幸運にも、一軒の小さな家が焼け落ちずに残っていた。

まるで人の目から隠すように、その家はひっそりと佇んでいた。

千鶴はその家の門を潜った瞬間、とても懐かしいと思った。

自分はここを知っているような気がした。

 

ふわりと、埃っぽい室内に柔らかな風が吹き抜ける。

きりしと軋む家の中は、なんだか暖かい香りがした。

家の香り、というのはその家に住む人間の香りでもある。

その香りには覚えがあった。

 

そう、それは確か、

彼女が姉と慕っていた人の香り。

 

ああそうか。

千鶴は静かな家の中を見て、ぼんやりと呟いた。

 

「ここは‥‥静姫姉さんの家だ。」

 

あの、優しい人の家――

 

静姫が生まれて、

静姫が過ごした、

大切な家。

 

戦禍に巻き込まれなかったのだ。

雪村の直系だからと。

純血の鬼だからと。

鬼の目からも隠すように里から離れて暮らしていた彼女の家は、

焼け落ちることなく残っていた。

 

残っていたのだ。

静姫の帰る場所は。

 

だけど、

の帰る場所は、

 

ここではない――

 

 

 

「あ」

 

ぱりん、という音が聞こえた時には手の中から落ちた湯飲みが足下で無惨にも砕けていた。

破片はあちこちへと飛び散り、土の上に染みが広がっていく。

 

「いけないっ」

 

考え事をしていたせいで、手元が狂ったらしい。

慌てて手拭いを取ってしゃがみ込むのと同時に、くつくつと楽しげな笑い声が聞こえた。

振り返るといつの間に来ていたのだろう、沖田が柱に凭れ掛かって肩を揺らしていた。

 

「ごめんなさい‥‥」

千鶴は申し訳なさそうに面を伏せる。

彼の‥‥正確にはの父親の‥‥だが、沖田が気に入っている湯飲みを割ってしまったのだ。

謝ると彼は笑いながらとんっと土間へ降りて彼女の傍に腰を下ろし、欠片を拾い集める彼女の手をやんわりと遮る。

「いいよ、気にしないで。」

そうして欠片を自分の掌の上にひょいひょいとかき集める。

「あ、あの私が‥‥」

「いいから、怪我でもしたら大変。」

「でも、私‥‥」

鬼の血を継いでいるのだから怪我をしたところでたちどころに治ってしまうというのに‥‥

「それでも、駄目。」

沖田は分かってるけど駄目だと言って頭を振った。

例えば彼女の傷がすぐに治ったとしても、その傷が身体に残らないとしても‥‥沖田は彼女には傷一つ付けたくない

と思うのだ。

だから、駄目だと彼はやんわりと言った。

「‥‥すいません‥‥」

千鶴はもう一度謝った。

もう一度いいよ、と手早く欠片を集めて籠に入れる。

今度町に降りたときに直してもらおうかな‥‥

「‥‥千鶴ちゃん?」

などと考えながら振り返ると、彼女がまだ暗い顔で俯いている事に気付いて沖田は首を捻った。

 

「何か‥‥心配事でもあるの?」

 

ただ湯飲みを割ってしまって罪悪感を覚えている‥‥それだけではない表情だった。

暗い表情に問いかければ彼女は俯いたまま、そっと、胸に手を当てる。

ざわりと血が騒ぐ気がした。

羅刹のではない。

 

「‥‥嫌な予感が‥‥するんです。」

 

鬼の、血が、騒いでいた。

 

ざわざわとまるで、彼女に何かを報せるみたいに。

 

「‥‥」

沖田はそれを聞いてすいと目を細める。

鬼‥‥きっと、の事だろう。

彼女に何かがあった‥‥そう言うことだろうか?

 

山奥のこんな田舎には今世の中で起きている事件など届かない。

戦がどうなったのか。

新政府軍が、幕府が、

新選組が‥‥どうなったか。

そんなの分からない。

時折山から少し下りた所にある小さな村に必要な物を買いに行くときに話を聞くけれど‥‥やはり詳しいことは分か

らなかった。

 

「‥‥」

 

鬼の血が騒ぐことなど、風間と初めて出会った時以外、感じた事はない。

しかもあの時よりもずっとずっと激しい。

まるで自分に何かを警告しているかのようで‥‥

嫌な考えばかりが過ぎる。

まさか、あの人に何かがあったのではないかと‥‥

 

「っ」

 

千鶴は不安そうな顔でぎゅっと両手を握りしめる。

まるでここにいる沖田の事など忘れてしまったかのように、必死に二人の無事を祈る彼女に妬けるなぁと思いながら

ひょいと肩を竦めて口を開いた。

 

「大丈夫だよ。」

 

あっけらかんと。

 

その言葉に千鶴は困ったような顔で訊ねた。

 

「どうして‥‥そう思うんですか?」

 

彼らはとても危険な場所にいる。

いつ命を落としてもおかしくないくらい‥‥危険な場所に。

今こうして話をしている最中にもどちらかの命が危険にさらされているかも知れないのに‥‥どうして、そんな風に

大丈夫だと言えるのだろう?

