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身体が動かない。
指先一つ動かすのも億劫で‥‥は冷たい大地の上に倒れ込んでいた。
空から雨が降っていた。
冷たい雨に、どんどんと体温を奪われていく。
ぼんやりと、薄汚れた世界を見つめていた。
がさ、と足音が背後で聞こえる。
誰かが‥‥来た。
でも、身体は動かなかった。
いや、動かす気にはなれなかった。
「おい!あそこに人が倒れているぞ!」
男の声が聞こえる。
ばしゃばしゃと水たまりを踏み荒らしてやってきたのは、どうやら味方の兵ではない。
新政府軍の兵士。
「‥‥死んでるのか?」
「いや、辛うじて生きてる。」
敵は‥‥殺さないと‥‥
何故?
もう自分には戦う必要など、ない。
――おまえを、局長助勤から解任する――
だってもう自分は新選組の一員でもなんでもないのだから。
――殺せばいい。
そうすれば、終わる。
は灰色の世界でぼんやりと思った。
だが、男達は身ぐるみを剥がそうとしてふと、
「こいつ、女だ。」
彼女が女である事に気付いた。
その途端、二人は互いに顔を見合わせ、好色の表情を浮かべる。
戦の最中というのは禁欲生活を強いられるものだ。
行軍に女を連れていくことは勿論出来ず、どこぞの宿場町に立ち寄れれば運がいいけれど、そうでなければ何日も女を
抱く機会はない。
おまけに戦いの鬱憤も溜まっていた。
男達は丁度良いところにその鬱憤を晴らせるものを見つけたと、彼女を抱え上げながらきょろきょろと見回せば木々の
向こうにひっそりと崩れかけた山小屋を見つける。
そこに運び込む事にした。
埃っぽい板の間の上に、どさりと女を転がす。
雨に濡れ重たくなった外套をはぎ取り、彼らもまた興奮気味に外套を脱ぎ捨てる。
「こいつは随分な上玉じゃねえか。」
「反応がねえ所を見ると‥‥やばいんじゃないか?」
「どうでもいい!やれればなんでもいいんだよ!」
躊躇う素振りは見せるものの、男の鼻息は荒い。
男達は黒い上衣を脱がせ、その下の白い洋服へと手を掛ける。
上からずらりと並ぶ釦を外すのがもどかしくなったのか、びりっと服を破り捨てた。
不思議に思うこともせずその下にある鎖帷子を押し上げ、サラシを乱暴に引きちぎる。
もう一人は、ベルトを外し、こちらも焦ったような様子で穿き物を脱がしていた。
布が雨で濡れて張り付き、膝までしか下ろせなかったけれど、それで十分だ。
「‥‥」
「‥‥‥」
それぞれが、雪のように真っ白で傷一つない美しい肌を見てごくりと喉を鳴らした。
なだらかな稜線を描くその身体は目眩がしそうなほど魅惑的で‥‥二人の男はまるで引き寄せられるように女の柔らか
な肌へと手を伸ばした。
もう‥‥どうでも良かった。
今この場でこの男たちの慰み者になろうが、殺されようが。
どうでも良かった。
だって‥‥もう‥‥
生きている意味は、ないのだから。
琥珀の瞳がそっと男の暴力を受け入れるように閉じられた。
甘受するように、
――否、
全てを放り出すように。
「痛い思いはさせねえからよ‥‥」
男は舌なめずりをしながら、自身の前をくつろげながら女の肌へと手を伸ばした。
汚れた、太い男の手が汚すようにその白に近付く。
その瞬間、
――下衆が――
闇の底から怒りを孕んだ傲慢な姫君の声が上がった。
閉ざされた瞳が再び開いた時には、そこには琥珀ではなく人のものとは到底思えない神々しい金が現れていて、
「がっ!?」
同時に、白刃が煌めいた。
短い断末魔と共に男の一人が倒れ込む。
そしてすぐにもう一人も。
噎せ返りそうな血の臭いがした。
「‥‥」
女は刀を抜いてはいない。
いつの間にかそこに、その人物の姿があった。
そうっと目を眇めれば、真っ赤なそれとぶつかる。
嗚呼。
彼女はゆるりと笑みを浮かべた。
とは違う‥‥艶めいたそれで。
「助かったと礼を言っておくべきかな?」
「‥‥」
「西の鬼の頭領殿――」
呼びかけに男鬼は、怪訝そうに眉を寄せる。
「貴様、誰だ?」
目の前のその人がである事は分かっていた。
姿形も同じであれば、鬼の中に巡る血が確かに目の前のその人を同胞だと認めている。
しかし‥‥なんだろう。
この異様な雰囲気。
血がぐつぐつと沸騰しているかのように皮膚の下を暴れ回っていた。
目の前の女鬼を前にして、鬼の血が騒いでいる。
応える‥‥というよりも、畏怖さえ感じているように‥‥
それほどに、濃密な鬼の血を、彼女から感じた。
「‥‥わたしをお忘れか?
