赤い空が山の向こうまで広がっている。
 江戸で見上げた空と同じだけど、それよりもずっと寂しげに見えるのはここが見知らぬ土地だからなのか。
 千鶴はぼんやりと空を見上げ、溜息を一つ零した。
「やっぱり、そんなに簡単じゃないよね」
 町に来たときの威勢はどうしたのやら、その瞳には疲れと落胆が浮かんでいた。
 立ち止まるまで気付かなかったけれど、足の裏がじわじわと痛む。方々歩き回ったせいだろう。まさに棒になるほど歩き回ったのに、彼女の捜し人は見つからなかった。
 京に行ってくると出ていった父も、それから何かあった時に頼るようにと言われた松本良順という医者も。
 どうやら松本とは入れ違いだったらしい。彼は自分が江戸を立つ前に京を離れていたと近所に住む人に教えて貰った。折角手紙を出したというのに届いていないのでは意味がない。
 これは困った。
 千鶴は思案顔で立ち尽くす。
 松本がいつ戻ってくるのか分からない状態で、ここに長居するわけにはいかない。手持ちの金にも限りはあるし、だいいちここは見知らぬ土地。しかも、京の町には最近あちこちから浪士が集まり、物騒になってきていると噂を聞いている。金品を奪い、侍という権力を笠に着て暴力を振るう乱暴者達がうようよしているのだ。よそ者だと分かればまずカモにされるだろう。
 そんな所で伝手もなく、一人で捜し回るというのはあまりに心細い。
 父は見つかるだろうか。それよりも、父は無事だろうか。突然ぱったりと便りをくれなくなったのは何故だろう。もしや彼は便りを出せない状況にあるのではないだろうか。
 不安と焦りばかりが募り、千鶴の胸は張り裂けそうだった。
 だが、
「……このまま帰れない」
 少女はその瞳にまた強い光を湛えた。
 父の安否を確認するまで帰らないと決めたのだ。
 まだたったの一日ではないか。これ位で音を上げるわけにはいかない。
「よし」
 一人呟いて、千鶴は歩き出した。
 茜色の空はいつしか、闇の色に染められていた。





 ――空が、赤かった。
 闇に彩られるはずの夜空は、赤く輝いていた。

「ぎゃぁ!」
 緋色の空に、誰かの断末魔が響く。
 悲鳴と、怒号と、誰かの泣き声が上がった。
「くそ、逃がす……がっ」
 焦りを滲ませた誰かの声が聞こえた。それは最後まで紡がれる事無くぶつりと突然途切れて、終わる。
 胸を鋭い刃に貫かれていた。
 びくり、と何度か震え、息絶えた。ただ一言で死んだと表す程に呆気なく。
 胸に深々と刺さった刃を引き抜くとばっと赤い雨が散った。
「ひぃっ!?」
 倒れ込むその人の向こう、情けなく悲鳴を上げる男の姿が見えた。
 彼は動けない。あまりの恐怖に腰を抜かしてしまったらしく、その場に尻餅を着いてひいひいと悲鳴を上げながら後ろへと逃げようとしている。死にたくないとその目が必死に訴えていた。
「殺さな、」
 命乞いの言葉は最後まで紡ぐ事は許されず、

 ――ザン――

 その首を一瞬で切り落とされた。
 とさりというあまりに軽い音が、男の最期だ。

 これは夢……だろうか?

 ざあああと血の雨が降りしきる音を聞きながらぼんやりと思った。
 これは夢だ。
 だって、この光景には見覚えがないのだから。
 こんなに派手に人を殺した覚えなんてない。だから、夢だ。夢に違いない。

 それにしても、夢の中でまで人を斬り続けるなんて自分はどれほど任務に終われていたのだろう。
 この数日、人を沢山斬ったのは確かだけど。
 それにしたって夢の中でくらい、もっと穏やかに出来ないものなのだろうか。

