進軍中だというのに随分と長居をしてしまった。

 

は沖田にそろそろ戻ろうと言って水辺を離れる。

もう少し当てていろと言われたので一応手拭いは頬におしつけたまま、だ。

 

「そういや、総司。

おまえ、何回くらい羅刹になった?」

突然の質問に沖田は首を捻る。

「多分‥‥もう片手は越えたかなぁ?」

正確には覚えていない。

いちいち数えてもいなかったから。

「‥‥五回‥‥か‥‥」

難しい顔では唇を噛んだ。

 

土方と沖田とでは、沖田の方が先に変若水を飲んでいる。

羅刹となった回数では確実に土方の方が多いだろうが‥‥沖田の場合は労咳という病に冒されていた。

彼の残りの命を考えれば‥‥多分。

 

「‥‥なに?

羅刹になった回数が多いと、拙いことでもあるの?」

「そんなの拙いに決まって‥‥」

は顔を上げ、沖田がきょとんとしているので眉を寄せて訊ねた。

「おまえ‥‥まさか知らないの?」

なにが?

沖田は声に出さずに訊ねた。

 

「‥‥羅刹の力の源が、その人の寿命だってこと。」

 

知らないの?

と聞かれて、沖田はただ双眸を細めただけだった。

 

「ああ、やっぱりそういうことなんだ?」

「‥‥知らなかったんだな‥‥」

 

ははう、と溜息を吐いた。

 

「知らなかったけど‥‥おおよその予想はついてたかな‥‥」

沖田はなんてことないという風に肩を竦める。

それは嘘ではない。

人並み外れた戦闘能力と治癒力‥‥それには何らかの代償があるのだと。

変若水という薬がどれほどに優れていようと、所詮は人の身体。

限られた力を爆発的に高めるためには、その人の身体が使われているに違いない‥‥と。

そう考えれば答えは必然、出てくる。

自分の命を削って‥‥その力を充てているのだと。

 

「‥‥出来れば、もうおまえは羅刹になるなよ。」

 

はこちらを見上げ、ひどく真剣な様子で言った。

琥珀の瞳は心底自分を案じているのだと分かった。

でも、

 

「それは約束できない。」

 

彼はあっさりと頭を振った。

 

例え、残りの命が短くなろうとも、

「必要なら使うよ。」

羅刹の力が必要となるならば‥‥彼は迷わずに使うと言った。

 

言葉同様、迷いのない真っ直ぐな眼差しを受け、

 

「それが‥‥あの子を傷つけると知っていても?」

 

は静かに問いかけた。

 

あの子――千鶴を傷つけると知っていても――

 

そう、多分。

彼女は自分が死んだら悲しむだろう。

泣いて泣いて‥‥心が千々に千切れてしまうくらいに嘆き悲しむだろう。

 

泣かせたくなんか、ない。

笑っていて、ほしい。

 

でも、

 

沖田はそっと溜息を零すみたいに言った。

 

「‥‥千鶴ちゃんのために、使う。」

 

多分、迷わず。

彼女のために使う。

彼女の未来を、切り開くために使うと。

 

「‥‥言うと思った。」

 

ははっと呆れたように呟く。

その表情は、苦笑で歪んでいた。

 

使うな‥‥と言ったところで彼が頷くとは考えられなかった。

近藤亡き今、彼を生かしているのは間違いなく彼女だろう。

彼は自分の大事なもののためならば命を簡単に捨てられる男だった。

相手をどれほど傷つけると知っていても、苦しめると知っていても‥‥

大切な人を守るために迷わず自分の力を振るうのだと。

 

本当に、嫌なところばかり似ているな。

 

は他人の事は言えないかと苦笑で振り払い、それから沖田を見て口を開いた。

 

「でも、おまえは別のもの抱えてるんだから無理はすんなよ。」

「別の物‥‥ってなに?」

「惚けるな。」

 

は半眼で睨み、とん、と手の甲で男の胸を叩いた。

 

そこは丁度‥‥彼の肺があるだろう部分。

 

「‥‥治ってないだろ?」

「‥‥ほんと、何でも見破っちゃうんだね。」

いきなり見破られ、やれやれと沖田は肩を竦めた。

「伊達に長年おまえの悪友やってないよ。」

は苦笑し、もう一度とんと胸を叩いた。

「とにかく、そいつ抱えてるんだから無理はするな。」

できるだけ、と付け足すと沖田は「是」と言わずに苦笑で受け流した。

「千鶴ちゃんの為を思うなら、少しくらいは‥‥」

気を付けろ、と茂みをかき分けて開いた場所へと出る。

 

そして、

 

「おや?」

 

