3
新政府軍は、既に五稜郭まで迫っていた。
今まさに、その猛攻を受けている最中であった。
そんな中に戻るのは自殺行為である。命を捨てにいくようなもの‥‥
は土方の言葉も待たずにそっとその場を離れることにした。
死を恐れないとは言っても‥‥ただ無駄に死ににいくことを、彼は望んでいないと思ったから。
五稜郭の裏手に、それはあった。
まさに今壮絶な戦いが繰り広げられているとは思えぬほど、美しく、穏やかな光景が。
「‥‥‥」
「‥‥」
一面、満開の桜が目の前に広がっていた。
淡く、優しい薄桃色が、平和な青空の下にどこまでも‥‥
別の世界にでも迷い込んだのかと思った。
まるで、
夢でも見ているんじゃないかと。
「土方さんって‥‥」
魅入られるようにじっと、桜を見上げていると、やはりどこか夢見心地と言う風にが口を開く。
「桜が、似合いますよね。」
この女は突然何を言い出すのだろうか?
土方は驚いて彼女を見遣った。しかし、は彼が驚いている事など知らないと言いたげに視線を桜へと向けたまま
である。
桜を見つめる眼差しはあまりに優しくて‥‥土方は少し癪だった。
だってまるで、自分に向ける眼差しを他に向けられた気がしたから。
土方歳三という人の生き様は、桜によく似ている。
は思った。
桜の花は、他の花々と違って枯れて醜くなる前に散ってしまう。
風に千切られ、はらはらと散りきってしまう。
美しいままで。
それは衰える事を嫌っているかのようだった。
衰え、醜くなる前に、潔く散ってしまうのは‥‥自ら幕引きをするかのようだった。
それは、まるで‥‥
「土方さんの生き方と同じです。」
美しいまま潔く散ってしまおうとするその在り方は、彼の生き様とよく似ている。
ただひたすらに理想を追い求め、死ぬ瞬間まで武士であり続けようとする、その生き様に。
桜はよく似ているのだ。
きっと、最期の瞬間も、桜のように美しいまま儚げに、散っていくのだろう。
死ぬ瞬間まで、武士で在り続けて。
「‥‥」
不意に、じゃりと大地を踏みしめる音が響いた。
魅入られていた二人ははっと身体を震わせ、音のした方へと視線を向ける。
そよそよと風に吹かれて揺れる薄桃色の隙間から、まるで突然現れたかのようにその人が姿を見せた。
「生きていたのだな。」
うっすらと愉快そうに笑ったのは‥‥何度も刃を交えた鬼の姿。
「か‥‥ざま‥‥」
忘れていた血のにおいを思わせる赤い瞳が、こちらに向けられている。
は思わず身体を強張らせ、身構えた。
「よくぞこの北端の地までたどり着いたものだな。
ただのまがい物が東方の戦火を潜り抜けたか。」
そんな彼女など気にも留めず、風間は笑みを零しながら告げる。
だが不思議な事に、彼の言葉には一切の侮蔑を感じなかった。それどころか、どこか彼を評するかのような響きも湛
えていた。
「まさか本当に蝦夷まで来るとはな。
俺が死んでいたら、とんだ無駄足じゃねえか。」
土方は呆れたように目を細め、苦笑混じりの声音で答えた。
それには風間は応えず、ただふっと笑う。
まるでそれは土方が死んでいるわけもないと言いたげなものだ。
彼が死なないと信じている‥‥というよりは、自分こそが彼を殺すと信じている‥‥という所だろうか?
