14


 狐憑き――というのを聞いたことがある。
 狐の霊がとりついて、自分の意志とは関係なく奇行に走るのだと。
 それかどうかは分からないが、診療所の方にも狐憑きだと言われて運び込まれた人がいたのを覚えている。彼らは何かよく分からない言葉をぶつぶつと呟いていたり、錯乱して暴れ回ったりと、とにかく常人では考えられないような行動を取っていた。それが自分にも起こっているのだろうか。今こうして考えている自分はいつもの自分だと思うのだけど、それももしかしたら違うのだろうか。
 隣に用意されている誰もいない部屋で、千鶴は一人頭を悩ませていた。
 考えたところで埒などあかないのだが、それでも自分と似た人間が彼らの邪魔をしたと言われると気になるというものだ。
 そういえばと、その時思い出す。つい先日、自分によく似た人と会ったことを。そうだ、まるで鏡を見ているようだと思ったじゃないか。それなのに自分の意志とは関係なく彼女は動いていた。彼女が自分ではないのだから当然だ。もしや彼女が?
「薫……さん」
 確かそんな名前だった気がする。
 一人ごちた瞬間、
「彼女が犯人かもしれないね」
 突然背後から声が聞こえて、びくりと肩を震わせて飛び上がった。
 振り返ると開いたふすまの隙間から顔を覗かせている沖田の姿がある。首だけがにょきっと生えているその光景に、二重の意味でぎょっとした。
「お、沖田さん!」
「あはは、そんなに驚かなくてもいいじゃない。僕は狐でもないし、鬼の副長でもないんだから」
 軽口を叩いて、彼はそっと部屋に入ってくる。
 そうして何故かどっかと千鶴の前に腰を下ろした。この部屋には酒も料理も用意されていない。誰かが休む為に用意された部屋なのだ。行灯を灯してあるだけで、何もない部屋だ。ただその部屋に続くもう一室には布団が一式、用意されていることを千鶴は知らない。知らなくて良いことだ。
 こんな所に何故、彼は来たのだろう?
「……」
 腰を下ろした沖田は開いた障子戸から見える夜空を見つめていた。
 横顔をちらっと見上げ、千鶴はまた視線を落とす。先程によって解いて貰った緊張が、またやって来た。
 ここ数日、彼とはあまり二人きりにならないようにしていたのだ。決して彼を避けてというわけではない。ただどうしても彼の顔を見ると労咳のことが頭を過ぎって、忘れると言った手前それは悪いことのような気がして顔を合わせないようにしていたのだ。そうすれば忘れられるわけではない。でも、隠しごとの下手な自分のせいで彼の病が露見することはなくなる。
 ――それに顔を合わさなければ、彼に嫌われることもなくなる。そう思ったから。
「あの、私、」
「さっきの話……考えてたんでしょ?」
 皆の所に戻りますと言い掛けた声を、沖田の静かな声が遮る。
 目を丸くして横顔を見れば、彼はゆっくりとこちらへと視線を向けてきた。ばちりと翡翠の瞳と絡んだ瞬間、囚われてしまった気がする。千鶴は静かにこくりと頷いた。
「僕も思った」
 先程原田の話を聞いてからずっと、考えていた。
 あの南雲とか言う女の仕業ではないかと。
「左之さんの邪魔をしたの、あの薫って子かもしれないなって」
 千鶴が抜け出したと考えるよりもずっとしっくり来る気がしたのだ。
 そう心の中で言い訳をすると、千鶴が反論に口を開いてくる。
「でも、あの子、女の子ですよ?」
「うん、そうだね」
 でもそれが何だと沖田はあっさりとした様子で頷いた。
「女の子でも、邪魔することは出来るよ?」
「……でも、」
「勿論、これは推測でしかないからね」
 ここでああでもないと議論をしたところで真実は分からない。
