7
危ない。
と思った時には踵が滑っていて、見事にどさりとなだらかな草の坂を転げ落ちる。
転がり落ちた先も草が生い茂って、どさりと顔面から突っ込んだ瞬間ふわりと新緑の香りが飛び込んできた。
薄く目を開くとぼやけた視界に緑が。
それは食える草だろうか?
などと考えたがもう腹の虫すら鳴かない。
おまけに指先一つ動かせないのでは、草を食う食えない以前の問題だ。
腹が減りすぎて力が入らない。
最後に何かを食べたのは、五日前だ。
胃はすっからかんになっている。
唾も出ない。
乾燥してひりつく喉をどうにか上下させながら、口の中に偶然入った草を咀嚼してみる。
まずかった。とても食えそうにない。
だが吐き出す力もなく、ただ口を広げて呼吸を繰り返すしかない。
人里離れたこんな山道では誰も通りかからないだろう。
絶望的だ。
都合良く、人が通りかかって握り飯の一つでも差し出してはくれないだろうか?
そんな事をふと考え、懐かしさが込み上げて井吹は笑った。
あの時も同じだった。
腹が減って動けなくなって、死を間際に感じた時、握り飯を差し出されたのだった。
あの男‥‥芹沢鴨に。
一時は彼に助けられた事を後悔したものだったが、今では彼に助けてもらえた事を感謝している。
ああでも、折角あの時助けてもらった命を同じような状況で落としてしまうというのはなんとも申し訳ない気がした。
きっと、
『貴様は本当にどうしようもない犬だな』
とあの世で笑い物にされるのだろう。
笑われるのは構わないが、あの世でまで鉄扇で殴られるのは勘弁だ。
頼むからあの人とは別の場所に連れていってくれよ‥‥と、井吹が目を閉じた瞬間だった。
「おい、君。」
声が掛かった。
男の声だった。
「君、しっかりしろ!大丈夫か!?」
有り難い事に芹沢とは違って出会い頭に握り飯を踏み潰す、という事はされずに済みそうだ。
近付いてきたその人物が井吹の身体をそっとひっくり返し、大丈夫かと訊ねてくる。
しかし、
「え‥‥?」
ひっくり返されその顔をしかと認識した瞬間、お互いに驚いたように目が見開かれ――
「千鶴ちゃん?」
ふと、空を見上げたまま動かない千鶴に、沖田は声を掛けた。
彼女は空を見ている。
声が届いていないのか、振り返らない。
まるで時を止めてしまったかのような彼女になんだか不安になって、そして同時に面白くなくて、
「千鶴ちゃん。」
「っきゃ!?」
近付いて後ろから腕の中に抱きしめてやった。
千鶴は大袈裟なくらい身体を震わせ、首を巡らせてどうにか彼の姿を視界に収める。
「お、沖田さん!?」
「酷いなぁ、僕が声を掛けたのに知らんぷり?」
意地悪い言葉に千鶴は慌てて首を振る。
「ち、違います!その、ちょっと考え事を‥‥」
千鶴は腕の中でその、と今更のように抱きしめられているという事実に気付き顔を真っ赤にさせ俯いた。
腕の中にしっかりと抱きしめられた事にほっと、安堵した。
灰になって消えていくのは自分の方だと言うのに、彼女を掴めないのが不安だなんて‥‥
「何を考えていたの?」
沖田は小首を捻った。
恥ずかしいので出来れば離して欲しいと思ったが、だけど彼の腕の中はとても暖かくて居心地が良いものだから、
つい、甘えてしまいたくなって、千鶴はとんと控えめに彼の胸板に凭れ掛かってみた。
そうすると、子供のように嬉しそうに彼は笑う。
嬉しくて、ちょっとだけ、くすぐったい。
「‥‥新選組の皆さんの事を‥‥」
「‥‥」
沖田は笑みを微かに引っ込めた。
先に戦線を離脱してしまった沖田には今、新選組がどうなっているかなど分からない。
そうでなくとも人里離れた山奥には世間の状況など耳に届かないのだ。
ただ‥‥
無事ではないだろうな、と思っている。
特に土方は。
彼は新選組を率いる頭だ。その新選組を、新政府軍、特に長州の人間は恨んでいる。
無事で済むはずがない。
そして土方が無事でなければ、必然、彼女も――
「さあ、どうだろうね。」
勿論、それを告げる程沖田は鬼ではない。
いや、昔ならば或いはしたかもしれないが少なくとも今は、この愛しい少女を傷付けたくなくて、曖昧に誤魔化して。
みせた。
「不思議‥‥ですね。」
それに気付いたか、それとも気付いていないのか、千鶴はぽつんと小さく呟いて笑みを漏らした。
