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―― 一度堰を切ったら、止まらない。それが流れというものだ。

 

「なんでここに来たのかだって?そんなのも分からないんですか!?

この鈍感っ!!」

 

土方がぽかんと、口を大きく開いてこちらを見ている。

 

一度溢れ出したものはまるで激流のように怒りとなって流れ出した。

でも、止められない。

もう止まらない。

ぶちまけてやらないと気が済まなかった。

 

「ここにはあなたがいる!だから私はここにいるんです!

それが理由です!あなたの傍にいたいからここにいるんです!それで理由は十分でしょうが!」

「‥‥な、なんだその理由は!」

呆気に取られていた土方も、なんとか我に返ると即座に反論を口にした。

「んな滅茶苦茶な理由聞き入れられるわけねえだろうが!

帰れっ!今すぐ帰れ!!」

「誰が帰るか!あなたの命令は聞かないって言ってんでしょ!」

べーっと舌を出すと、土方はひきっと口元を引きつらせた。

困惑しながら怒っている、そんな不思議な顔だ。そんな顔初めて見た。

「だ、駄目だ駄目だ!いいから帰れ!」

「帰りません!」

理詰めで事を責める男が、子供のようにただ喚いているのである。これは驚きだ。

それ以上に、彼がそうして感情を露わにしているのが驚きである。

土方は、ここに来てからほとんどの感情を失っていた。

怒ることも笑うこともなく、そこに在っただけ。

それが今は‥‥感情を露わに、どこか生き生きしてるようにも見える。

とはいえ、やっているのは子供の喧嘩と同じなのだが。

 

「なんでだよ!」

「土方さんこそなんで私を帰したがるんですか!」

なんでと訊ねる彼女に分かれよ、と土方は怒鳴った。

何も言われていないのに分かるはずがないとが返せば、ぎりりと奥歯を一度噛みしめて、更に熱くなって大声を張り

上げる。

 

「ここじゃおまえが幸せになれねえのが目に見えてるからだ!」

「なんで決めつけるんですか!!」

「決めつけもなにも、事実だろうが!」

 

彼は叫んだ。

どこか、苦しげにさえ聞こえた。

 

「ここにいたっておまえは幸せになれねえっ!」

 

ただ、苦しみ、死へと向かっていくだけだ――

 

その言葉には、悔しくて悔しくて、泣きそうになりながら、真っ向から怒鳴り返した。

 

「幸せになれる!」

 

びりっと空気を震わせる声に、土方は一瞬だけ気圧されたように息を飲んだ。

その瞳が本気で怒っている事が分かった。

美しいとさえ感じるその瞳にまるで煽られるかのように、頭に一気に血が上っていく。

 

「なれるわけねえだろうが!」

「なれるんです!」

「なんでだよ!?」

 

なんでもくそもあるかと、は拳をぎゅっと握りしめて、己が皮膚に爪を突き立てながら叫んだ。

腹の奥にぐるぐると渦巻いていたものが、衝動的に口から飛び出した。

ここで言うつもりはなかったのに。

 

 

「惚れた男の傍なら幸せになれるに決まってるじゃないですか!」

 

 

絶叫みたいな声を最後に、

突然しん‥‥と室内が静まりかえった。

 

はぁ、はぁ、と乱れた呼吸の音さえも、静かで、それよりも気になるのが己の鼓動の音だった。

どくん、どくんといやに大きく響いて、それはどんどんと早くなっていく。

 

「‥‥なん、だと‥‥?」

 

呆然と、土方が訊ねた。

今、なんと言った?彼女は何を叫んだというのだろう?

