ざ、ざ。

と登り慣れない山道を男は一人歩いていた。

一介の商人でしかない彼は、少し前の彼らとの旅で少しは体力がついたかと思っていたが‥‥まだまだのようである。

ぜぇはぁと荒い呼吸をつきながら、それでも休むことなく彼は歩き続ける。

その足取りは焦っているように見えた。

 

急がなければ‥‥

 

山口はそう思った。

そうして懐に手を伸ばして、そっとその上から確かめるように何度も触れる。

大切に仕舞われていたのは、土方からの文だった。

 

会津からどこぞへと身を隠そうかと思っていた所、突然、息を切らせて若い男がやってきた。

土方からの文を預かってきたと、男は言った。

そしてそれを渡すと何も言わずにまたすぐに来た道を戻ってしまった。

恐らく、彼は新選組の隊士なのだろうと、その真っ直ぐで強い瞳を見て、分かった。

 

僅かに折れ曲がった文には‥‥こう書いてあった。

 

自分達はこれから、蝦夷へ渡ることになるだろうと。

蝦夷で戦うことになるだろうと。

そしてそこが最期の地になるだろうと。

 

だが、

その最期の地に‥‥彼女は連れていけない。

 

だから、

 

『彼女を‥‥頼む。』

 

と最後に綴られていた。

急いで書いたのだろうが‥‥その最後だけはひどく、乱れていたのを覚えている。

その言葉を書くのに、どれほど彼が苦悩をしたのかが分かった。

ただ一言『頼む』という言葉を書くのに彼がどれほど迷ったか。

 

「‥‥」

山口は唇を引き結んだ。

 

彼女を頼む――

 

と、彼は言った。

 

自分などでは役不足なのは分かっていた。

でも、

それでも、

彼女から戦うことを奪ってしまえばきっと‥‥

きっと‥‥

 

「急がなければっ‥‥」

 

一人ごちて再び歩き出す。

山道にはいくつもの足跡やら、台車を引いた跡がある。

幕府軍か、新政府軍か分からない。

ただこの道を北へ行ったのだけは分かった。

だからこの道を辿ればきっと‥‥

 

「‥‥っ!?」

 

ふわり、と鼻腔を擽った甘い香りがした。

それは初めて感じたとき、ひどく違和感があると思ったもの。

甘くて、

柔らかくて、

花のような香りだと思った事がある。

 

まるで、芳しい花の蜜に誘われる虫のように‥‥

 

男はそっと香りを辿り視線を上げた。

 

木々が途切れた青空の下。

ばたばたと見慣れぬ外套に身を包んだその人を見つけた。

見間違うはずもない。

初めて惚れた‥‥美しい人。

その人が、立っていた。

 

こちらに背を向け、真っ直ぐに前を向いて立ちつくしていた。

 

さん‥‥」

 

ほっと、男は安堵の溜息を吐く。

間に合った――

彼は汗を拭い、もう一度視線を前へと向けると再び足を進めた。

彼女の背中が少しずつ、大きくなっていく。

 

しかし、

 

――――

 

男が彼女の元へとたどり着くよりも前に、

その名を呼ぶよりも前に、静かには腰の愛刀を引き抜いた。

 

周りに敵がいるのかと慌てて見回すが、そうではない。

彼女は引き抜いた刀身を構えることもなく、じっと‥‥銀色に光るそれに魅入られたかのように見つめ続けている。

 

まさか‥‥

 

男は嫌な予感がした。

 

後ろ姿だけで彼女だと分かるのに、何故だか先ほどからひどい違和感を覚えていたのだ。

 

なんだか、

彼女であって、

彼女でないような。

 

まさか、

まさか、

 

すらりと抜きはなった刃に彼女の顔が映り込む。

瞳が静かに覚悟の色を決め、緩やかに刃が振り上げられた。

 

さん!!」

 

ざん――

 

強い風が、吹く。

 

美しい金色のそれを空へと巻き上げて、風が、吹きぬけた。

 

 

 

「ん?」

不意に男は立ち止まり、空を仰ぐ。

 

空は灰色に変わっていた。

風は冷たく‥‥今日は降るかも知れない‥‥

と誰かが言っていたのを思い出す。

 

北の地、蝦夷は今までいたどの場所よりも寒いところだと‥‥土方は思った。

 

冷たい風の呻り声が聞こえる。

何故か誰かに呼ばれたような気がして、足を止めた。

勿論、こんな時間に通りには人気などない。

 

気のせいか‥‥

 

土方は一人ごち、ふわりと吹き付ける冷たい風に身体を強ばらせる。

そうして、外套の前を掻き合わせ、急ぎ五稜郭へと戻った。

 

 

不意に、郭が近付くにつれて賑やかな声が聞こえ始めた。

あまり明るい話題の少ない状況だというのに‥‥一体なんだろう?

