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「……」
「なんだ。人の顔をじーっと見て」
「土方さん。一つ聞いて良いですか?」
「……なんだ」
「そんな怖い顔をして、今から人でも殺しに行くんですか?」
の言葉にぴきっと、男の険しい顔を更に際だたせるように青筋が一筋浮かぶ。
それは怒鳴り出す一歩手前の表情だ。これ以上突ついたら間違いなく、拳骨か怒声が飛んでくるだろう。因みに土方の方は、もう既に拳骨を一発繰り出した心情であり、それを堪えてぎろりと睨み付けておくことで留めているのである。無論これ以上ふざけた発言をすれば遠慮無く一発をお見舞いするところだ。
「一発食らわしたい気持ちは分かりますけど……土方さん気付いてます?」
「なにがだ」
「さっきから、誰も広間に入ってこないの」
そういえば、広間には土方との二人以外誰も、いない。
確か先程まで藤堂と原田が共にお茶を啜っており、山崎は島田と何やら話をしていた。はて、いつからいないのだろうか?
怪訝そうに眉を寄せる彼には溜息を零して教えてくれる。
「やっぱり気付いてなかった。みんな、出て行っちゃったんですよ」
ここの空気があんまりも悪いものだから、彼らは皆逃げ出してしまったのである。
そりゃ出ていきたくもなるだろう。なんせ鬼の副長が、酷く険悪な顔でぴりぴりとした空気を放っていたら、誰だって近付いてはならないと思うはず。うっかり近付いて話しかけようものなら、腰の刀でざっくりと斬り殺されかねない。
「誰がんな真似するか。俺は殺したがりの殺人鬼じゃねえんだ。意味もなく人を斬ったりはしねえんだよ」
「殺人鬼も裸足で逃げていきそうな顔をしていたくせに?」
「……」
「あー、はいはい。機嫌悪いのは分かりましたけど、ちょっと落ち着いてくださいよ」
殺人鬼どころか、鬼も裸足で逃げかねない恐ろしい形相で睨まれ、はやれやれと肩を竦めながら彼の前にとんとそれを置いた。
湯呑みだった。
ふわりと湯気が上がっているそれには、色の濃いお茶が入っている。
「なんだ? これは」
「千鶴ちゃんの真似」
「……」
「大丈夫、毒なんて入ってませんし、茶葉の分量も間違えてません」
怪訝な顔でまじまじと見る彼に、は失礼だと唇を尖らせた。
確かには普段、お茶なんて淹れたりしない。こんな気遣いが出来るのは千鶴だけだろう。でも、たまにはだってこれくらいのことはするのだ。いくら細やかな心遣いが出来ないと言われても。
「阿呆、そんな心配してねえよ」
彼女が自分に毒なんぞ盛るはずがないとは思っている。ただまあ、あまりに珍しかったのでまじまじと見てしまったのは確かだ。にお茶を出されたのなんて初めてだったから不思議な感じだった。
「……悪いな」
顰めっ面のまま、土方は湯飲みに手を伸ばした。
口に流し込めば、甘ささえ感じるお茶の味が少しだけ気分を落ち着かせてくれた気がする。ほんの少しだけ。
「千鶴の奴は何処行ったんだ?」
「一番組と巡察です」
「そうか」
「因みに平助が残念がってました。今日は一緒にお団子買いに行くつもりだったのにーって」
「平助の野郎、気軽に雪村を外に連れ歩くなって言ったの忘れてやがるな」
「忘れてるんじゃないですか? それから新八さんと左之さんが、酒盛りには女の子がいないとどうこうとか言って、千鶴ちゃんを誘ってました」
「また屯所で飲むつもりか? あの馬鹿共は」
はあ、とまた土方は溜息を零して眉間に皺を刻んでしまった。
いけない。あの眉間の皺を取るつもりでお茶を持ってきたのに。
いや、それにしても、
「千鶴ちゃんが来てから屯所の中が明るくなりましたよね」
開け放ったふすまから、明るい光が差し込んでいる。
部屋の中が明るい、と思うのは決して陽射しのせいだけではない。千鶴がこまめに掃除をしてくれるお陰でもあるし、彼女の存在のお陰でもあった。
彼女がいると、幹部連中は楽しそうに笑うのだ。
「まあ、あいつ来る前から喧しくはあったけどな」
「誰だろ?」
「おまえと総司に決まってんだろうが」
「ええ? 私たちそんな喧しくなんてしたことないですよ」
