10
目の前に広がっているのは、夢で見たものと変わらない景色。
だけど優しい面影はなく、崩れ落ち、朽ちた家々が惨たらしさを物語る。
「ここが‥‥私の‥‥」
ついに千鶴は生まれ故郷にたどり着いた。
変わり果てた、寂しい、故郷に。
そして‥‥
「おかえり、千鶴。」
雪村の家があった場所で、ずっと探していた雪村綱道と、兄薫が二人を待っていた。
ひときわ大きな家だったそれは、焼け残った柱だけを残している。
懐かしい‥‥と思うにはあまりに無残な形だった。
「ねえ‥‥ちゃんと答えを出してくれた?」
薫の問いに千鶴は静かに頷く。
「話は薫君から聞いているんだろう?
さあ、一緒に王国を作り上げよう。」
「父様‥‥」
彼の言葉に千鶴は不穏なものを感じ取った。
まるで彼は雪村一族の再興よりも人間を滅ぼす軍隊を作ることの方が大切なようだ。
ただ‥‥怨恨に囚われ‥‥何もかもを見失ってしまったのように。
「どうしたんだい、千鶴?
少し顔色が悪いようだが、まさか、血を断っているんじゃないだろうね。」
「‥‥え?」
「おまえはもう羅刹なんだ。
血を飲まなければ狂い始めるぞ。」
懐かしい父親の声はまるで子供を叱るみたいな口調だった。
それでも千鶴が感傷に浸れないのは、その声に狂気が孕んでいるから。
「折角だから、沖田を殺して血を吸えば?」
青ざめる千鶴に薫がからかうような口ぶりで言う。
「そうだな、それがいい。
羅刹の代わりなどいくらでもいる。」
その提案に賛同する綱道を、千鶴は心底信じられないような目で見た。
「‥‥千鶴ちゃん、どうしようか?」
だが沖田は動じず、千鶴を見つめて微笑んだ。
「君のためなら僕の命くらいくれてやってもいいんだけど。」
当然‥‥千鶴の答えは決まっている。
「私は最後まで諦めないって、沖田さんと約束したじゃないですか。」
きっぱりとその目を見て言うと、沖田は満足げに頷いた。
そう、一緒に変若水の呪縛を解く。
何より大事な人を失ってまで、保ちたいものなんて彼女には存在しない。
それが例え、育ててくれた優しい父親でも、
唯一血を分けた兄だったとしても。
「千鶴‥‥まさか‥‥」
その言葉に綱道が驚きの表情を浮かべた。
薫は何も言わない。
彼は答えを予測していたかのように、黙って二人を眺めている。
「私は、ふたりとは一緒に行けません。」
決然とした眼差しで、千鶴はきっぱりと告げた。
「俺も、故郷も、育ての親も捨てるんだ?」
暗い憎悪を宿した薫の瞳が、悲しげに揺れていた。
「そうまでして‥‥おまえは男を選ぶんだ?
沖田なんて、ただのしがない人間じゃないか。
それも今は変若水のせいで狂い始めてる。」
「薫‥‥沖田さんを悪く言わないで。」
彼女にとっては沖田はかけがえのない存在だ。
それを知っているくせに、薫はあえて千鶴に言わせようとしている。
‥‥まるで、未練を振り切るみたいに。
「私は、沖田さんが好きなの。」
勿論、薫や父親が嫌いというわけではない。
二人を一緒にいたいと思う。
でも、彼らを諦めてでも‥‥
「沖田さんと一緒にいたい。」
彼と、共に生きていたい。
千鶴は真っ直ぐに薫を見据えて想いを紡いだ。
「羅刹の軍隊なんて欲しくない。
誰かを傷つけて作る王国なんて要らない。」
誰かを傷つけてまで、自分たちの居場所を作りたくない。
自分は‥‥真っ直ぐ誰にも恥じることなく生きていたい。
そう、沖田が似合うと言ってくれた光の下で。
「‥‥俺たちのすること、気にくわないんだ?」
そんな千鶴を心底侮蔑するかのように薫は目を眇める。
その声は静かな怒りに震えていた。
「俺たちの夢を壊すつもりなんだ?