大丈夫なわけ‥‥ないのに。

 

「だって‥‥」

 

と沖田は言って、千鶴の小さな身体を引き寄せて抱きしめた。

不安げなその心ごと包み込んであげるように、強く抱きしめると、沖田は楽しげに目元を綻ばせる。

 

は‥‥そんな簡単に死ぬような子じゃない。」

 

その瞳には絶対の自信を込めて。

 

そう、

簡単に死ぬような女ではない。

彼女の強さは、誰よりもよく知っている。

鬼だからとかそんなのは関係ない。

彼女は、

身も心も強い‥‥

正真正銘の侍。

 

だから‥‥

あの男が愛した。

 

沖田はくつっと気付かれないと思ってるだろうな、あの人はと笑った。

ふわりとその吐息に髪を擽られ、千鶴は困ったように視線をあげる。

ごめん、と謝りながら、沖田はそれにと付け足す。

 

「あのひねくれ者の頑固者がそう簡単に手放すわけがない。」

 

これまた絶対の自信を込めて彼は言った。

 

は誰よりも意地っ張りの頑固者だ。

一度こうだと決めたら、絶対にそれを貫く。

そう簡単に諦めたりしない。

 

一度、そう決めた彼女が‥‥簡単に手放すわけがない。

 

世界も、

それから、

あの男も。

 

だから‥‥

 

「大丈夫。」

 

その指先がふと震えている事に気付いた。

背中をしかと抱く、彼の指が、微かに震えている事に。

 

ああ、そうか。

彼も‥‥きっと‥‥

 

千鶴はそっと吐息交じりに告げた。

 

「きっと‥‥大丈夫ですね。」

 

大きな背中をしかと抱いて、

 

「大丈夫です。」

 

強く言えば、その震えが静かに収まっていくのが分かった。

 

 

――きっと‥‥あの人ならば大丈夫――

 

――私はそう、願う――

 

 

 

光の届かない、闇の奥、深く。

いつもは自分がいる場所に彼女はいた。

膝を抱えて、だだっ広い世界で小さく蹲っている姿を見つける。

 

「そこはわたしの場所だ。」

 

勝手に侵入することを許した覚えはない。

 

静姫が言えば、彼女はゆっくりと顔を上げた。

ひどい顔をしている。

まるで生気のない‥‥顔。

瞳は淀んで、力がない。

同じ顔をした、でもまったく別人とも思えるそれを見て、

 

「酷い有様だな。」

 

ふんと鼻を鳴らして静姫は笑う。

は、いつものように傲慢で勝ち誇ったような顔をした同じ顔を見て何とも思わなかった。

ただ、なんとでも言えばいいと小さく呟いてまた膝に顔を埋めてしまう。

 

「まあ、わたしとしては好都合ではあるんだけどね‥‥」

「‥‥」

「おまえが消えてくれればわたしが外に出られる。」

 

やりたい放題だ、と静姫は笑った。

「この力を新政府軍に貸して、幕府軍を根絶やしにしても良いし、それから人間を殺しまくって誰一人いない世界に

するのも良さそうだ。」

自分以外なにもいない世界。

そんなもの、何の楽しみがあるのだろう。

静姫は自分で言って、思った。

 

だがやはり、は反応さえ返さない。

 

人間を根絶やしにする‥‥というのはつまりあの男も殺すと言っているというのに、彼女はそれにさえ気付かない程

腐ってしまったようだ。

 

静姫はやれやれと肩を竦めてすたすたと彼女の元へと近付いていく。

 

「‥‥このままで本当に良いと思っているのか?」

 

このまま、ここで腐って消えていってもいいというのだろうか。

自分を消してしまって、静姫に乗っ取られてもいいというのか。

 

「どうでも‥‥いい‥‥」

 

の答えは、やはり簡単だった。

どうでもいい。

なんでもいい。

もうどうにでもしてくれ。

自分には関係のないことだ。

 

そんな投げやりな言葉に静姫はついと目を細めて、

 

――

 

ぐいっとその腕を掴み上げた。

 

「いっ!」

 

力を入れられみしりと嫌な音がする。

これは意識の中のはず。

それなのに、何故こんなに現実的な痛みが走るのだろう?