心外だなと態とらしく目を丸める彼女をじろっと睨む。
そしてすぐにふっと空気が抜けたみたいに男は笑って、遠くを見つめて呟いた。
「あいつのおかげで、明るくなったのは確かだな」
朝は彼女の元気な挨拶から始まるようになった。どんなに天気の悪い日だって、快晴みたいな挨拶で一日が始まるように。
「それに、いつも楽しそうだし」
「そうだな」
の言葉に素直に土方も同意を示す。
千鶴は常に笑顔を絶やさない。
何がそんなに楽しいのか分からないが、いつだって彼女は楽しそうに笑っている。まるで、日だまりみたいな子だとは思う。暖かくて優しくて、心がほっこりとしてくる。彼女の周りにいるとなんだか知らず笑顔が零れるのだから、実はすごい影響力を持つのではないだろうか。
「あいつ、犬みたいだと思わないか?」
「犬? ああ、可愛い小犬みたいですね」
当人が聞けば気を悪くするかもしれない。でも、千鶴は人懐っこい小犬を連想させた。
ぱたぱたとあの軽やかな足音を立てて、あっちへこっちへと。まるで小犬が駆け回るみたいだから。
「ご主人様に、上機嫌に尻尾振りながらついてってるじゃねえか」
「ご主人様?」
「おまえと、総司だよ」
随分と懐かれたじゃないかと苦笑で言うので、はそれは「刷り込み」というやつだと笑って答えた。
雛が初めて見たものを親だと思うように、最初に優しくしたに千鶴が懐いただけだ。他の幹部隊士がもっと彼女に優しく接していればまた違ったかもしれない。
「おまえもまんざらじゃねえだろう」
「そりゃ可愛いですよー。可愛い女の子は大好きです」
むさ苦しい男連中よりずっと好きです、と彼女が言うから笑ってしまった。
くつくつと喉を震わせて笑って、また、はあと溜息がその唇から零れる。
横目で見れば彼は紫紺を湯呑みの中へと落としていた。ゆらゆらと揺れる水面を、まるで憎い仇でも見るかのように睨み付けたかと思えば、ふっと細めて苦しげに吐息を漏らす。
「あいつがいなきゃ、幹部連中は暗いままだっただろうな」
「……」
は笑みを消した。
彼の言わんとしている言葉も、気持ちも分かるけれど、その表情には苦しみも怒りも浮かべない。ただ、真剣な面もちでぽつんと言葉を落としただけだ。
「山南さん、だいぶ追い込まれてますね」
今、この屯所内の雰囲気は暗い。どんよりと、沈んだ空気に包まれている。
どれほどに千鶴が笑顔を振りまいても。周りの皆を落ち込ませまいと明るく振る舞っても。
山南の苦しみは消せない。彼の懊悩を、晴らすことはできない。日々、病んでいく彼を止めることは出来ない。
左腕を負傷して、もう動かないと知って。戦えないと思い知らされて、彼は変わってしまった。もう昔のように笑わなくなり、幹部の前では自虐的な言葉ばかりを言うようになった。それが更に彼を自分の殻に閉じ込めてしまうのか、最近は部屋から滅多に出てこない。
時折姿を見る彼はまるで幽鬼のように虚ろな表情をしていて、だけど何か思い詰めたように苦しげな表情を見せた。
だいぶ追いつめられている。
それもそのはずだ。
――す、と前触れもなく広間に影が差した。
二人揃って顔を上げればそこに顔を出していたのは、
「あら、土方君」
「伊東……参謀」
伊東甲子太郎。その人の姿があった。
藤堂の紹介で新たに入隊した大幹部である。
彼は北辰一刀流の使い手で、近藤らとは違い尊王攘夷を掲げる人間だ。その彼が何故新選組と名を連ねる気になったのかは分からないが、とにかく彼の熱意ある弁舌に感銘を受けた近藤は彼を是非にと新選組に引き入れた。入隊からすぐに参謀という大役に引き立てられたのも、恐らく上手く言いくるめられてしまったのだろう。彼は良く口の回る男だから。
その伊東こそが――山南を追いつめている原因だ。
山南が焦るのも無理もない。文武両道。頭も切れる伊藤参謀の参入で、それまで論客としては確たる居場所があった山南の存在が危ういものとなっているのだ。それは勿論山南の中でだけであって他の幹部達は違うけれど、彼は居場所を奪われた気分なのだろう。
「こんな所で何の相談事かしら?」
ひどく不愉快な喋り方をする男だと、土方は最初に出会った頃から思っていた。
