「土方さん、報告に来ました……っていうか、ご飯――!!」
「藪から棒になんだ、おまえは」
 部屋に入るなりが上げた大きな声に、土方は怪訝な顔で振り返る。
 しかし彼女の視線はこちらではなく、足下にあって、
「あん?」
 視線の先を辿れば、彼の文机の傍に置いてある盆に向けられていた。そこには昼飯が乗せられてある。は指を咥えて食い入るように見つめていた。
「おいしそ」
「なんだ、おまえ飯食いっぱぐれたのか?」
「だって、今さっき起きた所で……あ、寝坊してすみません」
 呆れ顔のままじろりと睨まれる。だらけているぞと無言で窘められた気がして頭を下げるとその場に腰を下ろした。
「土方さんは、広間に来なかったんですか?」
「ああ、これを終わらせようと思ってな」
 手元の手紙をとんと叩く。また随分と仕事が溜まっているようだ。
 それを知っていたから、斎藤がここまで膳を運んでくれたと彼は教えてくれた。
「流石、一……って、それならなんで私に持ってきてくれなかった」
「俺に聞くな、俺に。っつか、昼まで寝てたおまえが悪い」
「全くその通りで」
 とほほとは肩を落とす。そんな彼女をじっと睨み付け、土方は短く問うた。
「で……?」
「ああ、報告でした」
 の背筋がすっと、自然に伸びた。顔つきが一気に副長助勤のそれへと変わる。
「昨夜、指示があった過激派浪士五名の始末をしてきました。ただ、奴らは下っ端連中らしくてあまり情報は得られませんでした」
「そうか」
「それと、他にも不審な連中が大勢集まってきているみたいです」
「場所の特定は?」
 それはまだ、とは頭を振る。
 特定に至るまで十分な監視は出来なかった。なんせ彼らは嗅ぎ付けられないようにころころ会合の場所を変えていたのだから。どうやら向こうにも多少頭の回る人間がいるようである。
「ただ……四国屋、池田屋近辺には頻繁に出入りしているのは確かかと」
「なるほどな」
 土方は顎に手をやる。
 ほんの少し考えるように無言になった。
「長州に動きは?」
「まだなにも……ただ、気にとめておく必要はあると思います。町中でも殺気立った連中を見かけますし」
「それはこっちの方でも聞いてる」
 町人に当たり散らしている浪士を何人も見かけた、と巡察に出た幹部から報告を受けている。全部が全部過激派浪士の仕業ではないが、彼らの動きが活発になっているのは確かだろう。そのお陰で町の雰囲気がぎすぎすして揉め事が増えているのだ。
「追い剥ぎをやらかす馬鹿も出てきてるそうですしね」
「頭のいてぇ話だな」
「あ、そういえば桝屋喜右衛門の事ですけど」
「それは山崎や島田から聞いた」
 難しい顔のまま、土方が溜息を一つ零す。
 桝屋喜右衛門とは桝屋に潜伏している薩摩藩の浪士の事である。
 表の顔は愛想の良い商人だが、裏では長州の間者として情報収集や武器調達で攘夷派浪士の手助けをしていると情報が入っていた。
 きっと監視をしていればどこかでボロが出るのではないかと思ったのだが、
「見事に店の主になりきってますね。まったく尻尾を出しゃしない」
 は呻くように呟いた。
「店に出入りする客の方にも目を配ってますけど、今のとこは収穫無し」
「そうか」
 短く呟き、また黙り込む。今度は少し長い沈黙。
 宙を睨み付けながら思案する男は言葉には出さずに自分の中で物事を整理すると、やがて薄い唇から溜息のような音を漏らしてこちらへと視線を戻した。
「……とりあえず、まだ様子を見る事にする。何かあったら逐一報告してくれ」
「分かりました。じゃあ、今まで通り監視だけは続けます」
「ああ頼む。山崎や島田にも言っておくが、おまえも十分に気をつけろよ」
 恐らくあの男は一筋縄ではいかないだろう。に限ってへまをするとは思わないが、それでも気をつけろと言っておくに越した事はない。
 言葉に一つ、しかと彼女が頷いたのを見て漸く彼の眉間の皺が解けた。そうすると今度は呆れ顔で、やれやれと肩を竦ませる。
「いっそ派手にやってくれればいいんだがな」
 小さな事件をあちこちで起こされるのは面倒だ。いくら人手があっても足りやしない。それならいっそ大きな事件が起きて、首謀者を取り押さえる方が危険は伴うものの憂いを一掃することが出来る。向こうだって同じだ。破落戸風情が暴れた所で御上は変わらない。変えようとするのならばもっと大きな事をしなければ動かす事は出来ないのだ。
 つまり、まだその時期ではないと敵方も考えているという所だろう。
「そのうち動き出すんじゃないですか? 浪士が京に集まってきてるのがその証拠でしょうし」
「まあな。後はやっこさんが動いてくれなきゃ始まらねえ」