何が不思議なのかと首を捻ればその気配に気付いたのか、彼女は空を見上げながら、
「だって、私が京に父様を捜しにやってこなければ、私は何も知らないままだったでしょうから。」
そう答えた。
きっとこうして新選組がどうなったかなどと考える事も無かったのだろう。
ただ時代が流れゆくのを傍観していただけに違いない。
彼女が京に来なければ、浪士に絡まれる事もなく羅刹という存在も知る事もなく。
そうすれば新選組と出会う事もなかった。
彼らと出会わなければ自分が鬼である事も知らずにいただろう。
自分に兄や、姉がいた事も知らずにいた。
そして‥‥
彼と出会う事も無く、本当の意味で人を愛すると言う事を知らずにいたかもしれない。
苦しい事や哀しい事はたくさんあった。
でも、それがあってもなお、千鶴は京に来て良かったと今なら思う。
例えばこの先、哀しい別れが必ず待っていると知っていても、彼と出会えなかった事よりもずっとずっと幸せなのだ。
出会ってしまった今なら、それがよく分かる。
「‥‥」
それでもきゅっと着物を掴んで甘えるような仕草をする彼女は、その別れを恐れている。
沖田は困ったように笑い、抱きしめる腕に力を込めた。
別れは避けられないと分かっていても、今できる事は彼女を抱きしめて自分がここにいると教えてやるくらいだ。
だから、今は精一杯、彼女に甘えさせてあげたいし、自分も甘えたいと思う。
別れるその瞬間に寂しいと思わずに済むように。
「ぁあああ!!」
腕の中で静かに抱きしめられていた千鶴が、唐突に大声を上げた。
それがあまりに大きな声だったので流石の沖田も驚く。
「な、なに?」
何事かと訊ねれば、千鶴は腕の中でぐるりと身体を反転させ、青ざめた様子で「どうしましょう」と呟いた。
「山崎さんの言伝を、土方さんに伝えるのを忘れていました。」
まさか、一拍の後、大爆笑をされるとは千鶴も思わなかった。
「あはは、あは、はははっ!」
苦しい、とお腹を抱え背中を向けて笑い転げる沖田に千鶴が逆に呆気に取られ、すぐにむくれたように頬を膨らませる。
「そ、それ、今思い出す?普通!」
「わ、笑わなくてもいいじゃないですか!」
「だ、だ、って‥‥そんなの今更‥‥」
そう言えば出会い頭もこうやって爆笑された。
彼はもしかしたら相当の笑い上戸ではないのだろうか?
いや、そうに違いない。断じて自分がおかしな発言をしたわけでは‥‥
「わ、私は真剣に‥‥」
千鶴は拗ねたような声を上げ、ぷいっと背を向ける。
沖田は込み上げる笑いを必死で押し殺し、ごめんごめんと涙を拭いながら背を向けてしまった愛しい彼女に手を伸ば
した。
怒っているのだと示すように肩が吊り上がっていた。
宥めるように髪の一房を取り、優しく口づける。
「分かってるよ、君は真剣なんだよね。」
「‥‥」
少しだけ、身体の強ばりが解ける。
それを見て目を細めながら細い肩に手を伸ばして引き寄せると、少しの抵抗があったが、腕の中に舞い戻ってくれた。
覗き込む顔は本当に申し訳なさそうなそれで、自分が責務を果たせなかった事を悔いているのが分かった。
「山崎君が悪いんだよ。」
君は悪くない、と沖田はあっさりと言い捨てる。
千鶴は驚いて顔を上げた。
どういう事かと訊ねるその瞳には何故か不機嫌そうな沖田の表情が飛び込んでくる。
「土方さんに言いたい事があるなら、自分で言うべきだったんだよ。」
「‥‥え‥‥沖田さん?」
「人任せにするのが悪い。っていうか、千鶴ちゃんにそんな事をさせるのが悪い。
それに、千鶴ちゃんに申し訳ないと思わせるのも悪い。」
「あ、あの、えっと‥‥」
「千鶴ちゃんは僕の事だけを考えていればいいのに。」
自分でも子供っぽい事を言っている自覚はある。
だからきっと、そんな事をあの男の前で言えば、こう言われるに決まっている。
――子供みたいな我が儘を言わないでください――
さあ、と風が吹き、その風に紛れて彼の者の声が聞こえた気がした。
だが、自分を窘めたければ、出てきて言わないと全く効果なんかないのである。
沖田は風をそっと目を細めて見上げ、小さく笑う。
その耳に、
「山崎さん‥‥」
千鶴の呟くような声が聞こえた。
彼女にも、もしかしたら聞こえたのだろうか?
