13
数日後、彼らが予想した通りに会津藩を通して制札警護の命令が下された。
巡察の合間に交代で制札の見張ることとなり、隊士の負担はまた増えていった。昼間の巡察と夜の警護。誰もが寝不足の日々を送っていたある日のこと、原田率いる銃番組によって犯人は捕らえられたのだ。
制札を引き抜いた不届き者は土佐藩の浪士。数名を取りのがしたものの、見事十二名の不届き者を取り押さえ、原田はその報酬として二十両の報奨金を貰い受けたのであった。
そして、数日が経ったある夜、彼らは島原の一角にある角屋という有名な店に集まっていた。
「いやー、左之さんってば太っ腹!!」
上機嫌な声を上げ、藤堂は彼の功績を讃えるのだった。
功績、というと違うかもしれない。確かに彼が土佐藩士を捕縛したことは喜ばしいが、それよりも彼らを上機嫌にさせるのは他にあるのだから。
「もらった報酬で俺たちにおごってくれるってんだから、本当にいいヤツだよ、左之は!」
同じくご満悦な永倉の言葉に、原田はやれやれと溜息を零した。
上等な一室に通され、良い酒を振る舞われ、綺麗な花魁達が酌をしてくれる、となると彼らが喜ぶのも無理もない。分かってはいるが、些か現金すぎではなかろうかとも思うのだ。
「よーし! 今日は左之の奢りだ!! 皆遠慮無くやっちゃってくれ!!」
「だから、おまえは少しは遠慮しろってんだよ!!」
「まあまあ、主役がそんなこと気にしないで」
調子づく永倉を窘めようと腰を上げた瞬間、艶やかな着物に身を包んだ花魁がそっと隣に腰を下ろした。桔梗という名のそれはそれは美しい売れっ子の花魁である。そっと控えめに袖を引かれ、にこりと微笑みかけられる。どこか悪戯っぽいその表情に誘われた気分になり、気付けば虜にされて金も心もすっかり搾り取られてしまう男は少なくはない。
「どうぞ」
彼女に微笑みかけられ、酒を差し出されて断れる男もまた少なく、原田は苦笑で腰を据えると空になった盃を差し出した。
「今日は、来てくれたんだな」
「それはもう、原田さんのお願いですから」
桔梗は郭言葉を使わない。使わなくても誰にも咎められないのは、彼女が特別な存在だからだ。そんなものは些細なことなのだと皆に思わせる程、彼女は外見も話術においても、舞においても、それからその立ち居振る舞いにおいても、文句の付け所がないから。
ただ文句の付け所がない花魁だが、気まぐれな気性の持ち主なのが玉に瑕、である。金が掛かる以上に、彼女は気が乗らないとなかなか座敷に上がってくれない。どれだけ金を積んでも、何度逢状を出しても袖にされることの方が多い。それ故に熱を上げる男がいるのも確か。簡単に手に入らない女の方がより男心を擽られるというものなのかもしれない。
そんな気まぐれな彼女は、原田の逢状に快く応えてくれたようである。
「まあ、酷い人。私に逢状の一つもくれなかったくせに?」
「そりゃあ、毎回おまえさんを呼んでちゃあ、俺の懐がすっからかんになっちまう」
くつりと苦笑を漏らし、くいと一気に盃を傾ける。見惚れる程の豪快な飲みっぷりだ。すぐさま次を注ごうとすると、ぺろりと酒で濡れた唇を舐めて、色男はそれにと宣った。
「俺は、花魁姿のおまえよりはいつもの姿の方がほっとする」
おまえもそう思うだろう、と榛色が意地悪く細められた。
「――」
そう呼ばれて売れっ子花魁はすいと不満げに瞳を細めると、被っていた女の皮を脱いでしまった。
「だぁから、ここではその名前で呼ばないでって言ってるじゃないですか」
色づいた唇から漏れた声は常の彼女のそれだ。普段決して座敷では見せることも聞かせることもない、彼女本来の――新選組副長助勤の姿だった。
