11
部屋のあちこちについているのは長年の汚れだ。古い寺なのだから仕方ない。そう思っていたのに、実は案外と綺麗だったのには驚く。
この大広間なんて特に人の出入りが激しく、痛みも汚れも酷いのは仕方ないこと。取れるはずもないと思っていたのに今ではまるで別物かと思うほどぴかぴかだ。床が輝いている。
掃除というのはしっかりとすれば頑固な汚れも取れるらしい。とは言ってもあの隊士達の部屋は最悪だった。酷かった。目も当てられない程に汚れ、そしてごちゃごちゃと物が散乱していた。因みに永倉の部屋は襖を開けた瞬間に閉めた程の汚さだった。それも今は別の部屋だと見間違うほどに、綺麗に片付いている。いつものように押し入れに無理矢理詰め込んだその場凌ぎではない。要らないものは捨て、きちんと整理整頓して、綺麗にしたのだ。
そうして全室を掃除すると、は思わずと呟いていた。
「すごいな」
ただただ感心した。
部屋を綺麗に片付けただけで、とても清々しい気持ちになるのだから不思議である。
まあ達成感はあるのは確かだろう。汗水垂らして隊士全員で大掃除。大変な肉体労働であったし、途中でもういいやと諦めたくもなった。それを皆で励まし合って、この結果が生まれたのだ。掃除如きで隊士との絆まで生まれた気になるのだから不思議である。
「全員で掃除したらこんだけ綺麗になるってことだな」
言葉に、藤堂がしみじみと答えた。
驚きついでに、西本願寺に屯所を移してから随分と経つのにその間に屯所内の掃除をしたのは、昨日が初めてなのである。これは驚くと同時に松本にしこたま怒られた。
「長いこと、みんなと一緒にいるけど……あれだけ真面目に掃除してる幹部連中なんて初めて見たよ」
「オレも新八っつぁんがあんだけ真面目に床磨いてるのを見るのは初めてだぜ」
「すっごい不思議だったよね。千鶴ちゃんもそう思わない?」
恐らくこの中では功労賞である彼女に声を掛ける。今まで屯所の掃除を一手に引き受けてくれていた千鶴は、誰よりも手際が良く、そして誰よりも真剣に掃除に取り組んでいた。さすが女の子と言うところか。細やかな所まで目を配ることが出来る上に、根気強い。流石だなと笑うと彼女はじっとを見上げたままでこう呟くのだった。
「私にはさんが不思議です」
真顔だった。
が女性だった、ということは千鶴の中で酷く衝撃的な事実であった。それこそ、暫くはそれが嘘ではないかと信じられないほど。
まあ、千鶴はを本気で男だと信じ込んでいたのだから当然のことかもしれない。は男にしては腺が細い美男子だとは思っていたが、立ち居振る舞いは完璧に男のそれだった。こんなことを言えば気を悪くするかもしれないが、女だという片鱗も見受けられなかった。 千鶴も男として暮らしているが、やはりどうしたって咄嗟の時に女である自分が出てしまうものだ。
長年男装をしていた……ということは、長年窮屈な思いをしていたということ。千鶴はふっとその時、あの夜見たふくよかな膨らみを思い出した。それから、今のを見る。
「……ん?」
その胸元は男のそれと同じく、平らである。当人はサラシを巻いていると言っていたが、あれでは窮屈ではないだろうかと思った。
「千鶴ちゃん、あまり見詰められると照れちゃうよ」
その時がにやりと悪戯っぽく笑った。
女だ、と分かっていてもその綺麗な顔で妖しく微笑みかけられたらドキドキとしてしまうので、千鶴は困ってしまう。
えとあの、と口籠もっていると隣から藤堂がにやにや笑いながらこう口を挟んできた。
「千鶴が驚くのも無理はないと思うぜ。は、ぜんっぜん女らしくねえもんな」
これで女だと言われても藤堂だって信じられないと言い切るので、それは失礼だろとは苦笑交じりに反論した。
