めまぐるしく世界は変わる。
 まるで駆け抜けるみたいな速さで、世界は変わっていく。

 池田屋事件から一月が経った元治元年七月。
 後に禁門の変と呼ばれる事件で、内裏に発砲したことから、長州藩は「天皇に弓引く逆賊」とされ、朝敵として討伐されることとなった。
 ほんの一年前まで、京を我が物顔で歩いていた彼らは京を追われる身となったのである。

 めまぐるしく、世界は変わる。
 立ち止まっていたら置いていかれてしまいそうな速さで。
 世界は変わる。
 新選組は、変わっていく。

 しかし、それはまだまだ始まりに過ぎなかった。
 否、
 それは始まりですら無かった。
 世界は、破滅へと進んでいたのだ。

 こぼれ落ちたたった一滴は、世界に大きな波を生み出している。
 もう、
 誰にも止められなかった――


変わるもの 変わらないもの



 沖田はぼんやりと、柱に凭れて空を仰いでいた。
 今日は久方の快晴だ。頬を撫でる風はまだ冬の名残を残してはいるものの、空を流れる綿雲はひどく暢気に見える。
 平和だなと、そんな空を見上げてどこか他人事のように呟いた。平和だ。ここ最近、平和すぎてつまらないと。
 そんなことを言えば鬼の副長に「弛んでいる」とどやしつけられるだろうか。でもつまらないものはつまらない。つまらない理由は彼が過保護になるせいでもあるのだ。ここ最近、何かと口うるさくて喧しいったらない。つい先日の禁門の変の時だって、待機を命じられて活躍の機会を逃したのだ。しかも、あの騒動で忌まわしい浪士とばったり対面したのだという。その話を後から聞いた時は悔しくて堪らなかった。何故自分は待機だったのかと。もし次に会っていたら、あの顔を切り刻んでやったのに、と。
 つい思い出して不快のあまりに眉間に皺が寄ってしまう。ぴりと彼から感じる苛立った空気に、一番組の隊士たちがほんの少し距離を取った時だった。
 ぱたぱたと慌ただしい足音に、彼の周りから張り詰めた空気が消えた。
 来た。
 そう思った途端に浮かぶのは、楽しそうな笑みだ。
 もうじきここに顔を出すだろうその人のことを思うと、ついつい口元が歪む。
 平和すぎてつまらない。退屈だ。だから、今日は何を言ってからかってやろうか。
「沖田さん!」
「やあ、千鶴ちゃん」
 それこそ飛び出すくらいの勢いでやってきたのは彼女、千鶴である。
 よほど急いでやってきたのか、千鶴はぜえはあと肩で息をしていた。
「すみま…せん。お待たせ…しまして」
 荒い息を整えようともせず、千鶴は謝罪を口にする。言い訳を一切しないあたりが潔い。その潔さに免じて、などという優しさは一番組組長には存在せず、彼は意地悪く口元を吊り上げて言うのだ。
「そうだね。一番組組長を待たせる子なんて、そうはいないよね?」
「す、すみません!」
「しかも外で待ちぼうけさせるなんて。もしかして君、僕に風邪をひかせたいの?」
「ち、違います!!」
 からかいの言葉に、千鶴は慌ててそんなことはと首を振る。
 そんなつもりは全くなかったけれど、彼をこんな所で待たせてしまったのは事実だろう。陽射しが暖かいから忘れていたが、まだ二月なのだ。吹き付ける風はまだまだ冷たい。もし彼に風邪をひかせてしまったりなんかしたら……
 見る見るうちに、千鶴の表情が変わっていく。それを見て、沖田はとうとう堪えきれずに噴き出してしまった。
「あはは、千鶴ちゃん。すごい顔だよ」
「え、えっ?」
「そんな思い詰めた顔をしなくても、僕が風邪をひいたくらいで君は斬られたりしないから」
「あ、あの、えっと」
「ああでも、もしこれで僕が風邪をひいたら、僕が土方さんに『弛んでる』って怒られちゃうかな」
「えぇえええ!?」
 ぽかんと間抜けな顔をしたかと思うと、また千鶴は声を上げてわたわたと慌てた。
 自分のせいで、土方に叱られるとでも思ったらしい。驚きの声を上げた後はどうしよう、なんて本気で考え込んでしまったようだ。
 それがあんまりにも真剣な様子だから、流石の沖田もやりすぎたと反省せざるを得ない。
「ごめん。今のは冗談だよ」
「えっ?」
 大きな栗色の瞳が見開かれた。また、ぽかんと、無防備な表情でこちらを見ている。
 誰が見ても、彼女が驚いているというのは分かった。
 そんな風に素直に感情を露わにしてくれるものだから、つい沖田もからかいたくなってしまうのである。自分の言葉や行動一つで、ころころと面白いくらいに様々な感情を見せてくれるものだから。ただまあ、このくそ真面目なあたりはいただけない。冗談全てにそこまで素直に受け止められると、ほんのちょっと罪悪感が芽生えるというものだ。いかに沖田と雖も。