何故彼女がここにいるのかというと、それは決してふざけて花魁の真似事なんぞをしているわけではない。これも彼女の立派な仕事の一つだ。花魁に扮して敵方の情報を探ることが。
ここ島原は様々な人間が集まり、また様々な情報がもたらされる場所だ。こと裏事情に関しては邸を見張るよりもこの場所での方が入手しやすい。男という生き物は、酒と女には弱いところがあるのかもしれない。そういうことで、は色町に潜伏している。その時の花魁としての名が『桔梗』なのである。
「しかし、何度見ても信じられねえよなあ」
しみじみと呟いたのは永倉だった。何がと振り返ると彼は桔梗――の方を見て難しい顔をしており、
「普段は色気の「い」の字も感じられないおまえが、こんな綺麗な花魁になるなんてなあ」
そんな失礼極まりない言葉を吐いてみせる。言い過ぎだと原田が窘めるより前に、満面の笑みを浮かべたがこう言った。
「新八さん。私、匕首を仕込んでますけど」
「わわわわわ、悪かった!!」
ざぁっと青ざめた男は飛び退いて勢いよく頭を下げる。
匕首というのは鍔の無い短刀のことである。手のひらほどの大きさをしており、隠し持つことが出来るということで、も花魁に扮している時には必ず身につけている。着物で見えないが腿のあたりに巻いているのだ。まあまず使う機会はないが、そこに手を差し込もうとする不埒な連中は匕首をお見舞いされることになるだろう。永倉が望むならばその記念すべき一人目にしてやろう。
「まあ、上手く化けたとは僕も思うけど、中身はまんまだよね。、僕にもお酒頂戴」
「桔梗。じゃない。それから、おまえはお酒駄目」
「なんで?」
「副長命令で禁止されてるから」
だからおまえはこれ、と酒の代わりに茶を差し出す。ええと上がった不満の声は聞かない。まるで客とは思えない扱いについつい土方も苦笑を漏らしてしまう。桔梗と呼べというくせに、ここにいるのはその人で、恰好こそは別人なのに常と変わらない態度がおかしくて仕方ない。
とにかく沖田は大人しくしていろと盃を奪い、は他の面々に酒を振る舞っていく。なんだかんだと言っていた永倉も酌をされれば上機嫌になり、再び藤堂と大声を上げて暴れ出す。そんな彼らを見て斎藤は静かに眉根を寄せたが、土方は止せと苦笑で止めた。今日は無礼講、ということで大目に見てくれるらしい。
「あれ?」
一通り酒を振る舞ったところで、部屋の片隅で縮こまっている存在に気付く。
「千鶴ちゃん?」
声を掛けられてはっと彼女は顔を上げたが、その表情は固い。固いと言えば、その恰好も正座をして、身体を丸めてと窮屈そうだ。とても宴席にいるとは思えない緊張ぶりで、は思わずくはっと笑いを漏らしてしまった。
「どうしたの? そんなに縮こまって。まるで鬼副長の前に連行された不逞浪士みたいだよ」
「おい、そりゃどういう意味だ?」
冗談にも千鶴は笑えないらしい。反応したのは鬼の副長の方で、ぎろっと睨まれたので肩を竦めておく。それから千鶴の傍に腰を下ろすと、彼女の頭をぽんぽんと優しく撫でた。それはいつものの優しい手だ。ほっと安堵に溜息を漏らす。が、顔を上げるといつもの彼女とはまるで違う美しい花魁姿のその人がいて困惑してしまった。
「そんなに緊張しなくて良いんだって」
「で、でも」
こんな所、来るのが初めてでどうすればいいのか分からない。豪華な料理と酒と、美しい妓女を前に、完璧に千鶴は萎縮してしまったようである。そういえばここに来るまでに千鶴に声を掛けてきた妓女がいた。何を言われたのかは聞かなくても分かる。大方何も知らない初な少年を誘惑して金を巻き上げようと言う魂胆なのだろう。でも、大丈夫だとは笑った。
