12

 

不安になる彼女の気持ちは、よく分かった。

自分だって彼女に置いていかれたとしたら‥‥同じように取り乱すだろう。

そうして不安になって、彼女の傍を片時も離れたくないと思うに違いない。

だから、彼女の不安な気持ちはよく分かる。

 

だけど、

彼女のそんな顔は――見たくない。

 

 

 

「どうしても、ついて来るのか?」

「‥‥行きます。」

土方の問いに、は遅れまいと草履を手早く履いて、些か慌てた様子で飛び出してくる。

「ちょっとそこまで、だぞ。」

遠出するわけでもないのだと言うけれど、はついていくと言ったきり気持ちを変えようとはしない。

「楽しくなんかねえぞ?」

「構いません。」

どうやら彼女は何を言っても覆すつもりはないらしい。

土方はやれやれと溜息を零し、わかったと半ば投げやりに言うとくるりと背を向けて歩き出した。

 

降り注ぐのは夏らしい暑い日差し。

高地という事で風は幾分涼しいが、日差しの方が勝っているせいか、少し歩くとじっとりと汗ばんでくる。

時折それを拭いながら草を踏み分けただけの道を行く。

本来ならば久しぶりの外出という事で、もっと楽しくなっても良いはずなのに、

「‥‥」

「‥‥」

二人は終始、無言であった。

と言うのも先を行く土方が、苛立っているせいだ。

勿論これは彼女に対してではない。

本質的には彼女が関わる事は確かだが、直接的に彼女に苛立っているのでは無かった。

しかし、人の感情に敏感な彼女が男の様子に気付かないわけもなく、

邸を出て暫く歩いた所で、突然、の足が止まった。

?」

さくと、草を踏みしめる音が止まったのに気付いて振り返ると、彼女は俯いていた。

「どうした?」

何かあったのかと問い掛ければ細い肩が微かに震え、小さな声がこう紡ぐ。

 

「ごめんなさい。」

 

唐突な謝罪の意味が分からず、土方は首を捻った。

謝られなければならない理由が見あたらなかったのだ。

は微かに迷うように視線を左右に泳がせた後、やはり小さな声で続けた。

「土方さん‥‥一人になりたかったんですよね?」

「え?」

「一人で、出掛けたかったんですよね?」

どうやら強引についてきた事を謝っているらしい。

まあ、確かに、彼女の言うとおり‥‥出来れば一人で出掛けたかった。

一瞬口ごもる男を見て、

「は、は‥‥あははははっ」

突然は声を上げて笑い出した。

前触れもなく笑い出す彼女の姿は異様でさえある。

しかも笑っているとは言っても無理矢理声を上げているに過ぎず、その顔は苦しそうで、更に異様さに拍車を掛けた。

無理に声を上げて、顔を歪めて笑う様が痛ましくて、土方の表情が険しくなる。

「ごめんなさい、土方さんを笑ったわけじゃないんです。」

険しくなる表情に気付き、は笑いを引きずりながら‥‥否、引きずった振りをしながら口を開いた。

「嗤ったのは、自分の事。」

自分が可笑しくて堪らないのだと彼女は嫌な笑いを浮かべて言う。

「私、すごい面倒くさい女だなって思って。」

は思う。

面倒で、鬱陶しい女だって。

「四六時中べったり張り付いてたら、誰だってうんざりですよね。」

分かってる、そんなの自分だって嫌だ。

だから彼だって嫌だと思っているに違いない。でも、離れられずついてきてしまっているのだ。

不安だからと勝手な事を言えば、優しいその人がないがしろに出来ないのを知っているくせに。

そんな自分が酷く煩わしい。

でも、一番嫌だと思うのは、自分の弱さだ。

馬鹿みたいにびくびく怯えて、彼に心配を掛ける自分の弱さ。

彼の優しさに甘える自分の弱さ。

 

そして、

それ故に彼に嫌われないかと怯える‥‥自分の弱さ。

 

「こんな自分、大っ嫌い。」

は忌々しげに吐き捨てた。

吐き捨てたくせに、拳は震えていた。

まるで怖がるみたいに。

それが悔しくて、唇を噛んで、きつく手のひらに爪を立てる。震えないように。

これ以上弱い自分を見せないように。

嫌われない、ように。

「私、強くなるから。」

誓うような言葉は、縋るように聞こえる。

「前みたいに、ちゃんと‥‥」

一人で立てるようになるから。

 

だから今だけ許してくれと願うのだろうか?

