16

 

何故ここに彼がいるのだろうか?

 

彼は目の前の光景を見て、目を見張った。

 

何故、ここに彼がいるのだろうか?

 

あの人は確かに死んだ。

あの時、この目で死んだのを見た。

四月の末、板橋の刑場にて首を落とされるのを見た。

死の間際、満足そうに笑ったのを。

「楽しかった」

という言葉が彼の最期の言葉だった。

 

彼は死んだ。

だが、目の前に、確かにその人がいるように見えた。

 

『近藤さん――

 

もし、彼に声が出せたなら、そう呼んでいただろう。

しかし、彼――井吹龍之介の唇からはただ空気がこぼれ落ちただけだった。

 

 

 

暦は四月になった。

新政府軍は彼らの読み通りに蝦夷を目指して集結をしている。

宮古湾での甲鉄艦奪回に失敗をし、宮古湾で惨敗した旧幕府軍はその数に押し負けとうとう乙部からの上陸を許して

しまった。

それ以上の進軍を食い止めるため松前口には大鳥が率いる部隊が詰めており、二股口を土方率いる部隊が詰めている。

 

「寒‥‥」

 

雪こそ溶けたとはいえ、まだまだ寒い日が続いていた。

特に夜の冷え込み方は尋常ではない。

ずっと野営で待機を続けていれば手はかじかんで、身体も震え始めてしまう。

四月の下旬を迎えたそんな寒い夜の日に、土方は酒樽を持ってやってきた。

 

「ここが正念場だ。気張ってくれよ?」

 

陸軍奉行のお出ましに今までがたがたと震えていた隊士達は背筋を伸ばす。

弛んでいると一喝されるかと彼らが内心不安に思っていると、彼は持ってきた酒を皆に振る舞い始めた。

皆は一様に呆気に取られた。

「沢山飲ませてやりてえんだが、いつ戦闘が始まるかもわからねえしな。

敵が攻め込んできたときに、酔っ払っちまってたら困るだろ?」

まるで子供を諭すかのような、柔らかい口調で言う彼に、隊士たちは思わずという風に首を横に振る。

振ったはずみで盃から酒が零れた。

申し訳ありませんと謝るが、土方は怒る素振りはなく、ただただ苦笑を浮かべるだけである。

そうして、その彼の緊張を解してやるかのようにその肩をとんと叩いた。

「今は一杯だけで我慢してくれ。

戦いが終われば浴びるほど飲ませてやるよ。」

叩かれた肩がじわり‥‥と熱を帯びて暖かくなる。

肩、だけではない。

彼の言葉に心の奥がぽっと暖かく、いや、熱くなってくるのを感じた。

それを感動というのか、喜びというのかは分からない。

ただ彼らはその瞳に力強い色を湛えて、我慢なんてとんでもないと強い口調で答えてみせた。

 

「また酒にありつくためにも戦が終わるよう全力を尽くします!」

 

瞳には一寸の迷いもない。

まるで‥‥かつての仲間を彷彿とさせる、強く、そして純粋な瞳である。

時代の流れに乗る事が出来ない彼らは『大馬鹿野郎』なのかもしれない。

世界は変わりつつある。

自分たちのような古臭い生き物はなくなりつつあり、新しいものが浸透しつつあるというのに‥‥それでも馴染めな

い彼らはただの愚か者なのかもしれない。

それでも‥‥

土方は思う。

 

――彼らを誇りに思うと――

 

誰よりも彼らを誇りに思う。

 

笑顔で頷く兵士たちに、彼は穏やかに目元を綻ばせるのだった。

 

 

『あの人は、誰だ?』

 

 

土方はかつて、鬼の副長と呼ばれていた。

 

彼がそんな優しい笑みを浮かべているのを、井吹は見た事がない。

たった半年という短い期間ではあったが、その中で彼が見ていたのは悩み葛藤しながら鬼へと変貌していく土方の

姿だった。

出会った頃から恐ろしい男だと思っていた。

だが、彼は芹沢に「鬼となれ」と言われてから、目に見えて変わっていった。

非情な鬼へと。

それが新選組には必要だったから。

 

しかし、今目の前にあるのはかつての彼とは全く違う土方の姿である。

あれは土方歳三だろうかと疑ってしまうほど。

いっそあれは近藤勇だと言われる方が‥‥納得できた。

彼はもういないのに。

 

 

