4
酷く、世界が鮮やかに見えた。
群青色の空と真っ白な大地に。
赤いそれが酷く映えた。
どれもが相容れぬ色だからかもしれない。
でも、ちっとも美しくはない。
噎せ返る血のにおいも。
そして、血のような赤い瞳も。
全然綺麗ではなくて……
「ひっ……」
千鶴は小さな悲鳴を漏らした口を、慌てて塞いだ。
悲鳴を出してはいけない。まだ彼らには気付かれていないのだから。
先程の悲鳴を聞いても誰も来る気配はない、恐らく助けを求めても誰も助けてはくれないだろう。ならば黙って、逃げるのが得策。分かっているのに恐怖のあまり腰が抜けてしまっていた。それが更に少女を焦らせる。何時彼らがこちらに気付いてしまうか分からないのだ。
「にげ、なきゃ……」
乾いた声が唇から微かに漏れる。
音を立ててはならないと分かっていても、音にしなければ身体が言う事を聞いてくれない。言い聞かさなければこの身体は一切動く事が出来ない。
だがそうして言い聞かせて漸く動いた身体は満足に動かず、痺れた指先がぶつかって立てかけてあった戸板をがたがたとけたたましい音を立てて地面に倒してしまった。
気付かれたかと慌てて振り返れば、向こうは異様にゆっくりとした動きで振り返る。
今度こそ悲鳴が上がりそうだった。
暗闇にぼんやりと、赤い光がいくつも浮かんでいたのだ。
にやりと狂ったような赤が不気味に歪む。
それはもう『人』と呼べるものではなかった。
「……ひひ……」
獲物を見付けた獣のように、彼らの瞳が鋭くなる。
当然、獲物とは千鶴の事だ。
彼らは飢えた獣と同じように千鶴を捕らえ、喰おうとしている。比喩などではない。食らおうとしているのだ。その血肉を。
怖い。
怖い。
かたかたと身体が恐怖に震える。
震えている場合ではないと分かっても、震える事しか出来ない。
腰の小太刀を引き抜けば応戦も出来るだろう。でもそれも出来ない。抜いたところで彼らを斬れはしないし、そもそももう力が入らない。
「ひ、ひひ……」
手にした獲物を無造作に引き抜き、彼らは新たな獲物へと興味を移した。
先程まで彼らに弄ばれていたそれは、最早人の形をしていない。ただの肉の塊と成り果てていた。
吐き気さえ催す無惨な形に、だが千鶴は暢気に吐く事も出来なかった。その余裕が彼女にないからだ。
今度は、彼女が同じ目に遭わされる番だから。
「ぃ……ゃ……」
弱々しい声が喉から絞り出される。もう、声を出す事も難しかった。
ずる、ずる、と刀を引きずる音がやけに耳に残る。その一歩一歩が、自分の命を縮める音だと思えばなお、より一層強く。
鮮やかな浅葱色の羽織は、赤黒い血で染まっていた。その赤よりももっと凶暴な赤が一歩ずつ迫り、血まみれ手がまるで地獄へと引きずり込もうとするみたいに伸びてきた。
「――」
ああ、死ぬ。
そう思ったのに、目を閉じることが出来なかった。
恐怖を、ただ最期まで見つめるみたいに、千鶴は目を開いたままで……
――ひゅ――
「え……」
突然、鋭い白光が世界を両断した。
闇を斬った、と思う程鮮やかに強く。
そして、美しく。
「が、ぁっ……」
瞬きの間には、全て終わっていた。
千鶴の目の前にはもう、あの化け物はいない。彼らは全て地面に倒れていた。ぴくりとも動かない彼らは死んでいるようだった。
「あーあ、残念だな」
場違いな程暢気な声が聞こえる。
視線を向ければそこに、男が二人立っていた。