 南雲という女の仕業か、それともまた別の似た人なのかは。それは当人を捕らえてみなければ分からないことだ。
 彼の正論に千鶴は一旦口を噤み、もし、という形で問いかけてみた。
「もし、あの人がそうだとしたら、どうするんですか?」
 犯人があの南雲薫という女だったら彼は一体どうするのか。
 問いかけに、沖田は肩を揺らして笑った。
「それ返ってくる答えが分かってて聞いてるでしょ?」
 彼は迷う素振りなど少しも見せず、いつもの調子で楽しげに笑って、
「殺すよ――もちろん」
 きっぱりと言い切った。
 その双眸をほんの少し、冷たい色にして彼は淀みなく答えるのだ。
「たとえ女の子だろうと、敵は敵だからね」
 近藤の邪魔をするというのならば、迷わず斬り捨てる。
 彼ならそう答えると知っていた。分かっていた。
 だけど、いざ『殺す』と言われると、その言葉が胸に深く突き刺さる。
 何故傷つくことがあるのか。彼女は知らない人なのに。でも、自分と同じ顔をした人でもある。
 そんな彼女を、沖田は躊躇わず殺すと言うのだ。
 もし、と千鶴は思ってしまう。
 もし自分が同じことをしたら、やはり彼は同じように迷わずに殺すのだろうか。
 自問して、笑いたくなる。そんなの決まっている。
 彼は――迷わずに斬る。千鶴なんて躊躇わずに。
 だって彼にとっては、自分という存在はその程度してかないのだから。
 それをもう、悲しいとも苦しいとも思わない。そういうことなのだと納得させるしか無かったから。

 千鶴は口を噤んだ。もう聞かない方が良いと、思った。
 静かに畳を見下ろす彼女を見て、沖田はほんの少しだけ口を開いて、だが止めた。そうして彼女から目を背けるみたいに視線を夜空へと向けた。
 沈黙が二人きりの室内に満ちた。宴席は盛り上がっているようで、楽しそうな笑い声がずっと聞こえてくる。それもどこか遠くに聞こえた。この部屋だけ、取り残されたようであった。静かだけど、その静けさは酷く居心地が悪い。のし掛かってくる沈黙の重さに胸が苦しくなるのだ。それなのにそこから抜け出すことも出来ない。苦しくて、辛くて、胸の奥がぐるぐると渦巻いて不快になるのに。こうなると分かっていたのに何故、と沖田は自分に問いかけた。どうせ碌に彼女と会話なんて出来ない。彼女はそんなの望んでいない。それなのにどうして追いかけてきてしまったのか。放っておけば良かったのに。彼女が犯人ではないのなんて分かっていたのだから放っておけば良かった、それなのに。
 睨め付けるように暢気そうな綿雲を睨み付ける。そんな彼に恐れをなしたのか、雲が退散とばかりに流れていく。その下から丸い月がぽっかりと現れた。
「……優しい、月だね」
 そんな風に思ったのは、きっと初めてだと思う。
 月に感情なんてない。だから優しいとか、意地悪だとか、そんなのはあり得ない。でも、何故かその月明かりは優しく彼を慰めてくれる気がした。
「今日は、月が綺麗に見える」
 静かな呟きに、千鶴は驚いて顔を上げた。
 それがなんなのか千鶴は分からない。確かに今日は綺麗なお月様が出ているが、突然彼がそんなことを言った理由は分からなかった。
 余計なことは言うのにどうしてこう言う時には必要なことを言わないのか。悪友がいたならば言っただろう。原田が土佐藩士を捕らえたあの夜は、月があまり出ていなかったのだ。それを、彼は言おうとした。そう、その為に彼女を追いかけてきたのだ。でも言葉が足りずに彼女にはまるで伝わらない。結局、そうなのだ。
 自分ではどうにも出来ない。
「……」
 口を噤んでしまった沖田の横顔から、笑みが消えた。
