血のような赤い色は、毒のようだ。
 彼らは初めてそれを目にした時に思った。
 そんな禍々しい色をしたものは、自分たちを壊してしまう毒だと。手を出すべきではない、と。

 虚ろな瞳の中で、その赤が揺れた。

 世界は、変わり続けている。
 変化を拒む者を冷たく突き放しながら、確実に。

 彼の瞳の中で、また揺れた。
 毒の色が――揺れた。




 きしりと床を軋ませて、と千鶴は廊下を歩いていた。
 大量の酒と盃を手にしていた。千鶴はつまみの乗った皿を。適当に勝手場から見繕ってきたので、そんなに量はない。これで彼らが満足してくれるのか、千鶴はちょっとだけ心配だった。
「ごめんね、つきあわせちゃって」
 取り落とさないように気をつけながら歩いていると、隣を歩くがそう声を掛けてくる。
「お酒だけなら私一人で大丈夫なんだけど……つまみとなると、ちょっとね」
「いいえ、私もちょっと小腹が空いていたところですから」
 なんてこと無いように千鶴はにこにこ笑って言ってくれるが、としては彼女が通りかかってくれて助かった。
 酒と一緒につまみを持ってきてくれと言われたではあるが、それをどう用意すれば良いのか分からなかったのだ。抜きん出て多忙ということで食事当番を免除されているが、実はは料理が大の苦手なのである。
 漬け物くらいならば切れるだろうが、でもそれじゃああまりにも味気ない。さてどうしようかと考えあぐねていたところ、千鶴が通りかかって一通りの準備をしてくれた。よくもあの少ない材料でこれほどのつまみが用意出来たものだなと感心せざるを得ない。
「それにしても、あの人達は人を小姓みたいに使うんだからなあ」
 酒が飲みたいと言いだしたのは永倉達なのに、何故や千鶴が駆り出されなければならないのか。
 まあ申し訳ないと謝って手伝おうとしてくれた原田は良しとしよう。だけど永倉と藤堂は駄目だ。酒が足りなくなったから持ってこいと言うばかりか、酒だけでは寂しいからつまみまで用意してくれと注文をつけてきたのだから。
 広間の方から馬鹿笑いが聞こえてきた。どうやら随分と盛り上がっているみたいだ。
 鬼の副長の雷が落ちなければ良いのだが。
「まあ、飲みたい気持ちは分からなくもないけど」
 やれやれと肩を竦めたが小さく苦笑を漏らした。
 彼らが飲みたいという気持ちは痛い程に分かる。ここ最近空気が重たすぎて、彼らも鬱憤が溜まっているのだろう。かといって、その原因を追い払うことも出来ず、とにかく酒でも呑んで盛り上がって忘れてやりたい気分なのだろう。
「土方さんも珍しくお酒を召し上がられているみたいですしね」
 千鶴がそう言った。
 確かに彼も呑むと言った時には驚いたものだ。なんせお猪口一杯で酔い潰れてしまう程の下戸なのだから、酒宴に付き合ってもあまり面白くないだろう。本人の名誉の為、千鶴には黙っておくことにする。
「まあ、ここ最近は忙しくて憂さを晴らしに島原にってのも出来なかったからね」
「島原ですか!?」
 驚きに、千鶴は大きな声を上げた。
 島原と言えば有名な花街だ。京の人間のみならず、江戸の人間でも知っているだろう。別に驚くような場所ではない。多少独特な雰囲気を持ってはいるが、あそこはただ妓女が酒の相手をしてくれる場所だ。多分彼女が驚いている理由は、
「女を買いに行ってたわけじゃないよ」
 きっとそこだろう。
 確かに身体を売って商売をしている遊女もいるし、それを目当てに島原に出入りする男も少なくはない。花魁は身体を売るよりも芸を売る人間が増えたものの、未だ身体を売ってしか稼げない妓女もいる。否、そちらの方が確実に多い。金にならなくて捨てられたのかひっそりと河岸で死んでいる子がいるのも事実。
 しかし、今では社交場としても拓けている場所だ。妓女らも一生大門の外に出られずということもなく、手形さえもらえれば自由に出入りも出来る。昔から比べれば随分と開放的になったし、楽しみ方も変わってきたのである。
「そうなんですか!?」
 驚いていた、かと思うと今度は千鶴の顔が見る見るうちに赤くなっていった。どうやら自分の勘違いというのが恥ずかしくなったらしい。あのその、と慌てて何かを言おうとして、結局何も言えずに沈黙してしまう彼女がなんとも可愛いものだと思う。
「お酒を楽しみに行ってるだけだよ、うちの連中は」
「す、すみません。変な勘違いをしてしまって」
 恐縮してしまう千鶴にはただからからと笑った。
 まあたまに、朝帰りの時があるけれどこちらも彼らの名誉の為に黙っておこう。男というのは色々とあるのだ。には分からないが。
「今度連れてってあげようか?」
「ええっ!?」
 ぎょっとして顔を上げると、は悪戯っぽく笑ってこう言った。
「料理が美味しいんだ。それと、舞や詩に興味があったら楽しいよ」
「そ、それは……見てみたいです」
「それじゃあ、今度連れていってあげるよ」
 内緒話でもするかのように小声で言えば、千鶴はちょっぴり照れたような顔になって、それから嬉しそうに笑うのだった。