だとしたら山崎は彼らの近くにいるのかもしれない。
近くで見守ってくれている、いや、監視だな彼の場合は。
それは嫌だなぁなどと心の中で呟いた瞬間、さくりと、草を踏みしだく音が聞こえた。
それから、
それから、
「あなたは、変わらないな。」
苦笑混じりの声は、幻聴と言ってしまうにはあまりに強く、そして生に満ちていて、
――え?
顔を上げればそこに、
そこに、
「あ、ぁ‥‥」
千鶴は驚くあまりに声が出ない。
それは沖田も同様であったが、すぐに決まり悪そうな顔になり、苦笑を漏らした。
「君は相変わらず、僕に意地悪をするんだね。」
「それは‥‥沖田さんにだけは言われたくありません。」
軽口に返ってくる相変わらず素っ気ない言葉。
幻でもなんでもなく、目の前に、彼らは立っていた。
懐かしいとさえ思えるかつての仲間‥‥山崎烝とそして彼以上に懐かしいと思える井吹龍之介の姿である。
生きていても生きていなくてもどうでもよかったんだけどと心の中で続けたが、何故だろう、目頭が熱くなって‥‥
沖田は困ったように笑うしかない。
「君はよくよく生き倒れるみたいだね。」
もう少し強くなった方がいいんじゃない?と、沖田は井吹をからかった。
勿論反論したかったが、井吹は出来ない。ただそれを示すようにだんだんと悔しげに畳みを叩く。
変わらないなぁと、沖田は内心で呟き、変わらない事にほっとした。
彼は今でも不器用なくらいに真っ直ぐで‥‥どこか千鶴と似ているかも知れない。勿論、千鶴の方が何倍も可愛いの
だけど。
「俺も、まさかあそこで井吹に会うとは思わなかった。」
思い出して苦笑を浮かべるのは山崎である。
何の因果だというのか、生き倒れた彼を救ってくれたのはかつて彼を助けてくれた芹沢と同じ、浪士組の人間‥‥彼
の唯一無二の友だったのだ。
よくよく彼らとは縁があるらしい。
まあ、一度は断ち切った縁を自ら追い求めてたどり着いたくらいなのだから、きっと何かがあるのだろう。
まさかそれを再び断ち切られた所で、山崎と会うとは思わなかったのだけど。
「それにしても山崎君。良く生きてたね?」
散々井吹をからかって遊んだ後、沖田は山崎へと視線を向ける。
「僕は助からないと思ってたんだけど‥‥」
あの時、山崎の傷を見て沖田は思った。
彼は助からないと。
だからこそ、千鶴にあんな言葉を託したのだと。
そして‥‥それを土方に告げるのはとても残酷な事だとも‥‥分かっていた。
だからにだけ告げた。恐らく彼女も土方には伝えていないだろう。言伝を頼まれた千鶴には申し訳ないが。
「俺も、諦めていたんです。」
山崎は孔が空いただろう腹を少しさすった。
そこには未だに傷跡が生々しく残っており、彼がどれほどの重症を負ったのかというのを示している。
助からないと彼も分かっていた。
だが、
「‥‥俺は、運が良かったんでしょう。」
山崎は小さく笑う。
なんの偶然だったのだろうか。
誰も通らないはずだった山道に迷い込んできた人がいたのだ。
そしてその人が、山崎を助けてくれた。
目が覚めた時、何より生きているという事に驚いたのは彼自身だった。
「‥‥しぶといね、君。」
些か辛辣な発言だがその横顔は嬉しそうだ。ただの照れ隠しなのだと分かると千鶴は微笑ましくてつい口元に笑みが
浮かんでしまう。
「でも、よくここまでたどり着けたね?」
雪村の里は奥深い山の奥にある。
ここまで通じる道は獣道くらいで、その奥に里があるだなんて恐らく誰も知らないだろう。
鬼の一族以外は。
「天霧という鬼にここを教えてもらいました。」
「へえ‥‥」
鬼が一体何の用で彼らと接触し、彼らに雪村の里の事を教えたのだろう?