土方は少しばかり怪訝な思いを抱えながら門をくぐり、

「今、帰った。」

玄関口で一声を掛け、廊下を行く。

皆が集まっているであろう広間までもう少し、という所の曲がり角で、

「っ!?」

人影が飛び出してきた。

薄暗い廊下に、だがやけに明るく見える‥‥飴色。

それが視界に飛び込み、男は思わず立ち止まり、

 

「おかえりなさいませ。」

出迎えたその別人の笑顔に‥‥苦笑が漏れた。

 

いるはずがなかったのだ。

彼女が‥‥ここに‥‥

 

土方は自嘲をもらし、だがすぐに出迎えた彼女を見て僅かに険しい表情を浮かべる。

 

「佐絵さん。

あんたにゃ確かにあれこれ面倒みてもらって助かってるが‥‥あんまり部外者が出入りをしねえでくれねえか?」

 

その人は、交野佐絵という。

年は17,8というところだろうか。

顔は美人と言うよりも可愛らしいという顔立ちをしている。

いつぞやこちらに居候していた千鶴と同じ、医者の娘であり、目下医術の勉強中という娘である。

最初は怪我や病気の治療と言うことで足を運んで貰ったが、最近はもっぱら隊士達の食事を作りに来ているようで‥‥

まあ、ありがたいと言えばそうなのだが、ここは旧幕府軍の作戦本部でもある。

そんな所に簡単に部外者が出入りしてもしどこかから情報が漏れでもしたら大変だ。

 

というので、何度もここには来ないようにと言っているのだが、

 

「それは分かってますけど‥‥

このままじゃ隊士の皆さん栄養失調で倒れちゃいますよ。」

佐絵はそう言って、苦笑を漏らす。

そんなに悪いものばかり食わせてねえよと反論したかったが、まあ、なんといっても男所帯である。

ろくな料理を作れる人間は確かに少ないかも知れない。

 

「だが‥‥」

苦い顔をする土方に佐絵は笑った。

「大丈夫です。

わたし、口は固いですから。」

「そりゃどうも‥‥」

呆れたように呟く土方の様子に気付き、佐絵はひょいと小首を捻る。

「‥‥土方さん、ちょっとお疲れですか?」

「ん、まあな。」

ここ数日忙しかったから、と彼は答える。

夜も眠らず働きずめだと答えれば、佐絵はいけませんと腰に手を当てて声を上げた。

「そんな不規則な生活していたら、倒れちゃいますよ!」

「あーあー、分かってる。」

彼は思う。

どうしてこうも自分の周りに集まる人間というのはお節介なのだろうか。

大鳥にも毎日のように少しは休みを取れと口うるさく言われているというのに。

「昨日もろくに食事を取られてないって聞きましたよ!

今日こそはちゃんと食べていただきますからねっ!!」

お節介の上に、強引。

はぁ、と土方は疲れたような溜息を吐く。

そのままずるずると広間なり、自室まで引っ張って、食事を意地でも食べさせてやろうという彼女の勢いにわかった

わかったと手を挙げて面倒くさそうに答えた。

「今日はちゃんと食う。」

だがまずはやるべき事をやらせろ、とその細い手を振りほどいて言えば、佐絵は念を押した。

「約束ですよ?」

「わかった。」

「破ったら‥‥何でもわたしの言うこと聞いてもらいますからね?」

そいつはおっかない。

何を言われるやらとからかいまじりに言えば、佐絵はくすくすと笑った。

それはそれは心底楽しげに。

やれやれ面倒な事になりそうだ。

 

「佐絵さん、ちょっといいかい?」

 

廊下の先からひょいと顔を出した隊士の一人が彼女を呼んだ。

あ、と土方の顔を見て、すぐさま真面目な顔になり「お疲れさまです!」とやたら元気な声で言う。

土方は夜も遅いんだからもうちっとだけ静かにしろよと内心で呟きながら苦笑を浮かべた。

 

「その、佐絵さん‥‥さっき鍛錬中に腕を痛めたって隊士がいるんだけど‥‥」

「あ、すぐ伺います。」

 

佐絵は言うと、土方に向き直ってにこりと笑った。

 

「それじゃ、また後で。」

「ああ。」

 

別に後で来なくてもいいんだぞと意地悪く言う彼に佐絵は目元を眇めただけで応え、くるりと背を向けた。

 

瞬間、ふわり、と飴色が踊る。

柔らかな、

飴色。

 

「‥‥」

 

誰かと彷彿とさせるその色を、男はただ無言で見送った。

 

だけど、ふわりと靡いた飴色の髪は、

彼女のよりも少し‥‥暗い色をしていた。