているのだろう。彼の苦しみに気付きながら何も出来ず、あんなものに手を出させてしまった自分の無力さというやつを。
 そんな彼をじっと見遣り、不意に沖田の傍でへたり込んだままぼんやりと床を見つめている彼女に気付く。この場にはあまりに場違いな彼女を。
「総司……彼女どうかしたの?」
「大丈夫。呆けてるだけ」
 彼はあっさりとそう答えた。
 いや、そうじゃない。聞きたいのはそこじゃない。確かに彼女の怪我の有無も知りたかったが。
 まあ聞かずとも大体の想像は出来る。きっと偶然山南の姿を見てしまって、お節介ついでに追いかけてしまったのだろう。それでこんな場面に遭遇してしまった。つくづく思う――運のない子だと。
「……で」
「え?」
 態となのか、首を傾げる沖田をは睨み付けた。
「彼女、このままここに置いておくつもり?」
「……」
 彼女の言葉に一度千鶴を見て、それからへと視線を戻して、
「まずい?」
 彼は不思議そうな顔で訊ねてきた。
 はあ、とは溜息を漏らした。
「まずいに決まってるだろ。ここの後片づけもやらなきゃいけないってのに」
「それは、邪魔になるね」
「分かってるなら、彼女を部屋に連れてってやんな」
「なんで僕が……」
「おまえも邪魔だって言ってんの」
 そんなにぼんやりとして立ち尽くしているのでは、邪魔で仕方がない。にそう言われてしまった。
「別にぼんやりなんてしてない」
「いいから」
 邪魔と、短くぴしゃりと言われてしまった。
 見れば土方や斎藤もこちらを物言いたげな目で見ている。
「分かりましたよ」
 全員に邪魔だと言われては仕方ない。不承不承という風に呟き、彼は千鶴に声を掛けた。
「千鶴ちゃん、部屋戻るよ」
「……」
「千鶴ちゃん?」
 屈み込んで顔を覗き込んでみるが、彼女からの反応はなかった。
 これは相当衝撃が強かったらしい。暫く我に返ることはないだろう。
 さてどうやって連れて行こうかと考えようとした時、不意に彼女の首に赤い痕が残っているのに気付く。一瞬首でも斬られたのかと思った。彼女の首元は真っ赤に染まっていたのだ。それは今し方山南に掴みかかられた痕だった。きっと相当強い力で締められたのだろう。痛々しいまでに赤く痕がついている。
 ――きっとあの化け物の力を持ってすれば、彼女の首をへし折るなんて簡単なことだっただろう。だってこんなにも細く、か弱い生き物だから。
「……」
 沖田は無言でそれを見遣り、やがて溜息を零すと、へたり込んだままの彼女を抱き上げた。
 行くよとぶっきらぼうに告げる癖に、でもその手つきは酷く優しかった。先程冷たい言葉を吐いてみせた人間とはまるで別人のように、彼は壊れ物を扱うかのように優しく抱き上げた。
 そうしないと壊れてしまう気がした。彼女はあまりに小さくて、脆いから。



