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その姿を見た瞬間、
その声を聞いた瞬間、
涙が出そうになった。
会いたくて、会いたくて、夢に何度も見るくらいに会いたくて堪らなかったから。
だから、泣きたいほどに嬉しかった。
元気な姿を見られて、その人の声を聞けて、
泣きたいほどに嬉しかったのに、
どうして、
今はすれ違う日々が続いているのだろう?
は船でここまでやってきたと言った。
都合の良いことに、新政府軍が隠れて船を出している所を無断で乗せてもらったのだと。
きっとあの船で死んでいた兵士達はが殺したのだろう。
ついでに残党も数日の内に「片付けた」とけろりと言って戻ってきた。
何人潜り込んだか分かっているのだろうかと思ったが、彼女の事だ。
乗船している間に誰かに訊ねたのだろう。
元々間者として潜り込むのは得意だった。
頼もしいねと大鳥は笑顔で言って‥‥こう告げた。
「君には、僕の補佐官として‥‥
それから土方君の身の回りの世話役としてついてもらうから。」
土方は思いきり顔を顰めた。
彼にしてやられたのだと気付いたのは‥‥それから随分経ってからの事だ。
痺れを切らしたように、強引に、その人に捕まった。
あんまり強い力で腕を掴まれたから何事かと思って振り返ると怖い顔をしたかつての上司が立っていて、
「ちょっと来い。」
という一言と共に有無を言わさずに引っ張られた。
それは予感していた事だが、出来れば先延ばしにしたくて、はその力に僅かな抵抗を見せる。
「私今、大鳥さんと話をしているんですけど。」
とこう言えばぎろりと睨まれて、ついでとばかりに大鳥にも視線を投げて、
「連れて行くからな。」
許可を得るというよりは、ただの宣言をして、彼は半ば引きずるようにを連れて行ってしまった。
が振り返れば苦笑の大鳥とばちりと目があって、彼はぱくぱくと口を開閉させてこう言った。
『頑張って』
勝算など‥‥微塵もなかった。
人に聞かれるのは憚られるのか、彼は自室にを引き連れてやってくると、掴んでいた手を離して、
「今すぐ帰れ。」
扉を閉めるや否やそう言った。
その彼の顔がものすごく不機嫌なものになったのは、恐らく彼女が捕まらなかったからだろう。
が蝦夷にやってきて十日も経っていたのだ。
十日間も、彼女を捕まえる事が出来なかった。
まあひとえに彼女が避けていたという事が原因なのだが、男にとってはそれが酷く不快でならない。
傍にいなかったことも腹立たしいが、何より腹立たしいのは彼女が大鳥の傍にずっといることだ。
なんで他の男の傍にいるんだ‥‥と男は我ながら勝手な文句を心の中でだけ告げる。
これからまた引き離すくせに、自分の傍にいないことが不満だなどと勝手すぎるだろうに。
「今すぐ帰れ。」
と告げる男に、はしれっと答えた。
「嫌です。」
ふるりと頭を振った瞬間、肩口で切られた髪が揺れる。
恐らく自分で結った髪を切ったのだろうそれは‥‥不揃いで、それが彼女らしくもあり同時に、何故か痛ましかった。
まるで、彼女の柔らかい部分を傷つけてしまったかのようである。
そう感じるのは負い目を感じているからだろうか?