呆けている彼女には彼らが纏っているのも、先程の化け物が身につけていたのと同じ浅葱色だとは分からない。そもそも彼らの纏っているそれは血で汚れてもいなくてまるで別物のように見えた。
「僕ひとりで始末しちゃうつもりだったのに。斎藤君、こんなときに限って仕事が早いよね」
言葉とは裏腹に、楽しげな声音で言う彼の真意は別にある。斎藤はちらりと鋭く睨み付けると淡々とした口調で返した。
「俺は務めを果たすべく動いたまでだ。……あんたと違って、俺に戦闘狂の毛は無い」
「うわ、ひどいな」
「……否定はしないのか」
ひょいと肩を竦めただけの沖田を呆れた様子で見て、それから刀を収めながらちらりとへたり込んでいる少女を見遣る。
ばちりと青い瞳と視線がぶつかった瞬間に千鶴ははっと我に返った。殺されるのではないかと一瞬恐れたが、刀を収めた所を見ると彼らは自分を斬るつもりではないようだ。
これはもしかしたら助けてくれたのかもしれない。恐怖に歪んでいた表情が徐々に明るくなっていく。そうに違いない。京にだって町方はいるだろう。彼らはそれに当たるのではないか。
「でもさ、あいつらがこの子を殺しちゃうまで黙って見てれば僕たちの手間も省けたのかな?」
「っ!?」
ほっと胸を撫で下ろした瞬間、無邪気な声はそう告げた。
再び、少女の身体は強張る。
漸く助かったと思ったけれど、それは思い違いだった。まだ、異常な状態は続いていたのだ。
瞳に恐怖の色を浮かべて見れば、一人とばちりと視線が絡む。翡翠の瞳は楽しそうに笑っていた。まるで子供のような無邪気な瞳だ。それが逆に、千鶴には酷く恐ろしいと思った。そんな目をして殺すなどと物騒な事を言い放つのが恐ろしくて堪らなかった。
今度こそ、殺されるかもしれない。
こんな所で殺されるわけにはいかないのに。
ちらり、ともう一人の男も振り返るのに千鶴はびくりと身体を震わせた。冷や汗が背中を滑り落ちていく。静かな青い瞳からは感情が読みとれない。彼が何を思っているのかまるで千鶴には分からなかった。ただ、目を見開いて見つめ続けるしか出来なかった。
青い瞳はじっと少女の栗色の瞳を見つめ、やがてすいとその視線が外れた。彼の視線は千鶴の背後に向けられた。
「その判断は俺たちが下すべきものではない」
突然、大きな影が自分に覆い被さるように重なった。
音もなく、いや実際は聞こえていたのかも知れないがそれどころではなかった千鶴には気付かなかっただけなのかもしれない。だけど彼女にとっては前触れもなく突然、何かが背後から出てきたように感じられた。
思わず悲鳴を上げそうになり、勢いよく振り返る。
振り向いた目の前にきらりと鈍く光る切っ先が迫り、千鶴は恐怖で凍り付いた。
だが、
「――」
次の瞬間一瞬にして、恐怖が霧散していくのを感じた。
ふわりと靡く漆黒に、思わず息を飲む。
きらきらと月の光が降り注いでいた。少女にはその輝きが、何故か舞い散る花びらのように思えた。まるで狂い咲きの桜のよう。
美しく儚い光景にただただぼうっと見惚れた。言葉も無かった。
「……運のない奴だ」
何よりも惹き付けられたのは、その瞳である。
こちらを見下ろしている二つの輝きは、確固たる冷厳さを湛えていながら微かに揺れていた。
困ったような怒ったような、そんな人間らしい感情でその瞳を僅かに揺らしていたのだ。
何故だろう。刃を突きつけられているというのに千鶴は酷く安堵感を覚えた。
その人は静かに言い放った。
「いいか、逃げるなよ。背を向ければ斬る」
「っ」
斬る、という言葉に我に返る。ぎくりと身体を震わせ突きつけられる刃と、彼とを見て千鶴は何度も無言で頷いた。
