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――ねえ、君はいつか離れてしまうの?
もう少しだけ、この手を繋いでいてもいいですか?
そう言った彼女は震えていた。
離したくない‥‥そんな響きさえ感じさせるのに。
もう少しだけ、この手を繋いでいてもいいですか?
まるでいつかこの手を離してしまうみたいな言葉を彼女は言った。
いつか君は、離れてしまうの?
――僕を遺して――
涼やかな風が心地よい夜だった。
今日の移動はもうおしまい‥‥とばかりに、沖田はその場で休む準備を始めてしまう。
千鶴はそれを手伝いながらふと、森の向こうを見つめた。
「もう少し‥‥だよね。」
彼らは着実に雪村家の故郷に近づいていた。
きっと明日には薫と再会できるだろう。
父親にも会える。
だけど‥‥
「‥‥」
千鶴はそっと俯いた。
彼女はまだ、薫に返す答えを決めかねていた。
彼と共に行くことはできない。
でも、彼の苦しみを知っているからこそ、その手を無碍に振り払う事も出来ない。
「‥‥」
ちらりと横目で男を盗み見た。
彼はこちらに気づいていない。
――沖田さんは‥‥どう思うだろう?
千鶴は気になった。
自分が揺れていると知ったらどう思うだろう?
きっぱりと『僕は行かない』と答えた彼は。
自分が悩んでいると知ったら‥‥
「‥‥ううん。」
そこまで考えて千鶴は頭を振った。
駄目だ。
もう彼には甘えないと決めたのに。
強くなろうって‥‥決めたんだ。
だから‥‥自分で決めなければいけない。
彼の手を、離してあげなければ‥‥
だけど、
「‥‥」
千鶴は苦しげに顔を歪めた。
離れたくない――
それが彼女の本心。
「千鶴ちゃん。」
不意に名前を呼ばれ、千鶴はびくりと肩を震わせた。
振り返ると彼は微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「おいで。」
おいで、と大きな手を差し伸べる。
――もう、甘えちゃいけない――
そう、思うのに、
「‥‥」
その手を千鶴は反射的に取ってしまった。
重なる大きさにほっと安堵した自分が‥‥嫌いだ。
恥じ入るように視線を伏せる千鶴に、沖田はにこりと笑いかけ、
「あ、あのっ?」
突然手を引いて歩き出した。
一体どこへ向かうというのだろう。
しかし、沖田は千鶴にそんな問いかける間さえ与えず、ずんずんと森の奥へと入っていってしまった。
「わぁ‥‥!」
木々の合間から見える美しい夜空に千鶴の口から思わず感嘆の声が上がる。
満天の星空には白い月が輝いていた。
「今日は空がよく晴れたから君の気分も変えられるかと思って。」
沖田は美しい夜空を見上げる横顔を見つめながら優しく微笑んだ。
そんな言葉に千鶴は空から沖田へと視線を移す。
また‥‥だ。
と千鶴は思う。
また、彼に余計な心配を掛けてしまった。
駄目だなと己をしかり飛ばしながら、にこりとこれ以上彼を心配させまいと笑みを浮かべてみせる。
「気持ちが楽になりました。」
ありがとうございますと微笑みかければ、沖田は双眸を細めてじっと彼女の顔を見つめる。
まるで‥‥心の中を見透かすみたいに。
「話してごらん。」
その見抜くような視線に居心地の悪さを千鶴が感じるよりも先に、沖田は口を開いた。
「君はどうしたいの?」
その問いかけにどきりとした。
まさかそんなに単刀直入に聞かれると思わなかったから。
「私は‥‥」
一瞬だけ、迷う。
彼に自分の気持ちを打ち明けるのは甘えではないだろうかと。
だけど、同時にとても聞いて欲しかった。
彼の気持ちが‥‥知りたかった。
自分の迷いを知って、彼がどう思うのか。
「薫の言葉は‥‥真実だと思うんです。」
故郷を奪った人たちに向けている憎しみも、自分たちの居場所を作りたいという願いも‥‥
真実だと思うのだ。
「‥‥薫にされたこと、忘れたわけじゃありません。」
自分にした事よりも、沖田にした数々の事を‥‥忘れたわけでも許せるわけでもない。
でも、
「それでも‥‥薫は私の兄なんです。」
彼は、間違いなく自分の血の繋がった家族。
彼の憎しみや苦しみはよく分かる。
自分には傍でその憎しみや苦しみを癒してくれる人がいた。
沖田が傍にいたから‥‥見失わずにいられた。
でももし、これが逆の立場だったら。
薫は、自分のもう一つの姿だ。
そう思ったら‥‥どうしても薫を憎むことはできなかった。
「君は、彼らと共に生きたい?」
千鶴の答えを促すように、沖田は目を細める。
「‥‥もしも、皆で一緒に暮らせるなら、幸せなのかもしれないと思ったんです。」
彼ら羅刹は普通の生活が出来ない。
人目を忍んで生きなければいけないのならば、共に暮らした方がいいのかもしれない。
そう思ったこともあったけれど、
「薫は自分たちの居場所を作るために、他の誰かを傷つけようとしているから‥‥」