「千鶴ちゃんがそんなことを考えていないのは分かってる」
「沖田さん」
「君にそこまで回る頭があるとは思えないからね」
「……」
 それは褒めているのか、貶しているのか、少々判断に迷うというもので、千鶴は複雑な顔で彼を見上げた。
 沖田はにこにこと笑うだけだった。
「別に急いで来ることなんて無かったんだよ。今日はいつもの巡察なんだから」
 毎日平和だからね、と彼は呟いて門の外へと視線を向けた。 
 この半年、彼らが慌てて飛び出すような事件は起きていない。池田屋、禁門の変、と立て続けに起こった昨年を考えてみると、今の京の町は穏やかなものだった。時折騒ぎが起きるけれど、切った張ったの大事にもならない。精々、酒を飲んで暴れた浪士をとっ捕まえたり、町人を脅して金品を巻き上げようとする破落戸をふん捕まえたり、という小さな事件位だ。
 平和なものだな、と沖田はまた暢気な空を見上げて思う。
 こんなに平和だと少し怖くなってしまう。自分の存在意義なんてものを考えて、少し。
 端正な顔立ちが、くしゃりと歪んだ。
「沖田さん……?」
 それはまるで痛みを堪えているようで、堪らず千鶴は名を呼んでいた。
 呼びかければこちらを見るのは、いつもの悪戯っぽい翡翠の瞳。
「なに?」
「あの……本当にもう怪我の方は」
 痛いのではないかとは聞けなかった。そんなことを言えば彼の矜持を傷つけてしまう。
 彼はあの日、血を吐きながらもこう何度も叫んでいたのだから。
『僕はまだ、戦える』
 まるで自分に言い聞かせるみたいに、何度も、何度も。
 そんな彼に怪我の具合を聞けば、もしかしたら彼を怒らせてしまうかもしれない。でもそれでも、千鶴は心配で堪らなかった。
「もう半年も経つのに、まだ心配してるの?」
 そんな彼女の心配を余所に、沖田は呆れ顔で笑った。
 言葉にして、もうそんなに経ったのかと驚かされる。
 そう、池田屋の事件からもう半年の歳月が過ぎていたのだ。
「もう平気だって」
 心配性だなと彼は笑い飛ばした。
 確かに彼の言うとおり、半年も経っていれば傷は癒えるに違いない。そんな昔のことだと笑い飛ばせるに違いない。
 でも、彼女の中からは消えない。あの時の恐怖は。
 どれ程の年月が経とうと消えるはずがない。
 だってあの時の彼は、本当に死んでしまうかと思った。
 青白く、冷たい顔は死人のようだった。なかなか目だって覚ましてくれなくて、このまま死んでしまったらどうしようかと。
 思い出すだけで千鶴は泣きたくなる。
 それに治ったと言い張る今だって、時々沖田は咳をする。それがもしかしたら、あの時の怪我のせいなんじゃないかと……そう思うと心配で。
「心配性だね、千鶴ちゃんは」
 だからなのだろうかと、沖田は思う。
 彼女が毎日自分の所に顔を出すのは、彼女が心配性だからなのかと。
 池田屋事件以来、千鶴は何かと用を見付けては沖田の所にやって来ることが多くなった。それは用事を言いつけられてだったりもしたが、何もなくてもお茶をどうぞとやって来た。その前までは沖田を怖がって、余程の用事がない限り自分から近付いてこなかった癖に。
「僕のことなんて心配しなくてもいいのに」
 もう平気なんだから、と言うと千鶴は少し悲しそうな顔をして俯いた。
 何故彼女がそんな顔をするのか、沖田には理解出来ない。彼女を傷つけることを言ったわけではないのだ。他人のことなんて心配している場合じゃないだろうと、正論を言っただけ。だってもう沖田は平気なのだから。
 それをどう解釈したのか分からないが、きっとまた下らないことを考えて、勝手に落ち込んだのだろう。まったく面倒な少女だなと沖田は内心で思った。
「ごめん」
 それなのに、自分の口からは何故か謝罪の言葉が零れている。
 ごめんと、彼女を労るような柔らかな言葉が。
 沖田自身も何故謝ったのか分からない。ただ、なんとなく、そう口にしなければならない気がした。
「沖田、さん?」
 不思議そうに千鶴が見上げてくる。何故謝るのかと問いたげに。
 だけど沖田は答えられない。聞かれても分からないのだ。だから、ふいっとそっぽを向いて彼女の視線から逃れると、さてとと気を取り直すように言って、一つ伸びをした。
「それじゃ、行こうか」
 一声に隊士達は顔を引き締め、はいと威勢の良い声を上げた。