まさかまだ雪村の血を望んでいるとかそういう事だろうか?
「‥‥これを‥‥渡して欲しいと。」
山崎は懐からゆっくりと、何かを取りだした。
とんと畳の上に置かれたのは硝子の小瓶だ。
中は、
「‥‥」
赤い液体で満たされており、思わず千鶴も沖田も顔を顰める。
『それ』とよく似ていたからだ。
「変若水ではありません。」
「変若水じゃない?」
山崎はそうです、と頷く。
「これは、さんの血です。」
「さん?」
千鶴は更に目を見開き、思わずずいと身を乗り出した。
「あ、あの、さんはご無事なんですか?」
食いつかんばかりの勢いに、山崎は安心してくれと笑いながら言う。
「無事だと聞いている。
土方さんと共に、蝦夷におられるそうだ。」
「よ、良かった‥‥」
千鶴は言葉にうる、と目元を潤ませる。
これは驚いた。
土方はきっと死んだと思っていたのに。いや、散る事を望んでいると思っていたのに。
「‥‥しぶといなぁ、あの人。」
「‥‥」
思わず零れた一言に、山崎の瞳が眇められる。
そのまま文句でも飛び出してきそうだったので、沖田はそれで、と話題を戻して訊ねた。
「の血が、一体どうしたの?」
山崎は眉根を寄せしばし睨み付けるようにしたが、すぐに皺を解くと懐から今度は文を取りだして差し出した。
その文字には見覚えがある。のものだった。
彼女の文はいつだって簡潔だ。
必要な事だけしか書かない。
何故、それを届けたかが記されていた。
の‥‥先祖返りした血は、人を鬼へと作り替えるもので、
――これを用いれば労咳が治るかも知れないと、そう記されていた。
『自分たちは大丈夫だから心配はするな』
と、最後の締めくくりに、自分たちの無事の報告を伝える文が書かれているあたりが彼女らしい。
沖田らの安否を一切確かめないあたりも、だ。
恐らく彼女は沖田ならば絶対に無事だろうと決めつけているのだ。
そのくせ、こういった物を送りつけてくるあたり、一体どちらなのかと問い質したい。
「それにしても‥‥」
と、沖田は硝子の小瓶をつまみ上げぐるりと中の液体を揺らしてみる。
血と言うにはあまりに透き通って美しい。
まるで濁ってなどいなかった。
試しに瓶の蓋を開けてにおいを嗅いでみたが、独特な鉄錆のにおいもしない。
不思議と甘い花の香りがしする気がして、
「ってやっぱり花の化身とかなんじゃない?」
思わずそんな馬鹿馬鹿しい言葉が漏れてしまう。
鬼と言われるよりも花と言われる方がしっくり来る。
だが、棘のある危険な花だけど。
「で、これを飲めって?」
飲め、とは書いていないが、恐らくそう言う事なのだろう。
山崎はこくりと頷く。
「沖田さん‥‥」
瓶をじっと見つめる沖田を千鶴が不安げに呼ぶ。
どうやら彼女も飲んで欲しいと願っているようだ。
この地にやって来て彼の状態は安定している。だけど、時折漏らす苦しげな咳は彼の身の内に未だ命を蝕む病巣が存
在している事を示している。
労咳は恐ろしい病だ。
骨や間接などに広がれば、二度と歩けなくなる。
寝たきりになり、日に日に弱っていく苦しみなど彼に味わわせたくなかった。
だが飲んでくれと願う一方で、彼がそんなものに頼らないというのも知っている。
沖田総司という男は‥‥今を生きる男だから‥‥
未来よりも今を。
「‥‥」
千鶴の瞳に一瞬翳りが見える。
それはどこか諦めにも似たもので、沖田はそれを見ると小さく笑った。
彼女にはいやというほど、自分の事を知られているものだと。
そんなものに頼りたくない。
沖田は思った。
こんなものに頼らなくても生きていける。
沖田は思っていた。
だから――
「――」
硝子の小瓶を沖田は傾けた。
赤い液体がとろりとこぼれ落ちる。
それを、三人は驚いたように見ていた。
こぼれ落ちた先にあったのは薄く開いた彼‥‥沖田の唇。
赤いそれは彼の口の中に半分ほど吸い込まれ、
「はい、あげる。」
そして次の瞬間、何を思ったのか、残りの半分を井吹の口の中に強引に放り込む。
「っ!?」
井吹は驚くあまりに喉を鳴らしてしまい、ごくりと嚥下してしまう。
喉の奥を滑り落ちたのは血とは思えない甘い液体。
蜜かと思わせるが、それが鬼の血だと思うと‥‥いや、彼の場合は変若水だと思うと、だろう‥‥井吹は慌てて吐き
出そうとした。
が、それは既に胃の方へと滑り落ちてしまっていて吐き出す事は叶わない。
何度か空気だけを吐き出す彼に、沖田はけらけらと笑ってみせた。
「折角の厚意を吐き出そうとするなんて、井吹君って本当に失礼だよね?」
あれは厚意なのか?嫌がらせじゃないのか?