は不思議に思った。

 

「離せ‥‥」

「何もしていないくせに、傷つくことだけは一丁前の甘ったれが‥‥」

 

金色の瞳が侮蔑の眼差しを込めて呟く。

甘ったれと言われてもは淀んだ瞳を逸らすだけだ。

ああ、まったくつまらない。

静姫は内心で舌打ちをした。

 

「そんなんじゃあの男に愛想を尽かされて当然だ。

今のおまえには何の魅力も感じないからな。」

 

あの男‥‥それは土方の事だ。

 

じりっと強烈な痛みが胸を走った。

まだ癒えてもいない傷口を無遠慮にぐりぐりと押し開くような痛みが。

瞳に傷ついた色が浮かんだ。

 

「あんたに何が分かる‥‥」

 

いらないと、

存在を否定されたこの悲しみが分かるものか。

彼は自分の全てだったのに。

その彼にいらないと言われたこの苦しみが‥‥

 

静姫はを冷たく見下ろし、言い捨てた。

「ああ、分からないな。」

そんなもの分かるものかと彼女は言った。

「結局何も言えなかった弱虫の気持ちなど何も分からない。」

「私は‥‥言った。」

はその手を煩わしげに払おうとする。

が、静姫は離さない。

「何を言った?」

更に顔を寄せ囁くように問われて、は呻くように応える。

「連れていってほしいって言った。」

なんでもするから。

彼の望む通りの部下になるから。

決して足手まといにはならないから連れていって欲しいと言った。

 

――でも、彼はいらないと言った。

 

自分などいらないと言われたのに。

何をしてもいらないと言われたのに。

これ以上何を言えば良かったと言うんだ?

 

静姫はそうっと、吐息を零した。

 

「馬鹿みたいに嘘で飾り立てるからそんなことになったんだろう。」

 

この意地っ張りが、と吐き捨てられ、は怪訝そうな表情を浮かべた。

 

嘘‥‥?

どういうことだ?

嘘なんて一言も‥‥

 

分からないと言う顔をする彼女にいいか、と静姫はぐいっと腕を更に引き寄せ、ほとんど額がぶつかるような距離で

唇を開く。

 

「おまえは自分の本心を晒してまで、あの男を引き留めようとしたか?」

 

そうじゃなかっただろうと、静姫は言った。

 

「‥‥どう‥‥いう‥‥」

 

本心を晒していないと言うのならば‥‥の本心はどこにあると言うのだろう?

 

連れていってと言うのは彼女の本音ではなかったのだろうか。

彼の役に立ちたい。

彼と戦いたい。

だから連れていってと言うのは彼女の‥‥

 

そうじゃないだろう、と静姫は金色のそれを不満げに細めた。

 

「‥‥おまえは何故、あの男と共にいたいと思った?」

「土方さんの役に‥‥」

「それは何故だ?」

「あの人を死なせたくないから‥‥」

「どうして死なせたくないと思った?」

 

何故彼の役に立ちたいと思った?

何故、彼の傍にいたいと?

死なせたくないと、思った?

 

「‥‥それ‥‥は‥‥」

 

単純な理由。

でも、

それは、

決して口にしてはいけない想い。

彼には伝えてはいけない、言葉。

 

だって、今は戦の最中だ。

そんなことに現を抜かしている状況ではない。

それに、自分はあくまで彼の‥‥

 

ふ、と静姫はもう一度静かな溜息を吐いた。

呆れたような声で、少しばかり柔らかくなった声で、彼女は紡いだ。

 

「‥‥おまえは、あの男になんと言われた?」

 

――おまえを、局長助勤から解任する――

 

「今のおまえは、もう新選組の幹部じゃない。」

 

彼の部下でも、

武士でもない。

ただの一人の人間。

 

ただの‥‥一人の女。

 

そうして、彼はこうも言った。

 

「‥‥おまえの好きなように生きろと‥‥あの男は言っただろう?」

 

そう、

自由に生きろと。

彼は言った。

 

驚きに見開かれていた琥珀に‥‥静かな‥‥色が灯る。

それを静姫は確かに見た。

 

「おまえは、どう――生きたい――?」