俺は‥‥された事を返したいだけなのに。」
理不尽な理由で自分たちを虐げた人間に‥‥ただ復讐したいだけなのに。
そう告げる彼がひどく、哀れで悲しい。
彼に今残されているのは人間への恨みだけ。
もしここで何事もなかったように別れるなら、千鶴たちの望みも薫の望みも叶ったかもしれない。
でも‥‥
千鶴は薫の望みを認められない。
薫がただ一人の肉親というのならば、彼が起こそうとする悲劇を止めるのは自分だと思った。
そして‥‥
「おまえらだけ幸せに暮らすなんて、兄さんはどうしても許せないなぁ‥‥」
薫もまた、千鶴の望みを認められない。
ただ何も知らずに幸せに生きる事なんて、許すわけにはいかない。
二人は同じ胎から生まれたのに、同じ夢を抱くことは出来ない。
「俺は、俺の夢を貫くよ。
たとえ可愛い妹が泣いてもね‥‥」
「知ってる。
だから私は――」
いや、私たちは――
そ、と沖田が千鶴の前に踏み出た。
潔い真っ直ぐな眼差しを薫に向けて。
「力尽くでも君たちを止めるよ。
僕たちにも叶えたい夢があるから。」
今、このとき、千鶴と薫は完全に決別した。
お互いの瞳にもう未練はない。
それぞれの夢を叶えるために‥‥迷いはなかった。
「お願い、父様。
目を覚まして‥‥」
千鶴は狼狽える綱道へと声を掛ける。
羅刹の軍団なんて誰も幸せにしない。
そう、気づいて欲しくて声を上げた。
「私たちの恨みを晴らすために、関係ない人まで傷つけて良いの?」
確かに、雪村家は人間に滅ぼされた。
でも鬼を滅ぼそうとしたのはこの国の人間全てではない。
そんなこと‥‥彼だって分かっているはず。
「父様はお医者様でしょう!?
ずっと人の命を救ってきたじゃない!」
もし人間を滅ぼそうというのならば‥‥彼は何故そんな事をしたというのだろう。
あの時の父は確かに、必死で人の治療に当たっていた。
決して人間を全て恨んでいるという気持ちはなかったはずだ。
「それは‥‥」
迷うように綱道は視線を落とす。
きっとそう、彼は羅刹の力に取り憑かれているのだ。
あのおぞましい力に‥‥魅せられているだけ。
「鬼と人だって仲良く暮らせるわ。
憎しみ合う必要なんて無いもの!」
少なくとも‥‥千鶴はそうだ。
里を滅ぼした人間は憎いと思うけれど、その全てが憎い訳じゃない。
沖田や‥‥それに出会った人たちは今でも大好きだ。
憎む事なんて‥‥出来ない。
「千鶴、おまえ‥‥」
綱道の瞳に、人としての迷いが浮かんだ。
「はははは!本当に甘いね!」
葛藤する彼を無視して、薫は千鶴の言葉を笑い飛ばす。
「人間と仲良く暮らそうとして、俺たちの家は滅ぼされたんだよ!」
侮蔑と怒りを孕んだ声が千鶴の耳を打つ。
「でも‥‥だからって、悲しみを増やしてなにになるの?」
もし、薫たちが鬼の王国を作り上げたら、当人に無関係な理由でたくさんの命が犠牲になる。
あの日、千鶴たちが里を追われたのと同じように。
「自分の居場所を守るために他の誰かを苦しめてもいいの!?」
薫は誰よりも苦しみを知っているはずだ。
でも‥‥
「もし虐げられたくないなら、自分が強くなればいいだけの話さ。
苦しむような弱さがいけないんだよ。」
酷薄な笑みを浮かべながら、薫は言い放った。
「――こんな風にね!」
その時薫が手にしていたのは――
「変若水‥‥」
羅刹を作る魔の薬。
「薫っ!?」
その赤い、血のような液体を薫は一気に煽った。
液体が喉を嚥下するのが見えた。
途端、
「う‥‥うがぁあああ!?」
彼は苦しげに胸元を掴んだ。
その姿も鬼としてのものに変化する。
「どうして‥‥どうして変若水なんて!」
青ざめた様子で訊ねる千鶴に、薫は乱れた息を整えながらにやりと妖しげに笑ってみせる。
「変若水で鬼の肉体を強化するには、どれくらいの濃度が必要になるか‥‥」
苦しげに顔を歪めながらも、愉悦の色を同じ色をした瞳に浮かべる。
「改良するのは簡単だった。
なにせ、可愛い妹が実験台になってくれたからね。」
「そんな‥‥」
薫は強くなるために変若水を飲んだというのか。
強さのために自分を犠牲にすると言うのか。
「沖田が弱くないことは知ってるよ。
だから‥‥俺は更に強くならなくちゃならない。」
すらりと薄い笑みを浮かべたまま薫は刀を抜いた。
沖田は応えるように刀を抜き放ち、構える。
「‥‥悪いんだけど僕にとってはおまえの理由なんて知ったことじゃない。」
その声音は真剣そのものだった。
薫への挑発ではなく、純粋な気持ちを音に変えているのだ。
「僕はこの子と生きなくちゃいけない。
だから絶対に負けられない‥‥それだけだ。」
「‥‥沖田さん‥‥」
千鶴は己の中にある彼と同じ気持ちを噛みしめて、胸の上から手を当てる。
彼と‥‥生きたい。
どこまでも生きたい。
だから‥‥ここで死ぬわけにはいかない!