 

「‥‥」

 

はひゅ、と細い息を漏らして、一度大きく息を吸う。

口にしてしまってから、計画が狂ったとは内心で呻いた。

もっと筋道を立てて言うつもりだったのに。

大事な、大事な言葉だから。

でも、出てしまったものは仕方ない。

は一度瞳を閉じると、その瞳にしかと強い意志を浮かべて彼を見つめて告げた。

 

「私を幸せに出来るのは、もう、この世の中で一人しかいないんです。」

 

平穏な人生とか。

人並みの幸せとか。

 

自分の過去も、夢も、何もかも捨てて。

それでも、ここにいたいという理由がにはあった。

いや、

にとっての全ては、

もう、ただ、一つだった。

 

揺れる紫紺の瞳を、は真っ直ぐに見た。

愛しくて堪らない、その人を真っ直ぐに。

 

「あなたしか‥‥私を幸せに出来ないんです。」

 

土方歳三という男が、ここにいる。

 

それだけで十分なのだ。

 

彼の傍にいられたら。

彼と共に、これからも生きていられたら。

にとってこれ以上の幸福はないのだ。

 

「あなたが‥‥ここにいれば、それで、いいんです‥‥」

 

が心の底から願うのは、ただ一人の男の傍。

それがどれほどに苦しくても、辛くても。

彼の傍以外ではは幸せになれない。

否、生きてはいけないのだ。

 

「どう‥‥して‥‥」

 

知らず、土方の声は掠れた。

 

何故?

自分の傍に幸せがあるというのだろう。

この先に待ちかまえているものは、どう考えたって幸せな未来ではないと言うのに。

どうして、自分の傍にいれば幸せになれるんだろう?

 

「聞いてなかったの?」

 

いつもは聞いていなくてもいい事まで聞いてるくせに、どうしてこう大事な言葉は聞き逃してしまうんだろう。

本当に、困った男だ。

は微かに笑みを漏らした。

 

改めて言葉を口にするのは、怖かった。

この関係が壊れてしまうのを恐れた。

だけど、それ以上に、

は自分の気持ちを彼に知って欲しかった。

この、狂おしい程の想いを。

 

「あなたが。好きだからに決まってるじゃないですか。」

 

この世の何よりも愛しい人がここにいるから。

だから自分はここにいたいのだと。

彼女は、見た事もないような女らしい柔らかい表情で‥‥笑った。

 

 

『好き』

 

 

思考が、麻痺をした。

紡がれた言葉に、男の全てが一瞬にして、停止した。

まるでそれを拒むかのように、そして、

自分の心の奥底にしかと刻みつけるかのように。

他に考える事を止め、彼は彼女が発した言葉を口の中で紡いだ。

 

 

『好き』

 

 

彼女は確かに、そんな言葉を口にした。

 

誰が、

誰を?

 

回らない思考が次にはじき出した問いはそれだった。

 

「‥‥私が、あなたを‥‥好きなんです。」

 

困惑した表情のまま凍り付いてしまった彼に、はきちんと教えてあげるように音にする。

 

』は、

『自分』を、

『好き』だと言った。

 

「‥‥」

「好きなんです。」

 

は信じられないものでも見るような彼に、言葉を投げかけた。

 

「あなたの傍にいたいんです。」

 

心の底で、何かが小さく光った。

それは優しくてだけどとてつもなく激しい感情で、男をあっという間に飲み込もうとする。

身を任せれば流されてしまうだろう。

 

「っ」

 

必死で彼は抗った。

 

――嘘だ!

 

そんなはずがない。

彼女が自分の事なんかを好きになるだなんて。

だって自分には彼女に好いて貰える所なんて何一つないのだから。

 

――信じられなかった。

 

いや、

 

受け入れてはいけなかった。

 

「駄目だ。」

 

土方は恐れた。

視線を逸らして、駄目だと頭を振る。

 

「おまえは、おまえの幸せを見つけろ。」

ここじゃない別の所で。

「土方さん‥‥」

「駄目だ、ここにいることは許さねえ!」

帰れ、と土方は叫んでいた。

これ以上彼女の言葉を聞いてはいけない。

聞いてしまったら、

聞いてしまったら、自分は――

 

「帰れ!今すぐに帰れ!!」

 

癇癪でも起こすかのようにそのままくるりと背を向け、の気持ちごと見なかった振りをしようとする彼に、は苦しくて

哀しくて、双眸を細めた。

この気持ちを受け入れて貰えない事は百も承知だったけれど、この気持ちを見なかった事にされるのは堪らなく苦しか

った。

まるで、という人間の想いそのものを否定するかのようで。

噛みしめた歯の隙間から震えた吐息がこぼれ落ちそうになる。

それを必死に堪えて、はそれならば、と小さく呟いた。

相変わらず、彼女の動きは流れるように滑らかだった。

 

