戦いは、土方が寝込んでいる間に、終わってしまった。

勿論、旧幕府軍の大敗である。

だが榎本も、島田も、無事だ‥‥と大鳥が報せてくれた。

 

「土方君の葬儀は済ませてあるから。彼には死んだ事になっててくれ。」

 

妙にさっぱりとした風に大鳥が笑って言ったのを、は覚えている。

 

戦いは、こうして終わった。

長かった哀しい戦いに、漸く終止符が打たれたのである。

 

 

人里離れた山間の中に、一軒の邸が建っていた。

そこに交野佐絵は一人で暮らしていた。

戦況が激しくなる前に、町中にあった住居をこちらへと移したのである。

ほんの数日前、諍いで両親を亡くしたった一人となった彼女の家に匿ってもらえることになったのは‥‥本当に幸運

だったとしか言いようがない。

その一室。

奥まった部屋に土方は数日間寝かされていた。

回復するのが不思議という程の重症を負いながら、彼は半月で立ち上がれるまでに回復した。

とは言ってもまだまだ全快にはほど遠い有様で、しかしながらその状況で隙あらば動き回ろうと言うのだから困った

ものである。

「何してるんですか!」

今日も今日とて昼ご飯の用意を持ってくると、一人起きあがって部屋を出ようとしている彼とばったり遭遇した。

咎めるような眼差しに土方は顔を顰める。

「寝てなくちゃ駄目だって言ったじゃないですか!」

「もう平気だ。傷だって塞がって‥‥」

「昨日まで熱があったんですよ?」

「だから、それはもう引いたって言ってんだろ。」

もう大丈夫だ、と土方は申告したが、は信じられないと言う風に頭を振る。

「駄目です。寝ていてください。」

「‥‥」

頑なに譲ろうとしないと、しばし睨み合う。

だがどれだけ凄んでも、宥め賺しても、ここ数日、彼女が退いた試しはない。

元より頑固だったが、最近はそれに輪を掛けて頑固になった気がする。

「‥‥ったく。」

結局土方が譲る事になり、深い溜息を吐くと部屋へと舞い戻る事になった。

「少しくらい歩き回ったっていいじゃねえか。」

ずっと横になっていると気が滅入るのである。

身体だって鈍るし、逆に寝てばかりというのは疲れるものだ。

「それは全快してから言ってください。」

はそんな訴えをぴしゃりとはね除け、食事の乗った膳をずずいと差し出した。

勿論ずっと横になっているので食欲もさほどない。

とは言ってもそれを納得してくれる相手ではなく‥‥食べられないとまた自由に外に出る機会というのは先延ばしに

なってしまうので、

「いただきます‥‥」

土方は料理に箸を着けた。

はそんな彼を見て、満足げに頷いた。

「好き嫌いは駄目ですよ?」

「ガキじゃねえんだぞ。」

「子供じゃないですか。親の目を盗んで部屋を抜け出すなんて‥‥」

「てめ、誰が親だ誰が。俺の方が上だろうが。」

「‥‥じゃあ、年長者としてもうちょっと自覚持ってくださいよ。」

 

