一瞬、

何を言われたのか分からなかった。

寝ぼけていただろうか?

それとも、

聞き間違えただろうか?

 

彼女は今、なんと言った?

 

男の耳がおかしいのではなければ、こう言った気がする。

 

『わたしを抱いてください』

 

それはどういう意味かと土方は思った。

 

「‥‥」

 

驚いたように目を見開いたまま彼は自分を見つめている。

恐らく、自分の言った言葉を理解してもらえていないのだろう。

そう察した佐絵は手っ取り早く彼に伝えるべく、しゅると帯を解いた。

佐絵は男勝りな性格の持ち主ではあるが、色事に関しては奥手な方である。

勿論生娘であり、男の前でそんな風に着衣を乱すなどという事をしたことはない。

すごく恥ずかしいと思った。

恥ずかしくて堪らないと‥‥

 

「ちょっと待て!!」

 

そんな彼女が身に纏っていた着物を落とし、襦袢にも手を掛けて今まさに生まれたままの姿になろうとしている。

慌てて土方は彼女を遮った。

その手を取って、暴挙を止める。

 

「‥‥男の前で着物を脱ぐって事がどういうことか分からねえほどガキでもねえだろう‥‥」

 

苦虫を噛みつぶしたような顔になり、土方は彼女の軽率さを咎める。

佐絵の肩が微かに震え、手が止まった。

思いとどまってくれたか。

ふ、と土方は溜息をつき、険しい顔で続けた。

 

「抱いてほしけりゃ、てめえの惚れた男の所に行け。」

 

自分なんぞにそんな易々と許してはいけない。

自分みたいなちっぽけな男に。

 

そう告げれば、佐絵の肩がもう一度震えた。

きゅっと袷の胸元を掴んでいた手が、きつく、握りしめられる。

 

「だから、ここに来たんです。」

「‥‥なに?」

 

小さな呟きが聞こえなかった。

なんだ?と問い返せば、佐絵は唇を噛みしめ、その手を振り払って、

 

「おい!」

 

ぐいっと袷を大きく開こうとした。

白く、浮き出た鎖骨が男の眼下に晒される。

やめろとその手首を掴んで阻んだ。

佐絵の、羞恥で赤く染まった肌が色っぽく晒された。

だが、

 

「‥‥俺は、あんたを抱く気にはならねえ。」

 

女がこうして肌を許してくれようとしているというのになんて酷い言葉を浴びせるものかと自分でも思った。

 

しかし、彼はとてもそんな気分にはなれなかった。

例えば彼女が自分を好いて、自分に全てを許してくれているのだとしても。

それでも土方は彼女を抱く気にはなれなかった。

蝦夷に渡ってから、久しく女を抱いていないと言うのに。

だというのにまるで色事に興味が失せてしまったのか、それとも自分は男としておかしくなってしまったのか。

女を抱きたいとは微塵も思わなかった。

 

「悪いな‥‥」

 

土方はそっと溜息交じりに告げて、落ちた着物をその肩に掛けてやった。

 

佐絵は唇を噛みきるくらいに噛みしめて、

 

「そんなに‥‥忘れられないんですか?」

 

彼女は震える声で訊ねた。

 

「‥‥何がだ?」

怪訝な面持ちで訊ね返せば、佐絵はゆっくりとその面を上げる。

苦しげに歪んだ瞳には、微かな熱を灯していた。

いつもの勝ち気なそれは存在せず、女特有の甘さに驚いた。

 

「そんなに‥‥その人が大切なんですか?」

 

その人‥‥大切?

 

訊ねながら男は喉の奥が乾いていくのが分かった。

 

待て、

その先を口にするな。

 

佐絵はしっかりと男の瞳が動揺で揺れるのを見ながら、言った。

 

「そんなに‥‥という人が大切なんですか?」

 

――

 

その名前を耳にした瞬間、男の中で怒りが弾けたのが分かった。

それは果たして自分に対してか、

それとも、

軽々しく口にした彼女に対してか。

それは分からない。

ただ、狂ってしまいそうなほどの激情に目の前が真っ赤に染まった。

そして、

 

「言うなっ!!」

 

男の唇から激しい怒声が上がった。

とてつもなく怖い声に、佐絵はびくんっと身を竦ませる。

彼の身体から触れれば切り裂かれてしまうほどの張りつめたものを感じた。

武人ではない彼女にもそれが殺気だというのが分かった。

彼は、怒っていた。

とても‥‥

 

「その名前を口にするな‥‥」

 

怒りのあまり身体を震わせ、彼は呻くように言う。

 

その瞬間、佐絵は分かった。

』という人が、彼にとってどれほど特別な存在なのかというのを。

軽々しく口にしてはいけないほど‥‥大切な人なのだと言うことを。

だけど、

その人はもう傍にはいない。

そして彼は、

その人を想うが故に苦しんでいる。

 

黙ってなどいられなかった。

 

さんは‥‥とても大切な人なんですね‥‥」

 

奥歯を噛みしめ負けじと口を開く。

また、土方の顔が歪んだ。

苦しげに、そして、すぐに怒りに。

 