 足下に転がる躯を無感情に見つめながら、そんな事を思う。

 ふわりと噎せ返りそうな血のにおいがした。
 何かが焼けるにおいも。
 嫌に鼻につくにおいだった。それがどこまでも続いた。

 見上げる空は赤々と燃えていた。まるで、空をも焼き尽くそうとするみたいに。

 ――はらり。
 空から赤い何かが降ってくる。
 それは血だろうか。
 それとも花びらだろうか。
 舞い落ちてくるそれは美しく、そしてどこか悲しく見える。
 なんだろうと思って手を差し出すと、それは掌に収まるより先に風に吹かれて飛んでいってしまった。
 何故か追いかけなければならない気持ちになって一歩を踏み出した。瞬間、背後から声が飛んでくる。
「いたぞ!」
 静寂を破るのは覚えのない声。
 振り返れば、刀を抜いた男たちの姿があった。
 怒りに血走った瞳は、しかしこちらを見るや否や驚きの表情を一様に浮かべる。
 瞳が大きく、驚愕に見開かれ、

『ああ――また』

 頭の中で声が響く。
 幼い子供の声のようだが、それは酷く冷たい響きをしている。
 まるで氷のようだ。声を聞いただけで背筋が寒くなる程、冷たく、そして無感情な声。
 この声は誰のものだろう?
 そして、声の主は何を言いたいのだろう?
 また、と言うのは一体……

 それらを探るよりも前に、身体が勝手に動いた。

 がら、と重たいものを引きずる音がする。
 自分の右手に抜き身の刃があった。
 その刀身は赤い血で濡れていた。
 見覚えのあるそれは、相棒の久遠だ。

 何故だろう。

 使い慣れたそれは、酷く重たく感じる。
 取り落としてしまいそうなほどに重くて仕方ない。

 何故だろう。

 心が酷く、ざわつくのは。
 誰かにぐちゃぐちゃと掻き回されたみたいに心が乱れている。
 腹の奥で何かが激しく燃え上がり、己さえも焼き尽くしてしまいかねない感情に突き動かされる。

『私は一体』

 どうしてしまったのだろうか?
 問いかけに答えはない。
 ただ、ずるずると刀を引きずっていたかと思うと、次の瞬間身体が軽くなった。
 疾走ったのだ。風のように。
「ひっっ!」
 誰かの悲鳴がすぐ傍で聞こえた。
 知らない男の目が恐怖に見開かれる。

 ――そこに映っていたのは――

!!」
 やけにはっきりした声が、力任せに現実へと引き戻した。


 覚醒は一瞬だった。
 自分でも驚く程一瞬にして意識が覚醒し、は薄暗い部屋の中ですぐさま声がした方を振り向く。
「平助?」
 開け放ったふすまから顔を覗かせていたのは彼だった。
 その後ろに見えるのは赤い空ではなく、夜の空。
 青白い月明かりを背に、彼は決まり悪そうな顔で立っている。
「悪い、起こして」
「ううん、平気。それより、何があった?」
 寝起きとは思えないはっきりとした声で問えば、藤堂はぱっと表情を真剣なそれへと変えた。かなり緊迫した表情だ。もついと表情が引き締まる。
「前川邸の奴らが何人か、勝手に屯所を出たらしい」
「……あいつらか」
 すいと双眸を静かに細めた彼女の唇から、冷たい声がこぼれ落ちた。

『新撰組』
 と呼ばれる連中が此処にいる。
 かつては新選組にいた隊士たちだった。
 前川邸に詰め込まれ、普段は姿を見せない。彼らは表向きには死んだとされているからだ。死んだ人間がうろうろと人目に付く時間に歩く事は出来ない。だから彼らが動くのは専ら夜。恐らく制限されていなくとも彼らは昼間出歩いたりはしないのだろう。陽の光を恐れているから。
 彼らは禁を犯した。本来ならば切腹を命じられるのだがその代わりにとある薬を飲まされて今でも生きている。生きている――とは言っても、最早あれは人と呼べる代物ではないだろう。あの場で切腹していた方が人として死ねたのではないかとは思う。
 だってあれはもう、ただの獣だ。決して放ってはならない化け物。
「早く捕まえないと」
 こうしてはいられないとは布団を蹴り飛ばすように身を起こした。
 眠っている時に乱れたのだろう。彼女の袷が大きく開いている。そこからサラシを巻いたふくよかな胸元が覗き、思わず「あ」と彼は声を上げて一瞬凝視をしてしまった。
「ご、ごめん!」
 すぐに慌てて視線を逸らした彼の顔は真っ赤だ。裸を見たわけでもないのにとは思わず苦笑を漏らしてしまう。だから女としての自覚が足りないのだと、他の連中からは呆れられる所だろう。
「それで、あいつらは逃げ出したとかじゃないの?」
 袷を手早く正し、腰に刀を差しながら訊ねると彼はえっとと上擦った声で答えた。
「そ、総司の話によると、巡察に行くって勝手に出ていったらしい」
「巡察、ね」
 は鼻で笑う。楽しげに口元を歪める彼女の瞳は、凍えるような冷たい色をしていた。
「しっかり巡察してくれてればいいんだけどねえ」


