12
「あなたが好きだから」
彼女の真っ直ぐな言葉に、自分は答えを返していない。
相変わらず卑怯だと思った。
答えを出さなくても、彼女は傍にいてくれる。
傍にいて、幸せそうに笑ってくれる。
想いを伝えるのが怖いと言えば、彼女は笑うだろうか?
言葉にしてしまうと何かが形を変えてしまいそうで怖いのだと言えば‥‥臆病者と笑うだろうか?
「僕は卑怯者だと思うなぁ。」
唐突な言葉に土方は思わず眉根を寄せて振り返る。
いつの間にやってきたのだろう‥‥すぐ傍に大鳥がいて、笑っていた。
にやにやとなんだか嫌な笑みだ。
土方はすいと目を細めて男を睨み付ける。
なんだその締まりのない顔は‥‥とでも言いたげに。
「誰が卑怯者だって?」
「君だよ、君。」
大鳥は言いながら土方の隣に並ぶ。
開け放たれた窓から外を見れば‥‥慌ただしく走り回るの姿がある。
水を得た魚のように、いきいきとした様子で彼女は走り回っていた。
彼の傍で彼の役に立てるのが‥‥それほど嬉しいのだろう。
健気なものだ。
それにしても、
「いつの間に、僕の補佐から君の補佐になったのかなぁ?」
はここ最近、土方の仕事の手伝いばかりをしているようだ。
確か、彼女は自分の補佐だったと思うのだけど‥‥とのんびりと言うと、
「あいつ、俺の下にもらったぜ。」
土方は気にした様子はなく、そう一方的に言ってのける。
しかも事後報告だ。
「それは困るなぁ。
彼女は優秀だから傍にいて欲しいのに‥‥」
「馬鹿言ってんじゃねえ。
俺の方があいつを存分に使ってやれる。」
自信たっぷりに彼は言い、口元には勝ち誇ったような笑みが浮かぶ。
その発言はどれほどに傲慢なのかと突っ込んでやりたい所だが、悲しいかな、それは事実である。
彼女の事をよく知る土方こそが彼女を存分に扱うことが出来、また、彼の傍でなければも力を振るうことが出来ない。
分かってはいるが、なんだかこうも堂々と言われると納得することは難しい。
複雑な顔になる大鳥に、それに、と土方が付け足す。
「それに、四六時中他の男の傍になんか置いておけるかってんだよ。」
特にあんたみたいな胡散くせえ男の傍になんかな、と吐き捨てる言葉こそが‥‥恐らく彼の本音なのだろう。
彼女が他の男の傍にずっといる‥‥という事が気に入らないのである。
例えばそれが仕事であっても、男の傍に置いておくのは我慢ならない。
つまりは、嫉妬しているのである。
そして、独占したいのだ。
彼女を。
「そこまでして自分の傍においておきたいのに‥‥君はまだ、彼女の気持ちに応えてあげていないのかい?」
大鳥のため息混じりの言葉に、土方はついと双眸を細めた。
そのまま横目で睨み付ける、彼は愛嬌のある仕草で両手を挙げてみせる。
「先に言っておくけど、君からは何も聞いていないよ。」
「あ?」
「見ていればすぐに分かる。」
その言葉に、土方は不機嫌な顔になり、視線を背けた。
鬼と呼ばれるに相応しい険しい表情に歩いていた隊士たちがびくりと肩を震わせるほどのそれに戻った。
だが、その顔で見つめる先に飴色がふわりと踊ればその途端に、瞳には柔らかさが戻る‥‥というのだから、これで
気づかない人間はいないだろう。
土方は‥‥間違いなく、を好いている。
それが分かったのは、蝦夷に渡ってからだった。
表面上は取り繕っていたが、彼はと別れてから何かが抜け落ちてしまったかのようだった。
心ここにあらず、と言った感じでいつも、どこか遠くを見つめていた。
瞳には力が無く、まるで魂が抜けてしまったかのようで‥‥
だけど、その色を見つけた時だけ、その瞳に色が戻る。
優しい飴色を見つけた時、だ。
彼はその色をひどく優しく、熱く、愛おしげに見つめ、
そして決まって、その後にはひどく苦しげで、今にも泣き出しそうな表情になった。
彼は、
その色に『』を重ねていた。
だから、似た色を持つ佐絵に気を許した。
だけど、やっぱり彼女とは違った。
そして、遠ざけた。
誰も『彼女』の代わりにはならない。
そう言われたみたいだった。
それほどに土方はを想っているのだと、大鳥は気づいた。
突然彼女はもう戦わないと言われたときには驚いたものだったけど、理由が分かればなんの事はない。
死なせたくなかったのだろう。
