目を覚ますとそこに、近藤の姿があった。

ぼんやりとした曖昧な世界だ。

自分たちが腰掛けているのが一体なんのか分からない。

ここがどんな場所かも分からない。

ただ、柔らかい光が差し込む曖昧な世界。

そこに、土方は近藤と二人だった。

他の誰も、いない。

「トシ‥‥」

「風間の野郎は?」

「‥‥死んだよ。」

おまえが、勝った。

土方は「そうか」と返し、口を噤んだ。

負けたくはなかったが、別に勝ったと言われても特に何とも思わなかった。

「‥‥」

「‥‥」

口を噤むと、世界は静寂で満たされた。

どこからともなく、ふわふわと優しい風が吹いてくる。

二人並んで腰を下ろしながら曖昧な世界を見つめていた。

曖昧な世界は‥‥優しかった。

誰にも分け隔て無く。

 

「近藤さんよぉ‥‥」

その静寂を邪魔しない静かな音で、土方は言葉を紡ぐ。

「長かったよな。」

それが何を示しているのかは言葉にしなくても伝わったらしく、近藤が小さく笑みを漏らして「そうだな」と同意を

示した。

「漸く、終わったな。」

「ああ、終わった。」

彼らの旅は終わった。

百姓の身でありながら武士なんてものに夢見て、憧れて、走り続けた。

色んなものを巻き込んで、何度も何度も壁にぶつかって、それでも最後まで走り抜ける事が出来た。

その夢を見るのも‥‥もう、終わりだ。

終わったのだから、もう。

「‥‥俺たちは、侍になれただろうか?」

近藤がそっと、どこか寂しそうに呟く。

彼が本物の武士になりたいと願ったが為に、犠牲となった人間は何人もいた。

土方もその一人だ。

彼を武士にしてやりたい‥‥その一心で、色んなものを捨てた。

人である事も。

その犠牲の上に鎮座していた自分は、結局、最期は武士として認めてもらえずに斬首となったのだ。

自分は結局、無駄に人を死なせただけではないのだろうか?

侍になんて‥‥なれなかったのではないか。

「近藤さんは、侍だ。」

そんな弱さをきっぱりと、彼は否定してくれた。

顔を上げれば彼は真っ直ぐに近藤を見ていて、そこには哀れみの色は無い。ただそれが事実だと強く告げるような色

を浮かべているだけだ。

「誰が認めなくとも、俺は、そう思ってる。」

彼は立派な侍だ。

死ぬ間際まで、武士だった。

そう、

「俺たちが憧れた、そのままの姿だった――

少なくとも‥‥土方はそう信じている。

それはもしかしたら事実とは異なるのかも知れない。

世間から見ればただの愚か者の集団だったかも知れない。

だけど、

「そうか‥‥」

彼が肯定してくれるならば、それでもう満足だった。

だって、共に夢を叶えたいと言ってくれた大切な友が信じてくれているのだから、何をこれ以上望む事がある?

「そうだよ‥‥」

柔和な近藤の笑みに、土方も釣られたようにして笑う。

それが何故かおかしくて‥‥二人は声を上げて笑った。

静かな空間をうち破るように、子供みたいに、大声で。

腹の底から笑った。

そうして笑うのはとても久しぶりだった気がする。

 

「トシ‥‥」

「うん?」

「おまえは、これからどうしたい?」

 

たっぷりと、存分に笑い合った後、穏やかな表情で近藤が訊ねてきた。

聞かれると思っていた言葉に、土方は苦笑を漏らす。

もう少しこの幸せに浸っていたかったのにと内心で呟いたが、その時間は彼には残されていないのだろう。

土方は空を仰いで、そっと瞳を細めて見せた。

 

「この世界ってのは、どこまでも残酷なもんなんだな‥‥」

 

この世界はどこまでも優しい。

でも、

この世界はどこまでも、残酷なのだ。

 

――生者にとっては――

 

「また、俺に選べって言うのかよ。」

 

友と、もう一人。

どちらかを選べと世界は何度だって彼に選択を迫るのだ。

選ばれなかった人間の苦しみや悲しみなんか知らずに。

選ぶ人間の葛藤など知らずに。

残酷な決断を彼にさせるのだ。

 

彼が『死』を望めば、今度こそ近藤とどこまでも一緒にいられるだろう。

彼だけはなくかつて失った友ともずっと一緒にいられる。

だがそうすれば、もう一方を捨てる事になる。

そして、逆を選べば近藤を捨てる事になり‥‥彼とは、二度と会えない。

二度と。

 

「‥‥トシ‥‥」

優しい近藤の声が聞こえる。

まるでその声は自分の決断を許すみたいに優しくて、土方は苦しかった。

そんな資格なんかない。

近藤に許してもらえる資格など、彼にはないのだ。

 

「俺は、近藤さんを喪いたく‥‥ねえ。」

 

大事な大事な友だった。

唯一無二の親友だった。

そんな彼を、土方は喪いたくなかった。二度と。

 

「あんたは、俺の大切な人なんだ。」

「‥‥トシ‥‥」

 

その気持ちを、近藤は痛いほど分かっている。

だから、何も言えなかった。

彼の決断に任せるしかなかった。

彼が選ぶというのならばそれを受け入れるしかなかった。

でも、

近藤は知っていた。

 