「‥‥他に酒を貰ってねえってヤツはいるか?」

不意に土方が立ち上がり、声を上げる。

瞬間、視線がこちらへと向けられた気がして、井吹は慌てて視線を逸らした。

遠目だから気付かれるはずもない。

だが、なんとなく彼には何もかも見抜かれている気がした。以前、あの場所にいたときからずっと。

「‥‥」

井吹はそそくさと背を向けて、彼らから離れようとする。

そんな自分を隠すように、数名の兵士が土方の元へと駆け寄っていく。

酒を、というよりは彼と話がしたくて堪らないのだろう。

井吹は助かったと思いながら林の中へと入った。

 

その瞬間だった。

 

「わっ」

どんっと、林の奥から飛び出してきた影にぶつかった。

「っ」

ぶつかってきたのが思ったよりも小さな影で、まさか子供かと思って見れば、更に驚いた事に目を見張らされる事

になる。

そこに立っていたのは、見覚えのある人物だったからだ。

 

闇に染まらない飴色の髪に、綺麗な顔立ち。

それから、

強い意志を宿した澄んだ琥珀の瞳。

 

初めて出会った時もその瞳の美しさに目を奪われたものだった。

そんな事を考えながらまじまじと見つめてしまうと、相手も驚いたように目を見開いて、

 

「あれ‥‥?」

 

薄い唇から怪訝な声が漏れる。

井吹は我に返り、慌てて笠の庇を下げて顔を隠し、逃げるようにその脇を駆けた。

「あ、ちょっと!」

が後ろで呼んだが、聞こえない振りをした。

 

今、ここで見つかるわけにはいかなかった。

彼には、やらなければならない事があったからだ。

 

そう、

 

彼は、

 

かつて共に過ごした彼らが‥‥辿る道を、

見届ける義務が、あった。

 

 

 

「土方さん。」

ささやかながらの酒盛りで賑わう隊士達から離れた彼には近付いていく。

おまえも飲むかと上機嫌だった彼は、の、真剣な面持ちに気付き言葉を止めた。

代わりに「どうした?」と案じるようなそれになり、彼女は微かに、言いよどむ。

 

「龍之介が‥‥ここにいる。」

 

淀んだ先に口にした言葉に、土方が瞠目するのは無理もない事だった。

 

 

 

かつて、井吹龍之介という男がいた。

浪士組が結成され、上洛の途中、芹沢が気まぐれで拾ったのだ。

この男は曲がりなりにも武士の子でありながら武士を捨てた男だった。

捨てていたのは武士だけではなく‥‥その人生そのもの、だったかもしれない。

 

彼は、見失っていた。

生き方というものを。

 

あの日まで――

 

 

 

「土方局長がお呼びだ。」

 

あの後。

一人、隊から離れてぽつんと川縁で休んでいた井吹は、仲間の隊士にこう言われた。

土方が呼んでいるからすぐに来いと。

 

恐らくが彼に告げたのだろう。

井吹がここにいると。隊士として紛れていると。

彼はその言葉を聞き、ぼんやりとこう、思った。

 

――今度こそ、死ぬかも知れない――

 

井吹は羅刹の事を知っている数少ない人間の一人であった。

それは偶然というか、運悪くというか、巻き込まれて知った事実ではあったが、部外者である彼が知るにはあまりに

都合の悪い事だった。

あの時喉に重症を負い、死んだ事とされて他の幹部から隠されるほど‥‥彼は新選組の暗部を知ってしまったのだ。

山崎や近藤がひた隠しに彼の存在を隠し、生かしてくれた。

だというのに、死者であった自分が舞い戻ったと知ったら?

 

――今度こそ、殺されるかも知れない。

 

井吹は、項垂れた。

だが逃げなかった。

例え殺される事になろうとも、彼は土方の元に赴いた。

もしここで殺されるのならば‥‥それが運命なのかもしれない。

どうせ、ここで死ぬつもりだったのだ。

彼に斬られようが、戦場で敵に斬られようが、同じ事だ。

 

ざ、と乾いた大地を踏みつけ、井吹は息を吐く。

身体の中にたまった何かを吐き出した事で、身体が少しだけ軽くなった気がした。

気付けば拳が震えていた。

怖くないわけが、なかった。

死ぬ覚悟は出来ていても、やはり、怖いと思う。

自分はやっぱり‥‥最期まで弱いままだったのだなぁと、思いながら、一歩を踏みだした。

 