それだけ大事に思っていた彼女が追いかけてくれた。
彼の弱さも、酷い行いも全て許し、受け入れ、傍にいると言ってくれた。
そうして彼を「好きだ」とも言ってくれた。
彼も、同じ気持ちに違いない。
いや、もしかしたら彼の方が、彼女よりも想いは深いのかもしれない。
だというのに‥‥
「‥‥前と何にも変わらないってどういうことだい?」
今までのように、
土方はの上司で、は土方の部下、だ。
想い合っているくせに何の進展もない、なんて、もどかしすぎてついつい口出ししてしまいたくなる。
想いは日に日に募っていくくせに。
目で追いかけて姿を見つけるだけじゃ足りなくなって、
言葉を交わして、
触れて、
抱きしめて、
口づけて、
自分だけのものにしてしまいたいと思っているくせに。
それなのに彼は、まるで己を律するかのように、伸ばしかけた手を、唇を、想いを、抑え込んで何でもなかった
振りをするのだ。
目にするたびに、お節介かもしれないが、背中をぽん、と押したくなる。
いいじゃないか。
触れても、好きだと言っても、抱いてしまっても。
と。
しかし、
「まずいに決まってんだろ。」
土方はがしがしと後ろ頭を掻いて、そう零した。
「どうして?
彼女も望んでいるのに?」
それが、一方的に土方が想っての事ならばまずいかもしれないが、お互いに気持ちは同じなのだから問題はないじゃ
ないかと大鳥は思う。
そう言うと、彼は腕を組み、難しい顔になった。
「俺は‥‥指揮官だ。」
「‥‥」
「死地に部下を送り込む上官が、てめえだけ良い思いなんぞ出来るわけねえ。」
こういう所が‥‥彼は真面目だ、と大鳥は思う。
割とやっている事は滅茶苦茶な事が多い癖に、事自分の事に関しては厳しいのだ。
確かに今は女に現を抜かしている状況ではないかもしれないが、それでも時折兵士たちは町に出掛けて酒や女で憂さ
を晴らす事だってある。
指揮官かもしれないが‥‥それでも、一人の人間だ。
疲れもするし、鬱憤だって溜まる。
そうしたら皆と同じように晴らしたいと思うのが当たり前だし、晴らしていいと思うのだ。
だから勿論、
人を愛する資格もあるし、愛される資格もある。
指揮官だからといって、自分を戒める必要はない。
「駄目なんだよ。」
それでも、駄目だと溜息交じりに言う彼に、大鳥はどうして?ともう一度訊ねた。
すると彼はため息を吐くと共に、
「‥‥逃がしてやれねえだろ。」
切なげに目を細めて、そんな言葉を口にした。
「‥‥え?」
一瞬、何を言われたのか分からず大鳥が訊ねたが、それを彼は聞いているのか聞いていないのか、そっと目を細めて
愛しい女を苦しそうに見つめながら、零した。
「口にしたら‥‥もう、あいつを逃がしてやれねえ。」
好きだと。
愛しているのだと。
自分の想いを口にしたら。
もう、きっと彼女を逃がしてあげられなくなる。
その言葉で彼女を縛り付けてしまう。
今度こそ、逃げられないように、
どこへも行けないように縛り付けてしまう。
二度と手放さないと彼女に誓ったのに、二度と離れたくないと思ったのに。
でも、それでも、決定的な一言を告げて、彼女を囚われの身にはしたくないのだ。
自分の言葉に囚われて生きて欲しくはない。
彼女には、自由が似合うから。
――どこまでも優しくて、不器用な男――
大鳥はそっと、溜息を零した。
決定的な言葉を告げない事で、
自分の気持ちを隠し続けることで、
最後の最後まで彼女に逃げ道を与えてやろうと言うのか。
愛しい人のためにこの男はどこまでも、自分を犠牲に出来るというのか。
まったくもって、とことんまで優しくて、不器用で‥‥馬鹿な男、である。
「そんなの‥‥もうとっくのとうに囚われてるよ。」
小さな呟きが風に紛れる。
彼は分かっていない。
彼女が自由を放り投げて彼の元へと囚われに来たのだと言うことを‥‥分かっていない。
とっくのとうに、彼女は全てを選んでしまっている。
彼が選んで欲しくない道を選んでしまっている。
そして、それを受け入れる事で彼も、また選んでいるのだ。
「君は‥‥彼女を逃がしてやれるのかい?」
例えば彼女が自分の手の中から逃れようとしたとき、
彼の元を去ろうとしたとき、
その手を離してやれるのだろうか?