懐かしい言葉の応酬に、笑いは意外な所から飛んでくる。

二人揃って視線を向けると、佐絵が開けはなった襖から顔を覗かせていた。

「あ、ごめんなさい‥‥なんだか、楽しそうで、つい。」

佐絵はくすくすと笑いを引きずりながらやってくると、枕元に薬の乗った盆を置く。

また今日も苦い薬を飲まなければいけないらしい。沖田ほどではないが、こうも毎日飲まされると嫌になるものである。

だってもう身体は大丈夫なのだから。

「土方さんでも子供みたいに言い返す事があるんですね。」

「言い返してばっかりですよ?可愛げ無いったらありゃしない‥‥」

「てめえにだけは可愛げ云々言われたくねえよ!」

「ほらね?」

が苦笑で言えば、佐絵はまた笑い出してしまった。

微笑ましいと思いながら同時に羨ましいと思ってしまう。

佐絵は、そんな風に軽口を叩いてもらえた事はないから。

それだけ土方がに気を許している‥‥という事なのだろう。それはちょっと妬ける。

「っくしゅ!」

不意に涼しい風が吹き込んで、は一つくしゃみを漏らした。しかも、立て続けに三回。

もう六月だというのに蝦夷は風が冷たい事がある。しかもここは山の中で、高地にある分それが増す。

江戸や京ならば「暑い」と茹だっている所だろう。

「おい、、おまえの方こそ風邪ひいてんじゃねえのか?」

くしゃみを連発する彼女に、思わず土方は眉間に皺を寄せた。

「誰かさんが心配で風邪なんかひいてられません。」

しかし、はまた可愛げのない一言を返す。

くしゃみの余韻なのか微かに鼻に掛かった声が気になるが、そのやりとりを佐絵に笑われ、面白くないと言う気分の

方が勝ってしまう。

思わず顰め面のままふいっとそっぽを向くと、思い出したと言う風に佐絵が笑いを止めて声を上げた。

「あ、さん。勝手場に大根おろしが残っていましたけど‥‥あれはどうされるんですか?」

「いっけない!忘れてました!」

はぴょん、と飛び上がるようにして立ち上がる。

それは彼に食べて貰うためにおろしたものだったのだ。

少し前に喉が痛いと言っていたから。

「取ってくるんで、佐絵さん、土方さんの事お願いしますね。」

「はい、任されました。」

ぱたぱたと軽やかな足音が遠ざかっていく。

いつの間にか、と佐絵は仲良くなっていたみたいだ。

まあ二人は似ている所があるのできっかけさえあれば仲良くなれるだろう。

仲が良くなったのは良い事なのだが、いかんせん、佐絵が自分に好意を持っているのを知っているだけになんだか落

ち着かない。

しかも、彼は以前彼女に酷い仕打ちをしてしまった上に、それを謝ってすらいないのだ。

今更謝った所でどうとなるものでもないが、だからといってこのままでしておくわけにもいかない。

 

さんって‥‥」

そんな葛藤を知ってか知らずか、佐絵が口を開いた。

遮られ、土方は一瞬呻く。

が、すぐに咳払いをしてなんだ?と返した。

「素敵な方、ですね。」

一瞬、それは遠回しに彼に対しての当てつけだろうか‥‥とも思ったが、彼女の言葉には一切の敵意を感じない。

恐らく本心からそう言っているのだろうと分かって、これはこれで土方は答えに困った。

そうだと言えばただの惚気だし、なにより自分を好きだと言ってくれた彼女に対してその答えは無神経ではないだろ

うかと思ったのだ。

「土方さんが好きになるの‥‥分かります。」

佐絵は続けた。

彼がを愛するのは当然の事だと。

「だって、さんは‥‥愛した男の人にはどこまでもまっすぐなんだもの。」

は、真っ直ぐで、真摯で、一生懸命だった。

多少不器用だと思わせるくらいに、一生懸命だった。

彼女は寝る間も惜しんで看病にあたった。

ここに運び込まれてから暫く、土方は昏睡状態が続いたが、は片時も離れなかった。

献身的に、彼が意識を取り戻すものだと信じて看病を続けた。

佐絵は一瞬だけ‥‥彼はもう駄目かも知れないと思った事がある。でも、は疑わなかった。

裏切られた時に傷つくのは目に見えていたのには絶対に信じた。

彼が意識を取り戻し、回復するのをただひたすらに信じた。

好きだからこそ、信じられるのだろう。

そして、その願いは通じた。

「‥‥私では、きっと、諦めてしまいます。」

佐絵はそっと視線を落とす。まるで弱い自分を恥じるようだった。

「もう助からないと‥‥諦めてしまいます。」

のように、絶対なんて信じられない。

誰よりも愛する人だからこそ、その人を信じて喪った悲しみは耐えられるものではないだろう。だからそれよりも前

に自分で諦めてしまうに違いないのだ。

そうすれば、傷つかずに済むから。

 

「あいつは、どうしようもねえ女なんだよ。」

苦笑混じりの、どこか困ったような声が、土方の口から発せられる。

それは慰めの言葉なのか、それとも違うのか。

佐絵が不思議な顔でそちらを向いた瞬間、

 

がしゃん――

 

