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「俺は‥‥こいつの心の整理がつくまで、いつまでも待ってやりてえと思ってる。」
祝言はあげないのかと訊ねた原田に、土方が返した言葉はそれだった。
彼には残っている時間はあまりない。
だからこそ、彼女を縛り付けたくないと言う想いもあり、同時にだからこそ彼女を自分だけのものにしたいという想い
もある。
鬩ぎ合う二つの気持ちは心の中に確かに存在するけれど、それよりも大切にしたいと思うのは彼女の気持ちだった。
心の底から愛しいと思う彼女だからこそ、無理強いはしたくない。
例えば自分がどれほどに焦がれているとしても‥‥
彼女が自分を欲しいと願うまで、彼はいつまでも待ってやりたいと思うのだ。
残された時間はもう、少なかったとしても――
「ひじかたさん。」
久しぶりの再会と言う事で、彼らは三日ほどこちらで厄介になる事となった。
二日目になれば遠慮深い斎藤はさすがに申し訳ないと町に宿を取るべきだと進言したのだが、土方直々の願いにより、
ではもう一日と言う事となり、今日も同じ屋根の下に三人は泊まっている。
とは言ってもさほど大きな邸でもなければ部屋数が多いわけでもない。
客人を一つ間に閉じ込めるのは申し訳ないと思ったが、三人は屋根があれば十分だと笑って一間に川の字になって寝
る事を快諾してくれた。
今頃仲良く、ではないが眠っている事だろう。
恐らく大きな鼾を掻いている永倉は。
相変わらず喧しいなと苦笑を漏らしながら、土方はひとり眠れずに広間でぼんやりと佇んでいた。
その時不意に気配もなく現れたその人に名を呼ばれ、振り返ればいつの間にそこに立っていたのか、闇の中でも決して
溶ける事のない飴色を揺らしたその人が立っていた。
「。」
呼びかけに、彼女は少しだけ笑った。
寝入っていたのか、それともこれから眠る所なのか、は寝間着姿だ。
そんな薄着でうろうろして、風邪でもひいたらどうするのかと一瞬思ったが、それよりもなんだかがいつもと違
った雰囲気を纏っていたのが気になる。
「‥‥どうした?」
問いかけには答えない。
ただ、黙ったまま襖の隙間から滑り込むと後ろ手にぱしんと閉じ、土方の傍へと膝を着く。
そうして、ほっそりとしたその手で肩を撫で上げるように触れてきたかと思えば、胡座を掻いた男の上にその身を乗り
上げた。
布越しに感じる自分とは違う温もりと柔らかさが、男を一瞬ひやりとさせる。
「しっ」
思わず息を飲んで次にらしくもなく狼狽する男に、は何も言うなと指先を男の唇に押し当てる。
と同時にその瞳が艶めいた色を浮かべ、土方は囚われた。
自分を見る彼女の目は、女のそれだったのだ。甘く、男を誘い、惑わすような。
求められている‥‥というのを男は感じた。
女として、は今土方という男を求めていると。
昨日まではあれほどつれなく逃げてみせたというのにこの掌の返しようは一体何事だ。
自分はからかわれていたのか。
それがの手管だとしたらとんでもない女に惹かれたものだと、土方は内心で苦笑する。
「‥‥」
そんな彼を見て、がふっと艶っぽく笑った。
口を噤んだ彼を見て、押し当てた指を滑らせ、そうして、ゆっくりと大仰に首に手を回して、甘えるように顔を寄せて
くる。
言葉はない。
ただ、唇が「ひじかたさん」と象った気がした。
蠢く紅い唇はかぶりついたら柔らかく甘そうだった。
無粋にも乱暴に咬み千切ってやりたい衝動にさえ駆られる。
そうして、引き倒して、自分の痕を刻んで、踏み荒らして、自分の色で汚してやりたくて‥‥
だが、
唇がほんのあと僅かで重なる、という所で、
「鬼の姫さん‥‥なんだろう?」
土方が問いかけた。
甘い空気は無粋な一言にて霧散し、の琥珀がすいと眇められた。
気に入らないと言うように。
「どうして分かるんですか?」
途端女が纏う空気が変わる。
どこか妖しげで濃密な空気。
それは決して、が出せるようなものではない。
土方はやはりと内心で呟き、その唇に笑みを浮かべた。
闇の中でもう一度しかと見てみると、その瞳は琥珀ではなく‥‥美しい金色へと色を変えている。
美しいが、土方の好きな色ではない。
彼が焦がれて止まない琥珀ではないのだ。
「はそんな素直に誘ったり出来ねえ女だ。」
「不器用な子。」
嘲るように笑う彼女に、土方はそうだと頷く。
「だから、俺が惚れた。」
「‥‥」
これまた面白くない。
女‥‥静姫は双眸を細めてもう一度睨んだ。
同じ身体で、元々は静姫の物だったというのに、自分は違うのだと拒まれて、面白いわけがなかった。
どいつもこいつも自分を邪魔者扱いして、と内心憤慨するほどに。
静姫は不満げに睨み付け、一度は離れかけた顔を寄せる。
がどういうことだろう?