逃がしてやれるのだろうか?
「‥‥さあ‥‥な。」
大鳥の真っ直ぐな問いかけに、土方は曖昧に笑って言った。
その声は彼らしくもなく、
余裕のないものだった。
追いつめられたのは恐らく‥‥土方の方なのだ。
「お疲れ様です。」
筆を走らせていると、そんな労いの言葉と共にことんと、机に湯飲みと花林糖を乗せた皿が置かれた。
ふわりと茶の、渋く深い香りが広がり、土方は顔を上げて湯飲みから上がる湯気を辿るようにしてその人を見る。
だった。
「ああ、悪いな。」
言われてそういえば喉が渇いていたんだったと思いだし、湯飲みに手を伸ばす。
いつの間にか悴んでしまった指先は器を通して暖かさが伝わり、指先から少しずつ、体温を取り戻してくようだ。
一口、茶を飲んだ。
西洋のお茶とは違って、渋みがある。
向こうの人間に言わせると「苦い」らしい。
だが、土方はこちらのお茶の方が好きだ。
苦味や渋みの中に、どこか甘さを感じるから。
それが、
淹れる人間の「女らしさ」や「甘さ」だと言えば‥‥きっと大鳥あたりにからかわれることになるのだろう。
「もう少ししたらお昼だから、こっちにお膳、運んじゃいますね。」
は言いながら小脇に抱えていたらしい書類を机の端にとんと乗せる。
そうして、済んだ書類をひっつかんでまた外に出ていってしまおうとする。
彼女は忙しい。
多分、自分と同じくらいに忙しい。
勿論忙しいのは自分のせいでもあるんだろう。申し訳なく思う。
だが、それ以上に、
「おぅ?」
すぐに出て言ってしまおうとする彼女になんだか腹が立って‥‥土方は思わず彼女の腕を掴んで引き留めていた。
強い力で掴まれ、は驚いたような声を上げて、肩越しに振り返る。
土方は視線を手元の書類に落としたまま、ぽつりと、
「‥‥そんなに急ぐ書類でもねえ。
ちっとゆっくりしたらどうだ?」
と彼女に言った。
これに異を唱えたくなるのは勿論の方である。
休めと言っても休まない男が、何故人に休憩を勧めるというのだ。
それはこちらの科白である。
「‥‥‥じゃあ、土方さんも少し休んでくれます?」
そしたら休みます‥‥と言いたげな言葉に彼は苦笑を漏らした。
そうして腕を掴む手を離すと、書類をぱさりと机の上に放り投げて、
「ああ。休んでやるよ。」
だから、
「おまえも少し休め。」
と悪戯っぽく見上げて言えば、は困ったように笑って、頷いてくれた。
客人用の椅子だから、と頑として座ろうとしないに自分の椅子を譲り、彼はどかっと机に腰掛ける。
行儀悪いですよと苦笑で言われたが気にせず、茶を飲みながら座れと何度も促した結果、は根負けして、彼の椅子に
腰を下ろした。
「そういえば、ここって随分と寒いですよね。」
花林糖の皿を差し出しながらは呟く。
いいと頭を振れば眉根に皺が寄る。
構わず言葉を返した。
「ああ。寒いな。」
「‥‥土方さん、冬あんまり好きじゃないですよね?」
「まあな。」
ず、と茶を啜りながら頷けば、はかりかりと固いそれを噛みながら、目を細めた。
「‥‥やっぱり年寄りには寒さが堪えます?」
「爺扱いすんじゃねえ。」
苦笑でこつんと小さな頭を小突く。