何故そんな風にもったいぶった風に喋るのか。聞いていると苛々するのだ。いいからとっとと話せと怒鳴りつけてやりたくなる。
その目も気に入らない。自分たちを格下だと思っているのだろう。見下した目で見られて、酷く不快だ。
土方は冷たい表情で彼を見て、素っ気なく言葉を返した。
「別に大した話はしてねぇよ」
土方はあからさまに不機嫌な態度を取ってみせた。ふいとそっぽを向くのは「これ以上おまえと話すつもりはない」という明確な意志の現れである。
そんな態度を取るのは彼だけではない。幹部のほとんどが、伊東に似たような態度を取っていた。紹介した藤堂や、彼を好意的に見ている近藤は別だが、誰もが彼の姿を見ただけで顔を顰める程だ。それを分かっていて、この男は顔を不快げに顰めるどころか、そんなもの屁とも思わないと言わんばかりの余裕の笑みを浮かべてずかずかと入り込んでくる。そうして彼らの中に入ってきては、人の心を掻き乱すような事を平気な顔で言ってのけるのである。それが余計に腹立たしく、また彼が嫌われる原因となっているのだろう。
「あら? 同志である私に隠し事?」
「……」
土方の双眸が、剣呑な色を帯びた。誰がおまえなんぞと同志なものかと、その瞳だけで伝えるようにぎろりと睨め付ける。
睨み付けながら口元をにやりと好戦的に歪めて、こう言った。
「こいつとする話は極秘事項なもんでな」
何が極秘事項か。世間話をしていただけじゃないか。
まあ確かにあの流れでは伊東の悪口になっただろうから、極秘事項と言っても間違いではないが。よくもまあそんな嘘が平気な顔で吐けるものである。は内心で呆れてしまった。
「どこで誰が手のひらを返すか分からねえこのご時世だ。よっぽど信頼出来る相手じゃねえと話せねえんだよ」
「それは、私が裏切るかもしれないということかしら?」
あからさまな言葉を受けて、伊東の双眸も細められる。口元には笑みが浮かんでいるが、その瞳は笑っていない。いくら彼でも、裏切り者扱いされては見過ごせないようである。
土方は更に獰猛な色を湛えて、笑った。
「まさか、参謀である伊東さんが裏切るなんて思っちゃいねえよ」
「っ!」
牽制の言葉に伊東の目がかっと見開かれた。
その黒目に憤然とした色を湛えて、侮辱に肩を震わせて、彼は土方を睨み付けた。
とうとう喧嘩でも始まるかとは黙ってそのやりとりを見ながら思ったものだ。私闘は切腹なので一応止めるが、土方にも困ったものである。まあ普段ならばぐっと堪えてやり過ごす彼がついつい喧嘩を吹っ掛けてしまう程、鬱憤が溜まっているということなのだろう。
「……そうですわね」
やがてばちばちと火花を散らす睨み合いは、伊東が退く形で終わった。
カッと頭に昇った血を冷やすみたいに、広げた扇子で優雅に仰ぎながら彼はまた意味ありげに笑う。
「それは信頼されている、と受け取っておきますわ」
その逆だ。土方は口の中でだけ告げた。
これ以上はただただ不愉快になるだけなので止めておこうと判断したらしい。
ほっとは気付かれないように溜息を吐く。そうしてこの場を早々に切り上げるべく、口を開いた。
「そういえば伊東参謀。先程、笹原さんが捜していましたよ」
「あら、本当?」
「はい。火急の用件かもしれませんから、行ってあげてください」
笹原は確か道場の方にいたと続けると、何故か伊東はこちらを見たままで黙り込んでしまった。
「……なにか?」
顔をじっと凝視されて、は首を捻る。
彼は何も言わなかった。ただ、顔を見て、それから頭の天辺から爪先までをゆったりと視線でなぞる。まるで視線で嬲るように。
そうしていつも、彼は意味ありげに笑うのである。
最初に顔を合わせた時からそうだった。
「……」
は動じない。ただ、真っ直ぐに伊東を見返した。
敵意とは違うが、その強く揺るぎない瞳が、ひどく心地よい。好ましい目だ、と思う。
ふ、と扇子の下で伊東は笑った。口元を妖しげに歪めて。
「そう。では、あまり待たせてはいけないわね」
「……」
「それではお二人とも、ごきげんよう」
軽く会釈をし、あっさりと背を向けて彼は部屋を出ていった。
