13
――似合いそうだ――
ふと視線を向けた小間物屋で見つけた『それ』を見て、土方は思った。
それは、その人に似合いそうだと。
否、
その人の為にこそ、在るものだと。
遙か昔、男は同じような事を思って手に取った事があった。
金色の美しい飾り紐は、
まだ、
その人の胸元で輝いている。
「土方さん。私っておかしいですか?」
箱舘の町を並んで歩く中、唐突にがそう切り出した。
今日は随分と天気が良い。
先日降り積もった雪はまだまだ残っているけれど、それも溶けてなくなってしまうんじゃないかという程、暖かい日
日差しが降り注いでいる。
思わず、仕事の鬼でもある土方に寄り道を考えさせるほどの陽気さで、なあ、と口を開いた男はそれよりも先に口を
開いたの言葉に、一瞬、何を言われたのか分からずに眉間に皺を寄せた。
なんだって?
と問いたげな眼差しにはだからですねともう一度口を開く。
「私って、おかしいですか?」
「そりゃ頭の中身を聞いてるんなら、おかしいだろうな。」
「そこは自覚があるんで分かってます。」
あんまりな返答には怒った様子はなく、ただ半眼でこちらを見上げてくる。
その様子に苦笑を浮かべつつ、じゃあ、どこの事だと再度問いかければ、はその、と一瞬言い淀み、
「‥‥私の格好。」
と続けた。
格好?
土方はひょいと眉を跳ね上げた。
は常となんら変わらない格好をしている。
外を出歩いている為に濃紺の外套を着てはいるけれど、おかしいという事はない。
汚れているわけでもなければ破れているわけでもない。
もしや服装が似合っているかいないか、ということを聞いているのだろうか?
だとしたら、
『おかしいわけがない』
それが土方の答えだった。
何故ならばの洋服というのは彼女が似合うだろうというものを彼自身が選んで決めたものだからである。
自分ほどの事を分かっている人間はいない、と今は自負している。
細身の彼女に、今の服装はぴったりだ。
しかし、そう彼女が聞いてくる‥‥ということは、もしかしたら、
「‥‥なんだ、その服装が気にいらねえってのか?」
そういうことなのだろうか?
それはちょっと面白くない。
思わず、眉間に皺が寄って声が不機嫌になるくらいに、面白くない。
その反応に、は即座に頭を振った。
「いえ。この服は気に入ってます。」
は言った。
「土方さんが選んでくれたものなんだから、私が気に入らないはずがない。」
自分の事を誰より知っている彼が選ぶのだから、間違いなどない。
そう、恥ずかしげもなく告げられた言葉に、ちょっとだけ面食らった。
常々‥‥土方は思っているが、という女は自分の言葉にどれだけ威力があるか、ということに自覚がない。
勿論男を喜ばせる手練手管ではなく、それが事実なのだと盲目的に信じ切ってしまっているせいなのかもしれないが
‥‥それにしたって嬉しい言葉だ。
思わず、男の眉尻がだらしなく下がるほどに、は。
「‥‥じゃあ、なんだってんだ?」
自分でもだらしない顔になったという自覚があったのか、土方はこほんと咳払いを一つすると、訊ねた。
服装が気に入らないのではないとしたら、何故おかしくはないかなどと聞いてきたのだろう?