 屯所の前には、既に他の全員が勢揃いしていた。
 皆揃って羽織姿で難しい顔をして佇んでいる。逃げ出した隊士を追いかけるだけだというのに、討ち入りにでもいくかのような緊迫感が漂っていた。ある意味では討ち入りよりも厄介な事は確かだろうか。
「ああ、おはよう
 その中で、へらへらと笑っているのは沖田だ。
 の姿を見付けていつものように笑いかけてくる。
 まあ彼女もこの光景を見て懐かしいと思ってしまったあたり、少し緊張感に欠けていた所があっただろう。ほんの何ヶ月か前にもよくこうして駆り出されていたのを思い出して、あの頃は、なんて思ってしまう彼女も人の事は言えない。
「寝てたんだよね? 叩き起こされて災難だったね。平助には変な事されなかった?」
「そ、総司!」
 意地悪な問いかけに藤堂が慌てている。
 つい先程見た彼女の寝起きの姿なんぞを思い出してしまったらしく、その顔がかっと赤く染まっていく。
「あれ? 平助、なに、その反応」
 にやりと口元だけ笑ったまま、沖田の目が鋭く細められた。悪友に不埒な真似をする輩は許さないとでも言うのか、腰の刀にまで手を伸ばす始末にはやれやれと溜息混じりに口を開いた。
「何もされてないから、安心しろ」
「本当に?」
「本当だから。……それより」
 は素早く視線を巡らせ、彼の姿を見付けると会話をそこで止めて歩き出した。
「土方さん」
 輪の中心に彼がいる。どうやら彼は山南と相談をしていたようだ。
 こちらを振り返った土方はの姿を認めると決まり悪そうな顔になる。
「悪いな、休めって言ったそばから叩き起こしちまって」
「いえ、気にしないでください。で……奴らは?」
「まだ騒ぎにはなってねえらしい」
 短く答え、町の方に視線を向ける。
 町はまだ静かなものだ。
 でもその内絶叫が響き渡るのだろう。前もそうだった。突然、平和な空を悲鳴が劈くのだ。
 罪のない人間を引き裂いて。
「早く手を打たなければなりませんね」
 静かな山南の声に土方は険しい表情で一つ頷く。そうしてぐるりと集まった全員を見回した。
「とりあえず、隊を斎藤と永倉。原田と平助。源さんと総司。俺と山南さんの四つに分けて捜索する。は繋ぎ役として走ってくれ」
 それぞれが静かに一つ頷く中、沖田だけは首を縦に振らなかった。割り振りが気に入らなかったのかもしれないが、そんな事に構っている場合ではない。
「逃げ出したのは四人。全員羽織を着て出たようだ」
「それは良かった。僕いちいち顔覚えて無かったんですよね」
 羽織を着ているなら見付けやすい、と暢気に言ったのは沖田だった。
 いくら自分の組の隊士じゃないからと言っても、上に立つ幹部なら隊士の顔くらい把握しておけと土方は思う。まあ近藤以外はどうでも良い彼はそうなのだろう。特に『新撰組』の隊士なんて、彼にとっては覚えてやる気にもなれないはずだ。なんせ新選組――近藤に害をなす者達なのだから。
 いや、そう言う意味では沖田ほど彼ら新撰組の存在をきちんと認識している人間はいないかもしれない。近藤に害なす存在ならば彼が捨て置くはずがないのだ。恐らく、分からないと言いつつ一人一人の顔を頭に叩き込んでいるはずだ。
「……それで、あいつらは?」
 じっと睨み付ければ彼の口元がにぃっと釣り上がった。
「斬っちゃってもいいの?」
「士道に背くようなら、斬れ――」
 土方は迷いもなく、静かに言い放った。
 それは即ち『殺せ』と言う命だった。
 誰もが迷わずにこくりと一つ頷き、合図もなく一斉に走り出す。


 静かな町に絶叫が広がったのは、その少し後だった――



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