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「‥‥交野君、最近来なくなってしまったね。」
大鳥の言葉に土方は双眸を微かに開く。
振り返れば彼は少し遅れた所を歩きながら、独り言でも呟くように言った。
「交野君‥‥来なくなってしまったね。」
彼の言うとおり、佐絵はぱったりと姿を見せなくなった。
あれから。
佐絵に二度とここに来るなと冷たく拒絶してから。
彼女は、彼らの所に来なくなってしまった。
今まで毎日のように診療と称してやってきては、隊士の面倒をあれこれ見てくれていたというのに。
まあ、大きな戦もなく、医者は必要ないのだから彼女が来る必要はないのだけど‥‥それでも突然ぱたりと無くなっ
てしまうと気になるというもので、
「どうかしたのかなぁ?」
一人ごちる彼を見て、土方はちっと一つ舌打ちを打つ。
どうやら、この男には二人の間に何かがあったのだということを見透かされているらしい。
のほほんとして、何も考えていないと思いきや案外目聡い男だ。
「ねえ、土方君。
君何か知らない?」
彼女が来なくなった理由、と聞かれ、土方はふいっとそっぽを向いた。
「さあな。」
おそらくは、自分のせいだ。
受け入れるふりをして、突き放した。
最低な男もいたものだと彼は自分を嘲笑った。
「ふぅん‥‥」
大鳥は意味ありげに呟くけれど、土方は気にせず無言ですたすたと通りを進んだ。
時折ひゅっと冷たい風が吹き、新雪を巻き上げる。
こんなくそ寒い日に外に出掛けるなんて面倒な事だと内心で呟くと、ふいに大鳥に「土方君」と声を掛けられた。
「なんだ?」
「最近‥‥前にも増して具合が悪そうだけど‥‥」
無理はしていないかな?
という問いかけに、土方はくつりと喉を震わせて笑った。
やっぱり、お節介が彼の周りには多い。
「心配しなくても、戦が始まるまで死んだりしねえよ。」
大丈夫だと言いたいのだろうその言葉に大鳥は眉根を寄せる。
なんだか随分な言い草だ。
「‥‥僕は本当に心配しているんだ。
はぐらかさないでくれ。」
顔色が悪い‥‥だけではない。
ここ最近、土方の様子がおかしいのだ。
がむしゃらに仕事をし始めたかと思うと、ふいにぼんやりと物思いに耽ってしまう事がある。
心ここにあらずといった風に遠いところを見て、やがて我に返ったかと思うと、自分を追い立てるかのように仕事に
明け暮れた。
そんな日が毎日続いた。
ぼんやりとする間隔は増えた。
その分、彼が無理をする事も増えた。
そのせいなのか、ここ最近は部屋にも籠もりっぱなしでろくに出ても来ない。
食事を持っていっても少し手をつけて、ほとんど残している。
島田があれでは倒れてしまいますと言っていた。
だからといって彼には土方の悩みを聞き出すことは出来ない。
「何か悩み事でもあるのかい?」
大鳥の問いかけに、土方は緩く頭を振った。
「悩みなんてねえよ。」
簡素な返事には明らかな拒絶の色が滲んでいる。
島田同様に、大鳥も彼の悩みというのを聞き出すことは出来ないようだ。
もうここに、彼が心を許せる相手というのはもういないのかもしれない。
「‥‥土方君‥‥」
「そろそろ戻ろうぜ。
こうも寒くちゃ凍えちまいそうだ。」
ぴたりと二人の間に壁を築きながら、土方は苦笑で告げる。
大鳥はそうだね、と溜息交じりに呟き、視線を落とした。
彼はこの先ずっと‥‥一人で苦しみ続けるのかと思うと、もどかしい気持ちでいっぱいだった。
随分と土方に対してお節介になったものだ‥‥と思う。
彼とは別に昔からの友人でもない。
だけど、なんだか気になって仕方がないのだ。
土方という男は‥‥
なんだか、
儚げに見えるから。
「‥‥あ‥‥」
唐突に、土方の足が止まった。
小さな戸惑い交じりの声が聞こえ、大鳥は落としていた視線を上げる。
少し前に大きな背中があった。
男は微動だにせず、通りの向こうをじっと見つめていた。
なんだろう?