月明かりに、その人が浮かび上がっていた。

それはまるで一つの絵のように美しく、井吹はただ息を飲んだ。

何年ぶりかに見る土方の背中はやはり‥‥大きかった。

そして、

優しかった。

かつての、近藤勇のように――

 

 

 

「っ!?」

木々の間から飛び出した瞬間、誰かとぶつかりそうになる。

今日はよく、人とぶつかる。

慌てているからなのだろう。

井吹は「悪い」と言う代わりにぺこりと慌てて頭を下げた。

しかし鉢合わせをした相手がその人だった事に気付いて、目を見開いて、固まる。

数刻前に同じような状況だったな‥‥と他人事のように思い出した。

あの時も土方から逃げようとして、彼女とぶつかりかけた。

彼女、

と。

 

「‥‥」

だが、今度は予測していたらしい、は驚いた風はなかった。

ただ、真剣な面持ちで自分を見つめていた。

その薄い唇が微かに動く。

「龍。」

懐かしい呼び名に、うっかり涙が出そうになる。

いや、出ていた。

そういえば自分はさっきから泣いていたんだと今更のように思いだし、彼はぐいと手の甲で拭った。

今度は、逃げなかった。

逃げずにただ、泣いていた事を悟られまいと俯く。

乾いた地面をじっと見つめたまま、動かなかった。

もし、口が利けていたら‥‥きっと彼女にこう、訊ねたに違いない。

 

「土方さんに言ったのは、あんたか?」

 

と。

自分がここにいることを彼に教えたのは彼女であることは明白だ。

それ以外に、彼を知る人間はいない。

恐らくあの時、彼女には気付かれていたのだろう。

土方が呼んでいると聞かされた時から‥‥なんとなく分かってはいたのだ。

看破されないはずがない。

例え髪型や顔つきが多少変わっていても、聡い彼女が気付かないはずがなかった。

そして気付かれれば‥‥彼女が土方に告げるのも分かっていた。

土方の右腕たるが、彼に隠し事をするはずもなく、また、彼女が自分を庇う必要だってなかった。

何故なら、自分は、彼女らにとって守るべき価値のない人間だから。

自分は‥‥彼らの仲間では、ない。

 

「‥‥」

それを哀しいと思うのか、寂しいと思うのか、ただじわっと胸の奥が痛くなる。

仲間だなんて思わないと言っていたのは自分だったのに、改めてそう思い知らされると辛いだなんて、勝手すぎる。

井吹は自嘲じみた笑みを浮かべ、やがて、顔を上げた。

はじっとそこに立っていた。

無言で立ちつくす彼女に井吹は恨みがましい視線を向ける。

 

何故。

彼は心の中で、呟く。

 

何故、彼に自分の事を言ったのだ。

 

彼に知られなければ、井吹はここに居続ける事が出来たのに。

 

――俺には、やらなければいけない事があったのに――

 

井吹は内心で呻くように呟いた。

そんな事を自分が思うだなんて‥‥夢にも思わなかった。

 

確かに。

過去の自分は武士なんて愚かだと思っていた。

ただ古臭くて時代の流れに乗れない愚か者だと。

最初は‥‥そんな風に蔑んだような目で彼らを見ていたのだろう。

愚か者の集団だ、と。

自分たちが何をしたって取り立てて誉めてもくれなければ、そんな人間がいたのかさえも認識していない将軍に‥‥

何故こうも忠義を立てる事ができるのだろうか、と。

井吹は彼らがどのような扱いをされているのか見てきた。

使い捨ての駒‥‥彼らはそんなもののようだった。

いや、駒とさえ思われていなかったのかもしれない。

いるかいないか、それさえ知られていない無為のもの。

だというのに彼らは必死で認めてもらおうと奔走していた。

馬鹿だ、愚かだと冷めた目でそれを見守っていた井吹だったが、そんな彼らと半年共に過ごしている内に、彼は少なく

とも彼ら新選組の皆の事を好きになっていた。

なすべきことも見えない井吹にとって、真っ直ぐに一心不乱に自分たちの目指すべき場所へと突き進んでいく彼らは

嫌悪すべき存在でありながら、ある種憧れの存在でもあった。

勿論憧れたけれど彼らのようになりたいとは思えなかった。

井吹は武士でありながら武士にはなりたくなかったから。

だけど、居心地の良いその空間は、純粋に好きだった。

居場所も出来た、友と呼べる人も出来た。

うっかり、このままずっとここにいたい‥‥だなんて思える程、その場所が、その人たちが好きになっていた。

 