一度斬り合った相手だと言うのに‥‥」
彼とは以前、斬り合った事がある。
初めて静姫がの身体を乗っ取った時だ。
切り結んだのはほんの少しの時間。
でも、男の記憶には鮮烈に残ったはずだ。
圧倒的な、純血の鬼の強さというものが。
「‥‥貴様‥‥名は?」
風間は赤い目を細めて不躾に訊ねる。
静姫は気にした様子はなく、ひょいと肩を竦めると、
「雪村静姫。」
と名乗った。
「雪村‥‥静姫‥‥」
目の前に、という名前の女は別の名を口にした。
それこそが、
千年前の純粋なる鬼の血を継ぐ者の名前だ。
昔、東に強い鬼の血を宿した子が生まれたという噂が西の鬼の元まで届いた。
その鬼子の名が『雪村静姫』
女鬼だということで風間の人間はおおいに盛り上がったが‥‥何故かその噂はすぐに立ち消えてしまった。
風の噂で‥‥死んだと聞いた。
その鬼が‥‥彼女。
血が騒ぐのも無理はない。
とはまた違う意味で。
「‥‥なるほど‥‥」
彼女はこういうものを抱えていたということか。
彼女自身が鬼でありながら、その身の内に、もう一人の鬼を抱えていたのだ。
それも‥‥
この世のどれよりも強大な力を持ちながら、
この世の何よりも残忍さを持ち合わせる、
本当の化け物。
「あいつはどうした?」
風間はなるほどと呟いた後、すぐにそんな言葉を言い放った。
あいつ?
静姫は首を捻る。
「新選組の事かい?」
「‥‥」
否、とは答えず、風間は鬱陶しげに目を細める。
ああ、と静姫はわざとらしく声を上げて、
「の事?」
と訊ねる。
にやりと女が浮かべる笑みが、無性に苛立った。
彼女はそんな風に笑わない。
そんな‥‥婀娜っぽくなど。
まるで媚びられている気がして、ひどく癪に障る。
勿論、彼女は媚びているつもりなどない。
自分こそが彼よりも上位なのだと分かっているのだから。
「‥‥アイツを出せ。」
風間は言って刃を突きつける。
異な事を、と静姫は言う。
「おまえが求めているのは鬼の姫ではなかったのかな?」
「そうだ。」
「ならば、ではなく‥‥このわたしを求めるのが筋だと思うんだけれども?」
そう。
は言うなれば不完全な鬼。
未だ自分の力‥‥静姫を御しきれない不完全な鬼なのだ。
だが静姫は違う。
強い力を持つ鬼の姫だ。
風間は鬼の嫁が欲しいと言ったはずだ。
それならば‥‥求めるのはではなく静姫であるはず。
「‥‥」
赤い瞳が忌々しげに細められる。
そこに微かに見えかくれする感情に気付いて、静姫はくすりと笑った。
妖艶な笑顔はぞっとするほど美しかった。
「おまえも‥‥囚われたようだね。」
不完全な‥‥鬼の子に。
そう、土方というあの男のように。
に囚われた。
哀れな男。
「‥‥」
風間は無言のまま刃を収めると視線を背けてしまった。
つまらないなぁと肩を竦めておどけてみせると、ばさりと身体に彼が身に纏っていた紫紺の外套が放り投げられた。
「‥‥なんの真似だ?」
「そんな恰好をしていて、また余計な虫に狙われては困る。」