土方は頭の片隅でそんな事を思いながら、言葉に顔を顰め、なんだと、と低く唸るような声で呟く。
「俺の命令が聞けねえってのか?」
刃のように研ぎ澄まされた鋭い眼差しで彼は睨んだ。
殺気を滲ませ、体中から威圧するように張りつめた気を滲ませる。
恐らくここにいたのがや‥‥かつての仲間以外ならば裸足で逃げた事だろう。
だけど、ここにいるのはだ。
「聞けません。」
の答えはやはり拒否だった。
ならばと、彼女が従わざるを得ない言葉を選んで、口にする。
「局長命令だ。」
それは新選組に属する者で在れば絶対命令。拒否する事は叶わない。
新選組に属していたも、以前ならばそれに従っただろう。
しかし、
「生憎と、もう私は新選組の人間ではありません。
局長の命令なんて聞きませんよ。」
「っ。」
彼に、「局長命令」では助勤の任を解かれたのだ。
その人に今更「局長命令」を言われても従うはずなどない。
もうは副長助勤ではないのだから。
「私は、というただ一人の人間です。」
そう。
だから誰に命令される事もない。
誰の命令にも従う必要などない。
は自分の意志でここに来て、自分の意志で、
「私は土方さんの傍にいます。」
彼の傍にいると決めた。
何があっても傍から二度と離れないと。
きっぱりと目を見て言いきった彼女に、土方は唇をきつく噛みしめた。
その言葉で、頭のどこかで喜ぶ自分がいるのに気付いた。
彼女が傍にいてくれるという事に安堵する自分がいる事に。
それが‥‥腹立たしかった。
「駄目だ。」
「駄目と言われても従いません。
自由にしろと言ったのはあなたです。」
すい、と土方は目を細めた。
そして、底冷えするほどの冷徹さを湛えて言葉を紡いだ。
「帰らないというのなら‥‥斬るぞ。」
瞳に殺意を込めて、ちゃきりと鯉口を切る。
まるで敵を前にするかのように殺気を滲ませながら、こうも願った。
頼むから、
退いてくれ、と。
彼女を斬りたくはない。
これ以上傷つけたくはなかった。
だから、退いてくれと願った。
「‥‥」
はそれを一瞥しただけだった。
そして、
「どうぞ抜いてください。」
迷いもせずに、言い放った。
彼にそんな真似が出来るはずがないと、
自分は鬼だからそんなものでは死なないと、
侮っているわけではない。
――殺すならば殺せ――
の瞳はそう語っていた。
決して血迷ったわけでも自棄になったわけでもない。
その瞳は相変わらず真っ直ぐで。
澄み切った瞳だった。
彼が斬るというのならばその決断に従う。
彼女は今でも『彼の命令が絶対』という、とんでもなく厄介な忠臣なのだ。
「っ」
そんな彼女を前に、迷ったのは、土方の方だ。
言葉に柄を握りしめていた手が震えた。
――なぜ?
迷いはやがて疑問へと変わり、男の唇からこぼれ落ちた。
「なんで‥‥そこまでする‥‥」
「‥‥」
「もうおまえを縛るものは何もないはずだ。」
彼女が、新選組にいなければいけない理由はもう、ないはずだ。
土方は視線を落として苦しげに続けた。
「近藤さんは、もういない。」
彼女の絶対だった存在は、もういない。
「総司も‥‥千鶴もいない。」
く、と彼は苦しげに唇を噛みしめた。
「斎藤も‥‥新八も、原田も‥‥平助だって山南さん源さんだって‥‥」
彼女が大好きだった優しい人たちはもうここにはいない。
「残ったのは‥‥」
ぽつりと寂しそうに、彼の唇から言葉がこぼれ落ちる。
残されたのはただ一人。
馬鹿げた夢をただひたすらに追い求め、ぼろぼろになりながら歩き続ける男が一人、いるだけ。
なのに、
「どうして‥‥おまえは‥‥」
こんな場所にいたがる?
危険な場所に飛び込もうとする?
ここには、彼女が望むものなんて何一つないのに。
「もう、いいじゃねえか。」
こんな愚かな自分に付き合って傷つく必要なんかないじゃないか。
もう、
彼女が苦しむ必要なんかないじゃないか。
「もう‥‥」
彼女を、傷つけたくなんか‥‥ないのに――
――どうして?
そう問いたいのはも同じ事だった。
どうしてそこまで‥‥
彼は優しいのか。
どうしてそこまで‥‥
ただ、一人で背負いたがるのか。
罪を。
夢を。
ただの一人で背負うには重たすぎるものを。
何故一人で背負って。
一人で‥‥死にに行こうとするのか。
悔しくて、
悲しくて、
苦しくて、
の声は微かに震えた。
「こ、の‥‥」
泣きそうな声を漏らし、次の瞬間、
「分からず屋がぁあああ!!」
「な、なんですか今のはっ!?」
邸全体を震わせるような怒声に驚いたように島田が声を上げる。
地鳴りか!?それとも砲撃か!?
いや、あれは確か人の声だったような気がするが‥‥
そこかしこで「なんだなんだ」「今のはなんだ?」と隊士たちが顔を見合わせてざわついている中、大鳥はひとり、
「おや」と暢気に西洋の茶を飲みながら呟いた。
「彼女も相当鬱憤が堪っていたみたいだねぇ。」
思えば、彼女が怒鳴った所など誰も見たことが、なかった。

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