11

 

――何故、彼は自分を遠ざけたのだろう。

 

は彼と離れてからずっと‥‥それを考えていた。

 

――何故、土方が自分を遠ざけたのか――

 

戦えなくなったわけではない。

彼の意に反したわけでもない。

道を違えたわけでもないのに、どうして、突然彼が自分を解任すると言ったのか‥‥

 

いくら考えても分からなかった。

どうして、彼が、自分を必要としなくなったのか。

 

答えは――躊躇いがちに彼が教えてくれた。

 

 

――失くしたくねえから――

 

聞こえた声は、耳のすぐ傍。

驚きに目を見張れば、ぼろりと溜まった涙が零れて視界を鮮明にする。

目の前にさらりと揺れる黒髪。

綺麗な髪だと何度も思ったものだと、今更のように思い出した。

 

がちゃんと重たい音を立てて、彼の手から国廣が落ちた。

彼が振るったのは脇差しだ。

だというのに、太刀で強く打たれたみたいな強さだった。

まだ、手が、痺れている。

動かない‥‥とは思った。

いや、動かないのは手だけじゃない。

身体も、思考も、まるで凍り付いたみたいに、動かない。

 

「失くしたくねえから‥‥遠ざけたのに‥‥」

 

刀を握っていた手が小さな背を抱くのを迷う。

触れてしまうのが怖かった。

その小さな身体は壊れてしまいそうで‥‥いや、自分が触れれば彼女を傷つけてしまいそうで‥‥彼は怖いと思った。

そして同時に触れればもう二度と諦める事が出来なくなるだろうという事を知っていた。

触れてはいけない。

そう、思うのに。

恐れを上回る『触れたい』という欲求が、突き動かす。

 

葛藤の末に微かに指先が背に触れる。

掌に布越しに自分とは違う温もりが触れた瞬間、

「っ」

男は衝動的に回した手に力を込めた。

抱き潰すくらいの強さに息が一瞬止まり、は自分が抱きしめられているのだと、ようやく、分かった。

その腕の中は、自分がよく知る、暖かくて優しくて‥‥ひどく居心地のいいものだった。

 

「‥‥」

土方は腕の中の小ささを、温もりをしかと確かめるように抱きながら、すうと息を吸う。

瞬間ふわりと強く彼女の甘い香りがして、それを肺いっぱいに吸い込んだ。

それでも足りなくて、細い首筋に顔を埋めると、途端に香りが強くなる。

香りを吸い込んで、ゆっくりと吐くと、ようやく、呼吸が穏やかになった。

目を閉じるとそのまま眠りにさえ誘われそうなくらいに、心が落ち着いた。

不思議で堪らなかった。

ひどく心が穏やかになるくせに、

わけもなく、不安にもなる。

 

「おまえが死ぬところなんて、見たくねぇ。」

 

声が少し、震えていた。

それを誤魔化すみたいに、一つため息を零す。

 

彼女が死ぬところなんて見たくなかった。

かつての仲間達のように。

儚く散ってしまうところなど、見たくなかった。

彼女を失えば‥‥きっと‥‥

自分はもう、立ち上がる事が出来ないと。

前に進む事が出来ないと‥‥思った。

 

「どこかで幸せに生きてくれれば‥‥それでいいと思った。

おまえが生きて、笑ってるなら、それでいいって‥‥」

 

だから遠ざけた。

どこかで生きてさえいてくれれば‥‥それで良かった。

そう、思っていたのに。

 

「なんで、おまえは‥‥っ」

 

彼の迷いや苦しみを全部はね除けて、ここまでやって来るのだろう。

 

「人がどんな思いでおまえを突き放したと思ってるんだ。」

 

ひく、と喉が震えた。

 

「どんな思いで‥‥おまえを手放したと‥‥」

 

――いっそこのまま抱き潰して自分の身体の内に取り込んでしまえば‥‥この不安は消えるのだろうか?

 

そんな馬鹿げた事を思いながら己の手に僅かに力を入れれば、感じるのは彼女の温度と鼓動。

壊してしまいそうな細さを抱きしめていると、胸の内から一気に想いが膨らんで、溢れてくる。

彼女と別れたあの時、確かに自分で捨てたと思っていた想いが。

どうして留めていられたのだろうかと思うほど後から後から溢れてくる‥‥激しい想いが。

止められない、彼は思った。

もう、止める事なんてできないと。

 

「俺は‥‥」

 

言いかけて、言葉が止まった。

衝動のまま口にするには躊躇われて、一瞬、息を飲む。

そして誤魔化すようにもう一度の身体を強く抱きしめれば、温もりが一層強くなる。

同時に切なさと愛しさがこみ上げて、ちり、と胸の奥を焦げ付くような痛みが走った。

痛い、と思った。

だがそれは、あまりに幸せな痛みだと思う。

そう感じた瞬間、彼は気付いた。

 

「俺は‥‥おまえと離れて、死んじまってたのかもしれねえ‥‥」

 