俺の子を宿して貰わねばならぬのだからな‥‥という言葉に、静姫は己が姿を見る。
ああそういえば、敵兵に襲われていた所だったか。
見れば釦も服も、おまけにサラシまで引きちぎられ、惜しげもなく胸を晒していた。
静姫はやれやれと鈍い動作で着衣を整えるが、残念ながら胸を隠すことは出来そうにない。
サラシも服も破られてしまったのだから。
辛うじて無事な穿き物の釦を止め、ベルトを巻き直すと、放り投げられた外套を羽織る。
ふわりと嗅ぎ慣れない香のにおいがした。
風間のものだ。
「‥‥おまえは存外‥‥」
「黙れ」
先を苛立ったように遮られ、くつくつと喉を鳴らしながら静姫は立ち上がった。
そうして既に事切れている今し方自分を襲おうとした男を見遣る。
その瞳は冷たい。
侮蔑の色を湛えていた。
「下衆が‥‥このわたしに手を掛けていいと本気で思っていたのか‥‥」
汚らわしい‥‥と彼女は吐き捨てる。
この肌に触れて良いのは自分が求めた男ただ一人だけ。
それ以外の誰にだって服従などしない‥‥というのは、やはり彼女が純血の鬼だからなのだろう。
ふと僅かに爪先に触れている冷たくなっていく男の手に気付き、静姫は嫌悪を露わに蹴り上げた。
どさ、とそれは壁にぶつかって落ちる。
風間は目を眇めただけで咎めはしなかった。
彼とて、こんな時に女を襲おうとした兵士の事を良くは思っていないらしい。
「あの男は‥‥一緒ではないのか?」
再び、あたりを見回しながら問う。
静姫は首を振った。
「残念ながら‥‥置いて行かれたようだよ。」
「‥‥なに?」
どういう事だと彼は視線で訊ねる。
それをいちいち説明してやるほど、静姫は優しい女ではない。
ただ、言葉通りだと微笑で答えるのみ。
「‥‥」
ここに土方がいないこと。
が表に出ていないこと。
そして、追いつめられる幕府軍‥‥戦況。
それらを照らし合わせれば答えは簡単だった。
「‥‥ふん、死なせるくらいなら手放すか‥‥」
愚かなことだ、と呟いた独り言は冷たい風に吹かれて‥‥霧散した。
苛立ったように呟き、やがてばさりと衣を翻すと出口へと向かっていった。
「‥‥俺は、行くぞ。」
勝手に行けばいい。
静姫は内心で呟いた。
別に何を断る必要があるというのか。
引き留めてなどいないのに。
風間はそしてこう続けた。
「俺は、あの男を斬る。」
ちら、と赤い瞳がこちらに一瞥を向ける。
それはまるで、
それでもいいのか?
と問いかけるかのように――
ざ、ざ、と足音が遠ざかっていく。
それをぼんやりと聞きながら静姫はくつくつと喉を鳴らして笑う。
「まったく、どいつもこいつもお節介ばかりで困るね‥‥」
他人の事など放っておけばいいのに。
「‥‥ああでも‥‥」
ふ、と静姫は自嘲じみた笑みを浮かべた。
そうして瞳を閉ざせばすぅと意識が闇へと落ちていく。
心の奥。
ずっとずっと奥へと。
落ちていく。
――わたしも‥‥同じか‥‥

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