その先を追いかけると、柔らかな色が通り過ぎるのが見えた。
ふわりと、
視界を過ぎったのは柔らかなその色。
甘い、
飴の色。
「‥‥」
土方はその色を、じっと見送った。
紫紺を苦しそうに、
切なそうに細めて。
「‥‥土方君。」
大鳥の呼びかけに我に返るまで、ずっと。
「悪い、用事を思い出した。」
土方は言って肩を強ばらせたまますたすたと歩き出した。
――ふわ、
と柔らかな飴色が再び風に揺れる。
土方と同じように大鳥はその色をじっと見つめた。
「‥‥君は‥‥あの色に何を求めているんだい?」
彼は柔らかなその色に、何を見て、何を思うのだろう?
あんな、苦しそうな顔で。
切なそうな顔で。
何を――思うのだろう?
「大鳥さん。」
不意に背後から声が掛かった。
緩く頭を振って疑問を追い出しながら振り返れば、そこには島田の姿があった。
大柄な男はぺこりと頭を下げて近付いてくる。
「‥‥ああ、島田君。お疲れさま。
僕に何か用かな?」
「はい。
先ほど、飛脚が到着しました。」
海が荒れていたせいで少し遅れていたんですが、と彼は言いながら一通の手紙を差し出した。
大きな手に握られていたそれは、
「‥‥差出人の名前はないね。」
差出人の名前が書かれていなかった。
大鳥宛に、である。
「なんだろう?」
差出人のない手紙‥‥なんて不審極まりない。
しかし開けてみない事には何が書かれているのかは分からない。
大鳥は静かに一つ吐息を漏らすと、とにかく手紙を開いてみた。
「これは‥‥」
驚きで見開かれる大鳥の瞳の中で、
細い文字が揺れた。
差出人の名は結局書かれていなかった――
灰色の空が広がっていた。
きんと冷たい空気が世界を満たしていた。
は、と吐息を漏らすと白いそれが溢れて、霧散する。
今日はいちだんと寒い。
「‥‥降るかも知れないなぁ。」
山口は空を見上げてそんなことを呟く。
これだけ寒いのだ。
今日は、降るかも知れない。
「‥‥雪は‥‥あまり好きではないのだけどなぁ。」
男は東北育ちでありながら、あまり、冬が得意ではなかった。
寒くなると、途端に病人が増えるからだ。
雪が降ると、更に怪我人も増える。
そして手当も遅れる。
死人が出る。
だから、彼はあまり雪が好きではない。
――雪は、嫌いじゃありません――
そんな男に、彼女はそう言った。
とても冷たくて、寂しい世界だと言うのに、彼女は嫌いではないと言った。
――私の世界は真っ白くて寒い世界から始まったんです――
嬉しそうに目を綻ばせて、彼女は言った。
とても綺麗な世界から始まったのだと。
汚れを知らない真っ白な世界から始まったのだと。
――そして、彼らに出会った――
とても暖かい人たちに出会ったのだと。
凍えてしまった心を溶かしてくれるほど暖かい人たちに出会ったのだと。
嬉しそうに彼女は語ってくれた。
だから、雪は嫌いではないと。
ならば好きか?
と問うたら彼女はふっと笑った。
――好きじゃありません――
嫌いではないけれど、好きでもないと彼女は言う。
山口が訝ると、だって、とその人は続けた。
――あの人が‥‥春が好きだから――
雪が溶けたその後の、暖かくて優しい春が好きだから。
だから自分は雪が好きなんて意地悪な事は言えないのだと、言った。
「‥‥」
その人はもう、
ここにはいない――
もう、いない。
――もう、永久にこの手の届かない場所に――行ってしまったから。

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