「もし君に不埒な真似をしようなんて姉さんがいたとしても、私が守ってあげるから」
だから大丈夫だ、と琥珀が優しい色を湛えて言ってくれる。いつもの彼女の優しい声で。
「……さん」
ついそう名を呼んでしまった。はっとして口を押さえたが、は怒らない。ただくしゃくしゃと千鶴の黒髪を撫でると、ほらと明るい声で言った。
「千鶴ちゃんも食べて。ここの料理美味しいんだから」
小皿に取り分けて差し出せば、千鶴は安心したように笑って箸を伸ばすのだった。
「そういや新八、おまえもう一人姉ちゃんを呼んだって言ってたが、誰を呼んだんだ?」
問いかけに永倉はにたり、と白い歯を見せて笑った。来てのお楽しみだ、ということらしい。
この度の宴席に呼ばれたのは桔梗一人ではない。そもそも桔梗も呼ぶはずではなくとして同行する予定だったのだが、やはり花魁として潜伏する場所にそのままの姿で行くのはまずいと思ったのだろう。まず気付かれないとは思うが、万が一にでも気付かれるとまずい。そういう理由があって最初は屯所に残っている予定だったのだが、やはりここは皆で一緒にと原田に拝み倒され、それならば桔梗として座敷に上がるという形で収まった。
だがそれではは花魁として彼らに振る舞わなければならない。それは気の毒だと、彼女の負担を減らす為にもう一人花魁を呼ぶことになった……のだが、これは永倉の提案なので、恐らく綺麗な花魁を侍らせたかったただ単純な助平心なのだろうと原田は思っている。
そんなことを考えながら酒を煽っていると、すっと静かにふすまが開いた。
ふわりと甘い香りをさせて入ってきたのは、これまた滅法美人の花魁である。
「皆はん、おばんどすえ。ようおいでになられました」
豪奢な花は大輪の花を思わせる。ならばそれに身を包んだ彼女は花の化身か。甘い蜜で男を誘い、虜にする花の精。蜜の変わりににこりと口元に艶やかな笑みを湛え、花魁は優美な所作で頭を垂れてみせる。
「旦はんたちの相手をさせて頂きます、君菊どす」
芳しい花のような妖艶な笑みに、早速男達は虜になったようだ。ぼうっと、藤堂と永倉は魅入られたような顔になっている。
そんな彼らをやれやれと見遣り、ついとは双眸を細めた。君菊という花魁の話は耳にしている。確か彼女は駒江という置屋の花魁だ。彼女も相当の売れっ子であちこちから逢状を貰っているとか。共に座敷に上がったことはないが、悪い噂は聞かない。裏の噂も。
だがまあ警戒しておくに越したことはない。はにこりと微笑みかけると、千鶴の傍にいて距離を取っておく。君菊は迷いもなく新選組副長の傍に腰を下ろした。狡いぞと永倉達が声を上げたが、彼は何処吹く風、だ。
「……と、千鶴ちゃん」
不意に隣の少女の手から小皿が落ちそうになっているのに気付いて、声を掛ける。はっと千鶴は我に返り、慌てて皿を持ち直した。どうやら彼女も君菊に魅了されていたらしい。
「君まで魅了されてどうするの」
「だ、だって……」
恥ずかしそうに頬を染めながら、千鶴はあまりにも綺麗だからとぽそりと呟いた。その声が少し拗ねたような響きになってしまって、千鶴は情けなさに視線を落とした。
比べたってどうしようもないことだとは分かっている。でも、同じ女として比べずにはいられない。ちらりと横目で見遣ると、の美しい横顔が飛び込んでくる。すっと通った鼻筋に、薄く柔らかな唇。切れ長の瞳には長い睫が影を落とし、白い肌はとても滑らかだ。化粧をしているせいで、いつもよりもずっと色っぽくて、女らしい。女である千鶴さえ見惚れる程美しい。