とすとすと静かな足音は遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
無言でそれを見送り、やがてちっと隣で舌打ちが聞こえた。
「嫌な目で見やがって」
ちらりと見れば、彼は不快げな顔をして伊東が出ていった方を睨み付けている。
はそうですねと同意を示した。
「馬鹿にしたような目で見ますよね」
全く嫌な男だ。そして面倒な男だ。とっとと新選組から出ていってくれないかと本気で思う。彼がいなければもっと屯所の中はぎすぎすしないで平和なのにと。
「おまえ、気をつけろよ」
ぶつぶつと一人呟いているとそう声を掛けられる。
「気をつけろって、何を?」
「決まってんだろ。伊東の事だ」
「伊東さんを? ああ。余計な話はするなってことですか? そんなの言われなくても話しませんよ。参謀だかなんだか知りませんが、私信用してませんから」
「そうじゃねえ」
ああやはり分かっていなかったかと土方は溜息を零す。
まあまず分かっていないと思ったが、この鈍い女は。
「おまえ、あいつに気に入られてるぞ」
自分で言いながら「気に入る」なんて言葉で済ませて良いものかと内心で悪態を吐いた。
あの男がを見る目には、明らかな下心があるのだ。そうまるで男が女を物色するような目。
を女だと気付いていないはずだが、いやもしかしたらあの抜け目無い男には気付かれたかもしれない。どちらにしても伊東がを気に入ったということは確かだろう。
だからあんな風に、彼女を嫌な目でみるのだ。彼女をその視線で汚すみたいに。
くそ、と土方は嫌悪感を露わにした。
「とにかく気をつけろ。なるべくあいつとは一緒になるな」
「一緒にいない方が良いんですか? 気に入られてるなら探りいれますけど」
「馬鹿か、てめえは。んなことしたらあいつの思うつぼだろうが」
「馬鹿とかひどい。伊東一派の動向を探るのに良いと思ったから言ったのに」
「てめえが鈍感だからだろうが」
「鈍感とか更にひどい」
「鈍感を鈍感と言って何が悪いんだよ。いいか、とにかくあいつには近付くな」
「理由は?」
「おまえは知らなくて良い」
「なにそれ、理不尽!」
「うるせえ、副長命令だ!」
ぴしゃりと言い切っても、はぶーぶーと横暴だなんだと文句を垂れている。
実際、不満があるわけではないのだろう。彼女は理不尽だろうが何だろうが、土方の命令には絶対、忠実だ。異論など唱えることもない。それでもこうして抗議をしてくるのは……恐らくあれだ。土方の気持ちを和ませる為。
馬鹿馬鹿しい言い合いのお陰で、いつの間にか苛立ちは消えていた。まあ眉間の皺は相変わらずだが、誰彼構わず当たり散らしたくなる程の苛立ちは無くなっている。
彼女のお陰だ。昔からそうだった。こうしてが適度に瓦斯抜きをして、和ませてくれる。
「ったく、おまえは本当に変わらねえな」
昔から何も変わらない。
心配になる程鈍感な癖に、相変わらずこういう気の回し方は上手で。ついつい乗せられてしまう。後であれが彼女の気遣いなのだと分かって複雑な想いになるのに。
そう呟くとはくすくすと楽しげに笑った。
彼女の内心は、彼には分からない。
だっては楽しそうに笑うだけだから。
相変わらず自分の感情を隠して、笑っているだけだから。
――あの時、
微かに見せた弱さなどまるで幻だったみたいに。
は笑う。
何事もなかったように、全部をその胸に押し込めて。
そしていつもと変わらず、自分の傍にいるのだ。
「ひどいなぁ、私だって一応は成長してるんですよ」
「ああそうだな。背だけは一丁前になったな」
「口も成長しました」
「それは成長じゃなくて、悪くなったって言うんだよ」
「土方さんも、ですよね」
「うるせえよ」
じろっと睨んで、またくつくつと笑った。
めまぐるしく変わっていく世の流れに、誰もが知らぬ間に変化を余儀なくされている。
変わらずにいられるものなんて、そう多くはない。
立ち止まっていては世界に押し潰されてしまうから。
世界は、変わる。
緩やかに、全てを巻き込んで。
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