9
叶わないと思っていた。
この、恋は。
絶対に叶わないと。
だから、今、こうして並んでいるのは夢のような気がした。
でも、
「‥‥」
しっかりと繋いだ手の温もりが、教えてくれる。
これは、
夢じゃないと。
それが嬉しくて‥‥千鶴は目元を綻ばせた。
叶わないと、思っていたのに。
「千鶴ちゃん?」
ふいに手の中の小さなそれが震えた事に気付き、沖田は声を掛ける。
どうしたのと優しく問いかけられ、千鶴は自分の心に今まで抱いていた不安を口にした。
「‥‥私、沖田さんはさんの事が好きなんだと思ってました。」
「?」
どうして?と問いたげなそれに、千鶴は口ごもる。
「だって‥‥さんって誰から見ても魅力的ですし。」
は、まるで芸術品とさえ思える見事な美貌の持ち主である。
一つか二つくらいしか違わない‥‥というのに、自分よりもずっと大人で‥‥色っぽくて‥‥
誰もが目を奪われてしまうくらい、美しい女だ。
それに、
「強いです。」
女でありながら新選組幹部にひけを取らない強さの持ち主である彼女は、刀を持って彼らと共に戦うことが出来る。
戦って仲間を、助けることが出来る。
無力な自分は守られればかりで‥‥正直お荷物もいいところだ。
それにそれに、
「とても、聡明な方‥‥ですし‥‥」
副長助勤として立派に役目をこなし、それだけではなく、人への気配りも出来るとても聡明な人間だ。
彼女の良さを挙げれば挙げるほど自分が惨めになっていく。
どれを取ったって彼女に勝てるところなんてありはしない。
別に勝ち負けなんてどうだっていいけれど‥‥それでも女として敵わないところだらけで、どうして彼が自分を好い。
てくれたのか、不思議だ。
「千鶴ちゃん?」
落ち込む彼女に気付いて沖田は顔を覗き込んだ。
ばちっと翡翠の瞳をぶつかって、千鶴はふいっと視線を逸らした。
子供みたいに駄々をこねているみたいで‥‥ひどく‥‥情けなかった。
「僕は別に、綺麗で強い女の子がいいってわけじゃないんだよ。」
そんな彼女に苦笑で沖田は呟く。
慰めているつもりなのだろうが、その言葉で自分はやっぱり十人並みのか弱い子供なのだと改めて認識させられる。
ますます落ち込む千鶴にそりゃ、と沖田は口を開いた。
「‥‥とは特別、仲は良い方だけど。」
彼女が不安に思ってしまうくらい、自分たちは仲が良いかも知れない。
でも、
と、沖田は言った。
彼女が疑うような『特別』は何もない。
「はね‥‥僕と同じなんだよ。」
「‥‥同じ?」
そこで漸く千鶴が顔を上げてくれた。
不安げなそれで見上げられ、沖田は安心させるようにそうっと目元を綻ばせる。
「生き方が‥‥同じなんだよ。」
近藤が大好きで、そのために自らが剣となって生きてきた。
自らが傷つこうとも、大切なものの為なら迷わず命を掛けられる。
多分、似すぎているのだと思う。
まるで、
「命の片割れ‥‥みたいな感じなのかな‥‥」
元々は一つだったみたいに。
似ているのだ。
「でも。」
しょんぼりと落ち込む千鶴に沖田はにこっと笑いかけながら言った。
「残念ながら僕ももお互いの事が好きだけど、異性としては見てないんだよ。」
彼女が危惧しているような特別は何一つ賭してない。
男として、とか女として、とかじゃない。
ただ、魂に近しいものを感じているのだ。
何が‥‥と聞かれても分からない。
これは本能のようなものだから。
「‥‥でも、なんだかそれって羨ましいです。」
ぽそっと拗ねたように呟く千鶴に、沖田はおやと目を丸くする。
隠しもせずに‥‥嫉妬しているのだ‥‥と示されて、
「に嫉妬?」
「っ!」
千鶴はぎくっと肩を震わせた。
見る見るうちに顔が真っ赤になっていくのを見て、くすくすと笑いが漏れてしまう。
「やだな、と張り合ってどうするのさ。」
「そ‥‥それは‥‥」
それが無意味なことくらい分かっている。
だって彼女は自分も憧れるような人だから。
綺麗だし、賢いし、大人だし、腕っ節だって立つし‥‥何より、自分のように迷わない。
凛として‥‥彼女は信じた物の為に突き進む強さがある。
そんな彼女に叶わないことくらい百も承知だ。
でも‥‥でも‥‥
「なんで落ち込むのかなぁ。」
僕は何も言ってないのに、と沖田は苦笑を漏らした。
「は‥‥千鶴ちゃんは千鶴ちゃんでしょ?」
「‥‥」
「僕が好きになったのは、じゃなくて千鶴ちゃんだよ。」
さらりと言われて千鶴はどきんっと胸が痛いくらいに高鳴ったのが分かった。
途端にしゅうっと耳まで真っ赤になるのが分かる。
本当に初な少女だ‥‥
沖田はくすりと一度笑った。
「だから‥‥なのかな?」
「‥‥な、何がですか?」
「僕の手を離すって言ったのは‥‥」
沖田が好いているのが千鶴じゃなくて、だと思っていたから。
だからその手を離そうとしたのだろうか?
