良く晴れた日だった。

雨でも降ってくれればもっと視界も悪くてどうにか抜けられたかもしれないとは思う。

生憎の晴天‥‥とは誰も言わないのだろうが、は今日ばかりは晴れやかな空を呪った。

 

新政府軍は箱館山の背後から上陸し、弁天台場を攻略し始めた。

箱館湾を死守する台場には、島田たち新選組が立てこもっており、背後から攻め込まれた彼らは完全に孤立してし

まった。

 

見殺しにすることは出来なかった。

 

土方は弁天台場を、新選組の皆を助けるために五稜郭を飛び出した。

 

――ぱぁん!!

 

「土方さん!!」

 

弁天台場へと至る途中、

空気が破裂するような音を立ててはなたれた一発の銃声が、土方の身体に命中し、彼は馬から落ちた。

 

空は憎らしいまでの快晴であった。

 

 

怒号に悲鳴に銃声。

それから血のにおいと、火薬のにおい。

それらに混じって新緑の、場違いな香りがするのが今だけ癪に障る。

は茂みに隠れ、あたりを見回す。

気配は近くには‥‥ない。

馬で駆けていたのが幸いしたのか、あの乱戦の中に指揮官が落馬したということにも気付かれず、味方は敵もろとも

離れてしまったようである。

とは言っても状況はどう変わるか分からない。

とりあえずあたりに人の気配がないのを確かめてから、は振り返り、横たわったままの彼に声を掛けた。

「土方さん、大丈夫ですか?」

彼の顔色は、青かった。

それも当然だ。

おびただしいまでの血を垂れ流していたのだから。

まるで、身体の中の血を全て流してしまうかのような量の血を。

「‥‥ぁ、ああ。」

辛うじて、という風に彼は応える。

その声にあまり覇気がなく、は唇を噛む。

これは相当酷いらしい。

急いで手当をしなければ手遅れになる。

「土方さん、怪我の具合を診ます。」

は断りを入れ、彼の洋服の前を開いた。

開いて、思わず息を飲んだ。

彼の腹部には大きな穴が空いていた。

忌々しいまでに正確に打ち抜かれている。

人の身であったならば即死、だ。

落馬した時点で‥‥

「傷口、塞ぎますね。」

出血のひどさに口の中が乾く。

思わず震えそうになる声を必死で堪え、は手拭いを取り出すと細く裂いて止血を試みた。

だが、どれほどに強く巻いても、傷口からの血が止まらない。

白かった布が真っ赤に染まっていくのが、まるで無駄なことをするなと言われているようで酷く腹が立った。

は唇を噛みしめながらならば止まるまでやるまでよと、今度は自分の服の袖を引きちぎろうとして、ふいに袖口

を染める茶色い汚れに気付く。

そういえば落馬した彼をここまで連れてくるのに、は何度も転んだのだった。

つまりは自分の服のあちこちに土や泥といった汚れが付着している。

それが万が一にでも彼の傷口に入っては治る傷も治らなくなる可能性があるというもの。

は迷わなかった。

ぶちりとむしり取るように釦を外し、汚れていない自分のサラシに手を掛ける。

焦っているのかもたついてしまう。

その間にも彼の腹から溢れた血が大地までも染め上げ、血の海まで作り出していた。

「土方さん?」

大丈夫ですか?というのは愚かな質問な気がする。

どう見たって大丈夫ではない。

それでも声を掛けたかったのは、確かめたかったからかもしれない。

彼が、

生きているということを。

 

「‥‥ああ‥‥大丈夫だ。

まだなんとか、生きてるさ‥‥」

目を閉じたまま、土方は応える。

大丈夫、だとはお世辞にも見えない。

傷口からはまだ血が止まらず、血の気を失った彼の顔はまるで死人のように青白かった。

「こんなの、すぐに治ります。」

は自分に言い聞かせるように呟いて、傷口の上から布を押し当てて、強く巻いた。

彼からの返事はない。

返答するのも辛いのだろう。緩く目を閉じたまま、浅い呼吸を続けるばかりだ。

 

私が‥‥変わってあげられれば‥‥

 

そうすればこんな傷すぐに塞がるのに、とそんなどうしようもない事を考えては、は唇を噛みしめた。

 

優れた鬼の力がなんだ。

こんな時に役に立たないじゃないか、とは自分に対して吐き捨てた。

 

「土方さん。動けるまで回復したら、一度五稜郭に戻りましょう。」

心許ないながらも止血を施し衣服を整えた後、はあたりの気配を窺いながら口を開く。

五稜郭にはまだ残っている隊士がいたはずだ。

散り散りになった隊士の皆も心配だが、とにもかくにも、彼を一度安全な場所に移さなければならない。

はそう考え、立ち上がろうとする。

「‥‥」

が、声に、彼は応えない。

「土方さん?」

もう一度呼びかける。

呼びかけ彼を見て、の背筋はぞくりと震えた。

 

彼の顔色は、紙のように白かった。

まるで‥‥全身の血が抜けてしまったかのように‥‥

 

