4
――あの飴色は――多分この世に二つとない――
土方は、そう、思っている。
あんなに綺麗な飴色は‥‥この世に二つとない。
そして、二度と、あの色に出会うことはないのだと――
どさりと自室の長椅子に身体を放り投げる。
横になった瞬間、疲れがどっと押し寄せた。
ここ数日、徹夜で仕事をしていたから‥‥
ごろんと横になり、光を遮るように目元を腕で覆いながら溜息を零す。
そのまま一眠りしてしまいたかったが、そういうわけにはいかない。
問題が一つ、浮上したのだ。
「侵入者‥‥か‥‥」
先ほど、大鳥との会話で出てきたその『侵入者』という言葉を忌々しげに呟いた。
蝦夷にやってきて、二月が経った。
松前を落とし、館城を攻略し、蝦夷地を平定するに至ったのは11月の終わりだった。
それから、箱舘政権を樹立し、蝦夷共和国を設立する。
とりあえずの地盤は固められたものの‥‥決して今の状況がいいわけでもなかった。
相変わらず、新政府軍は幕府軍を殲滅させるべく動いているようだ。
冬の荒れた天候のお陰か、今の所軍艦で乗り込んでくるという目立った動きはない。
だが、ここ数日‥‥持ち主の分からない船がいくつか漂着しているのが発見された。
それはまるで人目を避けるかのようにひっそりと乗り捨てられており、もしかしたらそれは新政府軍の奴らが密かに
この地へと踏み込んできたのではないかと土方は思った。
勿論、荒れる海をあんな小さな船で無事に渡りきるのは至難の業だ。
しかし、もし万が一、運良く新政府の人間がたどり着いていたとしたら‥‥
大鳥は険しい顔で「用心をするに越したことはないだろうね」と告げた。
土方も勿論同じ考えだ。
明日からは少し海への警戒を増やしてみようと思う。
もし、漂着した舟が新政府軍のものであったのならば確実にまずいことになる。
内部からじわじわと蝕まれれば、本格的な戦になる前に瓦解する恐れがあった。
「必ず‥‥見つけださねえと‥‥」
そうは言っても、蝦夷は広い。
とにかく、広い。
侵入者はどこぞに身を顰めているのだろうが、それを探し出すのは骨が折れそうだ。
「‥‥」
は、ともう一度溜息を零した。
眉間にはいつもよりも深い皺が刻まれている。
難しい顔をしてはいるけれど、男の中ではもう既にこれからすべき事は目に見えていた。
まずは明日、
その漂着地に行って‥‥
ふいに、
「っ」
ざわりと背中を寒気が走った。
ざわざわと血が騒いで‥‥全身を暴れ回るかのような。
それは久しぶりの感触で、
「!」
土方は目を見開くと強く拳を握りしめ、その衝動に耐えた。
口の中がひどく乾く。
ほしい‥‥
と身の内に巣くう『それ』がか細く啼いた気がした。
羅刹の‥‥声‥‥
山南が教えてくれた通り、この北の地の水は変若水の効果を薄めるのに効力があったようで‥‥
やってきた当初こそは時折発作に見舞われたが、最近では少し身体が疼く程度で収まっている。
血が欲しいという衝動は‥‥ない。
今の所は、だ。
「‥‥とはいえ、まだまだ完璧じゃねえってか‥‥」
羅刹になろうと思えばなれる。
ただ、血を求める狂気が薄れているだけだ。
自分はまだ‥‥化け物。
まがい物の、化け物。
「‥‥」
力を使い続ければいつか、死ぬ。
いや、多分、遠くない内に、死ぬ。
戦になれば‥‥
今はまだ新政府軍も蝦夷まで攻撃を仕掛けてきてはいない。
でもいつか、
いつか、絶対に来る。
男は確信していた。
その時に――自分は‥‥死ぬと。
「‥‥」
いつの間にか衝動とも呼べぬそれは収まっていた。
ふ、と溜息を漏らした瞬間、つうとこめかみを汗が伝って落ちていく。
土方はぼんやりと天井を見上げていた。
「なん‥‥だろうな‥‥」
死ぬことは怖くない。
戦って死ぬことを、彼は望んでいた。
刀を持ったその日から、戦って死ぬことを望んでいた。
だというのに何故だろう。
最近、それがひどく空しい事に感じてしまうのだ。
戦って死ぬことこそ武士の誇りだと思っていたのに‥‥
「なんだろう‥‥な‥‥」
土方はぽつんと呟いた。
何か、
自分の中でぽっかりと穴が空いてしまって、空疎な感じがした。
ひどく‥‥虚しかった。
