12
慶応二年、七月。暑い日々が続くある日のことだった。
徳川第十四代将軍、徳川家茂が逝去した。二十という短い人生を妻に看取られて、静かに引き取った。
二度目の長州征伐の命を受けた直後のことであり、世間は大いに混乱し、御上は荒れに荒れた。そうして結局、後継者も決まらぬままに行われた長州征伐は、幕兵の士気が上がらぬままで幕軍の敗戦という形で終わった。
ぐらりと、唐突に足下が崩れたような気がした――
確かにあった大地が突然無くなってしまったかのような不安定さに、誰もが不安を隠せずにいた。
同年、九月。
未だ混乱を残す京の市中を、は珍しく土方と共に歩いていた。
「しっかし、まだまだ暑いですねー」
額に浮かんだ汗を拭いながら、は呑気にそんなことを呟く。
日差しは幾らか柔らかくなったものの、まだ夏のじめついた風が酷く不快にさせるというものだ。
全くだと同意を示す土方も、額に浮かぶ汗をぐいと乱暴に手の甲で拭っている。ただでさえ暑くてかなわない、というのに京の町のぴりぴりとした空気が更に男を苛立たせる。ちらちらと視線をあちこちに向ければ、京に来たあの時と同じように町人達が冷たい目でこちらを見ている。
「なんか嫌な空気」
「仕方ねえさ。長州のやつらがあちこちで騒ぎを起こしてくれるからな」
家茂公が亡くなり、幕府がごたついているのを良いことに、長州の連中はあちこちで騒ぎを起こしてくれている。それの煽りを受けているのはやはり町人で、彼らが自分たちに警戒心を露わにするのは仕方が無いことだと思っている。
ただお陰でこちらとしては毎日が大忙しだ。巡察の回数は増やさなければならないし、見回る範囲も拡げなければならない。休みが取れなくて、幹部連中の中からは不平不満の声が上がっていた。そんな幹部連中をどやしつけた土方は、所司代や会津藩への警戒を促すついでに二人きりで巡察しているのである。
「……」
ふと物陰でこそこそとする人影に目を向ける。いかにも悪そうな顔をした男が三人、腰には大小を差してなにやら相談中である。あんなわかりやすいところで何の相談をしているのやらと溜め息交じりに見ていると、一人がこちらに気付いて、慌てて逃げるように裏通りへと消えていった。
「騒ぎを起こすならこそこそせずに堂々としろ」
それを未然に防ぐのが彼らの役目だと言うのに、助勤殿の言葉に思わず土方の眉間に皺が寄る。だがまあ彼女の言いたいことも分からなくは無い。
どうせ騒ぎを起こすのならば今此処で起こしてくれ。今ならば被害が大きくなる前にとっ捕まえることが出来るのだから。
「おら、行くぞ」
じっと立ち止まって裏通りを睨み付けるの頭をこんっと小突いて促す。彼女はへーいと締まりの無い返事をして、半歩だけ遅れて後ろに続いた。
「そういえば、土方さん。さっき会津藩の人が言ってた制札のことですけど」
思い出したようにが零す言葉に、ああ、と応えた土方の表情が苦いものとなる。彼女は詳細を知らなかったのだったか。
「三条の制札を引っこ抜いて、鴨川に捨てた馬鹿がいるらしい」
長州討伐が失敗に終わったことにより、幕府の威厳は失墜した。これに乗じて長州があちこちで騒ぎを起こしたことに対して、幕府は三条大橋に『長州藩を朝敵とする』という内容の制札を立てたのだ。それがこの数日、引き抜かれて鴨川に捨てられていたのだ。しかも二度も。
「さすがに二度も引き抜かれたんじゃあ御上も黙ってねえだろうな」
たかが制札だが、されと制札。幕府が立てたものを引き抜いて捨てるなどという恐れ多いことをする連中を、野放しにするわけにはいかないだろう。それこそ幕府の威厳を取り戻せなくなる。
「そういう面倒くさいの、こっちに回ってきそうですよね」
「……だろうな」
人を警護するならいざ知らず、制札警護か。張り合いがないなと内心、ちょっと土方も思う。
「誰行かせるんですか?」
「そうだな、原田か斎藤あたりだな」
「なんなら私出ましょうか?」
あの二人は毎日巡察で忙しいし、と言うとじろりと睨まれてしまった。
「阿呆抜かせ」
「見張りなら慣れてるし、制札警護だからって手は抜きませんよ?」
そんなことは分かっている。
確かに彼女ならば任務をきちんとこなしてくれると思うが、もし相手が大勢だった場合非常に困るのだ。なんせは隊を持たない。単独行動故に動きやすいのは確かだけれど、制札を引っこ抜くような連中だ。見つかれば打ち首は免れないと知っていて、死にものぐるいで向かってくるに決まっている。無論制札を引っこ抜くなんて小さな反撃しか出来ない連中に彼女が負けるとは思わないが、それでも一人でなんて無謀だ。