「……手間がかかる子だよね、君って」
 何故か気付くと、自分の部屋にいた。
 もしかしたら夢でも見ていたのだろうかとそう思った瞬間、横合いから呆れた声が聞こえてくる。
 沖田がそこにいた。
 胡座を掻いた彼はいつものように意地の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている。
「……あ……」
 そんな彼の姿を認めると、少しずつ思い出したらしい、
「ご、ごめんなさい!」
 慌てて頭を下げた。
 ここまで運んでくれたのは彼だ。
 沖田は苦笑でその謝罪を受けると、すぐに厳しい顔へと戻った。
「状況を説明してくれるかな」
「……」
「どうして山南さんと一緒にいたの?」
 その口調はいつになく厳しいもので、千鶴は先程の冷たさを思い出して身を竦ませる。
 やがて視線を畳の上へと落としたままおずおずと口を開いた。
「広間から、人の気配がして」
 思い出すように、一つ一つ彼女は言葉を紡ぐ。
「気になって覗いてみたら、山南さんがいて……」
 そこで彼は変若水を飲んでしまった。
 千鶴はそれを止められず、彼を……
 唇を噛みしめて膝の上の拳を握りしめる彼女に、沖田は何も言わない。ただ目を細めただけだ。
 長い沈黙だった。
 部屋の外は騒がしいけれど、二人の空間は静かなものだ。
 これ以上、深入りしない方がよいのかもしれない。千鶴が知ってはならない、知る必要などないことかもしれない。だけど、あんな話を聞いたのでは黙ってもいられず、千鶴はあのと声を掛けた。
 ちらとそっぽを向いていた沖田の視線だけが、こちらに向けられる。
「山南さんが飲んだあの薬に……父様が関わっていたって本当ですか?」
「……山南さんから聞いたの、それ? あの薬についても?」
 険しくなる表情にやはり聞いてはいけないことだったかと思う。が、もう口から出てしまったのだ。もう遅い。
 千鶴はこくりと頷いて、山南が話してくれた内容を思い出しながら口を開く。
「人を強くするかわりに、狂わせるって」
「………」
 沖田は真面目な顔のまま、考え込むように少し黙った。
 そして、諦めたようにため息を吐く。
「君は薬を作った人の娘だし……狂った隊士とも実際に会ってるし……」
「……」
「知る権利くらい認めてあげてもいいかな。本当なら、殺しちゃいたいとこだけど」
 にこりと彼はいつものように言って、笑った。
 でもその目は決して笑っていない。千鶴を探るような目で見ている。彼女の全てを疑い、否定するような目をしているのだ。
 それはつまり、千鶴自身を彼が拒絶しているということ。
 ずきんと胸の奥が酷く痛んだ。痛みに顔が歪みそうになる。それを必死に奥歯を噛みしめて堪え、背をゆっくりと正した。
「薬のこと、何か質問ある? ひとつくらいなら答えてあげるけど」
「どうして、新選組はそんな薬に関わっているんですか?」
 色んなことが知りたい。
 でも、一番知りたいのはそのことだ。
 何故、どうして、そんな危険な物に彼らは関わっているのか。
 沖田は馬鹿にするでもなく答えてくれた。
「治安を守るために浪士を取り締まる……なんて、言うほど簡単じゃないのは君も分かってるよね?」
「はい」
 巡察に同行していて、千鶴はそれを知った。
 彼らは捕まったら最後だと思っているようで、死にものぐるいで抵抗してくる。
 斬り合いになることなんてしょっちゅうで、隊士が怪我をするのは日常茶飯事である。下手をすれば死ぬ事だってあるだろう。池田屋の時のように。
「最初の頃は、とにかく人手が足りなかったんだ。入隊希望者なんて滅多にいないし、たまに来るのは腕の悪い奴ばっかり」
「……」
「そんなとき、幕府の偉い人が薬の実験を持ちかけてきたんだ」
 その時、変若水を持ってきたのが――彼女の父親。雪村綱道だった。
 最初に持ち込まれた薬は、もはや使い物にもならないようなものだった。飲んだ瞬間、血に狂ってしまうようなものだった。だけど、彼らはその実験を新選組ですることを承諾した。元より拒否権などなかったというのもそうだが、それ以上に双方の利害が一致していた。幕府は薬の調整のため。新選組は人手不足を解消するため。
「沖田さんたちは、副作用を知っていて、隊士に薬を使わせたんですか……?」
「彼らも合意の上だよ」
「……それは、どういう」
「新選組の規則に背いたら、隊士は即座に切腹なんだけど、それを切腹するか、薬を飲むか、好きな方を選ばせただけだよ」
 こともなげに彼は言ってのける。
 でもそれはとても残酷なことではないかと千鶴は思った。
 死ぬか――狂うか。どちらかを選べだなんて。
 確かに切腹すればそこで死ぬけれど、副作用が起きなければ狂うこともない。危険な賭だとは思うが、死にたくないという気持ちが彼らに化け物になる方を選ばせるのだろうか。
「……ね? 可哀想でしょう」
 何故かおかしそうに彼が笑ったが、千鶴は笑えない。
 彼らが死にたくないと言う気持ちを理解出来なくはないのだ。
 それから沖田は静かに視線を背けてしまった。閉じたふすまの向こうをじっと見るように。
 辺りは随分と静かになっている。先程まで聞こえていた慌ただしい足音は聞こえない。全て片付いたのだろうか。
 彼は、山南はどうなっただろう。