と井吹の瞳が訴えている。
「君の喉を治してあげようと思ったのに‥‥」
しかし、井吹の声が蘇る事はない。
それを見て沖田はやっぱり大した力なんてなかったんだろうなと内心で呟く。と、
「どうし、て‥‥」
千鶴の小さな呟きが聞こえ、沖田は振り返る。
彼女はその大きな瞳を丸く見開いて、こちらをじっと見つめていた。
その表情が意味するのは驚きだ。
沖田は言った。
「多分、僕一人なら、飲まなかっただろうね。」
例えば今ここに残ったのが沖田一人ならば、労咳で衰えて死んでいくのも運命だと受け入れただろう。
羅刹となって灰のように消え、何も残らないのも運命だと受け入れ、足掻く事もなかった。
でも、
「君を遺して、いけないでしょう?」
沖田は一人ではない。
ここには千鶴がいる。
誰よりも大切にしたい女がいる。
そんな彼女を‥‥苦しめたくない。
悲しませたくない。
彼女は沖田を喪えば、一人になってしまう。
ひとりぼっちになっても、彼女は、沖田の代わりを求めたりはせずに彼だけを死ぬまで愛し続けるのだろう。
だとしたら、
「僕は、ほんの少しでも長く生きなきゃいけないよね?」
彼女の苦しみを、悲しみを、一瞬でも短くしなければいけない。
生きなければいけない。
だから、彼はその道を選んだ。
千鶴を悲しませないために。
「お、きた‥‥さ‥‥」
驚きから次には喜びと、戸惑いを浮かべ、瞳が潤む。
せり上がった涙に苦笑でそっと手を伸ばし、涙を拭った。
「君の涙を拭うのは、僕の役目だからね。」
その役目を、彼は少しでもいいから長く務めたいと思うのだった。
「あの、本当に、このままお帰りになるんですか?」
玄関の外まで見送りに出る千鶴はしきりに山崎らを引き留めようとしている。
よければ一晩くらい泊まっていってくださいとでも言いかねない彼女に、
「僕はとっとと帰ってほしいな。」
と沖田は言ってのける。
「これ以上邪魔をされちゃたまんないよ。」
「沖田さん!」
素っ気ない言葉だが、とっとと帰れと追い払うその素振りは逆に寂しいからこそなのではないかとも思う。
優しい時間は長ければ長いほど苦しくなる。だからこそ早く彼らを帰したいのではないかと。
「気持ちは有り難いが‥‥俺たちも急ぐ用事があるんだ。」
重たい荷物を背負い直し、千鶴から持たされた包みを手に山崎は振り返って言う。
そう告げれば千鶴がそうですかとしゅんと落ち込むので、沖田はますますつまらないと言いたげに顔を顰めた。
山崎の苦笑はますます深くなり、その彼を無言で井吹が促した。
「それでは、俺たちはこれで‥‥」
「はい。」
と俯いた千鶴は哀しそうだったが、顔を上げた時には満面の笑みへと変わっていた。
「お元気で。」
それは今生の別れではないと知っているからこその、笑顔だった。
生きてさえいれば、またどこかで会えるかもしれない。
千鶴はそう信じていた。
だから、笑顔で見送るのだ。彼らとまた、笑顔で会えるように。
「沖田さんも‥‥」
「うん、もう邪魔しに来ないでね?」
にこりと笑顔で言ってのける沖田に、千鶴はもう、と頬を膨らませる。
「邪魔をしにさえ来なければ‥‥お茶くらいは出してあげても良いけどね。」
「‥‥はい。」
素直ではない沖田の、彼なりの言葉に山崎は穏やかに笑い、くるりと背を向けた。
何も言えない井吹はただ沖田を見て「じゃあな」と口を動かして伝える。
小さくなる後ろ姿を見ながら、沖田はそっとこんな事を思ってしまった。
次に出会えるときは、彼はまだ生きていられるだろうか?
