様々なものが変わっていく。

季節が。

時代が。

人が。

少しずつ、でも大きく、変わっていく。

 

めまぐるしく変わっていくその世界を見ながら、は変わっていくのも悪くないと思った。

否、

変わらなければいけないのだ。

人も、世界も。

いつまでも同じでいられるわけがないのだ。

だって、生きているのだから。

 

その中、は変わらず、長雨をじっと見つめていた。

佐絵が大陸へと渡ると言い、この邸を彼らに譲り渡して早十日。

このころにはの風邪も、土方の怪我も癒え、ふたりきりの穏やかな日々を過ごしていた。

本当に‥‥穏やかだった。

戦いが終わり、二人は漸く自由になれた。

がしかし、自由になったというのにの心は晴れない。

何故なら身の内に、戦いの火種となるものが残っているから。

そう、鬼の力。

西の鬼の頭領がいなくなったとはいえ、他にも鬼はいる。

彼らが自分を狙わないとは限らないし、何より‥‥『彼女自身』が暴走しないとも限らない。

何より恐ろしいのがそれであった。

 

「静姫――

 

いつの間にか、目の前が真っ暗になっていた。

そこは、の心の中だ。

呼びかけに闇の中からぼんやりと浮かび上がった鬼姫はにやりと笑う。

なんとも不思議な空間だ。

自分とよく似た相手と向かい合うと言うのは‥‥

 

『珍しいねぇ。戦いでもないのに、おまえが私に声を掛けるだなんて‥‥』

とよく似た女は、だがでは絶対にあり得ない艶っぽい笑みを浮かべる。

「‥‥決着を、つけにきた。」

『それは、穏やかじゃないねぇ‥‥』

おお怖い、と微塵も怖がった風もなく、逆に嘲るように笑ってみせる。

それをは静かに見つめ返し、こう言った。

 

「私の中から‥‥消えてくれ。」

 

 

 

の言葉にも鬼姫は驚いた風もなく、ただにやりと食えない笑顔を浮かべていた。

恐らく、その言葉は予想していたものなのだろう。

いずれ彼女からそう言われると‥‥

『そいつは随分と身勝手な言葉だねぇ。』

静姫は白銀の髪をそっと掻き上げて、残酷な笑みを浮かべてそう答えた。

『そもそも、この身体は私のものだ。』

そう、その身体は元々、静姫の物だった。

は後から生まれた存在だ。

あの苦しみも悲しみも、絶望も、何も知らずに生まれた幸せな存在。

そんな彼女が静姫に消えてくれと言うのは随分と身勝手である。

『後からひょっこり出来た分際で、大きな口を叩くんじゃないよ。』

「‥‥」

『誰のお陰でここにいられると思ってるんだい?』

金色の双眸に、微かに浮かぶのは怒りの色だった。

彼女が怒るのは当然の事。も自分で分かっている。自分勝手だと。

苦しいのも哀しいのも彼女に押しつけて、消えてくれなんて、勝手にも程があると。

でも、

「私に‥‥この身体を譲って欲しいんだ。」

は言った。

身勝手でもなんでもいいから、譲って欲しいと。

どうしても、この身体を自分が欲しいのだと。

『‥‥馬鹿げた事を‥‥』

静姫はそんなに侮蔑の色を向け、すいっと背中を向けてしまう。

その背中には呼びかけた。

 

「あんたが一人、苦しむ必要はないだろう。」

 