『随分と可愛がってるじゃねえか』
 そんな彼女を見ていると、不意に思い出してしまう。
 昼間の土方の言葉を。
 どうだろうかとはぐらかしたけれど、確かに彼女を可愛がっていることは認めよう。
 だって千鶴はこんなにも楽しそうに笑うから。嬉しそうに笑うから。
 だからつい、何かしてやりたくなるのだと。はまるで言い訳でもするかのように、内心で呟くのであった。


「はいよ、酒の追加ですよー。思う存分呑みやがれー」
 器用に足でふすまを開けながらは言い放った。
 ふわりとその瞬間、部屋の中から溢れ出したのは酒の強いにおい。がほんのちょっと席を離れた隙に随分と呑んだらしい。
「待ってました!」
「遅えぞー」
 そんな原田と永倉の声に迎えられ、は苦笑を漏らした。
「ちょっと、待っててくれてもよかったんじゃないですか?」
「そんなこと言ってもなあ。酒が呑んでくれ呑んでくれーって言うもんで」
「はいはい。お酒は喋りませんよ」
 上機嫌の永倉を軽くあしらい、彼らの前に徳利を置く。
「あの、おつまみも用意してきました。よかったらどうぞ」
「おお! 千鶴が作ったのかー!?」
「うん、そんな大した物は用意出来なかったんだけど」
「いやいや、充分だって! 十分すぎるって!!」
 酔いのせいでいつもよりも大きな声でありがとうと藤堂が言って、つまみに飛びついた。他の面々もそれぞれ酒に、つまみに、と手を伸ばしている。
 も彼らに飲み尽くされる前に徳利を一本だけ拝借した。
「あれ? 総司、飲まないの?」
 何故かつまみに手を伸ばした彼はお茶を飲んでいた。
 食べ物よりも酒を好む、という彼がらしくない。思わず目を丸くすると、彼はひょいと肩を竦めて、ちらりと不満げな視線を横へと向けた。
「土方さんが、駄目だって……全く、過保護なんだから」
 どうやら彼の許しが得られなかったらしい。
 もそちらへと視線を向ければ、土方は少し離れた所で一人ちびちびやっていた。じろと沖田を睨んだ彼は低い声で言う。
「その変な咳を完璧に治したら、浴びるほど飲ませてやる」
 なるほど。確かにここ数日変な咳を彼はしていた気がする。ちょっと喉の奥がむずむずするだけとは言っていたが、もしかしたら風邪をひいたのかもしれない。
「まあ、早く治せ」
「裏切り者」
 は哀れみの目を送るだけで、酒を片手にひらりと身を翻してしまった。恨みの声は聞かなかったことにする。
 そうして壁の前に腰を下ろすと、手酌で盃に酒を注ぎ始めた。一人手酌というのも寂しいが、まあ大抵皆自由にやっているのだから気にする必要もあるまい。
