10
蝦夷の季節は、本土よりも少し遅れているようだった。
遅れているというか恐らく冬が長いせいでそれ以外の季節がそれぞれ短く感じるだけなのだろうが、7月になっても
まるきり暑くならず、まるで春先のようなぽかぽかした陽気には今が何月なのかというのを忘れてしまいそうに
なる。
同じ日の本とも言ってもここは少し違うのかも知れない。
いや、もしかしたら自分たちのいるその場所こそが他と違うのではないのだろうか。
実はもう自分たちは現世ではなく常世に足を踏み込んでいるのではないだろうか。
はそう思った。
目の前の、美しすぎる光景を目にした時に。
「今って‥‥もう夏、ですよね?」
「‥‥ああ。」
「夏に、普通は咲かないですよね?」
「こいつが咲くのは、春だろうな。」
「じゃあ、なんで‥‥」
なんで、とはごくりと喉を鳴らして息を飲む。
隣に立つ男もぼんやりとそれを見つめたままで双眸を見開いていた。
その瞳に、はらり、と舞うのは淡い色をした可愛らしい花びら。
「なんで、桜が咲いてるんでしょう?」
青々と生い茂る桜の木々の中に一つ。
その一本だけがまるで春の中に取り残されたかのように、美しい花をその身に鮮やかにつけていた。
「あいつらの弔いをしてやろう。」
と、唐突に言い出した土方についてやってきたのは、彼が鬼の頭領――風間と戦った場所だった。
そこを弔いの場所としたのは彼にとって全てが終わった場所だったからなのだろう。
桜の時期ならば良かったのに‥‥などと思いながら土方の後を追い、そこにやって来て二人は己の目を疑った。
他の木々は青々と葉を茂らせているというのに、その一本だけが。
見事なまでに桜の花をつけていたのだから。
「‥‥夢でも見てるのかな?」
「二人そろって、か?」
たっぷりと驚いて立ちつくした後、は信じられないと呟きを洩らす。
それに応える土方の声も些か困惑しているようだが、それでも目の前のそれが事実であるという事は認めざるを得ない。
だって、そこに在るのだから。
「きっとここ数日急に寒くなって、急に暑くなったからこの一本だけ春が来ちまったと錯覚してんだろ?」
気にするな、と言ってざかざかと彼は桜の木の下へと歩いて行ってしまう。
先ほどまではあれほど驚いていたのに、こんなあり得ない事態をそうもあっさり認めてしまえるとは‥‥寛容というか
ずれているというか‥‥
「いいじゃねえか。お陰で俺たちは他よりも一足先に花見が出来るんだ。」
得したなと笑う土方には一瞬面食らい、やがて溜息と共にそうかもしれませんねと言って歩き出した。
地面に落ちた花びらは踏んでも消えない。
やはりそれは幻ではなく、現のものだった。
「あいつらを弔ってやるのにも、丁度良い。」
土方は言いながら手に持っていた酒の栓を抜き、桜の根元を大地に注ぐ。
「遅くなっちまって、悪かったな。」
大地に染みが広がっていくのをじっと見つめながら折角花を点けた桜が酒に酔ってしまうんじゃないか、と茶化して
やりたくなったが、その前に土方が呟いたのを見ては口を閉ざす。
「あまり高い酒じゃなくて悪いが、そっちで楽しくやってくれ。」
「‥‥」
「つっても、近藤さんは下戸だったか。」
最後の一滴まで注ぎきるとそう言って茶化す彼に、は少し笑った。
「その分平助が飲みますよ。」
「あいつの事だから、目付役がいねえのに調子に乗りそうだな。」
「その辺は、山南さんがいるから大丈夫ですよ。」
「源さんもいる事だし、な。」
「はい。」
きっと向こうで楽しくやっているだろう彼らの事を思い、と土方は揃って笑う。
哀しいと思わない事もない。辛いと思わない事もない。
でも全ては終わった事。
彼らは死んでしまったけれど、二人は生きている。
生きる事を、選んで、ここにいる。
「‥‥少し、花見でもしていくか?」