殺さないでくれと必死に訴えるような眼差しをしている。見ればまだ子供のようだ。しかも恐怖で腰を抜かしていた。そんな子供相手に刃を向けているというのは少々複雑な思いになるというもの。
男は一度眉間に皺を刻み、やがて静かに刃を収める。
まさか収めて貰えると思わなかったらしく、千鶴はぽかんと呆気に取られた顔で彼を見上げている。それは他の面々も同じだった。こんな所を見られたのだからすぐに始末すると思っていたのだ。
「あれ? いいんですか、土方さん。この子さっきの見ちゃったんですよ?」
「総司、いちいち余計なことを喋るんじゃねえ。下手な話を聞かせると始末せざるを得なくなるだろうが」
「でもこの子を生かしておいても、厄介なことにしかならないと思いますけど」
厄介事になるならば早めに始末しておいた方が良い。
ちらりと少女に向ける沖田は、笑っているが酷く冷たい目をしていた。きっと殺せと言えば迷わず斬ってしまうのだろう。
土方は苛立ったように、やめろと彼を窘めた。
「とにかく殺せばいいってもんじゃねえだろ。こいつの処分は、帰ってから決める」
それで良いだろうと言えば、斎藤が同意に頷く。
「俺は副長の判断に賛成です。長く留まれば他の人間に見つかるもしれない」
あれだけ悲鳴が上がっても人が来る気配はない。そろそろ町方が動いてもおかしくないと思うのだが、もしかすると京の人間は関わり合いにならないようにと思っているのかもしれないが、とにかく早く此処を離れた方が良いだろう。他の連中にも知らせてやる必要があるのだ。
それにしても、と斎藤は倒れた彼らを見つめて淡々と告げた。
「こうも血に狂うとは、実務に使える代物ではありませんね」
本当に頭の痛い話である。
また頭痛の種が増えたなと土方はがりがりと首の後ろを掻き、それからはっと気付くと苛立たしげに他の二人を睨み付けた。
「つーか、おまえら。土方とか副長とか呼んでんじゃねえよ。伏せろ」
ここに彼の助勤がいたならば「あんたも伏せろ」と軽い突っこみが入っただろう。
そんな事を改めて言えば身元を明かすようなものだと。
彼に窘められ斎藤は申し訳ありませんと慌てたものの、沖田はしれっとした様子で言った。
「ええー? 伏せるも何も、隊服着てる時点でバレバレだと思いますけど」
それが決定打となる。
千鶴はそうだ、と思い出した。
今日も何度も聞いたじゃないか。
浅葱色の羽織を着た隊士の話を。
彼らは皆教えてくれた。有名な人斬り集団の事を。
『新選組』の事を。
関わり合いにならない方が良いと誰かが言っていた。厄介な事に巻き込まれると誰かが教えてくれたじゃないか。
千鶴は慌てて全て忘れてしまおうと頭を振る。
これ以上は何も考えない。聞かない。聞いてはならない。
自分が知らず、その異様な世界に入り込んでしまっているのに気づいたからだ。
望んでいないというのに知らない内に、おかしな世界に引き込まれている。
「死体の処理は如何様に?」
「羽織だけ脱がせとけ。後は山崎君が何とかしてくれんだろ」
土方の言葉を聞いて、てきぱきと斎藤は彼らの羽織を脱がしている。その手つきは慣れたようなものだ。
死体を見ても、誰も顔色一つ変えない。まるで転がっているのが丸太かなにかのようにでも見えているのだろうか。淡々とした様子で羽織を脱がし終えると、それから彼らはもう躯には目を向けなかった。
もしやすると、京では人が死ぬ事はよくあることなのだろうか?