 怒ったのかと思えば、違う。ただぼんやりと月を見上げていた。柔らかく光り輝く月を、眩しいものでも見るかのように目を眇めて。その横顔はまるで別人のようであった。
 それが彼の本当の姿なのだろうか。意地悪な仮面を外した彼は、酷く幼く見えて、そしてどこか儚げで――
「……なに?」
 今にも月の光に溶かされて消えてしまいそうで、千鶴は気付けば彼の袖を掴んでいた。
 消えないでくれと、引き留めるみたいに。
 その顔を泣きそうな顔に歪めて、彼女は袖をきゅと強く握りしめた。まるで、置いていかれた子供みたいだと沖田は笑った。
「構ってほしいの?」
 意地悪く問いながら、迷子の子供に声を掛けるように声音が柔らかくなる。
 千鶴ははたと我に返り、慌てて手を離した。
「す、すみませんっ」
 彼を引き留められるはずがなかった。否、引き留めてはならない。彼はそんなこと自分に望んでなどいないのだ。
 千鶴に望むことなんて何もない。千鶴が出来ることなど何もない。ただ、見ない振りをして、知らない振りをするしか出来ない。そうしなければまた、彼に――
 嫌だと頭を振り、千鶴はあははと乾いた声で笑ってみせた。
「ちょっとお酒のにおいに酔ったのかもしれません」
 それで笑っているつもりなのかと言ってやりたい位、固くて不自然な笑みだ。
 また、それ。
 沖田の胸の奥がじりっと嫌な音を立てる。
 彼女の嘘の笑顔が、酷く腹立たしくて仕方ない。自分にだけに向ける、偽りの笑みが、酷く胸を掻きむしって不快にさせるのだ。
「それ……やめたら?」
 冷たい声が口から零れた。
「無理矢理笑うの、見てて苛々する」
 楽しくもないくせに、嬉しくもないくせに。無理をしているのが見え見えの、下手くそな笑顔しか浮かべられないくせに。
「あっ」
 不快げな彼の言葉に、千鶴は声を上げ、やがてしゅんと項垂れた。
 また、彼を怒らせてしまった。彼に嫌われてしまった。どうして自分はいつもこうなのだろう。これ以上失敗はすまいと思うのに、何故また。
 項垂れてすみませんと謝る彼女に、またじくりと胸が痛む。じりじりと焼いた火箸で刺されてぐちゃぐちゃにされるみたいに痛んで、疼く。
 間違ったことなど何一つ言っていないのに、なんでこんな不快な気持ちにさせられるのか。痛くて、気持ち悪くて、苦しくて、でも吐き出せなくて苛々する。もういい加減にしてくれと声を荒げてしまいたくなる。

 ――八つ当たりして、なにか変わる?

 悪友の冷たい声が、まるで頭を冷やせとでも言うみたいに蘇った。
 その時はっと気付く。これが彼女の言っていたことなのかと。
 自分はただ、このどうしようもない感情を彼女に乱暴にぶつけていただけなのだ。彼女が悪いわけでもないのに。彼女にぶつけたところで何も解決しないのに。闇雲にぶつけて、彼女を傷つけていただけ。それを彼女は必死にその小さな身体で受け止めていた。泣くことも出来ずに。
 そのみっともなさと言ったらどうだろう。
 今更のように気付いて、情けなさに反吐が出そうだ。それなのに素直に謝ることも出来ない自分はどうしようもない子供で、更に腹正しくて仕方がない。
「私、失礼しますっ」
 その間にも健気な少女はぺこりと頭を下げて、何も言わずに出ていこうとするのに。その痛みを心の中に抱えたまま。きっと彼女は責めたりしないのだろう。酷いと詰ることだって。ただ傷を抱えて、必死に涙を堪えて、そしてまた明日も笑おうとするのだ。その心をぼろぼろに傷つけながら。沖田が言う無理矢理の笑顔を張り付けることしか出来なくなるのだ。
「待って!」
 沖田は慌ててその手を掴んだ。