はあ、と溜息を吐いた。きっと自分が同じように化粧をしても彼女のようになれない。自分でも分かっているが、自分は幼い顔立ちをしている。年頃の娘よりもずっとずっと。それは顔立ちだけではなく身体の方もそうで、もうそれなりに成長しても良いと思うのに未だに胸の方は膨らんでこない。あの日偶然にも見てしまったのふくよかな胸を思いだしまた溜息。それから妖艶な彼女たちの笑顔に、肩を落とした。どれも、彼女たちには到底及ばない。
「まあまあ、そんなこと気にしないでさ」
そんなことと言われてついつい千鶴は恨めしい目を向けてしまう。彼女の視線に気付き、はからからと笑った。
「大丈夫だって。君もいつか君菊さんみたいに綺麗になれるから」
素質は十分だとは思っている。多分、いや絶対、君菊よりもずっとずっと綺麗になると。そう、多分千鶴も男を知れば、否、
「恋をすれば、女は綺麗になるものだよ」
赤い唇から零れた言葉に、千鶴は思わず驚いてしまった。
だって『恋』なんて、彼女が口にすると思わなかったのだ。そんなことを考えて、それは彼女に失礼だったのだと気付く。確かには新選組の副長を支える有能な幹部だ。でも、彼女は自分と同じ女なのだと。男として新選組に与しているとしても、女である本質は変わらない。だから女として、誰かに恋するということもあり得るのだ。いや、恋をしているからこそ、そんな風に綺麗になったのではないだろうか。
「さん、どなたか心に決めたお方がいらっしゃるんですか?」
思いがけない問いかけに、は目をまん丸くした。
驚きの表情で千鶴を見る事数拍、やがて彼女はふっと噴き出してしまった。
「突然、何を言うのかと思ったら」
予想外な言葉に思わず腹を抱えて爆笑してやりたくなる。が、ここには君菊もいるので必死に手で口元を隠してそれを堪えた。だが可笑しくて涙が浮かんでくるのまでは堪えられない。
「そ、そんな笑うことじゃ、」
「だって、私が恋だなんて、そんなの」
「可笑しいことじゃありません!」
「ああ、うん。分かったから」
必死に拳を握りしめて訴える彼女に、はもうこれ以上笑わせないでくれと手を振る。彼女が真剣なのは分かっているけれど、あんまり自分に似つかわしくないことを言われたものだから、可笑しくて仕方がなかった。
先程があんな言葉を口にしたのは決して自分が「恋をして変わったから」ではない。それが一般論だと知っているからだ。
それにしても、副長助勤をとっ捕まえて「誰ぞに恋をしているのか」と聞くなんて、この少女は大物というか、天然というか。きっと他の連中に聞かせれば腹を抱えて笑っただろう。のように涙を流して。
また笑いが込み上げそうになったが、必死に留めてちらりと不満げに唇を尖らせる少女を見遣った。人に聞いておきながら、千鶴はまだ恋がどういうものかも知らないのだろう。人を、異性を、好きになったことなどないに違いない。だから彼女はこんなにも無垢で、純粋なのだ。
そのままでいて欲しいとも思うがそうもいくまい。千鶴とて年頃の女。幼い幼いと言われていても、立派な女なのだ。それに彼女は既に淡い恋心を抱き掛けている。その恋心を自覚して、そうしてそれが恋だと認めれば、きっと彼女は美しい女に変貌するのだろう。その時は、自分よりもずっとずっと輝いているに違いない。
自分なんて所詮、外見だけなのだから。
別に悲しいなんて思わない。恋なんてするつもりもないし、する必要もないから。ただそれが事実だと受け止める。
ひょいと肩を竦めて、ちらりと辺りを見回す。ふと、視線を向ければ珍しく酒を飲んでいる土方の姿が目に飛び込んできた。彼の隣には君菊が寄り添っている。美男美女が並んで絵になることだ。
「新選組の土方はんって、鬼のようなお方やと聞いてましたけど、なんや役者みたいなええ男どすなあ」
「よく言われる」