このまま戻るのもなんだか勿体ないような気がして土方が提案すればはこくりと頷いた。
上を見上げれば薄紅色の空が広がっていて、そこからはらはらと落ちてくる桜の花びらが、まるで色づいた雪のよう
にも感じる。
そういえばの世界は真っ白い世界から始まったのだ。
あの時はあまりの冷たさに感覚が麻痺していて、おまけに白く塗り潰される世界に心も麻痺して、そのまま何も感じ
なくなって消えてしまうんじゃないかと思ったものだった。
でも、今は違う。
こんなに世界は暖かくて、優しくて、愛おしい。
消えたいなんて思わないし、消えて欲しいとも思わない。
ずっとずっと、こんな優しい日々が続けばいいとさえ思ってしまう。
沢山大切な人を喪って哀しいはずなのに、消えてしまいたいなんて思わない。
それはきっと、隣に彼がいるから。
「そういや、今のおまえくらいだったな‥‥」
不意に、ぽつりと風に乗って聞こえる言葉があった。
桜に見惚れていたは一瞬、言葉を聞き逃してしまって、
「え、なに?」
なんと言ったのかと視線を向けると、見上げていた自分とは違ってこちらをじっと見つめていた彼の視線とぶつか
った。
彼はいつから、見ていたのだろう?
こんなに綺麗なものが目の前にあるというのに‥‥
「今のおまえくらいだったな。」
「え?」
先ほどと同じ言葉を紡ぐ男に、は目を瞬かせる。
何が自分くらいだったのかと首を捻るとさらりと零れる飴色が優しく揺れた。
つい、それに手を伸ばしてしまいたくなったけれど、逃げられては堪らないので土方は拳を作ってそれを押しとどめ
その代わりに自らの手を戒めるように腕を組んだ。
「おまえと出会った時の俺が、だ。」
今の彼女くらいだった。
と、突然、そんな事を言われて、は一瞬目を白黒させる。
そういえば彼と初めて出会った頃、は十で一回り違う土方は二十二だった。
そして、彼らと一緒になって十二年という長い年月が経っているのも確かで‥‥自分でも年齢の事など忘れていたが
は今現在二十二歳という年齢で、彼と初めて出会った頃の彼の年と同じということになる。
「あん時のおまえの事、今でも忘れねえよ。」
今でも、彼は覚えている。
確か転々とあちこちの道場で他流試合に励んでいた土方が、そろそろ腰を落ち着かせようかと近藤に相談にしに来た
時だった。
だが話をしに来たというのに近藤はおらず、仕方ないので出直そうかと玄関の方へと戻った時、丁度帰ってきた彼と
ばったりと出会って、その彼が襤褸雑巾のような、汚らしい固まりを抱えているのを見て目を疑ったものだった。
まさかそれが人間だとは思わず、そしてそれ以上に人間の子供を連れてかえって来るとは思わなかったからだ。
どうやらうち捨てられていたのが不憫で連れて帰ってきたというのだが、犬猫ではあるまいし、それ以上に私衛館の
台所事情を知っているだけに食い扶持を一人でも増やす事が得策ではない事など分かり切っていた。
近藤には悪いけれど、最初、土方は元いた場所に戻してくるべきだと思ったのだ。
だが、あの時、
の瞳を見た瞬間に、その気持ちは一瞬にして消え去ったのを覚えている。
その瞳は汚れた塵の固まりのような姿とは相反し、気高く、美しく、どんな汚れも知らぬと言うほどに‥‥澄み切っ
ていた。
この世に、それほど美しいものがあるのかと。
そう土方に思わせるほど、その瞳は美しく、鮮烈だった。
一種の妬みさえも男に感じさせる程に。
だが妬み以上に感じたのは、その瞳を我がものに掌握してしまいたいという独占欲だ。
思えば、あの時より自分は彼女に囚われていたのかもしれない。
大の男が子供に囚われるなど、情けない限りだ。
「私も覚えてますよ。土方さんがすごく怖かったです。」
小さく苦笑を漏らせば、がおどけたような口振りでそう告げる。
怖かった、と言う割に目は笑っていて、恐らくそれは本心ではないのだろう。