 ぎくりと華奢な身体が大袈裟な位に震えた。一瞬振り解かれたらどうしようかと思ったけれど、千鶴は拒まない。ただ驚いた顔で振り返った。
 待ってと制止を掛けたのに、言葉が上手く出てこない。考えが纏まらない。ぐちゃぐちゃと胸の中で様々な感情が混ざり合い、酷く疼いて苦しい。言わなければいけないこと、伝えなければいけないことが色々あるのに、どうすれば良いのか沖田には分からなかった。でも一つずつ、蹴りをつけなければいけない。そうしなければこれからだって彼女を傷つけたままだ。
「ごめん、今の、違う」
 ぽつぽつ、と拙い声で沖田は告げた。
 違うのだと。こんなことが言いたかったわけではない。
 彼女を責めたいわけではない。傷つけたいわけではない。
 このひと月、彼をこんなにも苦しめたのは、苛立たせたのは、ただ――

『沖田さん』

 ふわりと、彼女が自分の前で笑わなくなったのは何時だっただろう。無邪気に、優しく、笑いかけてくれなくなったのは。
 ああそれだ。
 他の人には向けるのに、自分の前でだけ彼女は強張った笑みを浮かべた。
 それが悔しくて、自分は我慢ならなかったのだ。
「僕にだけ……そんな顔、狡いじゃない」
 言葉を一つ一つ探すみたいに、たどたどしく沖田は紡ぐ。
 この胸の内の苦しさを分かってくれと、気付いてくれと、精一杯不器用な彼なりに言葉を探して。
「他の皆の前じゃ、楽しそうなのに」
 なんでと咎めるような声音になってしまった。そんなの自分のせいだ。分かっている。分かっていても悔しいのだと彼は子供のように我が儘を言うのだ。だってそんな顔見たくない。彼女のそんな作り笑いなど。そんな顔、ちっとも彼女らしくないのだから。
「……沖田、さん」
 真っ直ぐにこちらを見つめる千鶴に、戸惑っている自分を悟られたくなくて、笑みで誤魔化そうとした。でもそれは失敗して、千鶴の目が大きく見開かれる。茶色い瞳に映る自分のなんと情けないことかと彼は自分で自分を嗤い、がりがりと首の後ろを掻いてほんの少しだけ視線を背けた。
 たったそれだけ吐き出しただけで、あれだけ不快だった胸の内が軽くなった。軽くなった胸の中に、空気を吸いこむ。そうしてゆっくりと吐き出すと、自分が何を言いたいのか分かった気がした。
「君は、さ。思ったことを思った風に顔に出すのがいいと思うんだ」
 我慢なんてしないで、無理なんてしないで、思ったままを思った通りに出した方が良い。
 だって、と沖田は続けた。
「そんなに、君は器用じゃないんだし」
 本当は別の言葉を言いたかったけれど、それを認めて口に出来る程、素直になりきれない。
 八つ当たりをしてごめんとも謝りたかった。傷つけてごめんとも言いたかった。でもなんだか照れ臭くて、茶化してそう言うと、千鶴は目を丸くした後にくしゃりとその顔を情けなく歪めた。
「ひどい、です」
 困ったような顔で、彼女は笑う。
 前のような満面の笑みじゃない。でも、もう偽りの笑顔でもない。それだけで沖田は良かった。ほっと安堵した。胸の奥が穏やかになっていくのを感じた。
「でも、本当でしょ?」
「ひどい」
 くすりと笑うと、千鶴の唇が拗ねたみたいに尖る。
 不満げに眉根も寄せた、かと思うと、やがて悪戯っぽい沖田のそれに釣られて、口元を綻ばせた。
「ありがとう、ございます」
 何故かお礼の言葉を述べながら、少女はふわりと笑みを浮かべた。
 それは心底嬉しそうな笑顔。沖田の気持ちを受け止めて、零れた本当の笑顔。
 彼女の笑顔は君菊のそれなんて目じゃない。
 とても綺麗で、甘い笑顔だった。

 守ってやりたいと男に思わせる笑顔だった。

 それは女の子だから?