『トシ』
とその人が名を呼んだ。
聞き慣れた、酷く懐かしい声に、土方ははっと振り返る。
足下さえ不確かな世界に彼は立っていた。
様々な色を混ぜ合わせた景色はぐにゃりとあちこち歪み、その真ん中に男が立っていた。
夢だ――とすぐに分かった。
「近藤さん。」
その人がそこに立っていたから。
にこりと笑みを浮かべて、彼は手招きをしていた。
彼だけではなかった。
『何してるんですか、土方さん。』
隣には沖田が苦笑で立っている。
そして、その隣には斎藤が。
原田が、藤堂が、永倉が、山南が。
井上が、山崎が、島田が。
彼らは揃って穏やかな笑顔でこちらを見ていた。
懐かしい顔ぶれに、土方は目元を眇めて笑った。
「なんだ、みんな揃ってどうしたんだ?」
そう問いかけると、近藤がいやな、と子供みたいに無邪気に笑う。
『雪が降りそうなんだ。
初雪だから皆で一緒に見ないかと思ってだな‥‥』
雪なんぞ珍しくもない。
今彼がいる蝦夷では、嫌と言うほど雪は降る。
だけどそうだな、
彼らと一緒に見るというのならば悪くはない。
どれ、と彼らの隣に立って空を見た。
灰色の空からふわり、と白い綿のようなものが降ってくる。
最初の、一粒だ。
『綺麗ですね。』
と隣に立った誰かが言った。
見れば千鶴だった。
彼女は空を見つめたまま、綺麗だと言った。
「そう‥‥かもしれないな。」
はらはらと舞い落ちてくる雪の粒は段々と大きくなり、
やがて庭を白く染め上げていく。
これは積もるかも知れない。
「ただでさえ寒いんだから勘弁して欲しいぜ。」
くつと苦笑交じりに呟く彼に、千鶴が問いかけた。
『雪は、嫌いですか?』
そうだな。
どちらかというと、彼は冬よりも春が好きだった。
だから、あまり‥‥好きではないかもしれない。
――雪は、嫌いじゃありません――
そう答えようとする男の耳に、ふいに声が聞こえた
雪は嫌いじゃないと、言った、その声が。
理由を問えばその人はこう答えた。
――私の世界の始まりは、雪の日だったから――
一面の銀世界。
まるで汚れを知らないその世界から、
その人は始まった。
寒くて、凍えそうなあの日。
とても暖かなものを貰ったのだと。
あの人は‥‥懐かしそうに言った。
「‥‥あ‥‥」
言葉を思い出しその時になって、気付いた。
ここには彼の仲間が、
大事な人たちがいるのに。
なのに、
あの人の姿がない。
あの人の姿だけが、ここにない。
誰よりも大事だと思う、あの人が。
「‥‥なあ、あいつは?」
土方は問いかけた。
あいつ?と皆が首を傾げた。
誰もが分からないと言う顔をした。
何故?
どうして?
「あいつがここにいないとおかしいだろ!」
『どうしてだ、トシ。
ここには皆がいるじゃないか。』
「違う!ここにはあいつがいねえ!!」
ここにいるはずのもう一人が。
自分の隣にいるはずの、その人が。
「探しに‥‥いかねえと‥‥」
まるでそれが当たり前のように振り返った男の耳に、
『どうして?』
と、咎めるような声が聞こえた。
――瞬間――
「っ!?」
世界が一瞬にして真っ暗になった。
彼の周りから一切の景色が消えた。
近藤も、
沖田も斎藤も藤堂も、
原田も永倉も山南も、
井上も山崎も島田も、
そして、
千鶴も、
消えた。
闇の中にぽつんと土方は置き去りにされた。
『どうして、あいつを捜す必要がある?』
闇一色の世界で、色んな人の声が混じって、聞こえる。
彼らは一様にその人を捜す必要はないと言った。
いや、違う、捜す必要ならある。
だって、
あの人は、
ここに、いるべき人で‥‥
『おまえが‥‥捨てたくせに?』
「っ!?」
土方はぎくりと肩を強ばらせた。
驚きに目を見開く男を、咎めるように別の声が上がった。
『あいつの手を振り払ったのに‥‥』
『一人置き去りにしたくせに‥‥』
『突き放して傷つけたくせに‥‥』
違う。
そうじゃない。
土方は苦しげに顔を顰めて頭を振った。
傷つけたくなかったから。
だから、
残した。
「俺は生きて欲しかったから‥‥」
『生きて欲しかったから、捨てた?』
「捨てたんじゃねえ。
生きる道を選ばせた。」
『生きる道?本当に?』