彼らとまた、笑って会うことが出来るだろうか?
千鶴が望むように。
「‥‥」
そんな事を考え、彼は止めた。
とんでもなく愚かしい事を考えている気がしたのだ。
だって、彼の愛する人は少なくとも‥‥信じている。また、笑って会うことが出来ると。
だから、きっと、彼もまた笑って会うことが出来るのだ。
きっと‥‥そう。
「あ、そういえば‥‥」
見えなくなるまでずっと後ろ姿を見送っていた千鶴がふと、思い出しように声を上げる。
「沖田さん、先ほど井吹さんの包みに何か入れていらっしゃいましたけど‥‥」
何をしていたんですか?
そう、訊ねた千鶴に、沖田は子供っぽい笑みを浮かべて、
ごそり、
「?」
井吹は、自分の持っている荷物が少し動いた気がした。
「どうかしたのか?」
立ち止まって不審げな顔で包みを見つめる彼に気付き、山崎も足を止める。
彼の手には千鶴から渡された包みが握られていた。
それが、何故かごそごそと動いているように、見えたのだ。
「‥‥うごいて、いるな‥‥」
「‥‥」
双眸を眇めて睨み付けるようにする山崎に、井吹は小さく頷く。
もぞもぞと風呂敷包みの形を歪ませて、まるで生きているように蠢くそれに思わず取り落としそうになる。
開けてみるか?
と視線で問えば、山崎は頷いた。
そして二人はその場に包みを下ろし‥‥
意を決して、包みを解く。
そこに、
――チッ!!
「っ!?」
飛び出してきたのは小さな塊。
すばしっこい動きでたんたんっと驚くあまり後ろに尻をついた井吹の横を通り過ぎていき、そこでくるりと振り返る
のは愛嬌のある鼠の姿で。
「‥‥」
「‥‥」
それが、誰の仕業であるか、というのはすぐに察しがついた。
山崎は呆れた顔で、こんな時まであの人は、とため息をつくが、悪戯をしかけられ、しかも無様に尻餅までつかされ
た井吹はそれだけで済むはずもなく、
「っ」
ふるふるとその肩が小刻みに震えていた。
久しぶりに出会えた喜びは、一瞬のうちに怒りとなって取って代わり、
「沖田ぁあああああ!!!」
思わずと言う風に立ち上がり、井吹は肩を上下に大きく揺らす。
「あいつ!こんな時にまで人に嫌がらせするなんて何考えてるんだっ!?」
こっちは迂闊にもちょっと嬉しくてうるっとさせられたというのに、と井吹は内心で呟く。
突然の事に驚いたのか山崎は目をまん丸くしていた。
「戻って文句の一つでも言ってきてやる!」
ドスドスと足音を立てて引き返そうとするのに漸く我に返ったらしく、山崎が「井吹!」と声を上げて駆け寄ってきた。
止めるな、と彼は睨み付けたが、彼が言いたいのはそんな事ではなかった。
「お、おまえ‥‥」
「なんだ!?」
呆然と自分を見る井吹は乱暴に返答をした。
それは確かに山崎の耳に届いている。
幻では‥‥ない。
信じられない、と言わんばかりに目を丸くしたまま、山崎はこう言った。
「おまえ‥‥声が‥‥」
声が?
声がなんだというのだろう?
井吹は訝り、やがて、喉がひりりと先ほどあげた大声のせいで痛むのを気付いて、
「あ、れ?」
唇から漏れた間抜けな声は、ゆうに数年ぶりのものだったのだと、この時漸く彼は気付いたのだった。

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