と、突然けたたましい音が聞こえてきた。

何事かと土方が立ち上がって飛び出せば、廊下の先でが壁に凭れ掛かるようにして座り込んでいるのが目に飛び

込んでくる。

っ!?」

慌てて駆け寄り、顔を覗き込んだ。

すると、その顔色がひどく青く、身体が熱い事に気付く。

彼女は熱を出していたのだ。

「こ、の、馬鹿野郎!てめえの具合が悪いのを押してまで人の心配をする奴があるか!」

「‥‥へ、平気‥‥ちょっと、目眩がした、だけ‥‥」

「平気なわけがあるか!」

気丈に笑って、一人で立てると言い張る彼女を、有無を言わさぬ強さで抱え上げ、佐絵の方を振り返る。

「悪い、佐絵さん。床の用意を頼む。」

「はいっ」

佐絵は言葉よりも先に踵を返していた。

「土方さん‥‥ほんとに、大丈夫‥‥」

「大丈夫じゃねえ。」

は腕の中で力無く下ろしてと訴えた。

抱き上げた身体は、少し落ちているであろう腕力でも彼女は軽いと思うほどで‥‥実際、ここ数日で確実に痩せたの

だろう。

きっと看病の合間はろくに食事も睡眠も取っていなかったのだろう。

それが、祟った‥‥というところか。

「土方さ‥‥」

「もういいから、黙れ。」

不機嫌なくせに、優しい声だ。

彼が自分を労ってくれている‥‥というのが分かって、は申し訳なくて唇を噛む。

土方は、死にかけたほどの重症を負ったのに。

「土方さん、床の用意が出来ました。」

「ああ、すまねえな。」

隣室に敷いた布団の上に、を寝かせる。

その動作はまるで壊れ物でも扱うかのようで、どれだけ彼女が大事にされているのかが伺えた。

「ごめんなさい‥‥」

布団を掛けてやると、彼女の口から申し訳なさそうな謝罪の言葉が漏れる。

予想していた言葉に土方はくつりと喉を震わせて笑い、

「謝るな。説教して欲しいなら後でたっぷり説教してやるから。今はとにかく、休め。」

汗で張り付いた前髪を剥がし、ゆったりと撫でる。

その手つきがあまりに優しいからか‥‥の瞼がゆっくりと、落ちていった。

「ひじかたさん‥‥」

「ん?」

「どこにも、いかないでくださいね‥‥」

眠りに落ちる間際、確かに零したのは明朗快活な彼女らしくない、少し気弱な言葉で‥‥

 

「どうしようもねえ、女だろ?」

 

自嘲じみた声を、土方はぽつりと漏らした。

佐絵は何を言われたのか分からずに「え」と小さな声を漏らす。

「てめえの事もろくに考えられねえ、どうしようもねえ女だろ?こいつ。」

無茶苦茶なんだよ、と彼は笑って言った。

「どんだけ苦しくても、辛くても‥‥俺の為に必死になってくれる大馬鹿野郎なんだよ。」

こんな状態になるまで、一生懸命土方の看病にあたった。

熱に冒されていても‥‥痛みも怠さも押しのけて、土方の為に気丈に振る舞っていたのだ。

今までそうやって、彼女は献身的に自分だけを支えてくれた。

我が身を犠牲にしてまで。

そんな事を、少しの躊躇もなく出来る女なのだ。

 

「こいつは‥‥すごいんじゃねえ。」

「‥‥」

「ただ、愚かなんだよ。」

は‥‥愚かな女だ。

もっと賢い生き方が出来るはずなのに、こんな馬鹿な男に囚われてしまって、その男に全てを差し出してしまった愚

かな女。

自分の魂すらも、差し出してしまった愚かな女なのだ。

 

そんな彼女だからこそ、

 

「俺は、囚われたんだと思う。」

 

囚われた彼もまた、愚か者と言う事なのだろう。

 

 

佐絵はそう告げる穏やかな横顔を見て、

絶対に勝てない、

と、改めて思うのだった。

 

 

 

は質の悪い風邪にかかり、三日三晩寝込む事となった。

その看病には、勿論土方があたった。

佐絵は「自分が代わる」とは言わなかった。何故なら、彼も彼女と同じく、譲ってはくれないと分かっていたから‥‥

 