「だけど‥‥俺は見つけちまったんだよ。」

 

吐き出す言葉が、微かに震える。

まるで、泣き声みたいに。

震えて‥‥揺れて‥‥

熱い滴が落ちる。

 

「俺は‥‥それ以上に大事なもんを見つけちまったんだ。」

 

裏切る事への罪悪感なのか。

それとも、今生の別れへの悲しみなのか。

熱い滴がぱたりと頬を伝う。

哀しかった。苦しかった。辛かった。

彼を選べない事が。

彼と別れる事が。

身を裂かれる程に苦しかった。

 

でも、

 

――ひじかたさん――

 

ふわりと瞼の裏に焼き付いて離れない、彼女の笑顔が浮かぶ。

その笑顔を、守りたいと思った。

傍でずっと見ていたいと。

 

「悪い、近藤さん。」

 

濡れた紫紺で真っ直ぐに、近藤の優しい瞳を見つめた。

 

「俺は‥‥あいつを選ぶよ。」

 

ただ一人の女を。

こんな自分を信じて、どこまでもついてきてくれた哀れな一人の女を。

 

だって危なっかしくておちおち安心して死んでもいられないんだ。

 

「おまえなら、そう言ってくれると思ってたよ。」

 

土方の言葉に、近藤は笑った。

自分を選んでくれなかったのに、嬉しそうに笑って。

 

「あんたもひでえ人だな――

苦笑混じりの言葉に近藤はすまんと軽く頭を掻きながら謝った。

それから、

光の中に溶けながら、彼はこれだけは伝えておきたいと口を開いた。

 

「トシ‥‥幸せになってくれよ。」

 

やっぱり、酷い人だ、と土方は思う。

最後の最後でそんな優しい言葉を言うなんて‥‥酷い人で、

だけど、

本当に自慢の、

最高の友だと。

 

 

 

身体が‥‥酷く怠く感じた。

まるで、自分の身体ではないような。

指先一つ動かすのが億劫で、身動ぎ出来ない。

呼吸も、上手くいかず、引きつった声が漏れた。

 

「   」

 

何か音が聞こえた。

耳が遠く感じる。

水でも詰まっているみたいだ。

 

「ひじかたさん」

 

その音が自分の事を呼んでいる、というのが分かると、土方は必死でそちらに意識を向けようとした。

そうしなければ何かに飲まれてそのまま溺れてしまいそうだったのだ。

足掻いた。

足掻いて足掻いて、必死で動かせるものを動かした。

びりびりと身体のあちこちを痺れが走る。

脳から信号が伝わっているのに、どこも動かない。

必死で動かす瞼がぴくぴくと痙攣しているのが分かった。

 

開けろ。

ここから出せ。

 

闇の世界から、俺を解放しろ。

 

土方は必死で足掻いた。

世界をこじ開けるべく、必死で足掻いた。

 

「っ」

 

薄く開いた瞼の隙間から光が飛び込んでくる。

眩しさのあまり閉じそうになった。

だが、閉ざしてしまえばまた闇へと舞い戻る事になる。

そうすれば二度と開く事は出来ない。

土方は堪えた。

眩しさを堪えて、必死でこじ開けた。

 

ばちりと、

閉じた両瞼を強引に引きはがした。

 

瞬間、

 

「‥‥土方さん‥‥」

 

飛び込んできたのは優しい、飴色。

暖かな、琥珀。

彼が良く知る、彼が愛しいと思う、彼女の‥‥色。

 

「‥‥ひじかた、さん‥‥」

 

 

ごぼりと喉が変な音を立てた。

 

「み、水をっ」

咳き込む彼に慌てては水差しへと手を伸ばす。

が、近づけようとすると彼はそうじゃないと緩く頭を振った。

「‥‥っ‥‥」

「なに、何が欲しいんですか?」

は耳を近づけて、掠れてよく聞こえない彼の言葉を聞き取ろうとする。

 

「‥‥‥‥」

 

彼は小さな声で、呼んだ。

なんですか?と訊ねたが、その先は言わず、また、

 

‥‥」

 

と自分を呼ぶ。

 

彼は、何かを求めていたのではない。

誰かを求めていたのだと、分かった。

そして‥‥

求めていた誰か、というのが自分だと分かった瞬間、は思いっきり泣いてしまいたい気分になった。

 

‥‥」

「ここに、います。」

 

は込み上げる涙を必死で堪え、彼の手をしかと握る。

先ほどまで動かなかったはずの指先は、まるで彼女のそれをしかと掴むかのように動いた。

冷たいその手も、まるでの熱を与えて貰うかのようにゆっくりと温かくなっていった。

 

「待たせて、悪かった。」

「本当ですっ」

はひくっと喉を震わせて唇を噛みしめる。

その頬に触れたいのに力が入らず届かない。が察して身体を屈めて彼の手を導いた。

しっとりとした頬を包み、微かに動く指先で目元を撫でる。

は少しだけ笑った。

目を潤ませながら、笑った。

 

「もう、待つのはごめんですからね。」

 

ああ。

彼女の言葉に小さく、答えを返す。

もう、彼女を待たせるなんて事しない。

彼女を心細い目にだって遭わさない。

だって、守ると決めた。

彼女を。

守って、支えると決めたんだ。

 

そう、

 

大切な友を諦めてでも‥‥を守ると――