土方の問いに、はもう一度、言い淀む。
なんだか彼女自身が釈然としないものを抱えているらしく、その、と続ける言葉は不満げなものだった。
「私の、男装‥‥おかしい‥‥ですか?」
ああ。
言葉に、合点がいったように、彼は小さく声を漏らした。
は未だに男の格好をしている。
胸には以前のようにサラシを巻いているし、所作も男らしく振る舞っている。
おまけに髪はざんばらに切り落としてしまって‥‥とてもではないが「女」だと思えない。
かつての同居人千鶴よりも立派に男を演じているというのは間違いではない。
しかしだ。
最近になって、彼女は隠せない「女の部分」というものが自然と表に出るようになってしまったのである。
明確にどこが‥‥と聞かれると難しいのだが、表情だったり、雰囲気だったりに、どこか女らしい丸みというか、甘さ
というのが、表れるようにようになってしまったのである。
以前、島田に言われた時は「どこが」と笑い飛ばしたものだが、あの時は土方自身が見ないようにしていただけで‥‥
彼女は‥‥もう男とは偽れない程に「女」らしかった。
あの時よりも‥‥「女」の色がはっきりと表れるようになった。
彼女自身が「恋」をして「女」の部分を認めたから――
「彼」を「女」として「好き」だと認めたから。
が「女」だと分かれば声を掛ける男もいるだろうと思っていた。
彼女ほど良い女はいない。
美しくて聡明で‥‥そして、可愛い女など。
少し前までは「誰それが想いを寄せている」だのという噂話を聞いていたのだが、ついぞ最近になってひっそりと想
いを寄せるだけではなく行動に出る輩まで出た、と大鳥が言っていた。
逐一彼に報告に来るのだから、本当に、あの男は質が悪い。
「‥‥なんだ?おかしいとでも言われたのか?」
彼女に懸想をしている男がいる、という事実を知りながら、それを彼女には教えてやらない。
何のことだかさっぱり分からないという風な男の態度に、はやっぱり気にしすぎなのだろうかと視線を一度落と
して、その、と懐から布にくるまれたそれを取り出した。
「大鳥さんの所の、佐伯さんって補佐官を知ってますか?」
「‥‥そいつがどうした?」
「‥‥これ。」
はそっと彼に突き出す。
淡い桃色の布の下から姿を見せたのは、鼈甲の簪だった。
勿論、それは上官に渡すような代物ではない。
労いの意を込めて贈るものでもない。
つまりそれは、惚れた女に渡すような‥‥
そう、下心のある贈り物、というやつである。
土方は渋面を作った。
明らかに、佐伯という男がに懸想している、というのは分かった。
「‥‥突然、これを渡されたんですけど‥‥」
はその、と困ったような顔になる。
「受け取って欲しいって言われたんですけど、なんていうか、私一応男のつもりですし‥‥今まで誰にも見破られな
かったからちゃんと男になりきれてると思ってたんですけど‥‥」
これを渡された、ということはもしや自分の男装がおかしいのだろうか?
それともなんだろう、佐伯という男は男に簪を贈る趣味でもあるというのだろうか?
どちらにせよ、にはどうすればいいのか分からない。
受け取れないと言ったのだが、半ば押しつけるようにして逃げられてしまったので、これをどうすればいいのかも分か
らない。
佐伯の趣味がどうこうというのは置いておいて、とにもかくにも自分の男装がおかしいのであれば問題だ。
女が混じっている‥‥などという事が知られれば隊内の風紀にも影響が出る。
何より問題なのが、その女である自分が土方の傍にいることで彼があらぬ誤解を受けることだった。
彼の評判が落ちることにでもなったら‥‥はどう責任を取ればいいのやら。
「‥‥貸せ。」
困ったような顔で黙り込むの手から、布ごと簪を奪い取る。
彼は不機嫌そうな顔のまま言った。
「これは俺が佐伯に突き返しておいてやる。」
ついでに、色惚けてんじゃねえと一言いっておいてやろう。
今はそんな事にうつつを抜かしている場合ではないだろう‥‥と。
本音は、
人のものに手を出すな――
というものだが。
「すいません。お願いします。」
は申し訳なさそうに言ってぺこりと頭を下げた。
そうして再び前を向いて歩き出す。
土方は懐にしまい込む前に今一度、簪を見下ろした。
鼈甲のそれは控えめながらも良い作りをしている。
一輪の花を象っているのだけど、その出来が精巧で、実に良い。
悔しいが、に似合いそうだ。
「‥‥」
ちらりと横を見やればふわふわと飴色が揺れていた。
今は、到底無理かもしれないがもう少し長くなったら簪だって挿せるようになるだろう。
昔、妓女として色町に潜入していたときはよく豪奢な髪飾りをつけていたのを思い出した。
彼女は重たくて仕方がないと苦笑していたが、髪型一つで彼女はまるで別人のように見えたものだった。
だから、
きっとこの簪だって、似合う。
だけど――
「おぅっ!?」
唐突に、
後ろから髪を引かれる。
何事かと立ち止まって振り返ろうとするが、どうやら髪を掴まれているらしくてそれが出来ない。
「な、なに?」
驚いたような声に土方はじっとしてろと言うと、懐に乱暴に簪をしまい込み、代わりに『それ』を取り出した。
先ほど、小間物屋で見つけたものを。
それは、緋色の結い紐である。
紐の両端に蜻蛉玉を通してある、結い紐だった。
赤と青の両極端な色合いが、どことなく彼女を現しているような気がして‥‥思わず手にして、買ってしまった。
彼女はまだ髪を結えるほど長くはない。
渡した所で結べないだろうことは分かっていたが、それでも贈りたいと思ってしまった。
だって彼女に似合うのだから。
結局、短い髪を纏めきれず、後ろの長い部分だけを結ぶという不格好な形になってしまう。
それでも彼女の髪に結べた事に満足して、よし、と言って手を離すとが驚いたような顔で振り返った。
「いきなり、なに‥‥」
と言いながら手を後ろへと回し、髪の毛が結ばれている事に気付いて言葉を失う。
指先に当たるのは、紐と、それかたまあるい滑らかな石の感触。
なに?これ?
