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『とっとと帰れ』

と、自分を蹴り返した閻魔様とやらは昔、苦手だったあの局長筆頭に似ている気がして、嫌なやつに借りが出来てしま

ったと思いつつも泣きじゃくりながらしがみついてくる愛しい女を見ると、この借りは悪くないと思うのだった。

 

 

 

何度「もう大丈夫だ」と言っても、は不安だからか、土方の傍を離れようとせず、邸に戻ってからもどこへ行く

のも彼の後をついてまわった。

不安げな顔で後ろをついて回られるというのもあまり気分が良いものではないが、泣きはらした目でついてくる彼女

の心情を思えば無碍にすることも出来ず、結局、土方はその日床につくまで彼女に付き従ってやることにしたのだ。

さすがに風呂は一緒にという事はいかないのでここにいてやるからと外で待っていると、は一定の間隔で「土方

さん」と彼の存在の確認をするように呼んだ。

「まるで子供だな」と茶化したが、からいつもの軽口が返ってくる事はなかった。

笑ってくれる事さえ。

 

そんな彼女に大丈夫だからと言い聞かせ、床につかせて、土方は隣室の自分の部屋に戻ってきた。

灯りを落とし、横になると慣れ親しんだ薄っぺらい布団の感触に、何故か笑みが零れてしまう。

片足どころか全身をあちら側に持って行かれたはずの自分が、またこうして当たり前の感覚を味わえるとは思えな

かった。

二度と戻れなかったかもしれない事を思えば、煎餅布団も高級なそれに感じるのだから不思議なものだ。

今でも何故戻ってこれたのか。

そもそも、あの瞬間は夢だったのか現だったのか、それさえあやふやで分からない。

「‥‥」

だが、暗闇の中でぼんやりと浮かび上がる自分の手は、あの時‥‥脆く崩れ去ったはずだった。

 

――ぼろ、

と乾いた砂が崩れる音を、彼は確かに聞いたのだ。

 

 

あの時、

居たたまれなくなったが一人歩き出した時、土方は追いかけようとした。

追いかけて、次の瞬間転びそうになった彼女を支えようとしていた。

 

けれど、動けなかった。

何故なら足下から灰になって、崩れ落ちてしまっていたからだ。

山南や藤堂が灰になって消えていってしまった時と同じように。

寿命が尽きた――

土方はそれを瞬時に察した。

自分の身体が灰になって溶けていく様を見るのは‥‥それは不思議な感じだった。

痛みは感じない。

死ぬ、というよりは消えるという方が正しいような気がした。

覚悟はしていたけれど‥‥やはりいざやってくると死にたくないと思った。

彼女を悲しませると分かっていたから。

 

だけど、その運命は変えられない。

 

と名を呼んだ時には指先が崩れていた。

もう手を伸ばして抱きしめてやることも叶わない。

もう一度だけ触れたかった。彼女の温もりを感じたかった。この身体に刻みつけておきたかった。

でも、出来ない。

『悪い』

と心の中で謝る彼は、あっさりと死を受け入れてしまったのだろう。

だが、自分の死はあっさりと受け入れる事が出来たけれど‥‥その後が心配でならなかった。

自分を失った後の、の事が。

彼女は‥‥とても弱い女だから。

たった一人では生きていけない程、弱くて脆い女だから。

きっと、土方が死ねば‥‥彼女は壊れる。

生きることを放棄し、死んでしまうだろう。

自ら命を絶つか、それとも、自我が崩壊し生きた屍となるか。

どちらにしても、そんな彼女の姿など見たくない。

彼女には笑っていて欲しかったから。

幸せそうに笑っていた欲しかったから。

すべてを差し出してくれた大切な人だからこそ、幸せでいて欲しかったから。

 

 

そんな事を考えながら、いつの間にか意識が落ちていたらしい。

いつ落ちたのか分からない意識が浮上したのは、微かに自らの身体に自分のものではない重みを感じたからだ。

「っ!!」

その瞬間長年の癖か、思わず枕元に手を伸ばしながら布団を蹴り飛ばして飛び起きたもののそこには刀は無い。しま

ったと内心で舌打ちをしながら、それでも簡単にやられてなるものかと暗闇の中で反撃に転じればどさりといとも簡

単に賊を捕らえる事が出来た。

だが、

?」

布団の上に押し倒す形で捕らえた賊が、彼女なのだと分かって土方は驚きの声を上げてしまう。

なんでこんな所にと続け、それからすぐに賊だと思っていたために遠慮無く肩を掴んでしまった事に気付くと慌てて

手を離して起こしてやる。

起こしてやりながらそういえば彼に気配を感じさせずに部屋まで入ってくる相手などそうそういなかったなと今更の

ように思い出す。

加えて、が土方の部屋に賊の侵入を許すわけがないということも。

「どうした?こんな時間に‥‥」

何かあったのか?と訊ねながら土方は蹴立てたお陰で乱れた寝間着の裾を直しながら上体をしっかりと正す。

意味もなく寝込みを襲うようなまねを彼女はしない。

何かあったのかと訊ねれば、は小さく息を飲み、こう告げた。

 