「土方さんってば、子供相手にも全然愛想ないし‥‥」
「ガキは得意じゃねえんだよ。」
「それでも、少しは笑ってくれても良いと思うんですよ。」
「そりゃあ、おまえにだけは言われたくねえ。」
彼の言葉に、は確かにと苦笑で頷く。
あの頃は感情をどう表せばいいのか分からず、激しく無愛想だった。
今の土方など比ではない。
一言も喋りもしなかったくらいだ。
「まあ‥‥そんなおまえが、突然、近藤さんの為に戦いてえって言い出した時は驚いたもんだ。」
それ以前に、斬りかかってくる不逞浪士を前に怯えもせずに彼の脇差しを抜いて戦った事がそもそもの驚きだった
だろう。
まだ十の子供が、鮮やかに人を斬ってのける様を見て、土方も近藤も、言葉もなかった。
殺されたくなくて応戦した‥‥というのではなく、彼女はあの時、確たる想いで刀を振るっていた。
殺すつもりだったのだ。
自分に襲いかかる男を、ではなく、近藤や土方の敵を。
『近藤さんのために、戦いたい』
あの時も美しい瞳で、土方をまっすぐに見ていた。
人を殺す覚悟を‥‥あんなに綺麗な瞳で、はしていたのだ。
そして、それから十二年。
十二年という長い間、は彼らのために戦ってくれた。
苦しいことも、辛いことも、たくさんあっただろう。
でも、泣き言一つ言わず、甘えもせずにはただ、彼らのために戦い抜いた。
それだけではない。
がそばにいてくれたから、土方はここにいられるのだ。
彼女に救われたのは命だけではない。
否、心こそが、彼女に救われたものだっただろう。
「おまえがいてくれて、良かった。」
土方は心の底から思う。
「今、隣におまえがいてくれて良かった。」
そう告げる彼の表情があまりに優しくて、眩しくて、甘くて‥‥なぜだか見つめられるのがすごく恥ずかしくなって
は居たたまれなくなって顔を背けると、
「そ、そうだ。他に桜が咲いてるところがないか、私探してきますね。」
なんてわかりやすい言い訳をして、背を向けた。
背けた顔は熱でもあるみたいに熱い。
きっと真っ赤になっていることだろう。
その顔を見られればなんとからかわれるか分からない、いやそれ以上に、この顔を見てまた甘い言葉の一つでも囁か
れては堪らない。
ついいつもの癖で大股で歩き出す足がまとわりつく着物の裾に取られ、一瞬よろめきながらもその場をいったん離れ
るべく走り出した彼女を、
「」
と声が呼び止める。
だけど、はなんだか振り返るのが恥ずかしくて聞こえなかった振りをして、一応は歩調を緩めつつ歩き続ければ
彼の言葉がこう続いた。
「俺は、ずっとおまえのそばにいるからな。」
何の宣言なのだろう。
これ以上自分を恥ずかしがらせてどうしたいのか。
は真っ赤な顔のまま、もう分かった、十分だからと口の中で唱えて再び歩調を早めるべく運び出す足の速さを早
めて‥‥
その時、
「たとえ‥‥おまえの目の前からいなくなったとしても」
ざぁあ――
『ずっと、そばにいる』
まるで耳元で囁かれているかのような声には振り返るけれど、それよりも前に突風が巻き起こり、彼女の視界を
遮った。
あまりに強い風の中では録に目も開けていられず、小さな声を上げながら顔を手で覆って、悪戯な風が通り過ぎるの
を待った。
風はがさがさと耳障りな音を立てて、地上から空へ‥‥青空へと吸い込んでしまうように吹き上がり、
やがて、
風が止む。
何事もなかったかのようにぴたりと。
そして、視界の自由を取り戻したがゆっくりと瞳を開けば、
「ひじかた‥‥さん?」
そこから忽然と、
彼の姿が消えていた。
彼だけではなかった。
先ほどまで満開だった桜の花も‥‥
まるで、最初から花などつけていかなかったかのように、
花弁一つ残さずに、
葉桜に変わっていた。
まるで‥‥まるで‥‥
一人が置いて行かれたかのように。
「ひじかた‥‥さん?」
どきりと、鼓動が跳ねる。