千鶴は緩く頭を振った。
「それだけは出来ません。」
自分たちの幸せの為に誰かを悲しませるなんてこと、千鶴は出来ないと思った。
「だから、薫が鬼の王国を作るなんて夢を諦めてくれるなら――」
人を傷つけることもなく、共に生きようというのならば。
それなら一緒に生きられるんじゃないかと‥‥
「‥‥随分都合のいい話だね。」
千鶴の言葉に沖田は苦笑で呟く。
「邪魔者は根絶やしにしてでも自分たちの居場所を作りたいと願う彼らが、素直に君の説得を聞き入れてくれると思う?」
「それは‥‥」
口ごもった。
彼の言うとおり‥‥思わない。
根本的に、薫と千鶴では考えが違うのだ。
相容れるわけがなかった。
思わず黙り込んでしまった千鶴に、沖田は淡い微笑を浮かべた。
「僕は、君の望みを叶えたかったんだ。」
「‥‥え?」
言葉の意味がよくわからなくて、思わず目を見開いて問い返していた。
沖田は相変わらずの微笑を湛えたままで優しく続けた。
「もしも君がどうしてもって言うなら、少しだけつきあってあげようかとも思った。」
どうしても、
千鶴が薫たちと共に生きたいというのならば‥‥
つきあってあげてもいいと思った。
どうして?
と問いたげな瞳を向けられて、沖田はそっと優しく微笑む。
「僕は君が欲しいものを与えてあげたい。」
彼女が望む世界を与えてあげたい。
「君が本当に望むものを、ね。」
本当に望む‥‥世界を。
彼女にあげたいと沖田は思った。
「‥‥どうして‥‥?」
今度は、音にして問いかけた。
どうして、
どうしてそんな優しいことを言ってくれるのか。
聞きたかった。
だけど、沖田は微笑むだけでその問いには答えない。
その代わりに、
「だから‥‥薫の誘いには絶対乗らない。」
彼はきっぱりと首を振った。
どうして?
どうして?
「‥‥君が心から望んでいるのは、羅刹として生きる道じゃないから。」
どうして?
馬鹿みたいに、そんな問いかけしか出てこない。
どうして、
何故‥‥彼はそう思うのだろう?
自分は‥‥自分の気持ちは‥‥
視線を伏せる千鶴に、それとも、と沖田はその瞳を覗き込むようにしながら訊ねる。
「化け物だからと諦めて、ずっと暗い闇の中を生きていく?」
「っ」
咄嗟に言葉が出なかった。
そんなの望んではいない。
でも、望まなくてもそうせざるを得ないわけで。
自分は‥‥鬼で。
羅刹で‥‥
化け物。
「そんな生き方、君には似合わないよ。」
そう自らを嫌悪する彼女を否定するみたいに沖田はきっぱりと言った。
「君には‥‥眩しいくらいの光が似合う。」
千鶴は‥‥お日様のような存在だと彼は思った。
いつだって柔らかくて、優しくて、暖かくて。
翳りを知らず、誰にだって分け隔て無く光を与えるお日様のような存在だと。
そんな何も知らない少女を‥‥以前は嫌いだと思ったことがあった。
だけど、今は違う。
その馬鹿みたいに優しい所も真っ直ぐな所も、暖かさも。
影を知らない‥‥綺麗な所も、
ただただ愛しくて堪らない。
彼女は光の下で生きていくのが相応しい。
そう、
「‥‥君が良くても僕が絶対に許さない。」
彼女には闇の世界など似合わない。
「君が望むのは‥‥そんな世界じゃない。」
きっぱりとした沖田の言葉に、ああ、そうだったと今更のように千鶴は思いだした。
自分は羅刹としての未来なんて望んでいない。
ただ、平和に暮らしたいだけ――
それを、彼は思い出させてくれた。
既に羅刹になってしまったのだから、とどこか諦めていた彼女の弱さすら見抜いて‥‥
「ごめん‥‥なさい‥‥」
くしゃと顔を歪ませて小さく謝る彼女に沖田は優しい笑みで頭を振ってみせる。
「変若水の効果を消す方法さえ分かれば、君も僕も羅刹の狂気から解放される‥‥」
それだけが彼らに残された唯一。
千鶴は本当に見つかるのだろうかと思った。
そんな夢のような方法が見つかるのだろうかと。
だって‥‥誰も見つけた事がないのだから。
「‥‥」
じっとこちらを不安げに見つめる千鶴に沖田は「もしも」と告げる。
「もしも君が全て諦めて、願いを放り出すつもりなら――」
沖田はそっと千鶴の手を取った。
小さな手を、離すまいと両手で包み、慈しむように優しい眼差しで、
「――僕が、君を殺してあげるよ。」
彼はそう言った。
どくんと、
血液が逆流するのが分かった。
怖くはなかった。
自分を殺すと言っているのに、怖くはなかった。
だって‥‥その言葉はあまりに、優しくて、
暖かいから。
怖く、なかった。
「君が前に進むことまで諦めるつもりならどこにもいけないように僕が終わらせてあげる。」
千鶴が諦めてしまうのだとしたら、
人として生きることを諦めてしまうのだとしたら、
その幕引きは自分がしてあげると彼は言ってくれた。
最期の最期まで‥‥千鶴を人のままでいさせてあげたいと。
その言葉から、泣きたくなるくらい、優しい想いが伝わった。
どうして?