とは目をぱちくりと瞬かせて男に問うた。
「結い紐だ。」
「‥‥え?」
「どうせおまえの事だからそのまま髪を伸ばすんだろう?」
不器用な彼女が髪を切りそろえられるはずもない。
恐らくそのままずるずると伸ばしていくに違いない‥‥というか、次は切らせない。
そのまま伸ばして、結えるようにさせるつもりだ。
その時には簪だって贈ってやれればいいのだけど‥‥今は、
「それで、結んどけ。」
「‥‥え‥‥えと‥‥」
はなんと言えばいいものかというような顔でこちらを見ている。
飴色に、緋色と青が、よく、映える。
やっぱり俺の目に狂いはなかったなと男は満足げに笑い、収まりきらなかった柔らかい飴色を、そっと、摘んだ。
その時に微かに彼女の肌に指先が触れる。
もっと触れたいと、そう思いながら一方の心はこれ以上はいけないとしかりつける。
自分は一体どちらに従いたいのだろう。
何度となく浮かんだ問いに、今日も彼は応えない。
ただ、そっと、慈しむような笑みを向けただけで、やがて、手を離した。
「帰るぞ。」
その一言に、の返事はなかった。
変わることを恐れていた。
想いを口にしてしまって、彼とのこの居心地の良い関係が変わってしまうのが。
壊れてしまうのが。
怖かった。
好きだと想いを告げても、応えてもらえない事は百も承知だ。
応えてもらえなくても良い。
ただ、彼の傍にいられるのならばそれだけで充分だった。
何も要らない。
ただ、彼の傍にいて、
彼の為に役に立てるのならば、それだけで良いと思っていた。
しかし、
彼は、少しだけ変わってしまった。
「‥‥」
は触れられた髪の一房を掴む。
そこに、彼の温もりが残っているような気がして、逃さないようにしっかりと掴んだ。
彼は、少しだけ変わった。
こうしてに触れることが増えたのだ。
でも何故か直接的には触れない。
例えば彼女の身体の一部だけど感覚のない、髪とか‥‥服を隔てて、とか、そんな風に微妙な距離を保って触れてくる。
そのたびに、はどきりとさせられたものだ。
そのたびに、彼に心を奪われていくのだ。
想いが、募って、堪らなくなるのだ。
何故、彼は触れてくるのだろう?
自分に、意味もなく、触れてくるのだろう?
まるで自分の何かを刻むみたいに。
でも、決定的なものではなく、曖昧なそれで。
「‥‥どうして‥‥」
一人ごちるの顔は、夕焼けに染められているわけでもないのに赤く染まっていた。
その顔は、誰がどう見ても、女の、それであった。
男に、想いを寄せる女の顔。
決して、は応えて欲しいと思っているわけではない。
だけど、彼女の想いは伝わっているはずだ。
「好き」だという気持ちは。
それに対し、彼は答えを出してはいない。
でも、拒絶することはなく、傍においてくれる。
あの時となんら変わらず‥‥
いや、あの時よりも、ずっと、近い距離に。
それはもしかして‥‥
は思う。
「‥‥もしかして‥‥」
じゃりと砂を踏む音が聞こえた。
背後に気配を感じて振り返れば、ざぁと風が吹いてその人の髪を揺らした。
長いそれは、淡い桃色の紐で結われている。
同じ、色だった。
同じ、飴色だった。
は驚いたように目を見開く。
どこか思い詰めたようなその人は、顔立ちも少し似ている気がした。
その人の名は、
佐絵と言った。

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