 いや、違う。女だろうが男だろうが彼には関係ない。
 では綱道の子供だから?
 それも違う。
 そんな理由ではなくそう、ただ、

 千鶴だから守ってやりたいと思うのだ。

 それは彼が彼女に惹かれ始めているから。
 雪村千鶴という一人の女の子に、惹かれ始めているからなのだと。
 彼がそれを自覚するのは、もう少し後のこと――



 壁を隔てた隣室から、くすくすと二人の楽しげな笑い声が聞こえてくるのを、は耳を峙てて聞いていた。
 一時はどうなることかとひやひやしたが、どうやら丸く収まったらしい。
 ほっと胸を撫で下ろすと、壁から静かに身体を離した。もうが心配する必要はない。二人はもう大丈夫だ。
 そんなことを考えながらどうやら自分も相当なお節介になってしまったものだと一人笑う。千鶴のお節介が移ったらしい。でも、悪くない。
「なんだ、こんなところにいたのか」
 一人くすくすと笑っていると、すと静かにふすまが開いて土方が顔を出した。何故か笑っている彼女を見て、苦笑を漏らしてこんな言葉を吐いた。
「なに一人で笑ってやがんだ。気色悪い」
 確かに理由を知らない彼が気味悪がる理由も分かるが、だからといって気色悪いとはどういうことか。
「仮にも売れっ子の花魁に向かって気色悪いとはなんですか」
「うるせえ、売れっ子なら客を放っておかずにしっかり仕事しろってんだ」
「そんな酷いことを言う人のお酌なんて御免です。逢状もらったって座敷に上がってあげないんだから」
 つーんとそっぽを向いてみせると、土方はやれやれと肩を竦めて後ろ手にふすまを閉める、すたすたとこちらへと近付いてきた。その手には徳利と杯が二つ。どうやら彼女と飲む為に持ってきたらしい。
「良いんですか? 君菊さん放って来ちゃって。今頃寂しがってるんじゃないかなー?」
 意地悪く笑みを浮かべる彼女に、馬鹿かと土方は吐いた。
「今頃、原田たちの相手になってくれてんだろ」
「分かりませんよ? 色男を捜して追ってくるかも」
「ああもう分かった分かった」
 分かったから酌をしろ、と言うかのようにずいと盃と徳利を差し出される。は半眼になって見遣り、やがて溜息と共に受け取った。
「今日だけ、特別相手をしてあげます」
「おうおう、ありがてえこった」
 差し出された盃に静かに酒を注ぐ。それを土方は一口だけ喉に流し込む。熱い感覚が喉から臓腑まで流れていくのをゆっくりと味わった。
「総司と千鶴は?」
 それを堪能してから、静かに問うとは喉を鳴らしてくつくつと笑った。とても花魁とは思えない嫌な笑い方だ。
「一件落着……っぽいですよ」
「そうか」
 咎めるような目は、の言葉でふわりと柔らかい色を浮かべる。安堵した顔に、お節介なのは自分だけじゃないと分かって、また笑った。
「なんだ、さっきから、気味が悪いな」
 また気味が悪いと言うけれど、気にしない。だって気分がいいのだから。
「漸く一件落着か。まったく手の掛かる連中だ」
「喧嘩する程、仲が良い、ですよ」
「巻き込まれるこっちの身になれってんだよ」
「ちゃんと仲直り出来れば良いんです」
「俺は面倒なのは勘弁だ」
 やれやれと大袈裟に肩を竦めてみせる彼に、は上機嫌で「土方さん」と声を掛けた。
「あの二人、なんだかんだで良い感じだと思いません?」
「なんだ藪から棒に」
 突然彼女がそんなことを言いだして、面食らってしまう。この手の話題にまるで興味がない女だったからだ。どうやら先程の千鶴に感化されたのかもしれない。他人の恋だというのに、ついあれこれと考えてしまう。
「私、応援するけどな」