彼の心は、あの時、死んでしまったのかもしれない。

彼女を手放そうと思ったとき。

彼女への想いを切り捨てたときに、全ての感情を、切り捨ててしまったのだろう。

恐らく、

彼は惰性でここに立っていた。

自分が今まで何を思い、どんな風に生きていたのかさえ見失っていた。

まるで生きる事を拒むように、当たり前のようにしていた呼吸の仕方さえ分からなくなっていて、

いつも、わけもなく苦しかった。

 

それが、

 

「‥‥」

 

土方はそっと、目の前で揺れる飴色を見つめる。

もう一度すっと息を吸うと、柔らかい香りが鼻腔を擽って肺に取り込まれた。

掌に少し力を入れると触れた所から熱が生まれていく。

まるで、息を吹き返すように。

身体のありとあらゆる器官が熱を、力を取り戻していくのが分かる。

 

当たり前のように、すうと自分の呼吸が聞こえた。

それに重なる彼女の少し乱れた呼吸に‥‥安堵した。

生きているのだと‥‥今更のように実感した。

 

そして、

彼は思い出す。

自分のすべき事を。

与えられた役目を‥‥いや、大切な、夢を。

 

全部。

それは彼女が思い出させてくれた。

呼吸の仕方も、熱も、感情も。

放り投げてしまいそうだった大切な事も。

全部、腕の中の女が思い出させてくれた。

 

決して忘れてはならない大事な事を‥‥

 

それが分かった瞬間、

もう、駄目だと分かった。

見なかった振りは出来ない。

無かった事には出来ない。

だって自分はこんなにも、

 

「俺は‥‥おまえの存在に救われてたんだろう。」

 

彼女の存在に救われていて、

こんなにも、

 

「‥‥」

 

恋しくて、愛しくて、堪らないのだから。

 

唇を噛みしめて、土方は言葉の代わりにそっと、唇をその柔らかい髪に寄せる。

緩く食むように何度か触れて、やがて、悔しそうに呟いた。

 

「俺は、おまえがいないと‥‥もう、駄目だ。」

 

腕の中の温もりを、もう、二度と、離すことは出来ないと。

文字通り地獄まで道連れにしてしまう。

ごめんなと内心で謝りながら、もう一度背をきつく抱いた。

だけど、今までよりもっと想いを込めて。

 

 

 

揃って黙り込んでしまえば、聞こえるのは合わせた互いの胸から伝わる鼓動の音だけ。

まるで風さえも二人に遠慮して音を立てぬようにしているのではないだろうかという、少しだけ気恥ずかしく、だけど

幸せな空気の中、土方は黙って彼女を抱きしめていた。

永久にこの瞬間が続けばいい‥‥そう思う。

しかし、彼女からなんの反応もない、というのは正直不満でもある。

不満、というか不安、だろうか。

散々突き放した挙げ句に、こんな風に逃がさないと言うように抱きしめるのは身勝手にも程があるだろうが、それでも

は自分を追いかけて、こんな自分を「好きだ」と言ってくれた。

その言葉には偽りなどなく、だからこそ自分だって偽りのない素直な想いを口にした。

決定的な一言こそ言えなかったが、それに限りなく近しい言葉を言ったつもりだ。

だというのにそれに対して無反応というのは釈然としなくて、

「‥‥おい。」

土方は場違いにもその空気をぶち壊すような怒ったような拗ねたような声を上げた。

自分がそんなに無粋な人間だとは思わなかったが、答えが欲しかった。

自分の気持ちに対しての、

彼女の、答えが。

 

「‥‥?」

 

しかし、その不機嫌そうな顔はみるみるうちに驚きのそれに変わってしまう。

少し身体を離して顔を覗き込むと、は呆気に取られたように目を見開いて、固まっていたのだ。

目がこれ以上ないというくらいに見開かれ、口も微かに開いている。

その表情から察するに、

今の自分の言葉を彼女が理解できていないのだと分かった。

恐らく必死に理解しようとしているのだろうが、追いついていないと言うか‥‥普段は頭の回転が早い癖になんでこん

な簡単な事が理解できないんだと土方は内心で吐き捨てながら、おい、とその肩を揺らした。

「っあ、はいっ!?」

びくっと肩を震わせ、琥珀に色が戻る。

どこか夢見心地でさえあるその瞳をしっかりと覗き込むと、土方は呻くように言った。

「人が一生懸命話してんのに呆けてんじゃねえよ。」

「え?いや、あのっ」

 

は慌てたように声を上げて、続けてこう言った。

 

「なんでしたっけ?」

 

台無しである。

 

土方はひきっと口元を引きつらせ、人の精一杯の気持ちをなんだと思ってやがるんだと口の中で呻いた。

「だから!」

と彼はやけくそ気味に声を荒げる。

およそ甘さとは無縁の、怒りさえ孕んだそれでしかと睨み付けると、再度、音にした。

 

「俺はおまえが必要なんだよ!」

 

‥‥必要‥‥‥?