それに、
「おまえにはこれ以上仕事をさせられるか」
任務を押しつけている自分が言えた義理では無いが、ただでさえ多忙の身の彼女にこれ以上仕事を任せるわけにはいかない。ごたついている御上から情報が聞けない今、には情報を集めてもらわなければならず、この数日あちこちかけずり回って貰っている。夜通し情報収集に奔走してもらい朝になると屯所に報告に戻って、またとって返して情報が得られそうな場所に潜伏、となるとこの数日まともに眠れていないに違いない。だがそうしてかけずり回ってもらったというのに大した情報が得られず、いったん切り上げて屯所に戻ってきたところで、本来ならば今日一日は非番なのである。それなのに自分にひっついてきたのだ。
「なんですか、駄目なんですか?」
「駄目とは言ってねぇだろうが。ただ、休むときは休めって言ってるだけだ」
「それ、鬼副長にだけは言われたくありませんよ。昨夜、遅くまで起きてたの知ってるんですからね」
「ほぉ、するってえと、おまえも遅くまで起きてたってことだよな?」
「あ! 千鶴ちゃん発見!」
些か口が滑ったらしい。
は更に言及される前に、さりげなく視線を逸らすと通りの先に見知った姿を見つけて声を上げた。
おーいと手を振ろうとしてふと違和感を覚える。彼女は一人でいたのだ。確か今日は斎藤と一緒に巡察していたはずだが、周りには斎藤の姿どころか隊士の姿も無い。
それに、
「あれ?」
どうやらもめ事の最中のようである。
すいと険しくなるの様子にどうしたと土方もそちらを見遣った。
千鶴はなにやら数人の浪士に何かを言っているようだ。そしてその後ろには女の子と子供の姿。彼女は庇うようにして手を広げている。
訝るの耳に、群衆の声が聞こえてきた。
「いいぞ! 兄ちゃん!」
「侍だからって偉そうに! 調子に乗ってんじゃねえぞ!」
はて一体何があったのか分からないが、何となくこの流れがまずいというのが分かる。
だってみるみる内に、千鶴と対峙する浪士の顔が怒りに染め上げられて、その内の一人が腰に手を伸ばしたのだから。
「このガキっ!」
武士というものはどうにも見栄っ張りな連中が多い。群衆の前で辱められた腹いせに、子供を斬ろうというのだから。そして、非常に短気だ。
「!」
声よりも先に、彼女は地を蹴った。
まるで弾丸のように、浪士の背中めがけては疾走する。
こちらの気配になど微塵も気付いていない、がら空きの背中。はすいと目を細めると愛刀に手を伸ばして引き抜いた。
それと同時に浅葱色の風がどこからともなく吹き抜け、
――がっ!
――どっ!!
「ぐがっ!!」
鈍い音が二つ重なり、男は前後から同時に入った衝撃に前にも後ろにもよろめくことさえ出来ず白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
その時の目の前には、斎藤の姿があった。彼も又、刀を構えて立っている。
「一」
「か」
どうやら浪士は、腹に一撃斎藤の刀の柄を打ち込まれたらしい。そして背中にはの一撃。
二人の一撃を食らった浪士は気の毒だが、これで暫く目を覚ますことはないだろう。目覚めた時には屯所での調べが待っている。彼はきっと厄日だ。
その後ろでひっと悲鳴が上がった。一緒にいた浪士の仲間である。
仲間が一瞬の内にやられたのを見て怖じ気づいたのか、情けない声を上げて踵を返そうとした。
「っ」
その背に今度は、の鮮やかな蹴りがお見舞いされる。
「うわぁっ!?」
勢いよく砂埃を上げて男は倒れ込む。思い切り顎を強打したが、痛がっている場合ではない。じゃりと聞こえた砂を踏む音に慌てた様子で這って逃げようとした。
そこを、
「おっと、逃げるなよ」
低い声が捕らえる。
とんと目の前に草履を履いた足が立ち塞がり、ぎくりと肩を震わせ恐る恐ると顔を上げた。
「っ……!?」
見上げれば鬼の副長がぎろりと鋭い眼光でこちらを睨み付けていて、男は引き攣った顔のまま失神。泡まで噴いてごとりと意識をすっ飛ばしてしまった彼を、土方は面白くもなさそうな顔で見下ろして溜息を零した。
「なんだ、人の顔を見ただけで伸びちまいやがった」
「そりゃ誰かさんの顔が凶悪だから」
「なんか言ったか?」
「いえ別に」
ぎろっと不機嫌そうに睨まれ、はふるふると頭を振って刀を収める。
その隣では斎藤がぺこりと頭を下げていた。
「ありがとうございます、副長」