「新選組の中にいて、女らしさなんて必要ないでしょ?」
「いや、少しくらいは可愛げとかあってもよくね?」
「そういう平助君は可愛いよね」
「……なんだよそれ、馬鹿にしてんのか?」
「うん、してる」
「何をー!?」
にこやかにが言えば、藤堂は顔を真っ赤にして声と両手とを振り上げた。振り上げても下ろさない。なんだかんだ言いながらもそこは彼がを女扱いしていることじゃないのか、と千鶴は思うのだ。
因みに「うるせえぞ」と言う鬼副長は、平等に二人の頭を叩いた。遠慮は無しだ。
「もー、土方さん、最近怒ってばっかり」
「怒らせてんのは誰だ」
ぎろっと緊張感の無い助勤を土方は睨み付ける。
ここ数日の出来事を考えれば彼女を怒鳴りたくもなるというものだ。
突然千鶴を連れ出して刻限までに帰ってこないかと思ったら、戻ってきたら戻ってきたで何故か着物もサラシも破られてというとんでもない格好で現れて、聞いても酔っ払いに絡まれたの一点張り。絶対に口を割らない。一体誰に、何をされたのか分からないまま数日が過ぎたかと思えば次はへらへらした顔で「千鶴に女だとばれた」などと言ってきて、さすがに怒鳴り散らしてしまったものだ。少し弛みすぎている、と。
相手が千鶴だから良かったものの、ここには伊東一派もいるのだ。彼らに露見でもしてみろ。どうなったか考えるだけで頭が痛くなる。
「もう少し気を引き締めろ」
「引き締めてますよ」
「嘘吐け。弛みきった顔しやがって。っつか、ここでそんな話をするんじゃねえよ。誰かが聞いてたらどうすんだ」
「それは平助のせいです」
「なんでオレ−!?」
正確には千鶴がきっかけだが、女だと口にしたのは彼だろう。ということで彼には悪役になってもらうことにする。
それが定めだよと生暖かい目で見守ると、彼は違うからなと睨み付ける土方に必死の様子で言い訳をした。
「平助。埃が舞う。暴れるならば外で暴れて来い」
「一君もひでえよ!!」
冷静な斎藤の突っ込みに藤堂が情けない声を上げた。
それがなんだか可笑しくて、一同は笑いを漏らすのだった。
その時、足音も立てずに沖田が部屋を出て行くのに千鶴は気付いた。足音も立てていないのだから気付くはずもないけれど、それは千鶴が彼のことを無意識の内に目で追うようになっていたから気付くことが出来た。どうやら彼は松本に呼ばれたようである。
「……」
部屋を出て行く沖田の横顔が酷く真剣なもので、千鶴は何を考えるでも無く即座にその後を追いかけていた。
それにも気付いた。ちらりと視線でだけ追いかけ、だが逡巡する間もなく口元に苦笑を浮かべると、歓談に耳を傾けることにする。ここは彼女に任せることにしようと。
少し後、気付けば斎藤の姿も無かった。
庭先に出てすぐに見失った二人の行方は、島田が教えてくれた。彼らは中庭の方に歩いて行ったらしい。
千鶴も急いで二人を追いかけるべく近道を走った。
人が一人分通り抜けられる隙間を進めば、二人の姿をすぐに見つけることが出来た。中庭の縁台に腰掛けて、何やら真剣な顔をしている。
話し合いの途中に声を掛けてはまずい。そう分かったが、それよりも前に千鶴の足が止まっていた。なんだか二人から漂う張り詰めた空気が深刻な話であると表している気がして、少女はそっと物陰に身を潜めた。立ち聞きなどしてはいけないと分かっているけれど、なんだか嫌な予感がするのだ。ここで聞いておかなければ、一生後悔しそうな気が。
ほどなくして、松本が重たい口を開いた。
「結論から言おう。……おまえさんの病は労咳だ」
どくりと、心臓が跳ねた。
あまりに衝撃的な言葉に、思考が一瞬停止した。
今、彼はなんと言った?