 

はもう一度、目を見張った。

その様子はまだ、受け入れられていないという顔で、土方はち、と舌打ちをすると、

「伝わるまで何度だって言ってやるよ。」

と低く唸って、がしりと目が逸らせぬように小さな彼女の頬を両手で包んで‥‥否、掴んで、視線を絡め取ったままに

続ける。

「おまえが必要だ。」

「‥‥ひじかた‥‥さ‥‥」

「おまえが傍にいないと駄目なんだよ。」

 

‥‥駄目‥‥?

 

凍り付いた脳が、まるで言葉に少しずつ溶かされるかのように。

少しずつ、言葉が頭の中に滑り込んでくる。

最初はただの単語で。

 

「俺にはおまえが必要なんだ。」

 

俺には‥‥おまえが‥‥必要‥‥

 

やがて、言葉の全体が。

少しずつ、の心に溜まっていく。

 

「おまえに傍にいてほしい。」

 

傍にいてほしい‥‥

 

心に溜まった言葉が、いや、想いが、じわりとの心に浸透していく。

 

すると見開かれた瞳に驚きの代わりに、

少しずつ戸惑いと喜びの入り交じったような色が浮かびはじめる。

そして、同時に涙が浮かび、唇をきつく噛みしめるのが分かった。

 

は必死に言葉を飲み込もうとした。理解しようとした。

いや、理解はしているのかも知れないけれど、それを素直に受け入れられないのだろう。

それも全て、男のせいだ。

何度も何度も‥‥彼女を傷つけ、突き放したから。

そう簡単に受け入れられないのだろう。

これは、自分が蒔いた種だ。

だから、土方は彼女が理解できるまでただひたすら言葉を紡ぎ続けた。

凍ってしまった彼女の気持ちを、溶かすように。

ただ、自分の気持ちを紡いだ。

 

やがて、

ひ、と彼女の口から嗚咽が漏れた。

 

唇が戦慄き、眉は情けなく下がっていた。

泣き出す寸前の子供みたいな無防備な表情に、そんな顔も出来たんだなと今更のように驚いて、土方は言葉を一度、

止めた。

そして、そっと頬を、優しく撫でる。

親指で目元を擽ると、まるで真珠のような一粒が頬を伝った。

指の腹で拭ってやると今度は反対側からこぼれ落ちた。同じように拭った。

 

「ゆめ‥‥を見てるんですか?」

 

震えた唇から頼りない声が漏れる。

 

彼が、自分がいなくてはいけないだなんて言ってくれるなんて。

そして、こんなに優しく触れてくれているだなんて。

夢なのだろうかと、は訊ねた。

 

そんな彼女に土方は双眸を細めて、愛おしげに女を見つめると、いいや、と吐息交じりに囁いた。

 

「これは、現実だ。」

 

彼の言うことは、絶対。

だから、これは、現実。

じゃあ、現実に?

 

「‥‥私‥‥ここに、いても‥‥」

 

先ほどまでの強気な態度とは打ってかわって、縋るような問いかけはあまりに不安げな響きを持っていて、土方は胸が

痛くなった。

だから、その不安ごと包み込むように、そのか細い身体を腕に抱きしめた。

きつく、強く、だけど優しく、抱きしめて彼は言った。

 

「傍にいろ。」

 

優しい声だった。

 

「おまえが‥‥必要だ。」

 

おまえが、

必要だと。

 

ずっと‥‥ずっと‥‥欲しかった言葉だった。

 

自分が必要だと。

傍にいろと。

 

彼に言って欲しかった。

そして、

彼は、

言ってくれた。

 

「おまえが、必要なんだ。」

 

するりと、その言葉がの胸の内に滑り落ちた瞬間、ばちりと色んな物が繋がった。

心が動きだし、同時に、身体の奥から抑えきれない何かがあふれ出して、

「‥‥っ」

は堪えきれずに嗚咽を漏らして、しがみついた。

頼りなげだった指でぎゅっと縋れば彼の拘束も強くなった。

どくんと、布で隔てられた心音が‥‥確かに重なった気がした。

 

「離れるな。」

 

強くかき抱いて、柔らかな髪に唇を寄せる。

吐息ごと脳に直接流し込むように、の耳に唇を当てて、命令した。

――自分で突き放したくせに勝手な言葉だと思った。

しかし、そんな命令には縋るように肩に顔を埋めて何度も頷いた。

 

「はなさ、ないでっ‥‥」

 

ひくりと喉を震わせ、切望するような響きを湛えては乞う。

震える指先がきつく背に爪を立てる。

ちりと布を通して感じた痛みに、胸の奥が焦がれて仕方がなかった。

 

「離してやるもんか。」

 

誓いの言葉のように、彼は音を刻み、の身体を強く抱いた。

 

 

声さえろくに上げられず、腕の中ですすり泣く女は‥‥恐らくこの世で一番の馬鹿な女だと思う。

こんな男を追いかけて、全部放り投げて死へと向かって飛び込んできた、馬鹿で愚かな女だと。

だけど、それ以上に、

愛しい女だと思った。

 

男にとっては、この世で唯一、愛しくて堪らない存在なのだ。