そんな自分はやっぱり弱くて、は嫌いだともう一度思った。

これ以上‥‥彼に見られたくないと、思った。

 

咄嗟に逃げ出そうとしていた手を、男の強い手が掴んでいた。

振り返れば険しい顔で自分を見下ろしているその人がいて、ああやはり、彼を怒らせてしまったのだとは思った。

こんな弱い自分を見て、彼は呆れてしまったのだと。

軽蔑したかもしれない。

彼の助勤はこんなにも腑抜けだったのかと。

 

しかし、彼はそんなを怒鳴りつけるでも、冷たく見放すでもなく、ただ、こう言った。

 

「ついてこい。」

 

何処へと訊ねる事さえも許さない強い力に、は無言で従った。

 

 

 

「これ‥‥は?」

土方に連れてこられたのは、山の中腹にある小さな家。

そこにはスエという老婆が住んでいる。

どうやら土方らを孫のように思っているらしく、色々と良くしてくれた。

土方を見ると皺だらけの顔に柔らかい笑みを浮かべて、腰をどっこらしょと持ち上げる。

促されるままに庭の片隅へとやって来れば、それがちょこんと鎮座していて、は目を丸くした。

「木?」

正確には、苗木だ。

持ち運びしやすいように、根を張った土の塊ごと布で包まれ、持ち運びしやすい形になっている。

まだ若い苗木には小さいながらも細い枝と青々とした葉がついていた。

それを土方はひょいと抱え上げると、スエに向き直って軽く頭を下げた。

「じゃあ、遠慮無く貰っていくぜ。礼はまた、改めてさせてもらう。」

気にしなくて良いと人懐こい笑みを浮かべて応じる老婆に、優しい笑みを向け、土方はまた来た時と同じように唐突

の手を取って歩き出す。

家へと、向かって。

 

「あ、あの‥‥」

それから暫く、家路までの道のり、は黙ってついてきていた。

恐らく混乱する頭を自分なりに整理しようとしていたのだろうが、最終的に疑問が解決せず、彼に答えを求めたとい

う所だ。

あのと声を掛けながら足を止めると土方は逆らわずに止まった。

が、振り返らない。

前を向いたまま、ただ、こう告げた。

「格好、つかねえだろうが‥‥」

ずばっと要点を的確に話す彼らしくない。

脈絡も無く始まった言葉に、流石のもそれだけで察する事は出来ず、何度目か「ええと」と声を漏らせば、男の

肩が大きく上下した。そして聞こえる溜息。

「俺が、一人で出掛けたかった理由だよ。」

「え、あ、はい?」

「格好つかなくなるから、一人で出掛けたかったんだよ。」

土方は言い、の手を離してがしがしと首の後ろを掻いた。

だから、と声が込み上げる恥ずかしさと情けなさから尖る。それさえ子供が八つ当たりをするみたいで、土方は

と一つ悪態を吐く。そうすればまたがぎくりと肩を震わせるのが気配で分かり、今度は落ち着けるように長

く、深い息を吐いた。

そうしてくるりと振り返り、これ、と手に持った苗木を視線で示す。

「なんだか分かるか?」

「え‥‥と‥‥」

何、と問われ、はそれを観察する。

これが沖田なら『苗木』と答えて彼を苛立たせただろう。不正解ではないが、彼が聞きたいのはそういう事ではない。

「‥‥桜?」

草花に詳しくもないには分からず、思いついた答えを口にすれば、彼はそうだと頷いた。

「桜の苗木だ。」

「それを‥‥どうするんですか?」

「庭に植えるんだよ。」

「庭に?」

目を見張ると彼はそうだと、溜息混じりに答える。

こっそりと桜の苗木を持って帰って彼女が知らない内に庭に植えて彼女を驚かせるつもりだったのに、これでは計画

が台無しだ。

「でも‥‥なんで、急に?」

確か、前に庭が寂しいとは言っていたけれど、急にどうしてそんな事を思い立ったのだろう。

桜を植えるのであれば夏よりも秋から冬の方が最適なのに。

と訊ねる彼女は困惑気味な表情を浮かべていて、

ふわりと、土方の口元が緩んだ。

どうしようもないやつだと笑われているようにも見える、そういう笑みだった。

 