「土方さん!聞こえてますか!?」

不安に押しつぶされそうになって思わず大きな声が出た。

そんな声を出しては敵兵に見つかるかもしれない。

だけどそんな事を考える余裕はなかった。

「土方さん!?ねえ、起きてっ!!」

はぐいぐいと乱暴なくらいに肩を揺する。

意識を強引にでもこちらへと引き戻すように。

「‥‥聞こえてる。」

すると、ああ、と微かに返事があったことに死ぬほど安堵した。

安堵したけれど‥‥すぐには唇を噛んだ。

彼の声は、

もうある種反射のようなものだった。

自分が呼びかけたから、戻ってきた。

そうでなければ自主的に意識を取り戻すことは出来ない。

つまりは、自分で意識も保てなくなっていると言うこと。

それが意味することは‥‥

 

「っ」

 

目の前が真っ暗になりそうになる。

闇に塗りつぶされ、このまま消えてしまいそうな絶望に押しつぶされそうになる。

 

いいや、とは絶望をはねのけるように頭を振る。

普通の人間ならば死ぬかもしれない。

でも、

彼は人ではない。

 

羅刹――

 

「‥‥」

は脳裏に過ぎった考えに震えが止まった。

彼は羅刹。

既に人ではない。

だとしたら――

 

は何も言わずに愛刀へと手を伸ばした。

ちゃきと音を立てて刃が引き抜かれた瞬間、

 

「やめろ!!」

 

強い声がして、その刃を振り払われた。

かしゃんと久遠が払い落とされ哀しげに音を立てる。

満足に身動きすることも出来ないほど消耗していたくせに、こんな時だけいつもと同じ鋭い眼光を取り戻していた。

 

「必要ねえ‥‥直に、治る。」

彼は強い口調で言った。

治ると。

でも、

治らないじゃないか。

塞がらないじゃないか。

血はどんどん溢れて、彼の顔色だってどんどん悪くなっていってる。

指先だってこんなに冷たくて、

まるで、暖かな命が徐々に失われていってるみたいじゃないか。

 

「まだ、死なねえって、俺は決めてる。」

 

そんなの不安を見抜いて、彼はきっぱりと言った。

少し、笑った。

辛そうな顔をして、笑った。

「おまえが‥‥生きる、理由だ。」

だから、

「俺は‥‥死なねえ。大丈夫だ‥‥」

彼は大丈夫だと、言った。

私がいるから。

死なないと。

 

かつてのなら‥‥彼の言葉を信じただろう。

彼の言葉は絶対だった。

疑うべきものではなかった。

彼が「信じろ」というのならば無条件で信じた。

それが、の役目だったから。

 

でも、

 

「その言葉信じてほしけりゃ、私の事を押しのけてみるんですね。」

 

強い意志を湛えた琥珀がぎろりと、睨み付けてくる。

まるで、まるで挑発でもするかのような眼差しに土方は一瞬呆気にとられたような顔になった。

この場にそぐわない、間抜けな顔だ。

はそんな彼をじっと真っ直ぐに見つめ、すいと細められた。

「出来ないんですか?」

嘲りさえ含んだ声に、思わず男は「てめえ」と呻いた。

しかし、拳を振り上げることはおろか、指先を動かすことも出来ない。

先ほど刀を払いのけたのがどうにかこうにか振り絞って出来た抵抗で‥‥今はくぐもった声を漏らす事しか出来ない。

「く、そっ」

自分の情けない体たらくに悔しげな声が漏れる。

は小さくため息を吐いた。

どこが大丈夫なんだ、と内心で呟き、睨め付けていた力を緩める。

「私は‥‥今までずっと、あなたのその言葉に騙されて来た。」

緩めた瞬間、恨み言のような言葉が口から漏れた。

「大丈夫って言いながら、無理をしてるのを私は何度も見てきた。」

何度も信じ、何度、は騙されただろう?

彼が苦しむ姿を何度目にしただろう?

そのたびに、自分は無力さを嘆いた。

この気持ちを‥‥彼は少しでも理解してくれているのだろうか?

いや、してくれていなくてもしてくれてもどちらでもいい。

ただ、

 

「あなたのその言葉は、もう信じない。」

 

琥珀が、睨め付けるかのように自分を見つめている。

重傷の人間に向けるものではない。

まるでどこか喧嘩でも売られている気分にもなる。

 

土方は忌々しげにその瞳をにらみ返し、やがて、

「‥‥選ぶ女を‥‥間違えたか‥‥」

小さく嘆息した。

吐き出した声はさきほど「大丈夫」だと言ったそれとは思えぬ位、弱い。

やっぱりやせ我慢だったじゃないかと、は小さく洩らした。

「文句なら後でいくらでも聞きます。でも、今は‥‥」

続く言葉を察したか、土方は黙って目を閉じた。

まるで、観念したかのように。

 

ごめんなさい。

可愛くない女で。

 