「――馬鹿じゃないの!?」」
薫はその純粋な想いを嫌悪するかのように吼えて、走った。
ざん、と羅刹化されて高まった腕力が恐るべき速度で刃を打ち込む。
千鶴には到底目で追えるものではなかった。
ただ次の瞬間、がん!と甲高い音がして刃が噛み合うのが見えた。
沖田は刃を交わらせながらにやりと薄く笑みを浮かべ、その力を上手く受け流して再び間合いを取り直す。
「‥‥どうせ、沖田はすぐに死ぬよ。
羅刹の力は自分の寿命を削るって知ってるの?」
「っ!?」
言葉に千鶴は驚愕した。
羅刹の力が、その人の寿命を削る?
それじゃ力を使えば使うほど、沖田の命は削られているということ?
それは即ち‥‥
彼の残りの命が短いかもしれないということ――?
「‥‥知ってるよ‥‥」
「っ!?」
一歩を踏みだして告げる沖田の言葉に、再度千鶴の目は見開かれる。
見上げた横顔には‥‥驚きも、迷いもなかった。
知っているという言葉は偽りではないのだろう。
彼は知っていた。
だから彼はあれほどに恐れたのか。
この先の未来を‥‥
「知ってるよ。」
自分の命がもう長くないことなど分かり切っている。
でも、だからこそ、と彼は笑った。
「だけど残り少ない命なら、尚更おまえには渡せないだろう?」
沖田の眼差しは穏やかに凪いでいた。
そしてふたりは同時に地を蹴った。
再び切り結び――
わずかに押し負けた沖田の腕から血が滴り落ちて大地に赤黒い染みを作る。
それでも怯まずに次の一撃を放った。
目にも留まらぬ白刃の一閃が今度は薫の身体に傷を作った。
互いの傷が癒えるまで待たず、三度ふたりは刃を振るう。
やがて‥‥
「沖田さんっ」
彼の身体により多くの傷が刻まれた。
「薫、やめて!!」
血が滴り落ちる度にいてもたってもいられなくなり、千鶴は声を張り上げた。
こぼれ落ちる血の一滴が、彼の残りの命の断片にも見えた。
一つずつそぎ落とされ‥‥その命が尽きてしまうのではないかと‥‥思った。
「薫は強くなったじゃない!」
もう他者に虐げられないくらい、優れた力を手にしたじゃないか。
「なのに‥‥どうして戦おうとするの!?」
もし薫が武器を捨てるなら、沖田は彼を攻撃しない。
薫が戦いを望まないのであれば、戦う理由はないはずだ。
「私たちは薫を傷つけたいんじゃないの!」
ただ、
「人を悲しませる戦いをやめて欲しいだけ。」
ただ、
「変若水の効果を消したいだけ‥‥!」
「――うるさいな、黙っててくれよ!」
わめく妹の声が耳障りで仕方がない。
甘いことばかりを言い続ける妹が煩わしくて仕方がない。
世の中はそんなに綺麗じゃない。
だから‥‥だから自分は、
自分たちは‥‥虐げられ、苦しめられた。
薫はぎろっと怒りに満ちた瞳を千鶴に向けた。
「沖田よりも先に死にたいのか!?」
「っ!?」
激昂した薫は怒鳴り散らしながら、千鶴に向かって大きく踏み出した。
千鶴を殺すつもりだ。
だというのに身体がまるで凍り付いてしまったかのように反応しない。
沖田はちと舌打ちを打ち、薫を追って地を蹴る。
でも二人は間合いを取っていて‥‥互いを隔てていた距離だけ、沖田は薫よりも後手になる。
世界がゆっくりと動いた。
目前まで迫る薫の姿も‥‥ゆっくりになって‥‥
そのとき、
誰かが千鶴の前に飛び込んだ。
「ぬぐあぁっ!?」
肉を刺す嫌な音が聞こえた。
そして、悲鳴が‥‥
「父様!?」
薫が繰り出した刃の切っ先が貫いたのは千鶴ではなく‥‥綱道の身体だった。
違うことなく心臓を一突きするように、彼の胸には深々と刃が穿たれていた。
一瞬、千鶴はどうして彼が飛び出したのか分からなかった。
ただ振り返るその瞳が以前の、優しい父のものだと気づいた瞬間、理由が分かった。
自分を‥‥庇った。
「この‥‥邪魔をするな!!」
薫は怒鳴りながら綱道を蹴り飛ばし、肉に食い込んだ刃を引き抜く。
「父様!!」
倒れ込んだ綱道の身体を千鶴は咄嗟に手を伸ばして抱き留めた。
そのときには、薫の背後に沖田が迫っていた。