 行き交う人々は、羽織姿の彼らを見てほんの少しざわつく。だけどそれはいつものこと。
 嫌悪を露わにして道を譲り、こそこそと陰口を叩いた次の瞬間には通り過ぎた彼らのことなど目にも入っていない。すぐに噂話に花を咲かせるのだろう。平和だ、と千鶴は思う。
 それは彼らがこうして見回りをしているからだと思うと、今度は誇らしい気持ちになった。そして、自分も気を引き締めなければ、と。彼女が気を引き締めたところで何が変わるわけでもない。千鶴に出来ることなど限られているのだから。
 それでも彼らの足手まといにはならない。出来るならば彼らの役に立ちたい。小さなことでも構わないから、役に立てれば――そう千鶴が思い始めたのは、新選組の面々が千鶴にあれこれと任せてくれるようになったからだろう。無論任せてくれるとは言っても掃除やら洗濯やら小間使いやらという雑用だ。でも、どんな小さな仕事であっても自分に任せてくれるというのが嬉しかった。
 広間で一緒に食事をするのは当たり前になったし、交代でする食事当番の中に千鶴の名前も入るようになった。
 そうやって一緒に過ごしていく内に千鶴は彼らの仲間の一員になれた気がしたのだ。彼らに、認められたような気が。
 それが嬉しかった。認めて貰えるのがとても嬉しかった。だから、千鶴は一生懸命その期待に応えようと思う。
「千鶴ちゃんはさ」
 不意に、隣を歩く沖田が口を開いた。
 なんでしょうかと顔を上げれば、彼はにやにやと笑みを湛えたままでこう言った。
「もう、僕のことは怖くなくなっちゃったの?」
 唐突な、そして意外な問いかけだったので思わず立ち止まってしまう。
 そうすればその手を沖田に引っ張られて、
「わっ」
 千鶴は転げそうになりながら、慌ててその後を追いかけた。
 危ないよ、と苦笑で言う彼はまだ手を離さない。
 大きな手だった。当たり前のことだが。
 その手に引かれながら、千鶴は前にも同じように手を掴まれたことがあったと思い出す。
 あれは初めて会った日だった。冬の夜のことだ。
 あの時は遠慮無く、それこそ引きずる勢いで引っ張られていたけれど、今は違う。彼の手はほんの少し、優しい。
「ねえ、もう僕のことは怖くないの?」
 そんなことを思いだしていると、肩越しに振り返った沖田が訊ねてきた。
「……その言い方だと、沖田さん私に怖がって欲しいみたいに聞こえるんですけど」
「あはは、別にそういうわけじゃないんだけどね」
 じゃあ一体どういうつもりなのだろう?
 千鶴は首を傾げた。
「それで、どうなのかな?」
 やけにしつこく、沖田は聞いてくる。
 自分のことはもう怖くないのかと。
 千鶴の答えは、短いものだった。
「怖くありません」
 きっぱりとした短い否定の言葉。沖田は一瞬瞠目し、その翡翠をすいと細める。
「どうして?」
「だって……沖田さん、優しいですもの」
 少女は、真っ直ぐにこちらを見つめて、はずかしげもなくそう言い切ってしまった。
 この意地悪な男のことを、優しい男だと。
 確かに彼には何度も怖い思いをさせられた。不安な思いをさせられた。
「殺す」と何度も自分を脅したけれど、彼はあの日、池田屋で浪士から守ってくれた。暫く立ち上がれない程の傷を受けたにも関わらず、その身を挺して千鶴を守ろうとしてくれた。
「他の皆さんだってそうです」
 彼だけではない。他の新選組の面々だってそうだ。
 人斬り集団だと彼らは恐れられている。京に来るまでは理不尽に人を斬り殺す、非情な人々だと聞いていた。でも、本当は違った。彼らは無益な殺生は行わない。彼らが刃を振るうのには意味がある。彼らは、己の揺るがない信念の為だけにその刃を振るうのだ。それは人斬りなんかじゃない。立派な武士の姿。
 だから、と千鶴は思う。
 彼らは怖い人なんかじゃない。
 彼らは、本当は優しい人たちなのだと。
 でなければ、自分にあんなに優しい言葉を掛けてくれるものか。
 落ち込んでいれば励ましてくれるし、悩んでいると一緒になって考えてくれる。一人で塞ぎ込んでいれば狭い部屋から外に連れ出して、臆すること無く笑えばいいのだと言ってくれるのだ。その彼らの想いに、どれだけ救われただろう。
 今では千鶴にとって、ここが彼女の居場所だ。
 決して平穏とは言えない場所だけど、彼女にとっての安らげる場所はここなのだ。
「だから、皆さんのことは怖くなんてありません」
 そう言った彼女の目は相変わらず、真っ直ぐに男を見つめていた。
 沖田は分からなかった。
 何故彼女はそんなにも真っ直ぐに自分を、前を、見ることが出来るのか。
 彼女は弱いのに。哀れな程に弱いのに。何故馬鹿みたいに彼らを信じることが出来るのか。
 裏切られることを恐れないのか。
 何故、
「沖田さんも、怖くありません」
 彼女は見て嬉しそうに笑うのか。
 自分の隣で。自分を見て。
 眩しいくらいの笑顔を見せるのか。
 そして――
「どうして……」
 沖田は知らず、小さな呟きを漏らしていた。

 彼女が傍にいてくれることか、こんなにも暖かいと思うのだろうかと。



 次 頁