どうして彼は自分にこんなにも優しいのだろう?
どうして?
自分はあの人ではないのに‥‥
どうして?
「僕は最後まで諦めない。」
繋いだ手に微かに震えが伝わる。
千鶴のものではなかった。
見つめる男の瞳が僅かに、揺れていた。
不安で‥‥揺れていた。
「だから君も、僕と一緒に‥‥」
千鶴の表情をうかがいながら、言葉の後半を飲み込んでしまう。
彼は怖かった。
人として――自分と共に生きたいと‥‥彼女が願ってくれないかもしれないという事が。
怖かった。
少女が、
この手を振りほどいて、
自分から離れてしまうことが、
怖くて、怖くて、
堪らなかった。
何故なら男は‥‥
「僕は‥‥」
目の前の少女を、
雪村千鶴という女を、
――愛しているから――
拒まないで。
この手を、
離さないで‥‥
「‥‥私――」
脆く、揺れる翡翠を見つけた瞬間に、
彼の不安や弱さを見つけた瞬間に
千鶴の中で想いが膨らんで、弾けた。
「私‥‥諦めたくないです!」
彼の願いを叶えたいと思った。
否違う、それは彼の願いであって‥‥自分の望みでもあった。
「私、沖田さんと一緒にいたい!」
熱で浮かされたように身体が熱くて、気づけば涙が止めどなく零れていく。
諦めてしまうほうが落なのだとしても、前を向いて歩いて行きたいと思った。
「ずっと、沖田さんと一緒にずっと‥‥!」
しかと掴んでくれるその手を握り返して千鶴は思いの丈を言葉にする。
この手を離さなければいけないと思っていた。
強くならなければいけないと。
でも、
でもやっぱり、
「一緒にっ‥‥」
彼と‥‥どこまでも一緒に。
在り続けたいと思った。
「ずっと一緒にいたいですっ!」
想いが内側から溢れ、まるで激流のように流れ落ちていく。
気がついたら千鶴は堪えきれずに沖田に縋り付いて泣いていた。
言葉と共に溢れた涙が、いくつも、いくつも滑り落ちていく。
「私‥‥わたしっ‥‥」
千鶴は彼への抑えきれない想いを口にしようとする。
だが、それは嗚咽に邪魔をされて言葉に出来ず、それをただ伝えるために縋る手に力を込めた。
「何も、言わないで。」
沖田はそっと擽るような吐息を零した。
君の想いは分かってる。
真っ直ぐな君の気持ちは十分に伝わっている。
だから、もう言葉にしなくても、いい。
「‥‥君は‥‥僕の傍に‥‥」
――ただ、傍にいてくれればそれでいい――
言葉は‥‥吐息に変わった。
涙を拭う指先がそっと何かを意図するように、触れる。
千鶴は顔を上げていた。
切なげにこちらを見つめる瞳とぶつかった瞬間、彼女は何かを感じ取った。
「‥‥」
誘われるように、睫を震わせて瞳を伏せる。
彼はかすかな吐息を洩らし、緩やかな動きで唇を重ねた。
震える指先がまるで壊れ物でも扱うかのように大事に触れてくる。
吐息が、指先が、唇が、
全てが、自分を慈しむように触れる。
その時どれだけ自分が大切にされているのか、
彼にどれほどに想われていたのか‥‥気づいた気がした。
不器用な愛情に‥‥愛しさが溢れて、胸が壊れてしまいそうで‥‥千鶴は彼に縋る手に力を込めた。
傍にいたい。
離れたくない。
彼と共に、生きていきたい。
――あなたを――愛しているから――
そう、彼に伝えるみたいに。

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