 まだまだ恋仲と呼ぶにはまだまだ遠いかもしれないが、嫌われたくないと恐れたり、相手を傷つけては苦しんだり、そんなことをするのはお互いを好く思っている証拠だ。それを彼らは漸く気付いて不器用ながらもそれを認め、少しずつお互いに一歩を踏み出そうとしている。きっと二人なら上手くいくと思うのだ。
 そう告げれば土方は意外そうな顔でこう言った。
「俺はてっきり、おまえと総司がそういう仲なんじゃねえかと思ってたんだが」
「え? 私と総司が?」
 は驚きの声を上げ、やがてからからと笑い飛ばす。
「いやですよ、私と総司はそんなんじゃないですって」
 彼女は笑うけれど、でも彼らを見ているとそうとも言い切れないものがあると思うのだ。
 他の誰よりも彼らはお互いのことを知っていて、お互いを信頼していて、絆も強い。きっと仲間である以上の何かが二人にはあるのだと思っていたのが、は可笑しげに笑ってそれを否定した。
「私とあいつは悪戯仲間、それだけです」
 面白いことを、悪いことを、一緒に出来る友達。
 誰よりも気心の知れた相手なのは確かで、彼を好いてはいる。でも、それは決して恋愛感情ではないとお互いに知っている。
「私たちは仲がいいんじゃなくて、ただ似ているだけなんです」
 だからこそ、これほどまでに彼と仲良くなれた。
 ただ一人幼い頃に捨てられたという境遇。それを近藤に拾ってもらって、彼に恩を感じている。彼が全ての中心でその彼の為ならばどこまでも冷酷になれるところもそう。彼が望むのならばこの命だって差し出しても構わないとさえ思う、ある種病的なまでに彼を慕っているところまで、そっくりだ。人からは理解されないこの純粋な想いを、は、沖田は理解出来る。同じだから。だから彼らの結びつきは強いのだ。
 でもお互いに恋愛感情はない。も沖田も、お互いを異性だと思ってはいないのだ。
「手の掛かる兄貴が離れていって、私は安心しました」
 そう告げるの横顔は、少しだけ寂しそうに見える。手を焼かされているからこそ、離れていくのは寂しいと思うのだろう。
 でもとすぐにその寂しさを解いて笑った。
「総司には、幸せになって欲しいって願ってます」
 誰よりも良き理解者である彼だからこそ、幸せを願う。
「その相手が、千鶴ちゃんで良かった」
 ふわりと微笑むその顔には、強がりなんてどこにも見られない。
 ただ心の底から願うのだろう。彼らの幸せを。その為なら自分の手を汚すことだって厭わない。
「それにね、私、あんな手の掛かる男は勘弁です」
 優しい顔をしていたかと思うと、いつものあの意地の悪いそれになって、土方は噴き出してしまった。確かに彼女の言うとおりだ。くつくつと喉を震わせて言えば、も大口を開けて笑った。当人が聞けば二人だって充分手が掛かると笑顔で返されることだろう。
「まあ、あの様じゃあ前途多難、だな」
「おやおや、百戦錬磨の色男ってば手厳しい」
「てめえの気持ちさえ素直に認められねえんだぞ? 前途多難じゃねえか」
「あのひねくれ者が自分の気持ちを認めただけ、大した進歩ですって」
「それでもまだまだ、だ」
 好き放題言いながら、土方はの手から徳利を奪う。ほらと促されては仕方ないなと両手で盃を差し出した。桔梗としてここに詰めている時はあまり飲まないようにしているのだが、今日は特別だ。くいと一気に煽ると、ほんのりとした甘い酒の味が喉を潤していく。これは良い酒だ。きっと相当高い。この分じゃあ二十両なんてあっという間だなと思いながら、盃を空にすればまた注がれた。