は思わずそんな声を上げて立ち止まってしまった。

 

そこは先ほど自分達が土方らと別れた場所だった。

結構長い時間離れていたため、てっきりどこぞで休んでいるかと思いきや、二人とも立ちつくして‥‥

 

「なに、この微妙な空気。」

 

二人の間、というより、それぞれがなんとも不思議な空気を纏っていて、は首を捻る。

 

「土方さん、千鶴ちゃんに何かしたんですか?」

疑わしい眼差しを沖田に向けられ、彼は誰が!と反論した。

「てめえじゃあるまいし、誰がんな事するかよ。」

「本当かなぁ?」

沖田は千鶴を背後に庇いながら、大丈夫?と訊ねる。

先ほどまでのぎすぎすしていた空気はどこへ行ったのだろう。

二人の間にいつもの空気が流れて、はほっとした。

 

「‥‥さて、二人も戻ってきた事だし。」

 

こほん、と土方は咳払いで仕切り直すと、

 

「これからどうする?」

 

二人に問いかけた。

 

これから、二人はどうするのかと。

 

共に北へ行くのか、それとも別れて別の道を行くのか。

 

「一緒に来るってなら歓迎するぜ。」

 

土方は笑みを浮かべている。

黙り込む沖田を見遣ってから、隣で難しい顔をしている千鶴へと視線を向けた。

 

「どうする?」

「あ‥‥えっと‥‥」

問われて彼女は一瞬躊躇った。

自分は一緒には行けない。

自分は、行かなければいけないところがある。

そう決めていたけれど‥‥何故か言葉にするのが怖かった。

 

「それじゃ」

と手を振りほどかれるのが、怖かったのだ。

 

そんな彼女の代わりに、

 

「僕は土方さんとは一緒に行けません。」

 

沖田が淀みなく答える。

 

も、土方も、半ば予想していたことだった。

そうか‥‥と少し寂しげに笑うだけの二人に対し、千鶴は驚いたように声を上げる。

「お、沖田さん!?」

何を‥‥と言いたげな彼女に沖田は優しい眼差しを向ける。

「僕も、君と一緒に行くよ。」

どこまでも‥‥ずっと一緒に。

そう告げる彼に、千鶴は何故‥‥ともう一度心の中で問いかけた。

 

どうして――?

 

ここには彼の大切な人がいるはずなのに。

どうして自分と共に来てくれるというのか‥‥

 

「‥‥」

そんな彼女の肩を、ぽん、と土方が叩いた。

困ったような顔で自分を見上げる彼女の考えは、手に取るように分かった。

大丈夫だ。

ともう一度先ほど彼女に言うように、優しく見て言った。

「総司を‥‥頼む。」

「‥‥」

千鶴は一瞬、迷う。

本当にそれでいいのかと問いたげな瞳を真っ直ぐ見た。

その揺るぎない瞳にまるで後押しされるかのように、千鶴は一つ、確かに頷いた。

 

「よし‥‥」

 

ぽんぽんと華奢な肩を叩き、小さく溜息を吐く。

それから、

 

――行くぞ――

 

と彼女を促そうとして‥‥止める。

 

がじっと‥‥二人を見つめていたから。

沖田と、千鶴を、真剣な眼差しで見つめていたから。

 

ああそうだった。

 

彼は思い出す。

 

――にとっては、千鶴は大切な妹で‥‥沖田は誰より理解してくれる友だ。

 

大切な人たちだ。

 

――共に‥‥行きたいと言うだろうか?

彼らと共に行きたいと。

 

「‥‥」

 

土方は僅かに顔を顰めた。

 

彼女には選ぶ権利がある。

自分の行く道を。

 

だが、

男は黙って背を向けた。

 

――行っても良いぞという言葉が‥‥出なかった。

 

 

 

林の向こうに消えていく大きな背中を見送り、沖田は溜息を零した。

残ったに、

「土方さん‥‥一人で行かせていいの?」

と問えば、彼女はひょいと肩を竦める。

「大丈夫。」

「‥‥」

「すぐ追いかけるから。」

続いた言葉に、やっぱりという風に沖田は苦笑を漏らした。

 

彼女はやはり、彼と共に行くつもりだ。

自分たちとは別れて、彼と共に。

 

「‥‥さん。」

きっと、彼女が来ないというのは分かっていた。

それが彼女の選ぶ答えだと。

でも、千鶴は心細いと正直に思った。

二度と会えなくなることが‥‥寂しいと‥‥

寂しそうな顔で見上げる千鶴にはにこりと笑い、柔らかな髪を撫でる。

その手が‥‥あんまり優しいから涙が溢れそうになった。

「ほらほら、そんな顔しない。」

苦笑交じりに言われて千鶴は唇を噛みしめる。

その間も手は休むことなく頭をなで続けてくれる。

 