「おまえを‥‥笑顔にしたかった。」

 

分かっている。

桜を植えても、花はまだつかない。

早くて来年‥‥いや、もっと掛かるかもしれない。

下手をしたら根腐れして駄目になってしまうかもしれない。

笑わせるどころか、そうしたら、悲しませるに決まってるけれど、それでも、彼は望んだ。

彼女を、笑顔に。

だから、突然こんな事をしでかした。

スエにもせめてもう少し寒くなるまでと言われたけれど待っていられなかったのだ。

「‥‥おまえ、この頃全然笑わなくなっただろ。」

あの日、土方が消えてしまったあの日から、は笑ってくれなくなった。

「いつも、眉間に皺寄せて、不安そうな顔、してただろ。」

いつも不安で堪らないって顔をしていた。

苦しくて仕方ないって顔をしていた。

綺麗な、澄み切ったはずの琥珀が不安で曇っていた。

そんな顔‥‥させたくない。

だいいち、似合わない。

どんな顔をしたって、彼女の勝手だと言われてしまえばその通りだけど、でも、

 

「おまえは、笑ってる方が良い。」

 

笑っていて欲しい。

とびきり幸せそうに、笑っていて欲しい。

だから、

だから、

 

「‥‥ひじかた、さん‥‥」

言葉にの瞳が、揺れる。

どうすれば良いのか分からないと、戸惑いに揺れる瞳を覗き込み、土方はまた笑った。

 

「笑え。」

「っ」

優しい声で言う。

勝手な言葉を、とても優しい声で。

「俺の前では、ずっと、笑っててくれ。」

「わ、たし‥‥」

「俺は、おまえの笑った顔が‥‥好きなんだよ。」

きらきらと、琥珀を輝かせて笑う彼女の笑顔が何より好きだ。

その笑顔を見ているだけで、苦しい事も辛い事も全部どうでも良くなってしまうから。

これから先の不安なんて、笑い飛ばせてしまえそうだから。

だから、

「笑えよ。」

そう命じる男に、は一瞬変な顔になった。

それから無理矢理笑顔を作ろうとして、失敗して、眉をへの字に曲げて困ったような顔になる。

ずっと笑っていなかったからどうやって笑えば良いのか分からなかった。

今まで笑えたはずなのに。

簡単に笑えたはずなのに。

これも心が弱くなってしまったせいなのか。

自分が、変わってしまったせいなのか。

「‥‥ごめんなさい、私。」

やっぱり、前の自分には戻れない。

そう、告げようとしたその時、

 

――がざり、

 

と大きな物音がして、背後から大きな影が飛び出してくる。

風の唸り声と音に勝手に反応した身体が振り返れば、獣道の向こうから大きな茶色い巨体が姿を見せた。

「熊っ!?」

現れたのは優に人ほどの背丈のある大きな蝦夷ヒグマである。

どうやら腹を空かせているらしく、血走った目でこちらを見ながら威嚇するように歯をぎちちと鳴らしていた。

これはまずい相手と出くわしたものだ。

こちらは刀も持っていないし、手には荷物をぶら下げている。勿論逃げおおせるとは思わない。

とにかく熊に遭った時は何か物を投げて注意を引けと言う事だが、生憎と持ち合わせているのはこの木だけ。だが、

それを投げる気にはなれない。だってそれは彼女の為のものなのだ。

他に良いものは――

土方が、注意深くあたりを見回した。

瞬間、

「っ――」

ひゅと風が鋭く音を立て、飴色が軌跡だけを残して姿を消す。

あ、と思った時にはその小さな身体は二本立ちになった大きな巨体の懐へと飛び込んでいて、

!!」

悲鳴にも似た声が男の口から迸る。

何を無茶な事を。

例え彼女が凄腕の剣士とはいえ、丸腰で熊相手に敵うわけが‥‥

 

身体がぐらりと傾ぐ。

 

「な‥‥に‥‥?」

 