「あの総司も落ち着くことがあるんだ。そのうちおまえにも好いた男の一人でも出てくるんだろうな」
 そんなことを突然、土方がぽつりと洩らした。
 他人に興味が無い――否、近藤以外に執着しないあの沖田が、彼以外に興味を示し始めたのだ。きっと彼と同じようにだって誰かに惹かれることがあるはず。
 彼女はあり得ないと彼女は言い切るが、あり得ないことでは無い。人の気持ちというものは変わるものだ。だって心を持っている。いつか、この人と決めた男が出来るかもしれない。一生を添い遂げたいと思う男が。今は違うと言っても来年はどうなっているか分からない。いや、明日だってどうなっているのかも分からないのだ。
「それ……千鶴ちゃんにも言われた」
 不満げに唇を尖らせたは、反抗でもするみたいに女らしさの欠片も無い豪快な飲みっぷりで酒を飲み干す。
「千鶴に?」
「ええ。好きな人はいないのかって……だから、素直に近藤さんって答えておきました」
 あっさりと答えると土方は呆れた顔になった。
「そりゃあ男としてじゃなく、身内としての好きだろうが」
「まあ、そうなんですけどね」
 しれっと答えて、今度はそちらが飲めと徳利を奪ってやる。土方は眉間に皺を寄せていたが、許してやらない。変なことを言った罰、なのだ。
「おい、入れすぎだろ」
 なみなみと零れそうになるくらいに注がれ、彼は慌てて口で迎えに行く。少し零れてしまったが気にしない。そういえば、とは彼がちびちびと酒を飲むのを横目に見ながら口を開いた。
「そういえばその時、土方さんはどうですか、って言われました」
「っ!!」
 ぐっと彼が噎せた。
 突然変なことを言われてびっくりして、変な所に入ってしまったらしい。げほげほと顔を背けて咳き込む彼に、呑気に大丈夫ですかと声を掛けてみた。
「お、まえ、何を急にっ」
「やだな。照れることないじゃない」
「照れてねえよ!! なんでてめえとっ!!」
「全力で否定することもないと思います」
 ぎろっと睨み付けてくる男を見て、はやっぱりないなと内心で呟く。
 確かに、彼は君菊や千鶴の言うように男前だ。だって男前だと認めている。だけどに向けられるのは大抵が仏頂面か、意地の悪い面か、殺人鬼みたいな凶悪な面だ。ひやりとしたり、ムカッとしたとしても、見惚れることはほとんどない。
 性格だって、頑固だし意地っ張りだし、勝手だし、変なところで子供っぽいし。なんでも一人で背負い込んで、ずんずんと勝手に進んでしまうし、こちらが心配しても聞く耳も持たない。その癖人が無茶をすると怒るし。考えれば考えるほど面倒で勝手な男だと思う。
 そんな彼の何処に惚れろ、というのだろう。誰か教えてくれとは思う。
「おい、
 まさか考えが口に出ていただろうか。静かに名前を呼ばれ、は何も言っていないと取り繕いながら、彼に酒を勧めた。
 その時の、彼は、が驚く程に穏やかな表情を浮かべていた。
 まるで鬼の副長らしくない。優しい顔。
 ――だけど、だって本当は知っている。
 そんな自分勝手で我が侭で、傲慢で、時折子供っぽい彼が、
「もし、おまえも好いた男が出来た時は俺に言え」
 鬼の副長と呼ばれて恐れられている彼が、
「そん時は、俺がなんとしてでもおまえを抜けさせてやる」
 誰よりも優しいことを知っている。
 彼女が驚いたような表情でこちらを見ている。自分がそう言い出すのはさぞ驚いただろう。出来ないことを口にはしないと彼女は分かっているから。そう、彼が口にした言葉は実現が難しいことなのだ。