彼女は――いつだって優しかった。

右も左も分からず、新選組の仲間と孤立していた時だって‥‥そう。

彼女は誰よりも自分に優しくしてくれた。

多分、

昔から‥‥変わらずに。

 

「ありがとう‥‥ございました‥‥」

 

噛みしめた唇の隙間から、どうにかこうにかそんな言葉だけを紡ぐことが出来た。

 

「今までたくさん‥‥たくさん‥‥」

 

ありがとうございました。

 

千鶴はそれだけしか言えない。

 

「‥‥うん。」

は一層優しく笑って、そっと名残惜しそうに手を離す。

本当だったら傍にいてあげたかった。

傍にいて、彼女を守ってあげたかった。

それが彼女の幸せを壊した自分が出来る唯一の罪滅ぼしだと思ったから。

でも‥‥彼女にはもう自分は必要ないだろう。

あの時の、泣いていた幼い子供ではない。

それに、

千鶴には‥‥

 

はそっと黙って見守るもう一人に視線を向けた。

 

沖田はじっと翡翠の瞳を向けている。

いつもの飄々とした、食えない笑みを浮かべて。

もう、その顔を見るのも‥‥これで最後だろう。

 

楽しかった。

彼と一緒にいられて楽しかった。

馬鹿みたいに騒いだり、喧嘩をしたりしたけど‥‥彼と共に走れた日々は、楽しかった。

 

はに、と口角を引き上げて悪戯っぽく笑う。

沖田も同じように、目を細めて笑った。

 

「じゃあな。」

「じゃあね。」

 

別れの言葉は、それだけ。

ただすれ違い様にぱちんと互いの手を叩いて離れる二人の姿に‥‥何故か千鶴は泣きたくなるくらい、切ないものを

感じた。

 

 

 

たた。

と軽やかな足取りが近付いてくる。

その音にはっと我に返った時、ひょいと覗き込む顔があって、

 

「お待たせしました。」

 

‥‥?」

 

土方は彼女の姿に、思わず驚いたように目を丸くしてしまう。

 

何故ここに‥‥とそう言いたげな顔で、は片眉を器用に下げて苦笑を浮かべると、

「やだ、私が総司たちと一緒に行くと思ってたんですか?」

と訊ねる。

それこそあり得ないと言いたげな響きで、土方は難しい顔になった。

あり得ない事はないだろう。

だって、

千鶴と沖田はにとって大切な人なのだから。

 

「私、馬に蹴られるのは御免です。」

は肩を竦めてそう言い放った。

ああ、あの二人の事か。

確かに‥‥と土方は思う。

二人とも互いに互いを想い合っていて‥‥その中にが入るのは、邪魔になるかもしれない。

でも、

「‥‥いいのか?」

土方は問うた。

なにがとはあっけらかんと問い返す。

彼は僅かに眉間に皺を寄せ、難しい顔で続けた。

「二度と‥‥会えなくなるかもしれねえんだぞ。」

大切な二人にもう、二度と会えなくなるかもしれない。

それでもいいのか?

とこう問われ、は苦笑を浮かべた。

 

彼は‥‥自分にはなんの価値もないと思っているのだろうか?

沖田と千鶴、あの二人と比べ、が土方を選ぶはずがないと思うほど‥‥価値がないのだと。

確かに二人は大事だ。

でも、比べるまでもない。

家族も、友も‥‥あっさりと手放してしまえるほど‥‥にとっては彼が大事だった。

いや、もう、彼、一人が。

この世の中で全てだった。

 

だから‥‥比べるまでもないのだ。

 

「いいんですよ。」

はそっと溜息でもつくみたいに言葉を漏らす。

ふわと飴色の髪が風に吹かれて柔らかく舞うのを、男はじっと見つめた。

 

もし例え、二度と会うことが出来なくてもそれでいいとは思う。

 

「幸せなら、それで。」

 

彼女はひどく穏やかな表情で言葉を紡いでいた。

 

二度と、馬鹿騒ぎが出来なくても、喧嘩が出来なくてもいい。

もう二度と‥‥話をすることが出来なかったとしても‥‥

その顔を見ることが出来なかったとしても‥‥

 

「幸せで‥‥生きてくれるならそれでいい。」

 

二人が、

生きて、笑っていられるのならばそれではいいと思った。

 

「幸せでいてくれるなら‥‥二度と会えなくても、いい。」

 

幸せでいてくれるなら。

 

 

それで‥‥いい。

 

そう満足げに告げられた言葉に、ずきんと、男の胸は痛んだ。