「黙れって言ってんだろ‥‥」

 

ぎゅっと男は拳を握りしめる。

そのまま殴り殺されてしまいそうだと思った。

 

「ぶち殺されてえのか‥‥」

殺すと言うその瞳には明らかな殺意を滲ませている。

でも、それ以上に男の瞳の奥には傷ついた色。

そんな瞳‥‥見たくないと佐絵は思った。

 

「わたしじゃ、駄目ですか?」

 

女は焦げ茶の瞳をそっと細め、男を見つめる。

 

「わたしじゃ‥‥その人の代わりには‥‥」

 

佐絵は思った。

彼がもし、という人を失って悲しんでいるとしたら‥‥自分が彼を癒してあげたいと。

彼女の代わりでもいい。

それでも構わないから、彼を癒して、満たしてあげたいと。

 

何故ならば、

佐絵は、

土方という男を愛してしまったから。

 

初めて出会ったときからずっと、

佐絵は彼の事が好きだった。

 

「‥‥わたし‥‥」

 

真っ直ぐに見つめてくる瞳から痛いくらいに真剣な想いが伝わってくる。

好きだと。

愛しているのだと。

 

「‥‥」

 

こんな、愚かな自分を。

 

「わたし‥‥」

 

佐絵はそっと、指先を伸ばした。

冷えた指先が頬に触れ、男は一瞬肩を震わせる。

佐絵は引かなかった。

そのまま掌で包み込んで、そっと、一歩を踏みだした。

 

やめろ――

 

土方は苦しげに唇を開いた。

 

瞬間、

 

「っ!?」

 

ぞくりと男の身体を震えが走った。

それは衝動だった。

先ほど抑えたと思っていた、衝動。

 

薄い皮膚の下を流れる深紅の気配に‥‥化け物の血が騒いだ。

 

――欲しい。

 

とそれは言った。

 

先ほどよりも確かに強く、欲しいのだと。

 

今すぐにでも欲しいのだと。

 

貪って、奪い尽くしたいのだと。

 

「‥‥お‥‥れは‥‥」

 

くらりと、目眩に似たそれに襲われる。

 

――欲せ。

――求めろ。

 

それは罪ではない。

それは正しいことだ。

――求めろ。

――求めろ。

 

自分の中でそれが叫び続けた。

 

その声にまるで‥‥誘われるかのように‥‥男は細い肩口に顔を近づけた。

 

「‥‥」

 

佐絵はまるで受け入れるかのように目を閉じる。

どくんと、うるさいくらいに鼓動が高鳴ってくるのが分かった。

 

「土方さん‥‥」

 

戸惑いをまだ残した、甘えた声が耳のすぐ傍で聞こえる。

ぱさりと軽い音を立てて彼女の肩口を着物が滑り落ち、その髪を柔らかく揺らした。

 

似た飴色が、男の目の前で揺れた。

 

楽になれるかもしれない‥‥

 

男は、

そんなことを思った。

 

同じものを持つその人を受け入れてしまえば、

この苦しみから解放されるかも知れない。

乾いた心は満たされるのかもしれない。

 

受け入れてしまえば、

楽に――

 

その時だった。

 

 

――ふわ り――

 

 

と鼻腔を擽る甘い香りがした。

それは女の香りだった。

甘い、甘い、香り。

 

だが、その瞬間、

 

 

ちがう――

 

 

「っ!」

 

心の中で男は叫び声を上げていた。

 

違うと。

これではないと。

自分が求めるのはそんなものではないと。

 

声を上げたのと同時だった。

 

「っきゃ!?」

 

ぐいと乱暴に引きはがしたかと思うと、土方は着物を拾い上げてぐいと女に突きだした。

 

「‥‥土方‥‥さん?」

 

男は唇を噛みしめて地面を睨み付けていた。

まるで、何かを堪えるかのように。

 

「‥‥出ていってくれ。」

 

噛みしめた唇から呻くような声が漏れる。

 

「土方さ‥‥」

「二度と、俺の所には来るな。」

 

きっぱりと、彼は言った。

 

それは、

紛れもない拒絶だった。

 

佐絵は一瞬、愕然とした表情を浮かべたかと思うと、すぐに泣き出す寸前のそれになり、

 

「‥‥わたしじゃ‥‥駄目、なんですか?」

 

震える声で言葉を紡いだ。

 

わたしじゃ、

駄目なんですか?

わたしでは、

彼女の代わりにはなれないのかと。

 

確かにその人は彼女と同じ飴色を持っている。

彼女と同じ強さを持っている。

彼女と同じ、優しさも。

 

でも、

佐絵は『彼女』ではないのだ。

 

『彼女』はこの世に一人しかいないのだ。

誰も代わりになることなど出来ない。

 

――

 

土方は目を瞑った。

そうじゃない。

彼女を代わりにしたいわけではない。

そうじゃない。

自分は、

 

「俺は‥‥誰も必要としてねえ。」

 

いらない。

誰も、何も、いらない。

 

 

そんな嘘‥‥誰が信じるというのだろう?