「簡単に強くなれる薬なんて便利だよね」
 ぽつりと、誰に言うでもなく沖田が零す。
 横顔を見ると彼はまた笑っていた。だけど、その瞳の奥には仄かな苛立ちが紛れている。
「……実際は、全然たいしたことなかったんだけど」
 きっと彼も、山南を案じているのだ。変若水を飲んだ彼が、死ぬのか、それとも狂うのか。それを案じて、だけど何も出来ることはなくて、彼は苛立っている。
 千鶴もそうだ。彼が心配で堪らない。彼がどうなってしまうのかが心配で、

『――君は僕たちの仲間じゃない』

 まるでおまえにはその資格が無いだろうと言わんばかりに、冷たい声が頭の中で木霊した。
 冷たく突き放す、だけど彼の正しい言葉が。
 そう、千鶴は彼らの仲間ではない。ただ、彼らが捜している綱道の娘というだけ。それだけだ。何を思い上がっていたのか。自分は彼らにとっての何でもない。彼らの為に何かが出来るなんて、そんなことあり得なかった。だって千鶴は仲間じゃないのだから。
「………」
 千鶴はきゅっと、拳を握りしめた。
 それから、静かに、胸の内に溜まったものを吐き出すように吐息を漏らした。それは震えていた。
「……?」
 沖田はちらりと少女へと視線を向ける。と、彼女は顔を上げこちらを真っ直ぐに見たかと思うと頭を垂れた。
「今日は、すいませんでした」
 畳に頭が着きそうな程、千鶴は低頭する。
 彼のお陰で死なずに済んだ。そればかりか、彼に山南を斬らせるなんて真似をさせてしまった。もし千鶴があの場にいなければ、もしかしたらまた違う結果だったかもしれない。千鶴じゃなければ彼を止められたかもしれない。あの時、彼を説得出来るだなんて思わずに声を上げていれば良かったかもしれない。
 そんなこと、起こってみなければ分からないけれど、自分の身勝手な行動で、また彼の手を煩わせてしまったのだ。
「これからは、勝手な行動をしないように気をつけます」
 もう、これからは勝手な真似をしたりはしない。
 千鶴は心の中で決めた。
 自分に何かが出来るのだと思い上がったりしない。そんなことをしたところで、彼らに迷惑を掛けるだけだ。
 これ以上迷惑を掛けたくはない。
 これ以上――彼に嫌われるなんて。
「っ……」
 喉の奥が不自然に震えた。
 蘇るあの冷たい沖田の目が怖かったのか。それとも悲しかったのか。
 勝手に涙が溢れてくる。俯いているからそのまま落ちてしまいそうで、千鶴は必死にそれを堪えた。
 泣いて同情を引くなんて真っ平御免だ。泣いても何も解決しない。泣いたって彼らに迷惑を掛けるだけなのだ。
 だから、絶対泣かない。
 そう、決めて、千鶴は顔を上げた。

「私はもう、大丈夫ですから」

 彼女はにこりと笑った。
 だからもう放っておいても良いというのだろうか。彼らの元に戻ってくれとでも。
 放っておけるわけがない。彼女は何をしでかすか分からないのに。今日だって勝手に屯所を抜け出そうとして、それに薬のことだって嗅ぎ付けてしまったんだから。あまつさえ殺され掛けた。そんな彼女を放っておけるはずがない。
 大丈夫?
 何故そう言えるのだろう。
 大丈夫なはずがない。平気だなんて、ただの強がりに決まっている。
 そんな下手くそな笑顔で、彼女は自分を誤魔化せると思っているんだろうか。
 そんな顔したって無駄だ。誰の目だって誤魔化せない。腹立たしいくらいに不細工なだけ。斬り捨ててやりたくなるくらいに。

 それなのにどうして、
 沖田は自分の胸を掻きむしって、いっそ引き裂いてやりたいと思うのだろう?



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