――殺させてたまるものか――
「‥‥」
は底冷えするような瞳を向け、土方の手を離す。
そうして、ここで待っていてくれと言わんばかりに一歩を踏み出しながら腰に差した久遠に手を伸ばした。
「貴様と戦うつもりはない。」
風間は苛立ったように目を細めて冷たく告げた。
は応えない。
応えず、そっと、身の内に隠したもう一人へと声を掛けた。
力を貸せ、と。
その力は二度と使わないと約束した。
でも、今使わなくていつ使うというのか。
もし‥‥この力を使って朽ち果てたとしても構わない。
彼を守る事さえ出来るならばそれで良いのだ。
しかし、
「やめろ――」
思ったよりも強い力に引き留められる。
腕を掴んだ土方は不機嫌そうに彼女を見つめていた。
まるで‥‥彼女がしようとしていた事を咎めるみたいに。
もう、二度と、鬼の力は使わないと約束したはずだった。
でも‥‥風間と対峙すればきっと、彼女は迷わず使うだろうと思っていた。
そして今度こそ、という存在はこの世から消え去る。例えば、風間を討ち取ったとしても‥‥残るのは虚しい器
だけなのだ。
そんなの‥‥土方には耐えられない。
そして何より、
「おまえは黙って見ていろ。」
これは――彼の戦いなのだ。他の誰にも譲るわけにはいかなかった。
「っ!?」
ぐいと掴んだ手が後ろへと引かれる。
その力は先ほど一人では立てなかった彼のものとは思えぬほど、強かった。
「全て投げ打って挑んでくる奴がいるなら、誠の武士としては応えるべきなんだろう?」
それが、
彼が望み、全てを捧げた武士の姿。
最期の瞬間まで、武士でいたいと思う彼の想いを、が踏みにじる事が出来るわけもない。
(狡い‥‥)
は唇を噛みしめた。
きつくきつく噛みしめると皮が、肉が切れ、血が滲んだ。
それでも止めず、は噛みしめ続けた。
そうやって力を何かにぶつけていないと‥‥止まれそうになかったのだ。
「。」
静かな声が、自分を呼んでいる。
は悔しさのあまり歪む視界でしっかりと彼の大きな背中を捉えた。
ずっとずっと追いかけ続けた背中だ。
これからもずっとその背中は自分の目の前にあって欲しいと思う。
‥‥もしかしたら、彼はにとっても道標のようなものなのかもしれない。
「俺は、俺が信じたもののために戦う。」
彼は、振り返らなかった。
「‥‥生きるために、必ず勝ってみせる。」
だから、待っていろ――
だけど、振り返らなくても、分かる。
彼が絶対の自信を込めたその眼差しを向けている事が。
がいつだって信じてしまう、信じたいと思う、強い眼差しである事が。
信じない。
彼はいつだって嘘を吐くから。
でも、
信じたい。
彼は負けないと、きっと勝ってくれると。
いや、
信じなくてはいけない。
ここで、が信じなくて誰が彼の勝利を信じてやれると言うのか。
「‥‥絶対ですよ。」
声は、少しも震えなかった。
それに満足したように、土方はふっと笑みを零したのだった。
「貴様らは散り行く定めにある。」
羅刹は、自らの寿命を削り、人ならざる力を振るうのだ。
いずれ土方は灰となり、死にゆく定め。
生きるためになどと笑わせるものだ。
ふ、と笑う鬼の目の前を桜の花びらが舞い落ちる。
そういえば‥‥と、彼は思った。
「生き急ぐその様は、まるで桜のようだな」
言葉に嘲りの色は見えない。ただ、思ったまでを純粋に彼は言葉にしたようである。
それがなんだかおかしくて、土方は笑いながら「生き急いでるわけじゃない」と頭を振って、否定を示した。
「ただ、必要とされるものが多かっただけだ。
新選組が理想とする武士の道は険しいんでな。」
淡々とした口ぶりで語る土方は、口元に小さな笑みを浮かべていた。
土方の瞳は‥‥真っ直ぐで、揺るがない。
相変わらず強い意志を湛えていた。
信じたものをただひたすらに信じ、貫くその強さを。
風間はそっと、ため息にもにた音を洩らして言葉を紡ぐ。