「いや、丁度通りかかったついでだ。おい、こいつを捕らえておけ」
長州の残党かもしれないと言う言葉に静かに斎藤は頷き、手早く隊士へと指示を出した。
はい、と揃って声を上げた隊士達は無言でてきぱきと倒れた浪士を縄で縛り、ずるずると引きずるように連れて行ってしまった。
手際の良さに思わず呆けていると、くるりと斎藤が振り返る。その鋭い視線にびくりと肩が震えた。
「何故、俺を呼ばない」
「あ、そのっ」
「何かあれば俺を呼べと言っただろう」
「いや、あのっ……」
ぴしゃりと叱りつけるような彼の言葉に、千鶴はそのと縮こまってしまう。
口調も表情も厳しいが、それは千鶴の身を案じてのこと。なので土方もも何も言わずに見守ることにする。彼の言葉は正しいからだ。
すると何故か別の方向から彼に同意を示す声が上がった。
「そうよ、一人でなんて無茶よ!」
声を上げたのは千鶴に庇われていた少女である。彼女は泣いている子供を母親の元へと返すと、腰に手を当てたまま千鶴に方へと近付いてくる。
「あんな奴ら、私一人で大丈夫だったのに」
その台詞に思わずきょとんと千鶴は目を丸くする。彼女だけではなく、他の面々もだ。
彼女はどこからどう見ても普通の女の子だ。身なりは良いので、恐らく良家のお嬢様というところだろう。だが、武人と言うには腰に剣を差しているわけでも、身のこなしが軽やかなわけでもない。寧ろ隙だらけでどこからでも打ち込むことが出来る。
ただ何故かその言葉に異を唱えさせない威厳がある。つい、平伏したくなるのは彼女が纏う空気が他のそれよりも高貴であるからなのだろう。
そんな彼女に怒られたものだから、千鶴は恐縮した。
「え、ええと、ごめんなさい」
素直に謝る彼女に、少女ははたと気付いて苦笑を零す。
「あ。そういえば私……あなたに助けてもらったのよね」
ついつい千鶴の無謀さを窘めてしまったが、そもそも自分は彼女に助けられた身なのだと思い出すと、少女もふわりと表情を和らげて頭を下げた。
「ありがとう。あなた勇気あるのね。たった一人で浪士に立ち向かうなんて」
「い、いえ、そんなっ」
頭を下げられて礼を言われるとますます恐縮した様子で、千鶴は何もしていないのだと必死に表現するかのように手と顔とを左右に振った。
誰かに感謝されたくてしたことではない。ただ、か弱い女子供相手に浪士が暴力を振るうのを見ていられなかった。そんな彼らが「武士」だと名乗るのが許せなかった。千鶴が知っている武士はそんな卑怯な人間ではないから。だから黙っていられなくて飛び出しただけ。それだけだ。結局飛び出したけれど何も出来ず、斎藤とに助けて貰ったのである。一つも感謝されることなんてしていない。
「なるほど」
とは苦笑で呟いた。少女の言葉で大体の状況は把握出来た。
どうやらあのお節介な性格が、今回の騒動の原因らしい。
「まったく、後先考えないんだから」
もしこの場に斎藤ももいなかったらどうなっていたと思うのか。千鶴は下手をすれば死んでいたのに。
やれやれと溜息を吐きつつ、それが彼女の良いところだったなと思い出す。
誰かが傷つけられるのを黙って見過ごせない。その気持ちだけで飛び出すことが出来る。そんな優しい心の持ち主なのだ。例えば自分が傷つけられたとしても。そんな彼女を誇らしくも思い、同時に危ういとも思う。しっかり見ていてやらなければいけないな、なんて思う自分が可笑しくて少し笑ってしまった。
「私、千っていうの。あなたは?」
にこやかに笑いながら少女が名乗ると、千鶴は慌てて背筋を伸ばした。
「私は、雪村千鶴です」
やはり想像通り、律儀に名を名乗る。
新選組に同行している立場であり、おまけに彼女は隊の中でも隠された存在。加えてあの蘭方医の娘だ。本来ならば迂闊に名を知らせることは避けた方が良いと思うのだが……それを彼女に強要するのは可哀想というものかもしれない。
「私のことは、千って呼んでね」
「お千さん?」
千鶴が鸚鵡返しに言えば、千は不服そうに唇を尖らせてみせる。その愛嬌たっぷりの顔がまた好ましい。彼女は人好きのする性格をしているようだ。
「なんか遠慮されてるみたいでいやだなー」
むうと愛らしい頬を膨らませる彼女についつい千鶴も笑みがこぼれる。初対面のはずなのに何故か親しみを覚えてしまうのは、彼女とそう年が変わらないせいなのだろうか。それとも明朗闊達な彼女の性格のおかげか。
「それじゃあ、お千ちゃん」
「まあ、それで手を打っておこうかな」