不気味なくらいにあたりは静かだった。
さくと歩き出した足音は一つしか聞こえなくて、静けさに反しての胸の奥はざわざわと不吉に騒ぎ出した。
「ちょっと、なに?いい年して、かくれんぼ?」
あの突風の瞬間に忽然と姿を消すなんて、どれほどに悪戯好きな男だと言うのだろう。
でも、
『たとえ‥‥おまえの目の前からいなくなったとしても』
あんな不吉な言葉を残して隠れる事は無いじゃないか。
まるであれじゃあ、目の前からいなくなってしまうみたいじゃないか。
そんなはずはない。
彼がいなくなるはずがない。
だって、一緒にいるって約束した。
そう簡単に死なないって彼は言ってくれた。
だから、
いなくならない。
いなくなるはずがない。
なのに、
「土方さん、意地悪しないで出てきてくださいよ‥‥」
彼は出てきてくれない。
「土方さん!もう、私の負けで良いから!」
どれだけ呼んでも、彼は出てきてくれない。
いつもなら呼んだら応えてくれるのに。
なのに、
「ひじっ‥‥」
左右に振れた視線が、一所で止まり、琥珀が見開かれる。
緑の大地に、まるでそこだけ花が咲くかのように青紫の色が広がっていた。
だけどそれは花などではない。
「う、そっ」
草木を優しく揺らす風にはためくそれは、
「うそ」
彼が纏っていた着物だった。
先ほど、背を向けるその瞬間まで、彼が身につけていた着物だった。
そういえばそこはさっきまで彼が立っていた所だ。
まさか、と喉が震えて言葉に詰まる。
その光景に‥‥は見覚えがあった。
かつて目にした、あの悲しい別れと、同じ――
ど く ん
身体が震えていた。
恐怖で、絶望で、
目の前が真っ暗になった。
『俺はそう簡単に逝ったりはしねえよ』
おまえを残して、そう簡単に死んだりしない。
彼はそう、言った。
けど、
『たとえ‥‥おまえの目の前からいなくなったとしても』
そうとも言った。
それは目の前から彼がいなくなると予見した言葉。
いなくなるのはもっと先の事のはず。
もっと先になるはずなのに。
なのに、
「やだ‥‥」
彼はここにいない。
どこにもいない。
「やだ、やだぁっ」
は叫びながら駆け寄った。
縺れて転びそうになりながら這ってでも、近づくと彼の着物を抱きしめる。
彼の温もりがまだ残るそれは、徐々に主を失って熱を失っていく。
はそれを逃すまいと胸に抱きしめながら、目の前の現実を拒絶するみたいに頭を振った。
「まだ、いかないって言ったのに‥‥」
ひ、と嗚咽が漏れる。
憎らしいくらいの青空がぐにゃっと歪んだ。
「まだ、一緒にいてくれるって言ったのにっ」
恨み言のような言葉が口から零れる。
「私、これからいっぱい、いろんな事をあなたと一緒にしてっ‥‥」
それから、それから、とは言葉を探す。
「いっぱいもらった、いろんなものを今度は私が返そうって思って、たのにっ!」
共にいた十二年間。
たくさんのものを与えてもらった。
たくさんの幸せを、彼からもらった。
とうの昔に捨てていた命を、ここまで生きたいと思わせてくれたのは彼のお陰だ。
それのほんの一部でも、は返せていない。
に出来る事なんてこれっぽっちもないけれど、それでも、この身体を‥‥彼が望んでくれるならば彼に捧げる事
が出来たはずだったのに。
けじめをつけていないからという勝手な自分の言い分で、彼を拒んだ罰なのか。
罰ならばいくらでも受けるけれど、何も彼を連れていってしまう事はないじゃないか。
「やだ‥‥いかないで‥‥」
震えた声がの唇から漏れる。
いつか別れが来るのは分かっていた。
この世に生を受けた瞬間から分かっていた。
でも、
こんなの急すぎる。
何も言えないまま永遠に別れるなんて‥‥酷すぎる。
「おねが‥‥いっ‥‥」
お願い。
「おいて、いかないでっ」
悲痛な声を漏らしながらはどさりとその場に頽れる。