離したくないくせに、強がって、
離そうとしたのだろうか?
「あ‥‥そ、そのっ‥‥」
きっと彼女はそう言われた自分の苦しみを知らない。
その手を離されてしまう事の不安を、恐怖を、知らない。
いや、知らなくてもいい。
自分の迷いなど知らなくてもいい。
ただ、
「‥‥絶対離さないから。」
沖田は言って強く、だけど優しく手を握った。
しどろもどろになっていた千鶴はそんな彼に、再び真っ赤な顔になって、黙り込んでしまう。
それでも、応えるようにきゅっと微かな力で握り返されて‥‥沖田はひどく嬉しくて‥‥小さな笑みを漏らした。
さくさくと、再び黙り込んで二人は月夜に照らされる道を歩く。
少しだけ風が冷たかった。
火照った身体を冷やすには、丁度良かった。
とくん、
と控えめな心音がずっと続いている。
身体の火照りは風が収めてくれるけど‥‥心臓のそれはどうにも出来そうにない。
彼と、手を繋いでいる限り。
‥‥離したくはないけれど。
「君にとってはどうかわからないけど‥‥」
ふいに、沖田が口を開いた。
重たい沈黙をうち破ってくれた事に感謝しつつ、なんですかと顔を上げれば彼は前方へと目を向けたまま言葉を続けた。
「戦いを目前に控えたからって僕はちっとも恐れる気持ちはないし、躊躇いもないんだ。」
緊張している‥‥と彼に見えたのだろうか。
でもそれは別の緊張で‥‥そりゃ確かに明日の事を考えれば緊張もするけれど‥‥確実に今は、彼と手を繋いでいる
からだと思う。
それを口にしたらからかわれるのは目に見えていたので黙って聞いていた。
「以前の僕は近藤さんのために剣を振るうって目的があれば、理屈なんて何もいらなかった。」
近藤の為に、彼が迷わず剣を振るっていたのは知っている。
どれほど危険であっても、沖田は近藤のために迷わず戦った。
どれほど汚い仕事であっても、堂々と彼は胸を張っていた。
死にさえ潔く立ち向かうその様は、とても恐ろしくて‥‥だけど同時にとても美しかった。
彼の‥‥為ならば‥‥怖くなかった。
なんでも、出来た。
だけど、
「近藤さんがいない今、僕が剣を振るう理由はひとつだけ。」
彼が亡き今‥‥男を突き動かすものはただ、一つだけだった。
そっと沖田は千鶴を見つめて優しく囁く。
「ただ‥‥君だけのためだ。」
やはり、迷いのない瞳で、彼は言った。
その美しさに‥‥千鶴は見惚れた。
「そうしようって決めたのは僕だし、別に迷いなんかない。
後悔もしない。」
きっぱりと沖田は言う。
だけど‥‥と続けた言葉が少しだけ躊躇うように途切れた。
「‥‥今までは、先を望んだことなんてなかったから。」
ぽつり、と呟かれた言葉に千鶴ははっと息を飲む。
不安げに見開かれるその瞳を見て、沖田は安心させるように笑う。
「別に死に急いでたわけじゃないし、それほど悲観的な生き方をしてきたつもりもないんだけど‥‥」
彼は、刹那的に生きてきたも同然だ。
その時その時で切り抜けれられれば‥‥良かった。
未来の事など、考えた事なんてなかった。
「‥‥沖田さん。」
なんとなく、彼の戸惑いの正体が見えた。
これから待ち受ける戦いは沖田がこれまで経験してきたものと持つべき意味が違う。
「私たちが共に生きるために‥‥」
二人の未来を掴むための、戦い。
「未来のために戦うなんて、僕にとっては初めての事だからね。」
沖田はこくりと静かに頷いた。
「なんだか‥‥変な感じがする。
余計な事を考えすぎてるのかな?」
「余計な事?」
「うん。例えばさ――」
ひょいと首を捻り、彼はもう一度口を開く。
「もちろん僕は負けるなんて思ってないし、絶対に勝つ気でいるからそれはいいけど。
むしろその後のこととか‥‥」
「その後?」
「戦いが終わったら、僕たちはどこで生きていこうかな、とか。」
「あ‥‥」
彼の言葉に千鶴は間抜けな声を上げる。
確かに彼の言うとおり、今の彼女らには確固たる居場所はない。
住処ひとつ探すにしても新選組の元幹部として名を馳せた沖田には難しい問題がある。
「そ、そうですよね。
私、とてもそこまで考えられなくて‥‥」
もうただ今彼と一緒にいられることが幸せで‥‥それ以上の事なんて考えていなかった。