そんな事を他人事のように千鶴は思った。
「ねえ」
焦点の合わない目でぼんやりと見つめていると、突然目の前に男の顔が迫った。
「っ!?」
驚く程近くに翡翠の輝きがあり、思わず悲鳴を上げそうになる。
寸前で堪えて、千鶴は仰け反った。どんと木箱に背中をぶつけたが、痛いとは思わない。それよりも彼の顔があんなに間近にあった事の方が衝撃的だ。
傍に腰を下ろしていたのは沖田と呼ばれていた青年だった。彼は千鶴の大袈裟な反応をくすくすと笑いながら意地悪く訊ねてくる。
「助けてあげたのに、お礼のひとつもないの?」
「え?」
千鶴は一瞬目を瞬く。
言葉の意味が分からなかった。
助けてあげたのに、と言われてもこの状況が本当に助けられたのかが分からない。寧ろ追い込まれている気がする。
だが、確かに彼女は殺される直前だった。あの時斎藤が彼らを斬ってくれなければ死んでいたのは確かだ。
心情的には些か複雑なところではあるが、彼の言う事には一理ある……のだろうか。
千鶴は暫し悩み、やがて表情を引き締めると砂埃を叩いて立ち上がる。
ふらりとよろめきそうになるのを堪え、居住まいを正してからぺこりと礼儀正しく頭を下げた。
「お礼を言うのが遅くなってすみません。助けてくださって、ありがとうございました」
お陰で命拾い……をしたのか分からないが、とにかくもう少しだけ長く生きられそうだと納得させて顔を上げる。
と、何故か彼らは不思議な表情を浮かべていた。
斎藤は驚きの、土方は怪訝な、そして、
「………っは、」
礼を求めた彼は、爆笑している。
千鶴は一瞬呆気に取られ、すぐに自分の行動がいかにおかしなものだったかを改めて思い知らされ、顔を真っ赤にして口を開いた。
「わ、私も場違いかなと思いましたよ! でも、人に言っておいて笑うなんてっ」
あんまりだと言えば、沖田は笑いをほんの少しだけ堪え、
「ごめんごめん、そうだよね。僕が言ったんだもんね」
と謝ってくれる。まるで謝意のない言葉だ。逆に謝られて腹が立つのもおかしなものだがものすごく馬鹿にされている気がして、千鶴は半眼になって睨んだ。
沖田はごめんともう一度謝ると彼女に向き直り、ほんの少しだけ背を正した。真剣な彼女を笑ってしまった事をほんの少し詫びるつもりで。
「どういたしまして。僕は沖田総司と言います。礼儀正しい子は嫌いじゃないよ?」
楽しげに笑う瞳は、やはり彼女が先程感じたように邪気がないように見えた。
とても美しく澄んだ色をしている。汚れなど知らない子供のような純粋な色だ。
だけど、その瞳で……彼は人を殺すのだろう。
先程斎藤が躊躇いもなく斬ったように、迷うことなく。
人の命を奪う。
それが恐ろしい。
多分、と千鶴は思った。
この男が一番怖い人――だと。
「わざわざ自己紹介してんじゃねえよ」
そんな彼らを黙ってみていた土方は呆れ返った様子で言った。
そのままここで説教でも始まりそうな勢いなので、斎藤はそれよりもと彼を促す事にする。
「副長。お気持ちは分かりますが、まず移動を」
「……そうだな。行くぞ」
短く言ってくるりと踵を返すと、それに斎藤が続く。そして、沖田も千鶴の手首を掴むと歩き出した。男の強い力に、か弱い少女は引きずられるかのようだ。
「あ、のっ」
「いいから、ついておいで」
何か言い掛ければ手首を強く握られた。みしりと骨が軋むような音がして、千鶴は口を噤む。
小走りになりながら目の前にある大きな背中を見つめる。彼はこちらを振り返らない。でも、振り返らずともこちらの行動などはお見通しなのだろう。もし逃げようとすれば躊躇なくその手首をへし折るはずだ。
無論、千鶴には彼の手を振り解く程の力はない。
逃げられない。
いや、逃げたら殺される。
彼らのように、斬られてしまうのだ。
千鶴はもう何も言わず、彼らの後に続いた。
しんと、京の町は静まりかえっている。
まるで先ほどの騒ぎなどなかったかのように、静まりかえっている。
確かに、つい先程、人が死んだというのに。
誰も、出てこない。
まるで、見ない振りをしているかのようだ。京の町全体が、知らない振りでもしているかのよう。
人が、死んだ。
そんな事をぼんやりと思いながら、千鶴は恐ろしいと思った。
この冷たい町を。
でもそんな事よりもずっと、死体の横で彼らと平然と会話をしていた自分が恐ろしいと思う。
あの時、何かが自分の中で壊れてしまった――
そんな気がした。
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