 一度新選組として名を連ねたが最後、死ぬまで組を抜けることは出来ない。それは入隊前に確認することだった。死ぬまで新選組であることを誓えるかと。それに是と答えたが最後、彼らは死ぬまで新選組の隊士として在り続けなければならない。即ち、脱退は切腹を意味する。これも最初に確認された。もしそれが無かったとしたとしても、ほどの立場となればまず脱退は許されないだろう。彼女は新選組の裏の姿まで知り尽くしている。その秘密を外部に漏らさぬ為に、死んでもらうしかない。無論他の幹部隊士も同様に。
 だがもし、が本気で惚れた男が出来たならば。その男と添い遂げたいと願うならば。女に戻りたいと願うならば。彼はその願いを叶えてやりたいと思うのだ。
「今まで、散々こき使っちまったからな。それっくらいはしてやるよ」
 文句の一つも言わず、ただ彼が命じるままに働いてくれた。危ない仕事も、汚い仕事も、嫌な顔一つせず。自分の身を犠牲にして、必死に尽くしてくれた。ただ近藤を。いや、正確には――土方のちっぽけで大きな夢の為。彼女がいなければ、もっと彼らは苦労を強いられていただろう。色んなものを犠牲にしただろう。もしかしたらあの夜、大切な友を亡くしていたかもしれないのだ。彼女がいたから、今もこうして彼の為にあれる。だから、
「何がなんでも、おまえを抜けさせてやる」
 が望むならば、土方はなんとしてでも五体満足に彼女を脱退させてやりたいと思う。
 そう告げた瞳はとても優しかった。鬼と呼べないほどに優しくて、暖かかった。
 本当は、彼は鬼なんかじゃない。は知っている。彼は誰よりも非情でありながら、誰よりも仲間思いで、優しい人だと。だからこそ、とは思うのだ。この男は狡いと。
「何言ってるんですか」
 は不満に顔を顰めたかと思うと、ぐいと男の胸ぐらを掴んで引き寄せた。
 途端に強くなるのは酒と、女の甘い香り。ふわりと身体に纏わり付き、離すものかと言うみたいに身体から離れない。の手も離れず、そして睨み付けるその琥珀がついと細められた瞬間、その瞳の強さに射貫かれる。
「私は地獄の底まで一緒に行くって決めたんですよ」
 真っ直ぐに、どこまでも貫き通すような揺るがない視線が男に突き刺さった。
 はあの時決めたのだ。
 地獄の底まで彼らと共に行くと。彼らがどのような道を選ぼうとも、ついてゆくと。例え人から後ろ指を指されようとも、罪人と罵られようとも、決して彼らと道を違うことはしない。
 地獄に堕ちるならば共に堕ちてやる。一人だけ幸せになんか、なりたくない。彼らの選んだものから、目を背けたくない。逃げたくない。死ぬときは一緒。彼ら同じ、戦場が死に場所。
 そうは決めた。
 だからそんなことを言ってくれるなとは願う。一人だけ、置いていったりしないでくれと。
「私をのけ者になんかして死んだりしたら、地獄から引きずり上げてやりますからね」
 悪戯っぽく笑うその目が、獰猛に光る。
 もし彼がそんなことをすれば、彼女は自分を追いかけてきて、本当に地獄の底からででも引きずり出して罵倒するのだろう。きっと地獄の閻魔大王さえも斬り捨てて。
 勇ましいのか、それとも物騒なのか、いや、その言葉は頼もしいのだろう。土方はくつりと笑って、そりゃあと苦い顔で言った。
「おちおち死んでもいられねえな」
 どこか嬉しそうな顔で言う彼に、はにやりと笑って、
「そう簡単に逃げられると思わないでくださいね」
 誓いでも立てるみたいに己の盃を彼のそれへと当てた。

 かつんと、小さな音が夜空に舞った。



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