互いの間には壁などがないはずなのに、近づくことが出来ない。
後もう少しで唇が触れると言うのに、彼の身体に膜が一枚あるかのように、それ以上触れる事が出来ないのだ。
「‥‥」
まるで、その真っ直ぐな双眸から感じる強い意志が阻むかのように。
「わたしじゃ‥‥駄目?」
強請るように静姫は上目に見遣る。
身体は同じだ。
と言うと彼は違うと首を振った。
「確かにの身体だが‥‥」
だけどと彼は言う。
「心はじゃねえ。」
今の心は、ではなく静姫だ。
「俺は‥‥の身体が欲しいわけじゃねえんだ。」
抱きたいけれど、でも、それが目当てじゃない。
「‥‥の心と身体があって、俺は初めて欲しいと思うんだよ。」
だから、
彼女を抱くことは出来ない。
「抱きたいくせに?」
その通りだ。
が欲しくて堪らないくせに。
今さっきだって、この身体を蹂躙して自分だけのものにしてやりたいって願ったくせに。
でも、
「‥‥の意志を尊重してやりてえ。」
「‥‥頑固な男。」
静姫はひょいと肩を竦め、呆れたように溜息を吐く。
でも、
そんな男だから、
「あの子は好きになった。」
その呆れるくらいの意志の強さに、真っ直ぐな心に、生き方に。
は惚れたのだ。
そうして、
「‥‥わたし‥‥も。」
「‥‥何か言ったか?」
どこか切なげな呟きを聞き逃してしまった。
なんだと問い返したが彼女は妖艶に笑うだけで答えてくれない。
静姫は彼の意志が固いのだと悟り、離れた。
彼女が上から退くと同時にひやりと冷気が身体に吹きつけ、ああ、今夜も冷えていたのだなと今更のように思い出す。
きっと彼女が、暖かかったせいなのだろう。
「わたし‥‥眠ろうと思う。」
「なに?」
ぽつんと静姫は言った。
「深い、眠りにつこうと思う。」
そして、二度と目覚めることはないと思うと彼女は言った。
土方は真意を確かめるように真っ直ぐに静姫を見つめる。
相変わらず食えない表情をしていたが、彼女の言葉は偽りではないのだろう。
金色の瞳には‥‥もう怒りも悲しみも見えなかった。
ただ、ひどく満たされたようなそれで、男を見つめ返していた。
「もうわたしは必要ない。
この子は十分強くなった。」
「‥‥」
「わたしがいれば‥‥いつか争いの種になるだろう。」
鬼の正当なる姫がいると分かれば、いずれ誰かが奪いに来る。
この忌まわしい力は封印すべきだと静姫は言った。
自分の心と共に、二度と目覚めぬように封じ込めてしまうべきだと。
なにより、
自分がいてはが幸せになれない。
不思議な物だ。
この身体は自分の物だというのに、何故彼女に全てを明け渡してやろうと思うのかと。
何も知らず、のうのうと幸せに生きてきた彼女に全てを与え、自分は消えてしまえるのだろうかと。
‥‥多分、
静姫は好きなのだ。
というあの人間の事を。
でなければ、彼女を守るために記憶を閉じ込めてなどやるものか。
自分が見てきた地獄を味わわせたくないと思ってやるものか。
「‥‥」
静姫は、そっと、胸の上に手を置いた。
がどこに眠っているのかは分からないが、彼女の鼓動を感じるのはそこだった。
それは自分と同じ音をして、同じ早さで、自分の分身のようで‥‥
まるで、
我が子だと静姫は思う。
一瞬、浮かべた静姫の微笑みは母親の慈しむそれだ。
土方は、あの荒くれた鬼姫がそんな風に笑うのかと、一瞬驚いたものだった。
それはすぐに、底の知れない笑みへと変わり、
「‥‥全て、あんたにくれてやるよ。」
彼女は告げた。
この身体も心も、という人間そのものも‥‥くれてやる。
「だから最後に‥‥」
呼んでと言った。
「わたしを名前で。」
呼んで欲しいと彼に乞うた。
何故‥‥そんなことを願われるのかと男は思った。
自分になど呼ばれても嬉しくもなんともないだろうにと。
普段ならば女心に聡いはずの色男は、それが不思議に思った。
彼女の想いに気付いたのは、
「静姫‥‥」
自分の名前を呼ばれてひどく嬉しそうに笑う‥‥鬼の姫の最後の笑みを見たときだった。
鬼姫は願う。
我が子の幸せを願うように。
どうか、この子に幸あれと。
そこまでやって来ている最期の瞬間にも気付かない哀れな子に。
少しでも、幸福な時間が来るようにと。

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