思わず我が耳を疑わずにはいられない。
だって『労咳』なんて。そんなことあり得ない。
いや、実際あり得ないわけでは無い。最近は微熱続きで、咳も相変わらず治らない。風邪なら安静にしていれば数日で治るけれど、彼は未だに治る気配がなく、どんどん悪化していっている。それに、千鶴だって見たじゃないか。彼が血を吐いたところを。
それでもあり得ない。信じたくない。
そう思うのは労咳という病がどういうものかを知っているから。
認めたくなかった。
彼がそんな病に罹っているだなんて。
「なぁんだ、やっぱりあの有名な死病ですか」
だけど当の本人はさして驚いた風も無く、いつもの様子であっさりと受け入れていた。
死病だと告げられたにも関わらず、なんだと笑って。
「驚かないのか?」
逆に松本の方が困惑してしまう。
労咳だと告げて、青ざめない患者など見たことがなかった。大抵の人は治るのかと必死に訊ねてくる。或いは、項垂れて絶望する。だけど目の前の男は違う。あっさりと認めて、受け入れてしまったのだ。死病を大したことのないもののように。
「そりゃあ、自分の身体のことですからね。なんとなく分かります」
沖田は笑ってそう言い、それからちょっと困ったなという顔になる。
「でも、面と向かって言われると……さすがに困ったなぁ。あはは……」
まるで他人事のように困ったと言って笑う。その声もいつもとなんら変わらなくて。
そんな笑い声が、千鶴には酷く遠くに聞こえた。まるで現のものではないように。これは夢なのだろうかとさえ思う。
それなのに、身体ががくがくと震えていた。現ではないと、夢のようだと思うのに。信じたくないと思うのに。
彼女の頭はまだそれを理解していない。否、納得していない。
ぐるぐると言葉が回る度に嘘だと自分の声が否定を繰り返す。
嘘だ嘘だ、そんなはずがない。認めない。認めたくない。
認められるはずが無い。
人はこの世に生を受けた時から、いつか死ぬと決まっている。彼らのように戦いに身を投じていれば、恐らく常人よりも生涯は短いのだろう。だけど、そんなことは分かっていても認められない。
彼が――沖田が、死の病に冒されているだなんて。
「今すぐ、新選組を離れた方がいい。どこか静かな所で療養して、」
「それはできません」
きっぱりとした否定の言葉は、今度はやけに近くで聞こえた気がした。
はっとしてそちらを見るが、彼は相変わらず縁台に座っていた。こちらに気付いた様子もない。それでも近く、強く聞こえたのは、それが彼の明確な意志だったからなのだろう。
「だってそれって、新選組から離れろってことでしょう? だったら出来ないなぁ」
承服できるはずもないと彼は笑いながら言う。
何故と松本は問うた。千鶴も同じように心の中で。
確かに労咳は死病だ。治ることはない。それでも安静にしていれば多少なりとも生き長らえることが出来る。それなのに何故、と心の中で問い掛けて、千鶴は気付いてしまった。寧ろ最初から分かっていた。そんな愚かしい問いかけをしてしまうのは、ただ生きて欲しいと願う彼女の我が侭だ。
でも彼が望むのは、
「命が長くても短くても……僕に出来ることなんてほんの少ししかないんです」
穏やかな声音で、沖田は言葉を紡いだ。そこには恐れも、迷いもない。微塵だって、死への恐怖に怯えたりなんかしない。
「新選組の前に立ちはだかる敵を斬る――それだけなんですよ」
それだけが彼の願いで、それだけが彼の唯一。近藤の剣となり、戦うことだけが彼の望み。彼に出来る唯一。そして彼の生きた証。そう彼は信じている。だから迷わない。恐れない。死ぬことよりもずっと怖いものがあると、知っているから。自分が何者にも必要とされないあの恐怖を知っているから。だから息絶えるその瞬間まで彼の為に戦えるならば、本望だ。それを奪われれば沖田はまさしく死ぬしか道は残されない。誰にも必要とされずに、ただ寂しく逝くことしか。
そうきっぱりと言い切ってしまえる彼が酷く哀れで……そして同時に美しいと思う。己の死にまでも、潔く、真っ直ぐであれる彼は。
「先が短いなら尚更……僕はここを離れるわけにはいかない」
決然とした響きを湛え、沖田は足掻くこと無く死を受け入れた。そんな彼に松本がもう何も言えるわけがない。無理矢理彼を療養させるというのは、彼を今以上に苦しめる行為だと分かったから。
ただそうかと呟いて、視線を足下に落とすしか出来なかった。
静かな沈黙が落ちた。
ひゅうと風が頬を撫でつけ、千鶴の黒髪を静かに揺らす。見開いた瞳にはもはや、何も映っていない。ただ聞こえた絶望的な言葉に、彼女は虚ろに空を見詰めていた。
先が短いなら――
笑って彼が告げた言葉が耳から離れない。忘れてしまいたいのに、嘘だと思いたいのに、耳にこびり付いて離れてくれない。
(沖田さんが……死ぬ?)