ぼたぼたと涙が落ち、大地を濡らしても、その涙を拭ってくれる人はもういない。
「やだ、こんなの‥‥やだ、やだよぉっ」
と呼んで、優しくほほえみかけてくれるその人はいない。
がこの世で何より愛しいと思う、土方歳三という男はもう、どこにもいない。
そんなこと、耐えられない。
「おね、がい‥‥」
涙に濡れた顔を上げ、憎らしいほどの青空を見上げる。
「お願い」
神というものがこの世の中にもし、存在するというのならば、願いを聞き届けてほしい。
そんなもの信じてもいないし、神に救ってもらえる資格などないと分かり切っているけれど、それでも縋らずにはい
られなかった。
「なんでも、するからっ」
彼を取り戻すためならばなんだって捧げる。
手だって足だって、自分の命の半分だって、彼を連れて行ってしまった死に神が寄越せと言うのならばなんだって捧
げても良い。
なんだってする。
なんでもあげる。
だから、だから、
「彼を、返してっ」
そんな必死な願いを聞き届けて空が明るくなり、目の前に彼が‥‥などというのはお伽噺の中だけの話。
分かっている。
そんなこと無理だって分かっている。
それでも願わずにはいられなかった。祈らずにはいられなかった。
縋らずには‥‥
だって、は一人では生きていけないから。
彼を無くしては生きていけないから。
だから馬鹿みたいに本気で願った。
けれど、本気で願っても、世界は変わらなかった。
「っ」
世界は、相変わらず静かで、平和だった。
とてものどかな幸せな光景だけど、その中に彼がいない。
彼だけが。
「うぁああああああああああ!!」
喉が裂けてしまうほどに叫んでも彼の耳には届かないのに、それでもは叫ばずにはいられなかった。
真っ白から始まったの世界は、
とても優しくて、
残酷なものだった。
何も持っていなかった彼女にたくさんの大切なものを与え、たくさんのものを奪い、何よりも大事なものを無惨にも
奪い取り、たった一人で生きろと惨い現実を突き付ける世界は、とても残酷なものだった。
彼女に優しい思い出だけを遺した世界は。
一人で立ち上がれないほど優しい気持ちを教えてくれた世界は。
とても、
残酷で、
とても、
――優しかった。
明治三年七月のはじめ。
土方歳三は静かにこの世を去った。
さよならの言葉さえ、ないまま‥‥
さよならは永久に
ざぁっ
と前触れもなく再び風が吹いた。
それは先ほど吹き上げた風が戻ってきたようなそれで‥‥
巻き上げられていた、引きちぎれた草が落ちてくる。
それから、
はらり、
「‥‥」
桜の花びらが。
はらはらと、の上に落ちてきた。
まるで、
彼女を慰めるみたいに、
落ちて、
『ったく、仕方ねえよなぁ‥‥』
呆れたような声が、風に溶けて消える。
泣き虫がと呆れて、でも仕方ないと笑う優しい声が、霧散する。
まるで幻のように。
ひとときの夢のように。
優しく流れて、
「どうやったら、閻魔さんまで味方につけちまえるんだ?」
からかうような声も、柔らかな飴色を撫でるその手は、幻ではなく本物で。
しがみつくその身体から感じる温もりも感触も鼓動も、紛れもなく現実で。
「ひじかたさん、ひじかたさん、ひじか‥‥さっ」
は泣きじゃくりながら、逞しい胸に顔を押しつけた。
痛いほどにその身体に爪を立てて、もう逃がすまいと縋り付きながら、ただただ声が枯れるまで泣き続けた。
そんな彼女を見て、土方はふっと困ったように笑う。
「おまえがそんなんじゃあ‥‥俺は安心してあの世にゃあ行けねえよ。」
はらはらと舞い落ちる桜の花びらが‥‥まるで‥‥二人をからかうように降ってきた。
見上げれば青空と、
満開の桜がそこに。
さよならは――まだもう少しだけ先にするとしよう

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