 くいっと一気に煽る彼女に、釘を差すようにこう言った。
「飲み過ぎるなよ」
「分かってますってば……ってか、一口目で言うの止めてくださいよ。折角のお酒が台無しじゃないですか」
「最初に言っておかねえと、どうなるかわかったもんじゃねえだろうが」
 苦い顔で言う彼に、は不満げに唇を尖らせた。
「そりゃ、二年も昔の話でしょうが」
「二年前だろうがなんだろうが、てめえの酒癖の悪さが変わったとは思えねえよ。――雪村」
 突然名前を呼ばれ、千鶴はきょとんとした。
 なんでしょうかと首を捻ると、土方は何故か真剣な顔でこう告げた。
「酒を飲んでる時だけは、こいつに近付くなよ」
「えっ……?」
「近付いたら最後だと思え」
「ちょっと、人をなんだと思ってんですか!」
 勝手なことを言うなとが抗議の声を上げている。
 真顔で彼は言っているが、果たしてこれは冗談なのか。それとも彼も酔っているのか、千鶴には判断出来ない。
 ただ、困ったような顔でこくこくと頷くだけしか出来ずにいると、それで良いと満足げに土方が頷いた。それからは視線も上げずに一人酒をちびちびやり始めた。
「千鶴ちゃん、千鶴ちゃん」
 今度は別の方から呼ばれた。
 沖田が名を呼びながら、ちょいちょいと手招きをしていた。
「なんでしょうか?」
「ここに座って」
 ここ、と彼が指差したのは自分の隣の開いた空間である。
 座る場所を探してはいたが、まさか彼に、隣においでと言われるとは思わなかった。驚いて目を瞬かせていると沖田は意地悪く笑って、教えてくれた。
「そのまま突っ立ってたら、左之さんや新八さんのお酌する羽目になるよ」
「え、でも……」
「ついでに無理矢理お酒を飲まされ無いとも限らない」
「そ、それは」
「だから、はい」
 ここ、ともう一度沖田はにっこり笑いながら言った。
 まあ確かに、お茶を飲んでいる沖田の隣ならば酒を勧めらはしないだろう。そんなことをしようものなら「僕に対する当てつけですか?」と嫌味の一つや二つ、飛んできそうである。
 それに、千鶴は彼が呼んでくれてほっとしていた。酒を飲まない自分はどこに座れば良いのか分からなくて、困っていたところなのだ。
「失礼します」
 断りを入れて隣に腰を下ろせば、沖田は苦笑でどうぞと笑って応えてくれた。
 別にそれだけで積極的に千鶴に話しかけてくれるわけではないが、それでもと千鶴はそっと彼の横顔を見上げて思う。
 自分が困っているのに気付いて、彼はここに座るようにと言ってくれたのだろう。
 やはり、彼は優しい人だ。