「そうだ‥‥生きる道を選ばせた。」
『いや違う。あなたが選んだ道はあの子を生かす道なんかじゃない。』
「俺はっ」
『おまえは‥‥』
強い声が男の言葉を遮った。
恐ろしく静かな空間に、誰のものか分からない声が、響いた。
『あいつを、殺したんだ――』
――やめてくれ!――
土方は叫び声を上げた気がした。
もうやめろ、やめてくれと。
そう叫んだ気がした。
気がつくと声は消えてなくなっていた。
もう、何も聞こえない。
世界はただただ暗闇に閉ざされているだけで、土方はその中に一人、ぽつんと佇んでいた。
仲間の姿は‥‥どこにもなかった。
なんだか、
一人取り残されてしまったような気がした。
取り残された。
そうなのかもしれない。
皆に置いていかれたのだ。
ただ‥‥一人。
「‥‥俺ぁ‥‥本当に一人になっちまったな。」
はっと自嘲じみた笑みを浮かべる。
ずっと傍にいてくれた人たちは、もう、どこにもいない。
皆、いなくなってしまった。
俺は‥‥もう‥‥
『ひとりじゃ、ないですよ。』
声が、
した。
闇の世界で、声が響いた。
はっと瞳を開くと、光が自分に向けて差しているのが分かった。
上を見上げるときらきらと輝く空が、ある。
優しく、自分を包み込む光だ。
ああそうだ。
男は思った。
自分をいつだって闇から引きずり出してくれたのは‥‥
あの、輝く光だった。
きらきらと美しく輝く、ただ一つの、光だった。
「‥‥」
ぼんやりと歪んだ視界に飛び込んできたのは柔らかい飴色。
現の世界へと戻ってきた瞬間、眩しさに双眸を細めて彼は唇を開いた。
名を、呼んだ。
瞬間、
「土方‥‥さん?」
戸惑うような声がはっきりと耳に届く。
その声は、彼が想像していたものとは違って、
「あ‥‥」
目を瞬かせると世界が鮮明になり、そこに映り込む女の姿がはっきりと飛び込んでくる。
「‥‥佐絵‥‥さん?」
そこにいたのは、佐絵の姿である。
ゆ、め。
落胆した。
そんな自分に嫌気が差した。
「‥‥わ、るい。」
ぎしりと椅子を軋ませて上体を起こす。
いつの間にか眠っていたらしい。
よほど疲れていたというのか、土方がごしごしと目を擦りながら、今何時だ?と問いかける。
「暮れ四つ刻です。」
「‥‥もうそんな時間か‥‥」
溜息をつき、そういえばそんな時間に何故彼女がここにいるのかと視線を向ける。
いつもならば暮れ五つ刻には邸に帰るというのに。
「‥‥何か、急用か?」
そういえば先ほど、彼女は隊士の様子を見に行っていた。
もしかして何かあったのだろうかと問いかければ、彼女は苦笑で唇を開いた。
「忘れたんですか?
わたしとの約束。」
約束‥‥?
土方は怪訝そうに眉を寄せる。
何か彼女と約束をしていただろうか?
やっぱり、と佐絵は肩を竦めると、
「今日こそは、ちゃんとお食事を食べてくださると約束しました。」
と言う。
「‥‥あ‥‥」
男の口から間抜けな声が上がった。
そう言えば、彼女とそんな約束をしたような‥‥気がする。
しかも、食べなければ彼女の言うことをなんでも聞くとか‥‥そういうふざけた約束をだ。
ちらりと机の上を見れば手つかずの膳が置いてあった。
白状しよう、すっかり忘れていた。
男は内心で呟いて、あーと、小さく呻いた。
「‥‥別に食わないつもりじゃ‥‥」
なかったんだがと彼は言う。
ただ大鳥との話が長引いて、彼女の言う『今日』を過ぎてしまっただけだ。
まあ、それどころじゃなくて腹は減ってはいないけれど。
「‥‥でも、約束は約束ですよね?」
佐絵は真剣な面もちで言った。
確かに。
約束は約束だ。
土方は面倒くさそうな顔で分かったよと両手を挙げて降参の姿勢を取ってみせた。
「言うことを聞けばいいんだろう?」
「‥‥」
「で?俺は何をすればいいってんだ?」
疲れたように背凭れに身体を預け、男はやれやれと肩を竦めながら訊ねる。
大方、
『休んでください』
とかこのお節介な女は言うのだろうな‥‥などと予想していると、佐絵が静かに唇を噛んだ。
土方さん。
と真剣な声が自分を呼んだ。
彼女は真っ直ぐに自分を見て、ひどく真剣な面持ちで、こう告げる。
「わたしを抱いてください。」

|