彼はくるりと身体を反転させて刃を振り下ろすが、沖田の剣術の方が彼よりも純粋勝っていた。
羅刹の血も、鬼の血も‥‥関係ない。
僅かな揺らぎほどの隙さえ、沖田の澄んだ眼差しは捉えていたのだ。
そして‥‥
さん――
やけに静かな音だった。
それが人の命を奪う音だとは思えないくらいに‥‥静かで澄み切った音が千鶴の耳に届いた。
「‥‥俺‥‥は‥‥」
どさりと薫は膝から崩れ落ちる。
どこか遠くの闇に眼差しを向け、薫の唇は微かな息を吐き出した。
「ただ‥‥またみんなと一緒に‥‥」
寂しげな呟きよりもどくん、と鼓動が大きく聞こえる。
深々と、刃で貫かれた心臓から。
どくん‥‥と、その音が一度だけ大きくなった。
それが、最後。
「‥‥」
薫はそのまま静かに事切れた。
「‥‥薫‥‥」
倒れたその人は、もう何も喋らない。
何も映さない。
覚悟をしていたはずだったけれど、命の片割れを失った瞬間‥‥胸にぽっかりと穴が空いた気がした。
彼とは最期までわかり合えなかった。
本当は‥‥わかり合いたかった。
そして出来るならば‥‥生きて欲しかった。
永遠に失われてしまった兄を思い、千鶴は黙したまま奥歯を噛みしめた。
その時だ。
「‥‥ち、づる‥‥」
自分を呼ぶ微かな声が聞こえた。
「‥‥」
千鶴は何も言わずにまだ暖かい手を取る。
彼の身体に刻まれているのは鬼にとっても完全な致命傷だ。
例えこの場にどのような名医がいたとしても彼を救うことは出来ない。
それが分かったからこそ、千鶴は何も言えなかった。
綱道は虚ろな眼差しで千鶴を捉えて、震える声を紡いだ。
「この地の、清き水は‥‥変若水を薄める‥‥」
「‥‥え?」
「変若水を‥‥浄化‥‥できるやも、しれん。」
驚きの眼差しで見下ろす我が子を、綱道は優しい顔で見た。
「おまえの、父親らしい行いが‥‥最後に、できただろうか?」
にこりと、いつもように笑ってくれた。
千鶴が大好きな‥‥優しい父の顔で。
「‥‥父様っ」
千鶴は泣きそうな声で父を呼んだ。
二人には血のつながりはない。
だけど、確かに彼が与えてくれたのは‥‥親としての愛情だ。
千鶴はそれを知っている。
たとえ、血が繋がらなくても、
「私は‥‥ずっと父様のこと、本当の父親だと思ってる‥‥!」
彼は紛れもなく、自分の父親だ。
「‥‥そう‥‥か‥‥」
そんな言葉に、綱道はひどく嬉しそうに笑って――
まるで眠りにでもつくかのように、安らかに息を引き取った。
「‥‥」
千鶴は腕の中で息絶えた父親を見つめ、ただひたすらにこみ上げる嗚咽をかみ殺す。
覚悟していた。
全部覚悟していた。
覚悟して戦いに挑んだ。
だからといって悲しくない訳じゃない。
わかり合えないまま逝った兄。
最期まで娘を思ってくれた父。
そんな彼らを失った事は‥‥どうしても悲しかった。
苦しかった。
「‥‥」
唇を噛みしめて俯く千鶴を、不意に沖田が抱き寄せる。
「‥‥」
いくら考えても言葉が出て来なくて、千鶴は縋るように広い胸に身を預けた。
沖田は彼女の髪を指先で梳くと、子供をあやすように頭を撫でてくれた。
そうして、優しい声で許すように告げる。
「‥‥泣いていいよ。」
「沖田、さん‥‥」
その言葉がまるでせき止めていた何かを取り外したかのように、
「っう‥‥」
千鶴の瞳から涙がこぼれ落ちた。
ぼろぼろと後から後から溢れてきて止まらない。
そんな彼女を沖田は強く抱きしめる。
彼女の悲しみまで受け入れるように。
彼女の弱さまで包み込むように。
「沖田‥‥さん‥‥沖田さん!」
たくさんのものを失った悲しみと、何よりも大切なものが無事な喜び。
様々な感情が胸の内で交錯する。
こらえきれずに千鶴は泣きじゃくった。
そんな彼女を優しく抱きしめながら、彼はそっと、
「これで‥‥すべて‥‥終わった。」
静かに告げた。
すべて終わった。
彼女たちの戦いは、今、ここで。

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