 喧嘩というのは一方的なものではない。相手がいてこそ、だ。無論これは喧嘩などという生易しいものではないだろうが、似たようなものだろう。とりあえず今は相手が行動に出てくれるのを待つしかない。今の自分たちに出来るのは最悪の事態にならないように相手の動きに注意しておく事と、いつでも出陣出来るように備えておく事くらい、か。
「……そういえば」
 不意に、が呟いた。
 その声音は真剣そのもので、何かあったのかと土方も真剣な面もちで彼女の言葉の先を待っていると、
「総司が言ってたのは鯖の煮付けの事だったか」
 酷く真面目な様子で呟かれた言葉はなんとも緊張感のないものだ。
「……」
 土方の眉間に再び、深い皺が刻まれた。呆れの混じった表情で睨み付けているが、は気付かない。
 そして彼女も難しい顔でじっと盆の上を睨み付けている。それはそれは真剣な様子で「これは確かに私の好みだ」などと呟いている。
 思わず、はぁ、と盛大な溜息が男の唇から零れたのは仕方の無い事。
 真剣な顔で何を言い出すかと思えば、そんな下らない事だったとは。
「ったく」
 悪態を吐き、土方は傍に置かれた膳をずいと押した。彼女の目の前に押しやるように。
「え?」
「好きにしろ」
 ぶっきらぼうに言い放つ彼をはぱちぱちと瞬きを繰り返しながら見つめ、暫くして膳へと視線を落とし、また上げるを何度か繰り返す。
「食べて、いいんですか?」
 やがてそう言う事だと理解したが聞いてきた。
 そんなに驚く事でも無かろう。たかだか飯、の事だ。
「勝手にしろ」
「え、でも、土方さんのご飯」
「腹は空いてねえ。だいたい涎垂らしてる奴の前で食えるかってんだよ」
「た、垂らしてませんよ!」
 は慌てて口元にやった。涎は垂れていない。まあ好物を前に何度も唾を飲んだのは確かだ。
「いいから、食え」
 そんな彼女を呆れ顔で見遣り素っ気なく言うと、反論は聞かないと言わんばかりにそっぽを向かれてしまった。
 さらさらと再び筆を執って書き物を始める始末だ。
「……」
 は暫し、その男の横顔を困ったような顔で見つめた。
 厚意に甘えて良いものか、考えているようだ。
 たっぷりと時間を掛けて悩んでから、は苦笑でじゃあ、と小さく呟く。
「遠慮無く、いただきます」
 そう言った瞬間、男の横顔が少し柔らかくなった気がした。
 ほんの一瞬だけ。またすぐに仏頂面に戻ってしまう。
「うん、うまい」
 箸を持ち上げ、は早速好物にありつく。
 ぱくりと口の中に放り込むと、味噌によって甘くなった鯖の味が口の中いっぱいに広がった。
 空腹もあってか、いつもよりも美味しく感じる。どこの料亭のご馳走だと感動さえしてしまう程だ。
「ああそうかよ……っつか、てめえの部屋で食え」
 食べても良いとは言ったが、ここで食べろとは言っていない。こちらは仕事中なのだ。隣で食事をされると正直気が散る。
 顔も向けずに言い放つと彼女は味噌汁へと箸を伸ばしながら反論してきた。
「だって一人で食べるの寂しいでしょ?」
「ガキか、おまえは」
「まあ土方さんよりは若いですけどーって、ホントに全部食べちゃいますよー?」
「……好きにしろって言ってるだろ」
「じゃあ、好きにします」
「だから、てめえの部屋で食え」
「おーいしー」
 暢気な彼女の様子に土方は何とも言えない顔になって、諦めて筆を下ろす。
 これでは集中出来るわけがない。きっと筆を執っても書き間違いを繰り返すに違いないのだ。
 不機嫌そうな顔で頬杖を着くと、またその口から溜息を零す。長い溜息でさらさらと積み上げられた紙の束が揺れた。こちらが不機嫌な理由など微塵も介さず、もしかすると分かっているのかも知れないがはそんな事関係ないとまだ暢気に独り言を続けている。
「今日の味噌汁は一が作ったな」
 豆腐が均等に切れている、とが呟く。美しい切り方にちょっぴり不満げだ。
 ああそうか、それはよかったな、だが称賛と文句ならば当人に言ってやれとやけくそ気味に言い、ふと気になって土方は横目で彼女の様子を盗み見た。
 幸せそうな顔で飯を頬張ってはいるが、彼女の顔色はあまり良くない。青白い肌はどう見ても、疲れているように見えた。紙のように白かった昨日の朝よりもマシには見えるが、それでもまだ万全の状態ではないのだろう。報告だけはまめに来る彼女がそれも出来ず、昼まで寝転けてしまう位だ。まさに疲労困憊という状態だったのだろう。
 無理もない。連日連夜、走り回っていれば当然だ。仕事を回している自分が言うのもなんだが、は無茶な仕事をしていると思う。夜通し走り回り、戻ってくるのはいつも明け方。それから一刻ほど休んでまた彼女は働き出す。
 夜に走り回っているのだから日中休んでいても良いと言うのだけど、他の隊士が働いているのに自分だけ眠っているわけにはいかないと彼女は言い張るのだ。彼らはが走り回っている夜は眠っているのだが、それを言っても聞きはしないのだろう。今まで頑として聞き入れなかったのだから。