「っ!?」

 

は愛刀を引き抜いていた。

咄嗟に抜刀し掛かった男は、しかし、女の暴挙に目を見開く。

彼女は、切っ先を男に突きつけるのではなく己の首筋に押し当てていた。

その刃を無造作に自分の手で掴んで。喉の薄い皮膚に白刃を食い込ませて。

 

「‥‥それなら、私を殺して。」

 

彼女は言った。

自分を殺せと。

 

「馬鹿!何をっ!!」

土方は叫んで手を伸ばした。

すると、一層強く刃が肌に押し当てられ、いやだとが首を横に振った瞬間、刃が肌を裂いた。

白い肌に一筋の朱が走り、血が、溢れる。

赤を見た瞬間にぞくりと身体が震えた。

食い入るように紅を見つめているとあっという間に傷口は塞がってしまう。

彼女は鬼だ。傷はすぐに塞がる。

でも、首を落とせば彼女とて、死ぬ。

は本気だった。

本気で、自分の首を落とすつもりだ。

背筋を薄ら寒いものが走った。

怖い、と彼は思った。

 

「ここにいられないなら‥‥もう、私はどこにいたって幸せになれない。」

生きていても仕方がないのだと彼女は言う。

 

どうして――

 

生きてさえいれば、幸せは掴めるはずなのに?

 

「あなたがそこにいなければ‥‥意味がない。」

 

なんで――

 

自分なんかの為に‥‥

 

「だから、言ったじゃない。」

 

は琥珀の瞳を細めた。

 

「あなたが‥‥好きなんです。」

「‥‥っ」

「誰よりも、あなたが好きなんですっ」

 

この世の何よりも、土方という男が大切で愛おしい。

好きという言葉を何回並べても、この狂おしいほどの気持ちを伝えられそうにない。

は言葉を知らない自分をもどかしいと思った。

その想いは好きなどという簡単な言葉で伝わるほどのものではないというのに‥‥それでも彼に伝わって欲しいと願

った。

それしかにはなかったから。

彼を想う気持ちしかもう、がここに存在する理由はなかったから。

 

「わたし‥‥っ」

 

ひゅ、と喉が鳴った。

苦しくて、切なくて、熱いものがせり上がってくる。

喉の奥が、瞳の奥が、

熱くて、痛い。

 

「すき‥‥なのっ」

 

はもう一度だけ、自分が伝えられる言葉で、想いを告げた。

その言葉に、土方はただ驚いたように目を見張るだけだった。

答えは、ない。

 

それが――答え?

 

どれほどに、

傍にいたいと、

彼を好きだと叫んでも、

彼は、

自分を受け入れてはくれないのだろうか?

 

――だとしたら――

 

諦めにも似た何かがの瞳に宿った。

 

「あなたがいないなら‥‥私は、この世界にいる意味はありません。」

 

死んでいるのと、同じ。

世界がぐにゃりと歪んだ。

まるでそこから崩れていくかのように。

歪んで、

 

「殺して。」

 

そっと彼女は悲しげに笑った。

瞬間、

眦から一滴‥‥こぼれ落ちた。

 

涙、だった。

 

彼女が泣くのを見るのは、初めてだった。

その泣き顔は驚くほど綺麗で‥‥だけど、苦しくなるほど哀しそうで、胸が、痛い。

 

泣かせた。

 

泣かせてしまった。

 

その人は――誰よりも幸せにしたい人なのに?

 

「っ‥‥」

 

ふっと刃が首から離れ、次の瞬間、勢いをつけて白刃が横薙ぎに疾走る。

鋼はいとも簡単に、女の細い首を落とすのだ。

 

 

――キィンン

 

 

甲高い音が室内に響いた。

そして続いて、がちゃんという乱暴な音と共に刀が転がる。

転がったのは‥‥久遠だった。

電光石火の如く抜き放たれた国廣が、その刃をはじき飛ばしたのだ。

刃は浅く女の皮膚を裂いただけで留まる。

傷は、浅かった。恐らくすぐに消える。

 

だけど、分からないことがあった。

 

‥‥なぜ‥‥

自分は‥‥

 

彼の、腕の中にいるのだろうか――