と呟く彼女に沖田は苦笑した。
「うん。
まあ君がそこまで考えてたらびっくりしちゃうけどね。」
「‥‥」
それはどういう意味だろうかと千鶴は半眼になる。
沖田はふるっと頭を振った。
「別に住むところなんかどこでもいいんだ。
そういうことじゃなくて‥‥」
「‥‥」
「ねえ、千鶴ちゃん。」
「はい。」
呼びかけたものの、それきり言葉を紡がずに沖田はじっと千鶴を見つめた。
黙って言葉を待っていた千鶴だったが、その眼差しに少しずつ鼓動が高鳴っていくのを無視することは出来なかった。
意識し始めると頬に赤みが差していくのも止められない。
千鶴を見つめるその瞳の奥底には‥‥今まで自分が見たことのないものを秘めていた。
密やかな、甘い、熱が。
それに気づいてしまうと、意識せずにはいられない。
「もしかして、警戒されちゃってるのかな、僕は。」
真っ赤な顔で固まってしまう彼女に気づき、沖田は苦笑混じりに呟いた。
その言葉にからかいめいた色を感じ、
「‥‥意地悪、言わないでください。」
恥じ入るように視線を伏せながら、千鶴はぼそっと呟いた。
「意地悪、か。」
沖田は静かに笑う。
そういえば昔から彼女には意地悪ばかりしていた気がする。
今は大切にしたいけれど‥‥でも、
「‥‥そうだね。
いっそ、その方が僕らしいのかもしれない。」
「え?」
沖田らしい?
それは一体どういう‥‥
視線を上げれば先ほどよりも何故か近づいている翡翠に気づいて千鶴は言葉を飲み込んだ。
「千鶴ちゃん。
もし僕が、もう一度君に口付けたいと言ったら、君は黙って受け入れてくれる?」
「え!?」
突拍子もない言葉に千鶴は驚きの声を上げるしかない。
一体どうしてそうなったのか‥‥理解できない。
「い、いきなりどうしたんですか!?」
口付けたいと言われて狼狽える彼女に沖田は意地悪く笑ってみせる。
「ちゃんと聞いてなかったのかな?
僕が求めてるのはそんな答えじゃないよ。」
「っ」
「受け入れてくれるのか、くれないのか。
そのどちらかなんだけど?」
そんなことを直接言わせようとするなんて‥‥狡い。
千鶴は真っ赤な顔で睨み付けたが、沖田がそれで許してくれるわけもない。
だから、
「と、時と場合によると思います!」
無言の圧力に負けまいと、必死に顔を引き締めてそう言い放った。
「へえ、時と場合‥‥ね。」
なるほどとどこか納得したように呟き、しかしすぐに、
「つまり、どんな時なら言いわけ?」
沖田はにやりと目を細めて意地悪く問いかけた。
「え?」
引き締めた顔が間抜けなそれになる。
沖田は内心で笑いを堪えた。
だから、
「どんな時ならいいのか‥‥そこを詳しく教えてもらえないと、ね?」
更に詰め寄ると千鶴は慌てたように視線を彷徨わせる。
「そ、それは‥‥」
そこまで答えは用意していないのは分かりきっていた。
先ほどまでの決意はどこへやら、たじろぐしか出来ない千鶴に沖田はくつりと喉を震わせる。
「君の頑張りは評価してあげるけどさ。
どうせならもう少し意地を張れば?」
「‥‥ぅ‥‥」
少女の口から悔しそうなうめき声が上がる。
涙目で見上げられてやれやれと肩を竦めた。
「‥‥そんなだから、僕が意地悪にならざるを得ないんじゃないか。」
沖田は言葉と同時にすっと手を伸ばし、千鶴の両腕をそれぞれ捕らえる。
あ、と思った時には距離が縮んでいた。
「あ、あのっ‥‥」
「いいから。
黙ってなよ。」
そのまま引き寄せられて黙っていられるわけがない。
「な、なんなんですか一体!?」
声が上ずるのを必死に堪えながら千鶴は腕から逃れようと抵抗してみた。
「君みたいな子は、本当ならもっと優しくて心の平穏を与えてくれるような相手を選んだ方が‥‥幸せだったかもし
れない。」
囁く声に隠された闇の色。
それが千鶴の抵抗を止めた。
「僕はね、きっと君をすごく困らせると思う。」
翡翠の瞳に宿っていたのはさきほどとはまた違う別の熱の色。
「でも、多分どんなに困らせたとしても‥‥もう君を手放してはあげられないから。」
からかうような笑みが消え、沖田の眼差しに切実な光が宿る。
そこにある覚悟も、不安も、すべて映し出したような瞳だった。