顔色一つ変えずいけしゃあしゃあと言ってのける男だが、悪い気はしないのだろう。それを証拠に酒は止まらない。後で潰れても知らないぞと眉根を寄せていると、隣から控えめに千鶴の声が聞こえてきた。
「さんは、好きな方とかいらっしゃらないんですか?」
「え?」
いきなりの質問に、またまた目を丸くしてしまう。
の中ではもう終わったつもりだったのだが、千鶴はまだまだ納得しきれていないらしい。
「あ、そのっ」
だがつい問いかけてから詮索してはならないことだと思ったようで、彼女は慌ててすみませんと申し訳なさそうに頭を下げてしまった。それでもやはり気になるようでちらちらとこちらを上目に見遣ってくる彼女は、そういえばこの手の話が気になる年頃だったか。は笑い、少しだけ彼女に付き合ってみることにする。
「近藤さんかな?」
「え……っ」
名を上げると千鶴が目を見開いた。それからあの、でも、と困ったような顔で口籠もる。
彼には妻子がある。かなりの愛妻家であり、同時に子煩悩でもあると。そんな彼をが好いているとなると悲しい結末しか見えてこない。だからといって略奪なんて真似彼女にはしてほしくないが、恋が実らずにが泣くのは嫌だ。
しゅんと落ち込んでしまう千鶴に、は自分の悪ふざけが過ぎたと気付かされる。
「ごめん、近藤さんのことは好きだけど父親として、だから」
ちょっとした冗談なのだ。
ごめんと謝ると、千鶴はほっとした顔を上げ、では気を取り直してこんな言葉を追加して再度訊ねてくる。
「では、異性としては?」
は唸った。
異性――それは彼女の周りに溢れている。自分と千鶴を除くと全てが異性である男だ。丁度良い年頃の男ばかり。しかも見た目も良ければ、腕っ節も強い男ばかり。
ただまあその中でずっと男として暮らしてきたとしては彼らを自分と異なった存在とはどうにも思えない。彼らは皆、頼もしい仲間。それ以外を考える必要がない。だってにとって必要なのは仲間であって、男ではないのだから。
彼女は女だが、死ぬまで近藤の剣であると決めた。それ以外の生き方など知らないし、求めない。物心着いた頃からそう。だから男だとか、女だとか、そんなの瑣末なこと。多分、この先それは変わらない。だからずっとはこの先も誰のことも男として見ることはない。
――そう、誰も好きになることなんて、
「その、土方さん、とか……」
そっと内緒話でもするかのように千鶴が囁いた言葉に、は目を丸くしてしまった。
何を言い出すんだこの少女はと驚いてしまって、それがあまりに想像出来ないことで笑いも出てこない。
自分があの男を、だなんてそんなの在るわけが無いじゃないか。もしかしたら常に一緒にいるから彼女に誤解されてしまったのだろうか。違うのだ。これは別に彼の事を好いているとかじゃなくて、仕事をするのに仕方なく一緒にいるわけで。
「千鶴ちゃんそれはね、」
「でもさ、なんで左之さん一人取り逃がしちゃったわけー?」
些か慌てて言い繕おうとしたの言葉を、藤堂の大きな声が遮った。
そのあまりの喧しさに彼女の声など簡単に塗り潰されてしまう。
今大事な話をしているところなのに、彼女の誤解を早々に解かなければならないのに、とは半ばやけくそ気味に振り返り、煩いと彼を窘めようとした。見ればいつものように三人組は顔を付き合わせて酒を飲んでいる。酒をくいと煽りながら、藤堂がまた口を開いた。
「敵を絶対に逃がさないよう、包囲網を敷いてたんだろ?」
「そうそう、一度捕まえたけど逃がしちまったとか言ってなかったか?」
彼の言葉に永倉も頷き、らしくないなとからかうように笑う。
酒のせいで、二人とも声が大きい。同じように酔っている原田もきっと大きな声で悪かったなと応えるのかと思っていたが、