「羅刹というまがい物の名は、貴様の生き様には相応しくないようだな。」
まがい物と呼ぶには‥‥土方はあまりに純粋なる存在で、そして、強かった。
「貴様の存在に評して、鬼の名をくれてやろう‥‥」
対峙する二人は、ゆったりと刀を抜き去った。
ぴりりと張りつめた空気が満ちていく。
少し離れた場所にいるでさえ、息苦しさに呼吸を躊躇わざるを得ないほど。
風間はその姿を鬼に、土方はその姿を羅刹に変え、刃を構えた。
その姿は酷似していた。
「薄桜鬼――」
鬼は、人である彼を『鬼』と呼んだ。
薄桜鬼と。
風間にさえ桜に相応しいと言われた気がして、土方は薄く笑ってみせる。
桜など、自分には似合わないと思っているのに。
「行くぞ――」
張りつめた空気が、弾けた。
次の瞬間、同時に大地を蹴り、一瞬の内にして縮まった距離の間で激しく音をうち立てながら刃が噛み合った。
渾身の一撃に、手どころか、脚の先まで痺れが走った。
ぎじぎじと互いの鋼で刃を削りながら力を拮抗させ、それが長く続こうとも結果が変わらぬ事を互いに悟ったか、
「ちっ」
互いに舌打ちをして力を押し合うようにして、距離を取る。
そしてすぐに大地を蹴って互いの懐に突っ込んでいく。
「ぐぁっ!?」
突っ込んでいった所で今度は風間に上手く力を流され、目にも留まらぬ早さで刃を横薙ぎにされた。
一閃は見事に構えた刀をかいくぐり、彼の胸元を切り裂く。
千切れた布と、鮮血が空に舞った。
しかし、やられてばかりでは性に合わないと、土方は傷に構う事もなく体勢を立て直して風間の横を通り過ぎ、振り
返ったその腹に思い切り蹴りを食らわしてやる。
「っぐ!」
短いうめき声を上げて一発をまともに腹に喰らった鬼は砂埃を上げながら後方へ飛ばされ、血を吐いた。
「‥‥っ」
一方の土方も、血をだらだらと流しながら顔を痛みに顰めている。
血が少ないのだろう。目の前が霞む。
それを頭を振って追い払うと、強い眼差しを風間に向けた。
彼も同じく、口元を手で拭いながら睨み返し、刀を構える。
「てめえの事はいけすかねえが‥‥確かに、てめえは強かったぜ。」
「貴様も、な‥‥」
両者がその言葉の後に、こう続けただろう。
――この俺の次に――と。
「長くは遊んでやれねえぞ。」
「次の一撃で、仕留めてくれる。」
じゃり、と二人は大地を踏みしめ、互いの持てる力を次の一刀へと注ぐ。
目には見えないはずなのに、その力の奔流が刃の先にまで注ぎ込まれていくのが分かった。
世界がしん、と静まりかえる。
まるで世界さえも支配するかのように、風も時も、何もかもが動きを止め、二人の動向を見守るしか出来なかった。
大地を蹴ったのは、ほぼ、同時。
真っ直ぐに向かってくる刃の先は、互いの心臓を狙っていた。
力の差は、ない。
鬼であろうと、羅刹であろうと、人間であろうと。
二人の強さはほぼ等しく‥‥ほんの僅かの優劣しか、彼らの間には存在しなかった。
寸分違わず向かってくる刃に、土方はふと思った。
死んだかも知れないと。
悔しいけれど、これは相打ちになる。
お互いにこのままでは体勢を整える事も出来ず、突きだした刃に心臓を貫かれて、絶命するだろう。
それも、良いのかも知れない。
武士として、守りたいものは守れた。
近藤と共に見た夢を貫く事は出来た。それが、哀しい結果に終わったとしても‥‥最後の瞬間まで駆け抜ける事は
出来た。何も裏切らずに、ただ信じるままに駆け抜ける事が。
そして、守りたい人を守れた。
風間を殺せば彼女を狙う者はいなくなる。
自分が死ねば彼女はもう誰にも囚われずに済む。
これでは自由になれるのだ。
――土方さん――
だけど、
自分がもし死んだら‥‥誰があの、意地っ張りな女を支えてやれると言うのだろう。
意地っ張りの癖に、本当は誰よりも弱くて、甘えたがりな彼女を。
誰が支えてやれる?