ぐるぐると回る言葉は、やがて千鶴にその結論を導いた。最初から分かっていたことだった。嘘だ、認めたくないと思うあまりに避けていた答え。
彼が、死ぬ。
その答えが、ずるりと千鶴の中に流し込まれる。飲み込みたくもないのにまるで強引にねじ込むように。
じわりと彼女の白い世界に、黒い闇が広がっていった。真っ白な頭は徐々にその黒で染められ、やがては千鶴の全てを蝕むかのように塗りつぶしていった。
絶望感に、口元を覆っていた手さえもがだらりと落ちた。
そんな彼女に追い打ちをかけるように――
「実は、綱道さんが薩長の過激派浪士と行動を共にしているらしいという話を聞いたんだが……あの子にはとてもじゃないが言えなくてな」
松本が苦々しい声で、残酷な言葉を零した。
千鶴の世界はぱちんと、固い音を立てて弾けた気がした。
ふわり、ふわりと優しい風が吹いている。
はっと気が付くと、千鶴は変わらずその場に立ち尽くしていた。どのくらいそうしていたのか、分からない。一瞬何故自分がそこに経っているのかも分からなかった位だ。
いつの間にか、松本の姿は消えていた。ただ縁台に腰を下ろした沖田がぼんやりと空を見ているだけだった。
その背中が何故か寂しそうに見えるのは気のせいなのだろうか。千鶴がそんなことを思った時、ふと吐息が聞こえ、
「千鶴ちゃん」
不意に名を呼ばれた。
まさか気付かれているとは思わず、千鶴は声を上げて飛び上がりそうになる。それを慌てて堪え、両手で口を覆うと恐る恐るといった様子で沖田の背中を見遣った。
千鶴の動揺する気配が手に取るように伝わってくる。何故自分がいると分かったのかと、彼女はさぞ驚いているのだろう。そう思うことこそが可笑しくて堪らない。新選組一番組組長から本気で隠れられるとでも思っていたのだろうか。最初から気付いていたのに。
沖田は苦笑のまま、くるりと振り返る。こちらからは彼女の姿は見えない。が、そこにいるのは分かっていた。
「出ておいで、もういいから」
視線はまっすぐこちらに向けられている。まるでそこに自分がいると知っているみたいに。否、彼は知っているのだ。
千鶴には出て行くしか、道は無いらしい。
だけどどんな顔をして出て行ったらいいのか分からなくて、
「……」
千鶴は取り繕うこともしないまま、物陰より姿を見せた。
酷く暗い顔をしていた。まるでこの世の終わりとでも言わんばかりの顔。
一部始終を聞いていたと白状するような様子に、沖田は苦笑で手招きをした。
「はい、こっちこっち。おいで」
いつもよりも優しい声に聞こえて、千鶴は困惑する。
近付けば彼に嫌われることをまたしてしまうかもしれない。もうこれ以上嫌われたくないのに、でも立ち止まれば「おいで」と柔らかく笑いかけられて、結局千鶴の足は彼の傍へと向かって動き出していた。
とぼとぼと近付いてきた少女に、沖田は少しずれて縁台に座るように促した。無言のままで隣に腰を下ろした彼女は、やはり暗い顔をしている。迷うような気配に、沖田の方が口を開いてやった。
「もしかして、松本先生の話、本気にした?」
「っ」
ぎくっと彼女の肩が顕著に震えた。素直だなと沖田は内心で呟いて、笑った。
「僕が変な病気に掛かるように見える? 根も葉もない話を本気にされると困るんだよね」
あははとなんてことの無い様子で彼は笑った。
でも、根も葉もない話じゃ無い。千鶴は知っているのだ。他の幹部は誰も知らないけれど、千鶴は知っている。彼が血を吐いたこと。だから松本の話が根も葉もない出鱈目ではないのは、分かっている。そう彼女自身が願っているとしてもだ。
ああそうだ。千鶴は奥歯をぎりっと噛みしめた。認めないと何度も自分に言い聞かせたのに、結局認めてしまっているじゃないか。彼が、死の病に冒されていると。彼はそう遠くない未来に死ぬのだと。労咳という病に冒され、死んでしまうのだと。
「こんな冗談みたいな話……誰にも言わないよね?」
衣擦れの音と共に気配が動く。
はっと顔を上げれば、沖田の瞳がこちらを覗き込んでいた。
翡翠色のそれは、いつもと変わらない。楽しげな笑みを浮かべている。