「‥‥んっ‥‥」

ぴたりと触れる冷たい感触には小さく呻いた。

意識が浮上したのか、睫が微かに震え、ゆっくりと琥珀が現れていく。

「‥‥ひじかたさん‥‥」

焦点の合わない瞳が、まるでその姿を捜すように左右に振れる。

いつもより頼りなく聞こえる声はきっと熱のせいなのだろう。

泣き出しそうな声が自分を必死に求めているようで、土方はそっと彼女の手を掴んで瞳を覗き込んだ。

「‥‥土方さん。」

瞳が彼へと定まる。それだけで、彼女は本当に嬉しそうに笑った。

くすぐったいやら嬉しいやら‥‥土方は分からず、小さな笑みを漏らす。

「具合は?」

「‥‥ん、ちょっと‥‥怠いです。」

恐らく喋るのもまだ億劫なのだろう。

舌が上手く回っていないようだ。

「熱は‥‥だいぶ、引いた気がします。」

「薬が効いたんだろうな。」

額にあててある手拭いとは別に、もう一つを濡らしてそれで頬や首元の汗を彼が拭ってくれる。

それが気持ちよくて、は猫のように目を細めた。

「目が覚めたなら、着替えるか?汗を随分掻いただろう?」

彼の言うとおり、寝間着は汗で濡れている。

確かに着替えてすっきりしたい気分だ。出来るならば風呂に入りたい。

「‥‥そうします。」

僅かに残る怠さや頭痛に、身体をふらつかせながらは上体を起こした。

それを土方は助けてやりながら、傍らに置いてある替えの寝間着へと手を伸ばした。

「ありがとうございます。」

差し出された寝間着を受け取ると、がちろ、と視線を恥ずかしそうに土方に向ける。

その意味に気付いた彼が薄く笑いながら、

「手伝わなくていいのか?」

なんて言うものだから、

「結構です!」

思わず強い口調で言い返してしまった。

「そいつは残念。」

と土方は肩を震わせながら笑い、くるりと背中を向けてくれる。

別に疑うわけではないのだが、はそれをじっと睨み付け、そして自分も背を向けて緩慢な動きで寝間着を脱ぎ始

めた。

ぱさりぱさりと衣擦れの音が聞こえる。

無言がなんとなく気まずくて、は乾いた寝間着へと袖を通しながら控えめに声を掛けた。

「ずっと‥‥」

「ん?」

衣擦れの合間に、の小さな声が聞こえた。

なにかと問い返せば見えないけれどの身体がびくりと震える。

言葉だけで彼が振り返ったわけでもないというのに、何を怯えているのか。

そもそも自分は生娘でもないし、彼を好きで、彼に何をされたって平気だと思っているのに。

それ以前に彼がまだ、自分を抱きたいと思ってくれているだろうか?

は考えて、止めた。

思っていなかった時に哀しくなるからだ。

「ずっと‥‥私の看病を?」

「‥‥まあ、な。」

問いに、土方の予想通りの答えが返ってくる。

は思わずむっと唇を尖らせた。

「病み上がりなのに?」

咎める立場ではないのは重々承知だが、それでも彼の身体の事を考えれば止めて欲しいと思ってしまい、そんな言葉

を零してしまう。

「それはおまえにだけは言われたくねえな。」

ひょいと、汗で濡れた寝間着を奪われた。

てっきり後ろを向いているものだと思っていたが、いつの間にかこちらを振り返っていたようで、

「い、いつから!?」

は慌てて振り返り訊ねる。

寝間着を傍らに押しやった彼はにんまりと口元に嫌な笑みを浮かべた。

「いつだと思う?」

「‥‥‥‥」

は一瞬息を飲み、まさか見られていたのでは‥‥と構えた。が、すぐに、そんな男らしくない事を彼がするはず

もない事を思い出す。もし見ていたのならば正々堂々と「見るぞ」と言うだろう。盗み見るような事、彼がするはず

もない。

それに、先に自分から背を向けてを安心させてくれたのである。その信頼を‥‥彼が裏切るわけもないのだ。

「‥‥高いですよ。」

「おいおい、俺から金を巻き上げようってのか?」

「当たり前じゃないですか。」

は仕掛けられた土方の悪戯に、倍返しにでもしてやるようにして髪を梳き上げ、妖しく睨め付ける。

「私の肌に、どれだけの大金を積む男がいると思って?」

それをただで拝もうなんてちょっとばかり調子が良すぎるじゃありませんか?

かつて色町に潜伏していた頃に身につけた婀娜っぽい仕草で微笑めば、土方は息を飲むしかなかった。

結局、悪戯は失敗どころか完璧にこちらがしてやられたのだ。

 

「ところで‥‥佐絵さんは?」

布団にもう一度潜り込みながら、は訊ねてくる。

「ん?ああ、先に休んでるってよ。」

彼女は離れで今、一人休んでいる。

家主を母屋ではなく離れに寝かせるのは申し訳ない気分だったが離れでは十分な看病が出来ず、なおかつ隣室に

がいないのでは土方もおちおち休んでいられないだろうと言う事で佐絵が離れで寝る事となったのである。

「佐絵さんにはご厄介になってばっかりですね。」

「‥‥そうだな。」

の言葉に土方が小さく同意を示す。

彼女には、本当に色々と迷惑を掛けた。

嫌な顔一つせずにその迷惑を受け入れてくれた。

彼は‥‥そんな彼女に酷い事をしたのに。

 

「何か‥‥あったんですよね?」

 