「だいて、ください」

 

ともすれば聞き逃してしまいそうなほど小さな声だったけれど、土方はしかと聞いた。

 

彼女は言った。

 

『抱いてくれ』

と。

 

抱きしめて欲しいという意味ではないのだろう。

薄い寝間着姿で男の部屋を訪れて、しかも寝込みを襲ったくらいなのだから。

だが、それをすぐには信じられないのは彼女の性格を知るからなのだろう。

かつて色町に花魁として潜入していた‥‥とはいえ、彼女自身は色事に不慣れなのである。

それにこの一月、触れる事さえ許してくれなかった彼女がいきなり『抱いてくれ』というのでは、驚く以上に困惑す

るのも無理はない事。

もしやあの鬼姫ではあるまいな‥‥などと勘ぐってしまえば、目の前の女は唇を噛みしめて、

「っ!?」

しゅる、と腰紐を解いた。

そうすれば当然、衣は滑るように緩んでいき、

「ちょ、っと待て!」

そのまま放置すれば当然、の衣はすとんと地に落ちて、その美しい肌を男の前に晒してくれることだろう。

勿論彼女の全てを見たいと、欲しいと思っている。

だが、こんな突然、訳の分からない状況で我を失って雪崩れ込む訳にはいかない。

土方は女を抱きたいのではない。

を、愛したいのだ。

待て、と彼女の合わせを掴み、着物が落ちるのを防ぐ。

咄嗟に掴んだものの、あらわになった細い肩や合間から見える真白い腹などを目の当たりにして一瞬、理性が揺らいだ。

ごくりと生唾を飲むだけでどうにか堪えると、土方は一度二度と、深く呼吸をして視線を逸らしながら襟を正してや

り解いた腰紐を締め直してやる。

そうしてきちんと居住まいを正してやると改めてと向き合って、訊ねる。

「どういう、つもりだ?」

些か咎めるような眼差しに、は応えない。

ただ俯いたまま、土方の方を見もしない。

「一体どういうつもりでこんな馬鹿げた真似をしやがった?」

もし、あと少しでも土方の理性が脆かったならばあっという間に彼女は男の毒牙に掛かっていた事だろう。

聞いてるのか?と土方は俯く彼女の顔を覗き込もうとすれば、その肩が小刻みに震え始めている事に気付いた。

?」

「やっぱり‥‥もう、駄目ですか?」

「え?」

膝に置かれた手がきゅ、と強く握りしめられる。

何が『駄目』なのかさっぱり分からずにただただ言葉の続きを待っているとが酷く悲しそうな顔を上げたので、

それにまた男は困惑せざるを得ない。

一体どうしてそんな表情をしているのか。

悲しませる事をした覚えはないのだが。

「もう、私の事は抱きたくないって事ですよね。」

は言った。

自分の事など抱きたくないのだろうと。

だから、土方は拒んだのだろうと。

がつんと頭を殴られたような目眩を覚える。

何故そんな結論に至ったのか‥‥彼には一瞬理解できなかった。

「いや、俺は別におまえが抱きたくねえとかじゃなくて‥‥だな‥‥」

そうじゃなくてと言うけれど、は分かってますと震える声で遮って聞こうとしない。

「私、勝手な事言ってるって、分かってます。‥‥土方さんに触れられるのずっと避けてきたのに今更こんな事言う

なんて虫が良すぎるって‥‥」

、だから‥‥」

話を聞けと土方は言うけれど、はぶんぶんと頭を振ってその先を言わせない。

「嫌いにならないでっ」

まるっきり誤解だというのにそんな言葉まで言わせてしまって、土方は胸が痛んで仕方ない。

彼女を嫌いになどなるわけもないけれど、そんな台詞を、そんな悲しげに言われてしまうと自分が酷い事を彼女にし

てしまった気分になる。

彼女は何のために、土方が地獄から戻ってきたかまるで分かっていない。

彼女の傍にいて、彼女を幸せにしてやりたいからなのに。

 

 

ぐ、と強く腕を引いて腕の中に抱きしめる。

嫌いにならないでくれなんてあり得ない言葉を吐き続ける唇を、胸に押しつける事で塞ぐと柔らかな髪を優しく撫で

ながら低く囁いた。

「俺の話を聞け。」

「‥‥」

「俺は、おまえを嫌いになんかならねえから」

びく、と震えた身体は続いた彼の言葉で漸く力を抜いた。

自信に満ちた声で言われれば疑う事は出来ない。でもそれならば何故彼は自分を抱いてくれないのだろう?