「……」
何故か彼は深刻な表情で俯いてしまった。
さらりと赤毛が零れる眉間には深い皺が刻まれていて、一体どうしたことかとも千鶴も、他の面々も不思議に思って見ると、突然彼は視線を上げてこちらへと顔を向けてきた。
「あの……?」
真っ直ぐに見つめたのは千鶴だった。怖いくらいに真剣な眼差しに、彼女の方が戸惑ってしまう。
「なあ千鶴。あの晩、」
原田は言い掛けてほんの少し躊躇うように言葉を切る。だが出してしまった言葉を途中で飲み込んだところですっきりしない。原田も、そして千鶴も。ふるりと頭を振って迷いを振り切ると、再び真っ直ぐに千鶴を見て口を開いた。
「俺たちが土佐藩士を捕まえたあの晩、おまえどこかに出かけなかったか?」
「えっ?」
問いかけに千鶴は目をまん丸く見開く。驚いたという表情だ。何故そんなことを聞かれるのか、てんで理解出来ないのだ。
「出てません……けど」
「本当、だな?」
再度念を押すように確かめれば不思議そうな顔を不安げなそれにして、こくりと彼女は頷いた。
「私、まだ一人では迷ってしまいますので」
そういえば、未だに彼女は京の通りをよく覚えていないのだったと思い出す。大小の辻が縦横にいくつも交錯しているから、なかなか覚えられないらしい。最近が地図を書いてくれたので今それを見て覚えようとしているところだ。今は未だ誰かに同行してもらえなければ屯所にも戻ってこられない。
そんなことよりも、とはほっと安堵の溜息を吐く彼に問いかける。
「左之さん、どういうこと?」
何故そんな質問をしたのかと訊ねれば、彼は苦い顔になって重い口を開いた。
「実は……立て札を引っこ抜こうとした土佐藩士を取り囲んだ時。おまえによく似た顔の女に邪魔されたせいで、包囲網が崩れちまったんだ」
しん――と水を打ったように、辺りが静まりかえる。
誰もが原田がもたらした事実に言葉を失っていた。その中で一番驚いていたのは当事者である千鶴であった。声もなくただ目を見開き、彼を見つめている。
自分に似た女が、土佐藩士を助けた。彼らの邪魔をした。
それは一体、どういうことなのだろう。
千鶴には分からない。無論彼らにも分からないことだ。
一瞬にして重たい沈黙に包まれる室内。酔いさえも一気に冷めてしまいそうな居心地の悪い中で、
「ま、まあそういうこともある! とりあえず、今日は左之のおごりだ!朝まで飲もうぜ!」
永倉が取りなすように明るい声を上げ、隣の藤堂の肩をばしばしと叩いた。
「さ、賛成! 今日は限界に挑戦してやるぜ!」
その彼に合わせるように藤堂が笑うと、また、室内には笑いが溢れ、何事もなかったかのように酒宴が再開された。先程原田が口にした言葉なんて、なかったことのように。
ただ一人、千鶴だけを取り残して。
彼女は青い顔のまま、考え込んでいる。考えたところで答えは出ない。何故なら、その日は確かに屯所を出ていないから。否、その日だけではなく、夜に屯所を抜け出したことはない。それ以前に勝手に屯所を出たことさえないのだ。それなのに何故、自分と同じ顔の人間がそんな所に。
分からない。
でも覚えがないと言って済ませてはいけない気がするのだ。
まさか自分でも気付かない内に屯所を抜け出していたのではないだろうか。自分の意志とは違う、何かによって。そう考えると恐ろしくて、
「私、ちょっと……」
青ざめたまま立ち上がると、千鶴はすたすたと部屋を出ていった。
そんな彼女の声は騒がしい彼らの声に掻き消され、気付いた者はいない。ただその人は――その後に静かに続いて腰を上げた。
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