でも何故だろう。千鶴にはその笑みがいつもよりも寂しそうに見えた。こんなことを言えば知った風に言うなとまた怒られてしまうのかもしれない。それでも、千鶴には寂しげに映るのだ。
「もし、誰かに話すなら……斬っちゃうしかないかな」
その寂しげな瞳を、すうと細めて笑う。
何度も彼にそう言われてきた。斬ると、殺すと。
邪魔をするなら斬る。役に立たないなら殺す。
彼は躊躇わない。斬ると決めたら本当に斬るのだろう。あの時山南を斬った時のように。仲間だって必要とあれば斬り捨てることが出来る。千鶴なんて迷うこともなく斬り捨ててしまうだろう。仲間でも何でも無い千鶴を殺すことなど造作も無いことだ。だから斬ると彼が言うならば本当に斬り捨てられるのだろう。
そうして無かったことに出来るというのか。彼の病状を知る千鶴が消えれば無かったことになるというのか。そんなわけがない。彼がなんと言っても彼の病は消えない。消えてはくれない。もし千鶴を斬って彼の病が治ると言うのならば喜んで差し出そうと千鶴は思う。でも、そうじゃないのだ。
それが苦しくて辛くて、千鶴は唇を噛みしめた。眉根を寄せ、必死にこぼれ落ちそうになる涙を堪える。
耐えられなかった。彼が死んでしまうだなんて。人はいつか死んでしまうとしても、それでも千鶴は受け入れたくなかった。沖田の死なんて。死んで欲しくないと心の底から思うのだ。
確かに沖田は自分に対して誰よりも意地悪だ。出会った頃から斬ると、殺すと言われて怖い思いを散々させられた。いつも人のことをからかうし、辛辣な台詞に何度も挫けそうになった。
でも、彼が本当は優しい人だと知っている。自分をあの日、池田屋で庇ってくれた彼はとてもとても優しい人だと。役に立たない自分をその身体で必死に守ってくれた。誰より厳しい言葉を投げかけてくるその人は、あの日誰よりも全力で自分を守ろうとしてくれたのだ。
そんな彼が自分の目の前からいなくなる?
そんなの――
「私、」
嫌だと千鶴は心の底から思った。
喪いたくない、彼を死なせたくないと。彼がいなくなってしまうなんて、そんなの嫌だと。
だからどうか、お願いだから生き延びて欲しい。そう千鶴は切望した。
「ちづ、」
今にも泣き出しそうになる彼女に、沖田ははっとした顔になり何かを言い掛けるように唇を開く。
が、その後は続かずに険しい顔でふいと視線を逸らした。
――まるで彼女の視線から逃れるように。千鶴の想いから背けるように。
その時はたと、気付く。今更のように思い出す。
自分は彼に、嫌われていると。
心配されることさえも煩わしいと思われる程に、彼に疎まれていると。
「っ……」
どれ程に彼に死んで欲しくないと願ったとしても、生きて欲しいと思ったとしても、それは彼にとっては厭わしいものなのだ。千鶴の想いなど何もかも。それが哀しくて、苦しくて千鶴は俯いた。
じわりと瞳の表面を涙が覆う。瞬き一つすればこぼれ落ちてしまいそうで、それを必死に唇を噛みしめて留める。
哀しくて、辛くて、苦しくて、ぐちゃぐちゃになる感情が千鶴の心の中を渦巻いている。胸の奥が苦しくて、痛い。でも、千鶴は必死に耐えた。唇を噛み切るほどに強く噛んで、拳が白くなるほどに握りしめて、自分の中に全部を押し込めて、
「誰にも……言いません」
やがて心の奥が静かに凪いでゆくのを感じた。
自分でも驚くほど、静かな声が零れた。もう涙は零れない。嫌だと喚いてしまいたい衝動も、どこぞに消えた。ただただ恐ろしいほどに静かな心が、千鶴に言葉を吐かせる。
「忘れることに、します」
出来るはずも無い。でも、そうしなければならない。これ以上、彼に嫌われないように。彼が思うように、望むようにしなければならない。
俯いたまま千鶴が零した答えに、沖田はふっと空気を漏らして笑った。
「……ありがとう」
ゆっくりと顔を上げた少女は、自分を見ることも無くふらりと立ち上がって、行ってしまった。
その背中を見送りながら、沖田はまた、と零すのだ。
彼女を――傷つけた。
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