そっと俯いた彼に、は問いかける。

問いかけるというよりもそれは確認に近しい響きで、驚いて顔を上げればはこちらを、咎めるでもなく軽蔑する

でもなく、ただ、困ったような顔で見つめていた。

「佐絵さんと‥‥何かあったんですよね?」

二人の間には確かに何かがあったのだ。

彼は何もなかったと言ったけれど‥‥あったのだ。

それをは問い質すつもりも、咎めるつもりもなかった。

ただ、

「それなら‥‥ちゃんと話をしてあげてください。」

は言った。

もし、彼女と何かがあって、それを彼が後ろめたいと思っているのならば‥‥きちんと話をして解決をさせるべきだと。

だってそのままずるずると引きずっていても何も良い事はないのだ。

言葉にしなければ伝わらないし、伝えたい事があるのならば伝えた方が良い。

はそれを‥‥彼を愛して、初めて知った。

言葉に、彼を好きだと言って良かったと今では思っている。

だから‥‥

「‥‥‥‥」

「大丈夫。」

言いかける言葉を、は遮る。

 

「あなたの気持ちを‥‥私はもう二度と、疑いません。」

 

にこりと笑ってくれる彼女に、土方はそれ以上、何も言えなくなった。

 

 

「っと――

桶の水を換えるために外に出ると、その人とぶつかりそうになった。

「あ、ごめんなさい‥‥」

小声で、慌てて謝ったのは佐絵である。

狼狽えるその様子から、さっきの話を全て聞かれていたのだろうという事を察した。

土方は決まり悪そうに首の後ろを掻き、

「ちょっと、いいか?」

そう彼女を促すとその場を離れた。

いくらが眠ってしまったとはいえ、部屋の外で話をされては目を覚ましてしまう恐れがある。それに、正直彼女

には聞かれたくない話だった。

「悪かったな‥‥」

広間の方にやってくると、土方は唐突に謝罪の言葉を口にした。

佐絵は、それが何を言っているのかすぐに分かったらしく、視線を伏せて緩く頭を振り、

「あの時は私も‥‥いけなかったんです。」

小さくそう零した。

佐絵は自分でも分かっていた。

あの時、土方は弱っていたのだ。

愛する人と離ればなれになり、弱っていた。

そこに、自分はつけ込んだに過ぎない。

彼のへの想いを逆手に取り、似ている自分ならば、彼女の代わりに愛してもらえるのではないかと‥‥そう思って。

「でも‥‥やっぱり駄目でしたね。」

佐絵は自嘲じみた笑みを浮かべて顔を上げた。

「結局、私では彼女の代わりにはなれませんでした。」

いや、今ではよくの代わりが勤まるなどと思ったものだ。

自分ととではこれほどまでに違いがある。

佐絵の土方への想いなど、彼女の足下にも及ばないと言うのに‥‥よく、その程度の覚悟で代わりになろうなんて思

ったものだ、と自分を笑い飛ばしてやりたい気分だ。

「佐絵さん‥‥」

「私には、あなたを支えるなんて無理です。」

「‥‥」

「あなたみたいに意地っ張りで、頑固で、真っ直ぐな男の人は‥‥私なんかじゃ支えられません。」

きっと、この世のどこを探したって、彼女以外に彼を支えられる人はいないだろう。

そして、彼女を支えられるのも、彼しか、いないのだ。

どこか悪戯っぽい言葉はもしかすると彼女のささやかな、彼への仕返しなのだろう。

一瞬でも、自分を期待させた仕返し。

 

佐絵はどこか吹っ切れたような顔で笑い、くるりと背を向けた。

「私、明日ここを経ちます。」

「え?」

「日本を出て‥‥外の国へと移ろうと思うんです。」

丁度伝手があり、外国の商船に乗せてもらえる事が出来るのだと佐絵は言った。

「この邸も不要ですから、良かったら使ってやってください。」

「佐絵さん‥‥」

「あ、先に言っておきますけど。」

申し訳なさそうな表情を浮かべる土方を、佐絵は制した。

「ここで謝ったら私、怒りますからね。」

「‥‥」

目を吊り上げ、不機嫌そうな表情を浮かべた彼女はすぐにふっと笑う。

「出来たら‥‥ありがとうって言ってください。」

謝られるよりも、感謝される方が嬉しいです。

そう笑う彼女は、やはり、どこか愛しい女に似ている気がした。

 

だからこそ――彼女を重ねたのだろう。

 

 

 

さんとお幸せに。」

 

佐絵は心の底から二人の祝福を願って、そう言葉にした。

少しだけ心は切なくなったけれど‥‥もう迷いはない。

初めて愛した男があれほど素敵な女と一緒になれるのだから、後悔などあるわけもなかった。