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「走れっ!!」
土方は、味方に向かって声を上げた。
怒号と悲鳴が聞こえる。
複数の足音と、剣戟。
あるいは、銃撃の音。
追い立てられながら、土方は叫んだ。
――走れと。
今朝、また新たに船が漂着した。
それには乗船者がいたが‥‥その全てが既に事切れていた。
荒波に飲まれたか、あるいは、凍死したか‥‥
どちらか分からないが、乗船者の全員がただの町人ではないのは分かった。
武装した彼らは、全て、土方が予想していたとおり新政府軍の兵士だったのである。
つまりは今まで何隻か漂着している船にも彼らと同じように乗っていた人間が存在し、そして同時にその人間はおそ
らく新政府軍の密偵なのだと分かった。
すぐに炙り出すぞと行動に移したのは良かった。
ただまさか弁天台場へと至る道の途中、彼が探していた鼠とばったり出会ってしまったのは運がいいというのか悪いと
いうのか。
出会い頭に敵に発砲され、乱戦となった。
見回りのためこちらもそれほど人を連れてきていたわけでも武器を持っていたわけでもない。
当然苦戦を強いられた。
相手の数はこちらを上回っており、おまけに最新式の飛び道具を持っている。
懐に飛び込もうにも、鉄砲に阻まれる。
それに今は昼だ。
羅刹としての力も出しにくい。
本格的な戦いを前に戦力を減らすわけにもいかないと土方は一時撤退の策を取ったのだが、相手は全く退こうとしない。
執拗に追いかけられ、土方は舌打ちをした。
「林に入れ!!」
雪を蹴立てて走りながら土方は叫ぶ。
見通しのいい街道では敵の銃も当たりやすい。
生い茂る木々の間を抜ければ、命中率も下がるというものだ。
「散れ!
ばらばらに走れ!」
ひとかたまりで走れば目立つ、上に、狙われやすい。
叫び声に一同が散り散りになった。
男も木々の間に飛び込んだ。
上空の枝葉にこんもりと雪が積もっている。
枝葉のお陰で地面にはさほど雪が積もっておらず、走りやすかった。
その代わり、無作為に並ぶ木々が行く手の邪魔をする。
土方は舌打ちを零しながら走りにくい林の間をくぐり抜けた。
ぱん、ぱん、
と時折背後から銃声が上がる。
そして、あちこちの木々の幹を抉った。
後ろでどさりという音がきこえて雪が落ちる。
ぱん、
と立て続けに聞こえた銃声の一つが、
がり、
と男の横手にあった幹を抉り、木肌を露出させた。
「‥‥林の中に入っても、それほど命中率はさがらねえってか‥‥」
嫌になるくらいに性能のいい武器だ。
それから、
嫌になるくらいに腕の立つ敵。
ざっと雪を散らして男はくるりと振り返った。
逃げるのを止めた。
恐らく彼らはどこまでも追いかけてくるのだろう。
いずれ疲れた所を狙撃されるというのならば、こちらから打って出る方がマシだ。
新選組で『後ろ傷』は『切腹』なのである。
男はにやりと口元に獰猛な笑みを浮かべると、抜刀しながら地を蹴った。
「なっ!?」
銃口を向けていた敵兵は、唐突に向かってきた彼に驚きの声を漏らした。
その隙を狙い、彼は抜き身の刀で一閃させる。
「ぐぁ!?」
先頭にいた一人を斬り伏せ、返す刀でもう一人を討ち取る。
血が空に巻き上がった。
「く、くそっ!」
焦りの声を漏らしながら、敵は銃を構えたが、すぐに斬り殺された。
林の間を刃の切っ先が突き抜け、喉を突き刺したのだ。
狭い場所での戦闘は、京で嫌と言うほど経験してきた。
木々が男の行く手を遮ろうが苦労はしなかった。
一人一人、と男は屠っていく。
しかし、
「っち!」
相手は複数。
こちらは一人。
ぱん、と破裂音が響き、横面を熱い風が掠める。
咄嗟に避けていなければ額に風穴が空いただろう。