だが、彼はその場所を去らざるを得なくなった。

芹沢が粛正された折‥‥彼は喉に重傷を負ったのだ。

今でもその名残で声が出ない。

これを期に、彼は新選組を離れる事となり、松本良順の元で医者の手伝いをすることとなった。

芹沢が粛清された時、井吹は今まで彼らを憧れていた心がぽっかりと抜け落ちてしまったような気分になった。

その時になって、自分は芹沢という男の事も含めて好きだった事に気付いた。

そんな彼を殺されて‥‥少しだけ、彼の思い描いていた新選組という存在が、揺らいだ。

 

恐らく、あの日、あの場所に行かなければ井吹は新選組に戻ろうなどと思わなかっただろう。

松本と共に、安全な場所にいたに違いない。

あの日‥‥‥

 

近藤の最期を目にしなければ――

 

刑場に連れてこられた彼は、ひどく満足げな顔をしていた。

今から殺されると言うのに悔いが一つもないような、満ち足りたような顔をしていた。

彼の人生は決して幸福続きではなかった。

辛い事の方が多かっただろうに、彼は、笑顔だった。

自分を見つけたその時も優しく笑ってくれて、

泣いている自分を見つけて、

 

笑った。

ひどく、嬉しそうに、

だけどひどく、優しそうに。

 

そうしてそのまま、逝った。

 

ごとりと首が落ちる瞬間まで井吹は目を逸らす事が出来なかった。

首から先が無くなっても目を離す事が出来なかった。

ただ、声もなく泣いた。

泣いて泣いて、涙が枯れるまで零して、

漸く、彼は見つけた。

 

自分の、したかった事。

 

井吹は見てみたかったのだ。

愚かだと思っていたかつての仲間たちが辿る道を。

誠の武士である彼らの生き様を。

最期の瞬間まで見てみたかったのだ。

 

自分が捨てた‥‥何かを‥‥見届けたかった。

 

だからここに来た。

ここで、彼らの最期を見届けるために。

 

だというのに‥‥

「っ」

井吹は悔しげに唇を噛み、再びこみ上げる涙を隠すように俯く。

胸の上で握りしめた拳が震えていた。

懐に仕舞った『彼』から託されたものを握りしめ、悔しいと彼は心の中で呟く。

 

『おまえはそれを、俺の実家に届けてくれ』

 

彼は‥‥土方はそう言って、自身の髪と写真とを彼に託したのだ。

死ぬつもりなのだと分かった。

そして、また自分は彼らに生かされた事も。

『おまえは生きろ』

そう、彼に言われたとき‥‥疎外感を感じた。

そもそも仲間でもないのだからそんな事を感じる必要などなかったはずだ。

でも、

今にして思うと、

井吹はずっと、なりたかったのかもしれない。

 

彼らの仲間に。

 

「っ」

そんな馬鹿なことあるはずもないと思うのに、涙は止まらなかった。

後から後から溢れて‥‥みっともなく井吹はの前で泣き続けた。

 

ふわりと、

その人の香りが強くなるまで。

 

「っ!」

 

唐突にその手に抱きしめられ、井吹は驚きのあまりに涙が引っ込んだのが分かった。

自身を包む温もりと香りは、やはり自分と違って、甘く、柔らかい。

女なのだなと改めて思うと同時に柔らかさが気になって仕方がなかった。

とは言っても突き放す事が出来ず、凍り付いたまま立ちつくしていると、その背をとんとんと、叩かれた。

まるで、我が子をあやす母親のように、優しく。

ガキじゃあるまいしそんな事をされても困る。

だが涙は引っ込み、同時に妙な安心感を覚えるのだから更に困った。

 

「ありがとな‥‥」

 

困惑するばかりの井吹の耳に、突然、礼の言葉が滑り込んできた。

最後に一度、強く、腕に抱くようにして、

は、離れる。

 

ふわりと靡く飴色が手の中を幻のようにすり抜けていった。

 

その瞬間、

囁くように零された言葉に、止まっていたはずの涙が再び‥‥溢れた。

 

は、言った。

 

『最後まで、一緒に戦ってくれて‥‥ありがとう』

 

 

この時になって、

彼はもうとっくの昔に彼らの仲間になっていたのだと、気付いた。

自分が、気付いていなかっただけなのだと。