その疑問をぶつける前に、彼に聞かれた。

「突然そんな事を言いだしたのは‥‥俺が『消えた』からか?」

死んだ、とは言わない。

死して蘇るなどあり得ない事で、死んだと言えば今ここに存在する自分は本当に死んでしまう気がしたから。

そうすれば彼女はまた泣く。

今度はその涙を拭ってやる事は叶わないだろう。

「‥‥はい。」

は問いに、やや間を空けて返事をした。

彼が消えたと思ったら不安で堪らなかったと。

不安で不安で、今すぐにでも彼と一つにならなければいけないと思った。

だって、いつ、さっきみたいに消えてしまうか分からないから。

「なるほどな‥‥」

なるほど、と呟きながら彼女の性格を考えればそれしか答えが見あたらなかった事に今更のように気付く。

突然寝込みを襲われ、彼女に抱いてくれなんて言われて舞い上がっていたらしい。

土方はそんな自分がなんだか情けなくてこほんと咳払いをして気を取り直すと、彼女を引き離してしかと目を覗き込

んで言った。

 

「おまえを、抱けない。」

 

「‥‥」

「でも、勘違いすんなよ。」

次の瞬間、悲しげに瞳を伏せる彼女に土方は早口で続ける。

「おまえを抱きたくねえなんて思ってねえ。」

抱きたくないはずはない。

だって彼女の事を好きだから。

欲しいと思っているから。

それこそ狂いそうなほど、彼女を欲しているのは確かなのだ。

本音を言えば、

 

「‥‥今すぐにおまえが欲しい。」

 

ぽろりと零した本音に、じわりと男の瞳に余裕のない色が浮かぶ。

苦しげに眉根を寄せ、瞳には男の欲を滲ませ、彼はをじっと見つめている。

欲を灯した瞳に映るのは自分の姿だ。

馬鹿みたいに驚いた顔をする自分を見て、彼は必死に本能と戦っている。

理性と本能とが鬩ぎ合うのをは確かに彼の中に見た。

今だって、自分を律しながら、その肩に手を伸ばそうかと迷っている。

抱きしめて、口づけて、

暴いて、触れて、

自分の物だと証を刻んで、

全てを奪って、

奪われたい気分になる。

 

だけど‥‥

 

土方は己の情欲をそっと細い吐息を漏らすことで抑え込み、笑った。

 

「おまえ‥‥絶対泣くだろ?」

 

きっと今抱けば‥‥彼女は泣くだろう。

その身の内に生まれた、不安や、恐怖で、

泣きながら自分に抱かれることになるだろう。

 

「‥‥」

 

は見透かされた気分になり、視線を落とした。

 

咎めているわけじゃないと彼は言って頭をぽんぽんと撫でる。

 

「‥‥俺は出来るなら、おまえを幸せな気持ちにしてやりてえんだ。」

 

それは男の我が儘なのかもしれない。

でも、

自分が彼女を抱くことで、

誰よりも幸せな気分になって欲しかった。

満たされて欲しかった。

寂しさや不安を紛らわすのではなく‥‥

幸せにしたかったのだ。

 

「悪い、な。」

 

俯く妻の髪に優しく口づけを落とす。

 

そうして腕の中に閉じこめると、はふるっと頭を振った。

 

「謝るのは‥‥私の方。」

 

自分勝手に求めたのは自分だ。

彼が欲しいと言ったときに拒絶をしたのに。

不安だから、怖いからという理由で彼を求めた。

彼に抱かれていればその不安を拭えると思ったから。

でも、そんなの間違ってる。

 

その行為はもっと、

もっと、

 

幸福であるべきだ。

 

悲しい気持ちではなく、

嬉しい気持ち、愛しい気持ちで、

あるべきだ。

 

「ごめんなさい‥‥」

 

は甘えるようにその逞しい胸に顔を擦りつけた。

 

くすぐったさと同時に生まれる愛しさに土方は眦を下げて優しく笑い、

 

「今度こそ‥‥おまえを残して簡単には死なねえから。」

 

だから、安心しろともう一度強く、その背中を抱いて言うのだった。