言葉に、静姫の足が止まる。

は迷わず続けた。

「あんたは今までずっと、私の中にいる事でそうやって苦しみや悲しみを抱え続けてきた。」

だからこそ人を嫌い、命を嫌った。

全てを無に帰して、混沌を作り上げようとした。

それは一見恐ろしい事にも思える、でも、

「それって‥‥私を守るためなんだろう?」

は思う。

思えばそう‥‥静姫という存在は、が窮地の時にだけ現れた。

が風間に殺されそうになった時、それから、惨い過去に心が壊れてしまいそうになった時。

静姫は表に現れ、それを止めた。

まるで、を守るみたいに。

そしてその逆、楽しい事は全てに与えてくれた。

彼女ほどの力を持っていればの人格を闇の底へと沈め、消してしまうのは容易い事だった。でも、それをしなか

った。

とてつもなく苦しい、哀しい出来事を全て自分だけが持って、何もかもを消して、この世界にという存在を送り

出してくれたのだ。

ただ、

一人だけ、孤独にその傷を抱きながら。

『‥‥』

「もう、一人で苦しまなくていい。」

は言って、一歩を踏み出す。

「私一人で幸せになりたいなんて思わない。」

消えてくれと言った癖に、と静姫は内心で呟いた。

それには「そうだったな」と一人ごちながら、静姫の真後ろで止まった。

同じはずのその背中は、だけど自分のそれよりもずっと大きな気がした。

その背中で、静姫は自分を守り続けてくれたのだ。

苦しみから、悲しみから。

たった一人で‥‥

その背中を抱きながら、は言った。

 

「私と、一つになろう。」

 

幸せも、苦しみも、喜びも、悲しみも、

分け合って、感じ合おう。

一つになって。

 

 

――とんだ甘ちゃんだ、と静姫は思う。

という存在は、とんでもなく馬鹿で、どうしようもない人間だと。

彼女を守るために存在しただって?

そんなのあり得るわけが無いじゃないか。

ただ面倒だから眠っていたに過ぎないのに。

世の中がどうなったって構わないから、眠っていただけなのに。

逆に押しつけられたのはの方かも知れないのに。

面倒な世の中を生きる事を、押しつけられたのはの方かも知れないのに。

そのお陰で自分は――

 

『‥‥っく』

静姫はふいに、笑みを漏らした。

「静姫?」

『おまえは本当に馬鹿な女だね‥‥』

楽しげに呟いた瞬間、するり、と手の中から静姫の感触が消える。

は慌てて一歩を踏みだし体勢を立て直し、振り返った。すると、真後ろに、彼女の姿があった。

『一つ、良い事を教えてあげるよ。』

相変わらず楽しげに笑いながら、静姫は言う。

『私が先祖返りをした鬼の血だとは知っているね?』

「‥‥ああ。」

そういえば風間がそんな事を言っていた。

とても強い鬼の血だとか‥‥

『そう、とても強い鬼の血。』

「それが‥‥なに?」

答えを促せば、静姫は薄く唇に笑みを浮かべ、

『私の血は、他者を鬼にする。』

と静かに告げた。

 

強い鬼の血は、人である身をも鬼にすると。

 

無論、純血の鬼になれるわけではない。

所詮は人の身、どれほどに静姫の血が濃くともその血の全てを鬼のそれへと変えられるわけもない。

 

『だけど、そうさね‥‥人よりも丈夫にはなれる。』

「‥‥」

彼女が何を言いたいのか分からずには訝る。

そんなに、静姫は艶然と笑って見せた。

 

『例えば、労咳くらいは治せるんじゃないかねえ‥‥』

 

「っ!?」

は目を見開いた。

何故それを、と訊ねたげな表情に、静姫はくつくつと忍び笑いを漏らした。

『私はおまえであり、おまえは私である‥‥』

ならば心の中を覗くのは容易い事じゃないか、と彼女は言った。

心の中に彼女が存在しているならば当然の事かも知れない。

確かに、はここにはいない‥‥『彼』の事を案じていた。

自分の事だけを考えれば良いものを、あれこれと無駄に心配して疲れないものかと静姫は思ったものだ。

だがそれはただ単に、彼が悪友だから、という理由だけではなく、そこにの大切な妹がいるからなのだろう。

大切な妹が、一人で悲しむような姿は見たくないから、だから‥‥

それは、静姫も同じ想いだ。

「‥‥でも、あいつらがどこにいるかなんて‥‥」

は瞳を伏せた。

居場所が分からなければ文を出す事も出来ない。それ以前に今文を出した所で届くかどうかも分からず、何より

はこの地を離れる事は出来ないだろう。

それは土方も同様に。

しかし、静姫は相変わらず謎めいた笑みを浮かべるだけだった。

『明日にでもなれば、文も出せるはずだ。』

 

同じ中に存在しているはずなのに、静姫の考えはには到底分かれそうにも、ない。

 

 

 

その翌日、庭先に忽然と天霧という鬼が現れるまでは――