誰が、
誰が、
あの涙を拭ってやれると言うのか。
――俺以外に、いねえだろ――
ざ あ
風が唸った。
強い風に花びらが無情に千切られ、飛んでいく。
花嵐の中に、彼らはいた。
は動く事も出来ず、ただ、立ちつくす事しかできなかった。
それは‥‥信じられない光景だったのだ。
「俺には守らなけりゃならねえものがある。
だから、例え鬼にだろうと負けられねえんだよ。」
風間の突きだした一撃は、土方の肩口を掠めたに留まった。
そして、
土方の一撃は、
風間の心臓を間違いなく貫いていた。
鬼である彼が‥‥負けたのだ。
それなのに何故だろう?
風間はひどく満足げに笑っていた。
「貴様のような侍と戦い、死ぬと言うのであれば――」
どくんと、弱くなる鼓動が刀を通じて感じられる気がした。
その音は‥‥自分のものと全く変わらない。
鬼であっても人であっても、羅刹であっても。同じ音だった。
「何を、悔いることがろうか。
俺は誇り高き鬼として生を全うした。」
薄く笑う瞳が、のそれとばちりとぶつかる。
果たして彼がを捉えられていたのかは分からない。
ただそれが、一度だけ優しく微笑んだ気がした。
「薄桜鬼よ、あとは残り少ないその命を‥‥生かすのだな‥‥」
それが、
彼の最期の言葉となった。
どさりと大地に鬼は倒れ込む。
花びらを舞い散らせ、薄紅色の中に沈んだ。
もう動かない。喋らない。
ただ、その身体を鬼ではなく人と同じものへと変え‥‥風間は息絶えた。
「ああ‥‥生きてやるさ。」
それを見届けた後、彼を追いかけるように、
「土方さん!?」
土方はどさりと倒れ込んだ。
「土方さん!」
は彼の名を呼びながら駆け寄り、抱き起こす。
人の姿へと戻った土方は浅い呼吸を繰り返していた。
ざっくりと切り裂かれた胸元から血が溢れている。
顔色は、さきほど腹を撃たれた時と同じ、真っ青で、一刻の猶予も無かった。
だと言うのに今まで静かだった辺りが急に騒がしくなり、を追い立てる。激しい戦いがこちらにも近付いている
のだ。
「こんな所でっ!」
は悔しげに呻き、土方の身体を支えるように立ち上がると声とは反対側に歩き出した。
歩くたびにばたばたと血が流れて大地を染める。
このままでは血が足りなくて死んでしまうかもしれない。
でも、ここでゆっくりと止血もしていられないなんて。
どこか、どこかに身を隠す場所は‥‥
「っきゃっ!?」
「っ!?」
その時、突然林の中から飛び出してきた小さな影とぶつかりそうになった。
はぎょっとして脚を止め、相手も同じように脚を止めて青ざめた。
それもそのはず、こんな血まみれの人間を見て驚かない人はいないだろう。
相手は町人なのだから。
しかし、
「土方‥‥さん?」
その人は大きな焦げ茶の瞳を見開き、その名を口にした。
彼を知っているようだった。
「‥‥あ、あなたは?」
「‥‥」
の問いに答えない。
ただ、青ざめていたその表情を引き締めると、その人はすたすたと近付いてきて、
「‥‥え‥‥」
の反対側に回ると彼の身体を支えた。
「こちらへ。」
強い意志を秘めたその双眸は、誰かに似ている気がした。
その人が、交野佐絵だというのを知ったのは‥‥それから暫くしてだった。

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