「こうして皆で飲むのも久しぶりだよなあ」
 上機嫌に酒を煽りながら永倉が零す。やけに楽しそうな声音に、原田が意地悪く口元を吊り上げてみせた。
「随分と嬉しそうじゃねえか? 俺や平助と一緒に飲むのはつまんねえってのか?」
「いやいや、そうじゃねえよ」
 彼らと三人で馬鹿騒ぎするのも、確かに楽しい。遠慮無く好き放題言い合って、馬鹿騒ぎして、そして土方にどやされるのも一種の楽しみ方だろう。
「でもな、やっぱりこう皆で酒を飲むとさ……ほら、私衛館時代を思い出すっていうか」
「まあ、懐かしいってのは確かだな」
 懐かしいなんて言葉で飾れる程、良い思い出ばかりではない。あの頃は酒どころか、たった一食にも困るくらい貧窮していた。毎日腹一杯なんて食べられもしなかったし、常に腹を空かせていた状態だ。だからこそ、たまに設けられた酒の席は楽しかった。それぞれが酒やつまみを持ち寄ったりして、とても十分に酒を飲める状態とは言えなかったけれど。
 仲間とああだこうだと馬鹿話で盛り上がって、下らない夢を語り合って、酒を飲み交わす。あの瞬間はかけがえのないものだ。
「あの時はなーんにも考えずに、ただ剣を振るってりゃ良かったからな」
「今だって、新八が何か考えてるとは思えねえけどな」
「うるせえぞ! 俺は今良い話をしてんだ!」
「新八。良い話かどうかというのは他者が決めることであって、あんた自身が決めることではない」
「あー! うるせえうるせえ!!」
 茶化す原田と、真面目な斎藤の一言に、永倉は耳を手で覆って大声を上げた。
 煩いのは彼の方だが、またこれも口を挟むのは止めておこう。酔っぱらいには何を言っても無駄なのだから。
「とにかくだ! こうして皆で一緒に飲むのは楽しいと俺は思う」
 強引にそう結論付けて、酒をもう一口。
 それから、はたと今更気付く。
「そういや、みんなじゃなかったんだな」
 かりかりと頬を掻いて困った顔になった彼に、土方は苦笑で口を開いた。
「近藤さんは野暮用で出掛けちまってるからな」
「源さんも、今日は先に休むって言ってましたし」
 それに――
 誰もが思わず一瞬口を噤んだ。
 そうして、真剣な面もちですっと視線を落とした。
「山南さんは、本当に大丈夫なのか」
 永倉の呟きに、楽しい空気が一瞬にして重たくなる。
 はあと、原田は深い溜息で彼の不用意な一言を窘めた。

 大丈夫だ、なんて誰も言えなかった。
 少しずつ、山南がおかしくなってきているのは誰の目から見ても明らかだった。
 心を閉ざし、自分で自分を傷つけて、彼の心はすっかり病んでしまっている。
 青白い顔を見ると、あの思い詰めた顔を見ると、自刃でもしかねないと不安になる程に。

 彼は恐れているのだ。
 自分の居場所が無くなってしまうことを。存在意義が失われることを。

 剣士ではない千鶴にも、その気持ちは分かった。
 自分が誰にも必要とされないその苦しさは分かる気がした。

「どうにか、ならねえのかな」
 藤堂がぽつんと、寂しそうに呟いた。
 どうにもなるわけがない。なるものならばとっくの昔に、誰かが行動を起こしている。彼らにとって山南という人が必要だから。でも、それが出来ないのが現状だ。
 はあ、と誰かが零した溜息に、千鶴の視線も静かに伏せられた。
 こんな時、痛感する。医術の限界というやつを。父である綱道も何度も痛感し、無力さを呪っただろう。傷を負って、病に冒されて苦しんでいる。そんな彼らが助けを求めるのは医者で、そんな彼らを助ける為に彼らは存在するのに、それが出来ない。もっと自分に知識があれば、或いは、もっと優れた薬があれば。
 そんなことを考えてふと、思い出す。
『――薬でもなんでも使ってもらうしかないですね。山南さんも納得してくれるんじゃないかなぁ』
 山南が腕に傷を負ったと聞いたあの日。うっかり藤堂が『新撰組』の存在を仄めかしたあの時。
 沖田がそんな言葉を零したのを覚えている。
 そうだ。新選組には秘密の『薬』があると言っていた。
 皆の口振りからすると、あまり使い勝手の良いものではないらしい。そしてそれは『新撰組』にも関わること。即ち、千鶴が関わってはならないことでもある。
 でも、沖田は言っていた。
 それを使えば腕が治るかもしれないと。
 そうすれば、と千鶴は思うのだ。
 山南は昔の彼に戻ってくれるのではないか。そんな彼を見たら他の仲間も安心するのではないか。
 そうして以前のように、また楽しく、彼らは酒を酌み交わすことが出来るのではないだろうか。

 ――そうだ。

 千鶴は強く思う。
 そして今こそが、彼らの為に何かをすべき時に違いない。
 自分は蘭方医の娘だ。薬の知識はある。彼らには分からなくとも、千鶴ならば分かるかもしれない。

 すいと顔を上げた少女の瞳は、沈む一同とは違って希望で輝いていた。
「………」
 その横顔を、沖田はちらりと静かに見つめていた。



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