「僕の存在は君が思うよりもずっと‥‥君の心に大きな影を落とす。」
彼は言った。
「ほんのわずかな未来はあげられても、その先までは分からない。」
きっと先に自分は逝くだろう。
彼女を一人きりにして、逝ってしまうだろう。
それが彼女をどれほど苦しめるか分かっていた。
沖田が彼女を求めれば求めるほど、別れが辛くなることが分かっていた。
それでも、
「僕は君を求めるよ。」
沖田は切なげに瞳を細めて、告げた。
それでも、求めることはやめられない。
「こうして触れることだってやめない。」
細い腕を掴む、自分の手に少し力を入れる。
そのまま砕いてしまいそうな細いそれに。
まるで自分の痕を残すみたいに。
「そうすることで君の傷を増やしても‥‥絶対に、止められないんだ。」
例えどれだけ傷つけても、沖田はもう自分の想いを止めることが出来ないと分かっていた。
その言葉の奥に込められた悲壮にも思える決意を感じ取った千鶴が何か言おうと口を開いた瞬間――
‥‥何も言わせない。
まるでそう告げるみたいに、千鶴の唇が塞がれた。
重ねられた唇の熱は、つい先ほど初めて交わした口付けとは違っていて――
とても切なく、甘いものだった。
沖田は戦いを恐れない。
たとえ相手が千鶴の縁者であっても、きっと迷わずに剣を振るえる。
‥‥それでも。
まるで焦りを示すかのように、より深くなる口付けが教えてくれた。
彼が本当に恐れるものは、これから自分たちが勝ち取ろうとする未来そのものなのだと――
「おきた‥‥さ‥‥」
「駄目、何も言わないでっ」
口づけの合間に離れた唇。
千鶴が言葉を紡ごうとすれば沖田は追いかけ、塞ぎ、更には呼吸さえも奪うかのように深い繋がりを求める。
乱暴とさえ思えるその接吻なのに‥‥合わせた唇が微かに震えていて‥‥千鶴は切なさに喉を震わせた。
伝えたかった。
どうしても、彼に伝えなければいけなかった。
千鶴の答えは、もう決まっている。
彼の手を取ったときから決まっていた。
「‥‥私は、いつだって沖田さんを許します。」
唇を離された瞬間、迷わず千鶴はそう告げていた。
濡れた瞳を向ければ、翡翠のそれがくしゃりと歪んで、再び唇を塞がれる。
「んっ」
千鶴は言葉にならない想いを伝えるみたいに、その口づけに応える。
――いつだって‥‥沖田さんを許します――
意地悪をされても、こんな風に強引に口付けをされても。
「一生、消えないくらいにこの胸に深い傷を残されるのだとしても――」
は、と甘い吐息を漏らしながら千鶴は言う。
もうほとんど立っているのがやっとのくせに、迷いのない瞳を沖田に向けて。
「それでも、君は僕を許す?」
そんな少女を支える男が‥‥縋るような瞳で見つめた。
千鶴は迷わなかった。
「許します。」
きっぱりと、彼を何度だって許すと言った。
その瞬間、彼は泣きそうに顔を歪めた。
「そんなこと言ったって‥‥絶対に泣くくせに‥‥」
その時がきたら‥‥
絶対に彼女は泣く。
泣かせたくなかった。
自分の為に泣かせたくなかった。
壊れてしまうくらい‥‥自分を思って悲しむ姿なんて。
だって、
彼女には、
笑っていて欲しいのに。
「‥‥かもしれません。」
もしその時が来たら泣かないとは約束できない。
でも、
「沖田さんのために流す涙なら‥‥私は構わないから。」
彼のために流すのならば、構わない。
彼のために傷つくのならば、構わない。
ひく、と、沖田は喉を震わせた。
「‥‥そういうの、殺し文句って言うんだよ。」
泣きたかったのかもしれない。
笑いたかったのかもしれない。
だけどどちらも失敗して、ただ歪んだ顔で言うと、千鶴はにこっと笑った。
「沖田さんだっていつも殺す殺すって言ってたんだから、おあいこです。」
邪気のない笑顔に、沖田はまったくと溜息交じりに呟く。
「君って子は‥‥」
苦笑を浮かべたその瞳から、どこか不安定な闇の色もすっかり消えていた。
そうして、ただ、
「‥‥ありがとう。」
くすぐったくなるような綺麗な笑顔で言うと、もう一度だけ、
優しい、口づけを少女に与えた。

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