あいた、と冗談めかして言う彼女の髪が、さら、と揺れた。
飴色の‥‥優しい色が。
彼の好きな柔らかい色が。
「‥‥なんで。」
「ん?」
肩口でさらさらと揺れるそれに目を留め、小さく呟く。
「なんで、髪‥‥切っちまったんだ?」
質問にはきょとんとした顔になって、すぐに、ああ、と声を上げた。
「けじめのつもりです。」
は静かな声で言う。
けじめなのだと。
何のかと視線だけで問うと、彼女は目を伏せて、
「新選組の幹部ではなく、一人の人間として生きるための、けじめ。」
と告げた。
今までは新選組副長助勤として生きてきた。
彼のために戦う事だけを考えて生きてきた。
でも、
それを彼に拒まれた。
自分の為に生きろと拒まれた。
あの時、
新選組の幹部としてのは‥‥この世から必要なくなったのだ。
だから、
「これからは‥‥一人の人間として、生きようと思ったんです。」
自分の、本当の心と向き合うための、
けじめ、
なのかもしれないなとは思う。
この関係を壊したくなくて、
必死に逃げ続けてきた自分の想いと、しっかりと向き合うための。
「だからといって、やってることは同じなんですけどね。」
は言って、自分の言葉に照れたように小さく笑う。
けじめ‥‥とは言っても、何が大きく変わったか、というのは分からない。
が望むことはあの時と変わらないのだから。
「土方さんの傍に――」
彼の傍にいたい。
彼と共に在りたい。
が望むのはそれだけだ。
「ずっと、ここに、いられれば‥‥」
相変わらず自分は馬鹿の一つ覚えのようだなと、望みを口にして、笑った。
それはとても、綺麗な笑顔で、
思わず、男は息を飲んだ。
好きだと、思った。
そんな愛らしく微笑む彼女が。
傍にいてくれる彼女が。
支えてくれる彼女が。
――あなたが、好きなんです――
どれだけ自分が耳を塞ごうとも、目を逸らそうとも。
彼女は諦めることなく自分の事を「好きだ」と言ってくれる、彼女が。
――俺も――
土方は心の中で告げた。
おまえが好きだ――
胸の中に確かにあるのは彼女への熱い想い。
好きという言葉では到底伝えきれない、激しい想い。
彼は、
彼女とは違って傍にいるだけでは足りなかった。
傍にいるだけではなくて、
想いを通わせて、
触れて、
一つに溶けてしまいたいと望んだ。
もう二度と離れないように。
誰のものにもならないように。
自分だけのものにするように。
一つに、溶けて‥‥
「‥‥ん?」
じっと見つめられることに居心地の悪さでも覚えたのか、花林糖を囓って紛らわそうとする彼女の顔を覗き込む。
影が重なった事で何事かと上げた彼女は、甘ったるい菓子を咥えていて、
ふわりと、
近づくことで、
一層、甘い香りが、強くなって、
ぽきん――
固い音を立てて、それは真ん中あたりから割れた。
琥珀が大きく見開かれた。
「‥‥うん、甘いな。」
そっと元へと戻りながら半分奪った花林糖をかりと口の中でかみ砕く。
驚いたようにこちらを見るの口には半分に折られた花林糖があった。
縛り付けたくないと思うのに、彼女の心を奪いたいと願うのは――勝手すぎるだろうか?

|