個人的には「千」と呼んで欲しかったのだけど、とは内心でだけ告げて眉間に僅かに寄せた皺を解く。
「女の子同士、仲良くしましょ」
「えっ?」
邪気のない笑みでそう千に告げられ、千鶴はぎくっと肩を震わせて固まってしまう。
自分が女だと一目で見抜かれ、驚くと同時に困惑した。彼女も又と同様に、見破られてはならないときつく土方に言われていたから。
どうしよう、ばれてしまっては咎められるだろうかとおろおろとしていると、まるで動じた様子のない斎藤の静かな声が慌てるなと彼女を窘める。
「見る者が見れば分かる」
「いや、誰がどう見ても女の子だから」
後ろで茶化すと「」と土方に怒られてしまった。
千はそんな彼らの様子を見て、まずいことを言ってしまったかと困ったような顔になっている。千鶴はなんと応えれば良いのか分からずに、千とそれから斎藤たちを見遣るばかりなので、代わりにがこう答えておいた。
「申し訳ないけれど、そこはあまり突っ込まないでやってください」
「……分かりました」
一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、少女はすぐに何かを察してこくりと頷く。
それからまた千鶴の方へと向き直り、その両手を取ると名残惜しそうな顔になった。
「本当にありがとう。出来るならばお礼をしたいんだけど、生憎と人を待たせてるの。だからまた今度はゆっくり会いましょう?」
「うん」
こくりとしっかり頷いたのを見て、千は漸く手を離し、踵を返した。
それからぺこりと礼儀正しく斎藤や、土方らに頭を下げて、律儀にもにも頭を下げてくる。
どうもとそれに応じようとしたその時、
――キィン ――
と、頭の中で甲高い音が聞こえた。
まるで耳鳴りのような、空気を引き絞るような音。それが頭の中を不快に響き、は僅かに顔を顰めて顔を上げる。
「――」
すると何故だろう。少女が驚いたような顔を浮かべてこちらを見上げていた。
やがて驚きのそれを真剣な眼差しへと変え、先程の愛嬌のある彼女は何処へ行ったのやら、怖いくらいの形相で見上げてくる。
両の眼は探るような、否、暴くような強い瞳で、それが一瞬、ゆらりと色を変えた。
神々しいまでの、金色に。
「お千ちゃん?」
「っ!?」
控えめな千鶴の声が、彼女を引き戻す。千は肩を震わせたかと思うと、今一度を見上げてにこりと笑った。
「それじゃあ」
彼女の目は、もう金色に光ったりはしなかった。
「、どうした?」
ふわりと髪を靡かせて行ってしまうその後ろ姿を怪訝そうに見送っていると、土方に声を掛けられる。
「いや……」
今何か、と言い掛けては止める。見間違いだったに違いないのだ。彼女の瞳が金色に輝いただなんてそんなこと。
「なんでもないです」
「……」
不審げに眉を寄せて土方は睨んでくるが、はもう一度何でもないと頭を振った。それよりも、だ。
「千鶴ちゃん、大活躍だね」
にやにやと笑いながら、千鶴に声を掛ける。生真面目な男は先程の無謀を懇々と咎めているようだが、そんな彼をまあまあと宥めて目を白黒とさせる彼女に笑いかける。
「か弱い女の子の為に立ち向かう姿、格好良かったよ」
「そそ、そんなことないです!!」
千鶴は慌ててぶんぶんと、千切れてしまいそうな程首を振って恐縮している。
「いやいや、ほんとに格好良かったよ。ちょっと冷や冷やしたけどね」
「、調子に乗らせるな。また千鶴が無茶をしたらどうする」
「その時は、一、よろしく頼む」
「……何故俺が」
「なんだかんだで、一は面倒見が良いから」
「……」
「おい、おまえら」
茶化すを睨み付けながら口を開くと、呆れ顔の土方に言葉を遮られた。
仲良きことは良いことだが、いつまでもじゃれ合っている場合ではない。
「早く見回り終わらせろよ。これじゃいつまで経っても終わらねえぞ」
「はっ!!」
声に斎藤はぴしりと今一度背を正し、行くぞと隊士に号令を掛けて歩き出す。その後を千鶴も慌ててついていくのを見送ると、行くぞとも首根っこを掴まれて引きずられていくのだった。
「……」
そんな彼らの後ろ姿を見つめながら、千はひっそりと誰にともなく呟く。
「今のは、」
両の瞳をついと細め、少女は凛とした声を吐き出した。
「今のは――なに?」
ざわりと、身体の中で血が騒ぐのを感じた。
まるでそれは、己の中にある『それ』が恐れるかのように。
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