 正直に、見上げた根性だと土方は思う。

 大の男でも連日連夜駆けずり回らされれば愚痴の一つだって言いたくなるに決まっている。何日も何日も、動きもないのに監視を続けさせられれば嫌になるに決まっているのだ。それをは言わない。身体が限界だったとしても、仕事をやり遂げるまで彼女はその強靱な精神力で乗り切るのだ。
 どれほどに辛く、汚い、嫌な仕事だったとしても。
 昔からそうだった。
 が戦うと決めた時から、そうだった。
 泣き言を言う事も、甘える事も一度だって無かった。
 それが近藤の為ならば、は従うだけ。
 見上げた根性だと思う。

 ただ、時々思う。

 そんな彼女だって、苦しい時はあるだろう。悲しい時はあるだろう。
 誰かに寄りかかって甘えたい時もあるだろう。弱音を吐き出したくなる事だって。
 そんな時、一体何処で傷を癒すというのだろう。
 一体何処で、彼女は身体を休めるというのか――

 どれほどに敬愛していても、否、敬愛しているからこそ、近藤の前では見せない。
 心配を掛けてなるまいと思うからか、彼の前ではそんな素振りを微塵も見せた事はない。

 では、一体――誰が彼女の弱さを受け止めてやれるというのか。

「土方さん」
 不意に、名を呼ばれた、
「――っ!」
 はっと我に返れば、目の前に何かが突きつけられていた。
 箸だった。
 その先には一口大に切り分けられた鯖が挟まれている。ふわりと味噌の香ばしいにおい。
 はそれを差し出し、真面目な顔で、こう、言った。

「はい、あーん」
「……」

 ごす、と微妙に鈍い音が空に響いた。

「ほ、本気で殴った!!」
「てめえなんぞを本気で心配して損した」
「心配して殴る人がありますか!!」



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