大きな、茶色い巨体がゆっくりと、後ろへと傾ぎ、

どぉん、

と大きな音を立てて倒れ込んだまま、動かなくなった。

見れば熊の立派な毛並みは血でぬらぬらと濡れている。既に事切れているようだ。

そして、振り返った彼女の手にはいつの間に抜かれたのか‥‥懐剣が握られていた。

そんな小さな刃で、あの大きな巨体に立ち向かい、一刀の元切り伏せてしまったというわけだ。

土方は唖然とし、

やがて、

「ふ、はっ――」

堪えきれないという風に笑った。

「え!?な、なに?!」

いきなり笑い出した男には目をまん丸くして何故笑うのかと訊ねる。

すると彼は、

「だ、だって、おまえ、普通熊相手に挑むか?」

身体を折り曲げ、腹を抱えて笑い転げながら合間に言葉を紡いだ。

「流石に、俺でも熊にゃ喧嘩ふっかけねえぞ。」

「な、なんで笑うの?」

「笑うに決まってんだろ。普通、逃げるだろ。それが立ち向かうって‥‥しかも仕留めちまうって‥‥おまえ、案外

喧嘩っ早いのな。」

何が大笑いするほど面白いのか、には分からない。

確かに熊に挑むのは些か無謀だったかもしれないけれど、それでも、にとってはその行動こそが最前だ。

否、それ以外に彼女の取る行動はない。

 

「土方さんが危ないと思ったらじっとなんかしてられないじゃないですか!」

 

その相手が例えば、人であろうと、熊であろうと、軍艦であろうと、にとってはそれが当然の行動なのだ。

そんな彼女に土方はくしゃと苦笑に歪めて、小さな頭をこつんと軽く叩いた。

「ほんとに‥‥おまえは変わらねえな。」

土方の言葉に、は驚きに目を見開いた。

何故驚く事があるのか、彼はくつりと喉を震わせて笑い、もう一度分からせてやるようにこつんと手の甲で叩く。

「昔から、おまえはとんでもなく無茶苦茶で‥‥」

「‥‥」

「人の言う事なんざこれっぽっちも聞きやしねえで勝手に突っ込んでいっちゃあ、人をはらはらさせて‥‥」

今まで散々心配掛けさせられて、やきもきさせられて、土方の眉間の皺は彼女のせいと言っても過言ではない。

険しい顔で心配して待っていれば、けろりとした顔で「それが私の役目だ」とか言うのだ。少しはこちらの気持ちも

分かって欲しい。

何が悲しくて惚れた女に無茶などさせたいものか。

されど何度彼女に諭した所で、そこは変わらないのだろう。

それをちょっぴり癪だとも、だけど嬉しいとも、思う。

土方は口元を歪ませたまま言葉を続けた。

「意地っ張りで、可愛げがなくて、頑固で。」

彼は、一体何が言いたいのだろう?

喧嘩を売りたいのか。

「賢いかと思ったら、変な所で抜けてて」

それとも、違うのか。

「弱い癖に、強がって。」

でも、

見つめる眼差しは優しくて、

「どこまでも‥‥真っ直ぐ、てめえの信じた道を突き進む事が出来る。」

 

迷う事だって在る。

挫ける時だって在る。

でも、は最後にはやはり自分の信じた道を真っ直ぐに見据えて、進んでいるのだ。

 

「おまえは、そういう女だ‥‥昔からずっと。」

 

昔から何も変わらずに。

 

そう、

何も変わっていない。

弱い自分も、昔からあったのだ。

前のように戻れなくなったのではない。

ただ、元々あったものを認められなかっただけ。

それだけ。

 

「そう、か‥‥」

するんと、自分の中に落ちてくる。

今まで認められなかった自分の弱さも、甘さも。

嫌悪さえする自分の嫌な所も全部。

するりと受け止められる。

受け入れられる。

だってそれはずっとが変わらず持っていたもので‥‥それを、彼は丸ごと受け止めてくれているというのだから。

「まあ‥‥おまえは、頑固でも意地っ張りでも、構わねえんだけど、な。」

土方は苦笑で続けた。

どんな彼女だって愛しいと思う。

だけど、

「ちったぁ、俺の言う事も信じてくれねえと‥‥困る。」

そこは少し改めて貰わなければと言うと、はきょとんとした顔をして、それから、

 

「努力、します――」

 

そういえば、絶対だったはずの彼の言葉を、自分は信じられていなかったんだなと今更のように気付いて、

それがなんだか可笑しくて、は口元を緩めた。

 

久しぶりに零れた笑みは‥‥思ったよりも難しくなかった。