すらりと、彼の腰から刀を抜く。

土方はもう何も言わず、止めず、ただされるままである。

恐らく、今は呼吸をする事が精一杯なのだ。

はきらりと光る刃に、そっと自分の肌を押し当て、引く。

じりと焼けるような痛みが走り、白い肌に赤い筋がつうと伸びた。

その血を啜れるほど‥‥彼にはもう力が残されていなかった。

は迷わず自らの血を口に含んだ。

ごめんなさい‥‥

青白い頬に熱を与えてやるようにそっと自分の手で包み、そっと彼の薄く開いた唇に自分の唇を重ねると、その

隙間から血を流し込む。

飲み込む力がなければ、

彼はもう、助からない。

血を押し込みながら唇の端からこぼれ落ちる血に、は苦しげに顔を顰めた。

お願い。

お願い、飲み込んで。

死なないで。

お願いだから。

零してしまわないようには唇を合わせたままでただじっと、彼が飲み込むのを待つ。

 

ごくり

とその時、微かに喉の鳴る音が聞こえた。

 

半ば意識を失った状態であっても、本能が血を求めているのだろう。

「もっと‥‥」

顔色はまだ青かった。

まだ、足りない。

は再度血を口に含んで、唇を合わせた。

 

何度も。

何度も。

血を含んで、彼に与える。

 

すぐに傷が治ってしまう自分の身体が忌々しいとさえ感じた。

傷が治らず血が流れたままならば、彼にすぐに何度でも血を与えることが出来るのに。

 

「っ」

じりと肌を焼く痛みが走る。

少しばかり深く刃を当てすぎたせいで、大量の血が溢れてきた。

こぼれ落ちる一滴さえも無駄にするのが勿体なくて、は慌てて口に含んで彼に飲ませた。

もういっそ、

全ての血を彼に捧げられれば良いのにとさえ、は思う。

 

「もう、充分だ。」

 

気が焦るばかりに乱暴に刃を滑らせようとしていたの手を、強い力が止める。

「土方さん‥‥」

死人のように青ざめていた頬に、うっすらと赤みが差している。

声もしっかりして、その瞳にも力が戻っていた。

「充分だ。

血も止まった。」

「‥‥」

ほっとは思わずため息を漏らす。

良かったと、心底安心したように呟くに、土方は険しい顔を向ける。

彼が見つめているのは彼女の腕‥‥そう、今し方まで彼に血を与えるために傷をつけていたその場所だった。

鬼である彼女だが、その肌には未だに消えない傷が一条残っている。

白い肌には不似合いな、切り傷。

どうやら相当深く切ってしまったらしい。

「また、自分を傷つけたのか。」

馬鹿な真似をしやがって、と忌々しげに土方が呟いた。

は心配させまいとして、にこりと笑った。

「‥‥こんなの、平気。」

「‥‥」

「私は鬼だから、すぐに治ります。」

「そういう問題じゃねえだろ、馬鹿。」

軽んじるような言葉に、土方の表情が険しくなる。

そのくせ、傷口を撫でる手は優しくて‥‥は労られているような気がして落ち着かなかった。

今まで傷を作った事はないけれど、は武人だし、それに鬼だ。

傷を負っても心配する必要は無い。

それにこんなの、本当にかすり傷程度で、きっと次の瞬間には傷口がどこだったかも分からなくなるだろう。

でも、それでも、

土方は納得できないと言わんばかりに首を振った。

「誰が好き好んで、てめえの惚れた女に痛い思いを味わわせてえもんか。

‥‥少しは察しやがれ。」

傷はいつか癒える。

でも、傷を負った痛みは消えない。

それはずっと心のどこかにとどまり続ける。

傷を負った恐怖と共に。

はきっと、そんなのたいしたことはないと笑うのだろう。

それでも‥‥

土方は彼女にはそんなもの残したくはなかった。

痛みも苦しみも悲しみも。

彼女が辛いと思うその全てを、彼女のどこにも残して欲しくはなかった。

与えてやりたいのは‥‥幸せだけなのだから。

 

そんな事を憮然とした面持ちで言われ、は思わず吹き出す。

回復した途端の憎まれ口か。

彼らしい。

「でもそれ、私の台詞。」

それならば、もいつも通りに返すだけだ。

「誰だって好き好んで惚れた男の苦しむ姿なんて見たくありません。」

の方が、何度も、何度も、土方の苦しむ姿を見てきているのだ。

これでおあいこ‥‥いや、それでもまだ足りない。

「‥‥‥‥‥‥うるせぇ‥‥」

の反論に、拗ねた子供のように零す彼がおかしくて‥‥くすくすと笑いを漏らしてしまうのだった。

 

「そろそろ移動するぞ。

じきにここも気付かれる。」

本当に回復したらしい彼はふらつきながらも自力で立てるようになったようだ。

はほっとしつつ、まだ覚束ない彼を補佐するように肩を貸す。

「行きましょう。」

「ああ。」

少しばかり決まり悪そうな顔でこちらを見たけれど、を拒みはしなかった。

ただ、あたりを見回して歩き出そうとして、ふと、それだけは呟いた。

 

「出来れば二度と、こんなふうに味気のねえ口付けはしたくねえもんだな。」

 

それは、私だって同じです、とは心の中でだけ応えておいた。