木々の向こうにまだぞろぞろと駆けてくる敵兵の姿があった。
土方は唇を噛み、くるりと踵を返して再び走った。
「いたぞ!」
「こっちだ!!」
声が左右から聞こえる。
まずったか‥‥
男は顔を顰めた。
数を減らせば少しは逃げやすくなると思ったのだが‥‥その分時間が掛かって追っ手との距離が縮んでしまったらしい。
おまけにこちらは戦闘のお陰で体力を消耗している。
そして何より、今が昼で、
彼が羅刹であるということが何よりの問題だ。
「くっ!」
じりと肌を焼け付くほどの痛みが身体に広がる。
光は遮っているというのに、身体には見えないそれが降り注いで体力を徐々に奪っていくようだ。
くそ。
男の足は先ほどとは打ってかわって鈍ってしまっている。
「くそがっ!!」
どくどくと心臓が嫌な音を立てた。
喉の奥がからからに乾いた。
目の前が一瞬揺れた。
その歪んだ世界がゆら、と白が揺れる。
雪だ。
「っ!?」
どさ、と固まりが男の前方に降り注ぎ、行く手を阻む。
その瞬間、男は立ち止まり、
「逃がすかっ!!」
横合いから敵兵が飛び出してくる。
敵は五人ほどいたが、幸いにも男が手にしていたのは刀だった。
『それ』ならば勝てる。
土方は柄をぎりと握り直すと、身体を捻りながら刃を一閃させ、
――ず る――
その時、足下が崩れた。
ついた場所が悪かった。
凍った土の上に新雪が降り積もっていたのだ。
その上は滑るのである。
「しまっ‥‥」
土方がしまったと思ったと同時に、敵は勝利を確信した。
勝負というものは、一瞬にして決するのである。
そして、人の人生というものも、
一瞬で終わるのである。
ああ、と土方は嘆息した。
いかな羅刹といえども‥‥その一撃をかわす術は持っていなかった。
男の一撃は恐らく、首を刎ねる。
そしたら自分は、死ぬ事になるのだ。
自分が今ここで果てたら誰が新選組を率いていくというのだろう?
土方はぼんやりとそんな事を思った。
そう思った瞬間、自分がらしくもない失態を犯した事に気付いた。
いつもの彼ならば、一人で戦ったりなどしなかった。
あのまま走り抜けていた。
走り抜けて逃げて、生き延びていた。
だって、それが自分に必要な事だから。
彼らしくもない‥‥失態だった。
冷静さを失っていた。
いや、今だけではない。
多分‥‥ずっと前から失っていた。
そう、
あの日、
彼女を失ったあの日から。
「死ねぇえ!!」
――こんなときに――
自分で遠ざけておきながら、なんて都合がいい事を考えるのだろうと男は思った。
こんなときに‥‥
いつだって、
その人は自分の傍にいてくれた。
彼が危険な時はどこからともなく現れて敵を蹴散らし、彼を守った。
呼ばなくても、
声にしなくても、
その人は彼の声に応えてくれた。
――アイツがいたら――
『あなたの傍には誰がいると思ってるんですか?』
そう言って、彼女は笑っただろうか。
『私がいるんです。
だから、あなたは何も心配しないで。』
前だけを見て、
『あなたにしか出来ない事をしてください。』
そう言って自分を助けてくれた彼女は‥‥
そう言って自分を支えてくれた彼女は‥‥
もう、
そばにいないのに。
どうして、
どうして、彼女を思い出すのだろうか。
どうして、
どうして、
ここにいたらと願ってしまうのだろうか?
ひゅ。
と、風が唸る音が聞こえた。
この瞬間、彼は心の底から願った。
彼らの行く末を共に見たいでも、死にたくない、でもなく。
――あの人に会いたい――と
そんな資格が無いことは百も承知だったけれど、彼は心の底から願ってしまった。
――決して叶わない事を。

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