夜の森を無言で歩いていた。

会津へとたどり着く前に、幕府軍は北へと向かったと聞いた。

仙台へと向かったと。

 

その彼らを、自分たちは追いかける。

 

「‥‥」

 

黙々と沖田は前だけを見つめて歩いている。

時折気がついたように振り返るが、彼はどこか焦っているようにも見えた。

土方ら一行が追い込まれ、苦しい戦いを強いられていると聞いたからだろうか。

 

「本当に‥‥行くんですか?」

 

ふいに、千鶴の足が止まる。

問いかけを大きな背中に向ければ、沖田はゆっくりと立ち止まった。

 

「本当に行くんですか?」

 

土方の所へ。

 

千鶴はもう一度訊ねていた。

 

彼の所へ行って彼から真実を聞こうと言い出したのは自分なのに。

今更‥‥怖くなった。

沖田が、土方を斬るかもしれない。

土方に、沖田が斬られるかもしれない。

そう思ったら‥‥迷ってしまった。

 

振り返った沖田は不安げな少女の顔を見て、優しく笑う。

 

「君がどうしても行きたくないなら、ここで待っててくれても構わないよ?」

 

まるで子供を宥めるような口振りで言って、くるっと背中を向けた。

言葉通り本当に一人ですたすたと行ってしまいそうな彼に、

 

「土方さんの事、殺さないでください。」

 

千鶴はそんな言葉を投げかけていた。

 

踏み出した足は止まり、その言葉を聞いた瞬間、沖田は目を細め値踏みするような眼差しを向けてきた。

言葉の真意を探ろうとしてか、妙に慎重な口調で訊ねてくる。

 

「‥‥君は‥‥土方さんのことが心配なの?」

 

問いかけに千鶴は迷いながら言葉を紡いだ。

「心配じゃないと言えば、嘘になります。」

「‥‥」

瞬間、沖田は不満げに瞳を細めた。

まるで‥‥彼を心配する事を嫌がるように。

そんな沖田に千鶴は気付かない。

気付かず、こう続けた。

 

「だけど、沖田さんの方がもっと心配なんです。」

 

紡がれた彼女の言葉に沖田の目は丸く見開かれた。

千鶴は言った。

 

「沖田さんだから‥‥殺して欲しくないんです。」

 

彼女にとって、今一番大事なのは沖田だ。

だから、土方が無事であればいいなんて思えない。

沖田にこそ無事でいて欲しいと思う。

それならば先ほどの言葉の意味はどういうことだろうかと沖田が量りかねていると千鶴は口を開いてきっぱりと言った。

 

「土方さんが死んでしまうことになれば‥‥沖田さんは辛い気持ちになると思ったから。」

 

彼は、他者の命を笑顔で奪える人間だが、彼は口で言うほど残忍な人間ではない。

 

それを千鶴は彼と共にいて、知った。

 

彼は殺したくて殺しているのではない。

それが仕方ないことだから殺しているのだと言うことを。

それにきっと、もしも怒りに駆られて土方を殺したならば、きっと誰よりも沖田自身が傷つくと思った。

彼は‥‥近藤の事も、そして土方の事も、大事に想っているのだから。

 

「私‥‥もうこれ以上、沖田さんに悲しんで欲しくないんです。」

 

千鶴は不安げに視線を落とした。

 

じっと彼女を見守っていた沖田はやがて、ふっと柔らかい微笑みを浮かべ、

「僕の心まで気遣ってくれる君の気持ちはとても嬉しいよ。」

だけど、と彼は微笑んだまま言葉を続ける。

「僕はあの人に会わなくちゃいけない。

‥‥それは君もわかってくれるよね?」

千鶴同様、沖田も迷っていた。

自分の心を掴みかねていた。

会えばどうなるか予想できないから、殺さないとは約束が出来ない。

「‥‥」

千鶴は視線を落としたまま黙り込んでしまった。

その彼女を見て、

 

「やっぱり君はここに‥‥」

 

残った方がいい、

と言いかけた彼は即座に何かを察知し、

 

「しっ」

 

口元に人差し指を立てた。

 

そうして千鶴を引き寄せて大木の陰に隠れる。

何事かと千鶴が目を白黒させているとその木々の向こうにちらりと人影が見えた。

 

林の中を行き過ぎるのはどうやら兵士のようである。

ぞろぞろと闇に隠れるようにして進むその一行は、新政府軍とは違うようだ。

 

「‥‥幕府軍でしょうか?」

「どうかな‥‥」

 

沖田は双眸を細めた。

 

新政府軍ではないことは確かだが、幕府軍なのかも分からない。

一つの組織として纏まっている新政府軍とは違って、幕府軍は個々で部隊を作り戦っている者たちがいるようだから。

永倉や原田が別の組織に与して戦っているように。

 

「‥‥下手に声を掛けたら撃たれかねないね。」

 

沖田はひょいと肩を竦めて、林の奥へと身を翻す。

「沖田さん?」

「とりあえず、彼らについていってみよう。」

ちょいちょいと彼は手招きをする。

ここに千鶴を置いていくのはまずい。

彼女はまだ迷っているようだけど、ひとまず、安全な場所が見つかるまでは一緒に行く方がいいだろう。

「‥‥」

だけどなんとなく‥‥この先に土方がいるような気がした。

 

 

淡い光が差し込む夜の森は、ひどく静かだった。

まるで今戦いの最中である事を忘れてしまうほど、穏やかな世界を二人は歩く。

 

「土方さんに会えたら‥‥」

 

聞かない方がいいのかもしれない。

そう悩みながらも千鶴は彼に問いかけていた。

 

「沖田さんはどうするんですか?

まだ決めてないですか?」

不躾な質問に、沖田は穏やかな空を仰いで‥‥それから千鶴へと視線を向けた。

ひどく優しい顔をしていた。

そして唐突に、

 

「僕は武士の家に生まれたんだけど、暮らしは決して裕福なものじゃなかった。」

 

昔話を始める。

 

何故彼が突然昔話を始めたのか分からなかった。

ただ、何かを自分に伝えたい事があるのだと思ったから千鶴は口を噤み、真剣に耳を傾けた。

それに、純粋に‥‥彼の昔に興味があった。

自分が知らない彼の過去に。

 

「父も母も、僕が小さい頃に死んで‥‥

僕は試衛館道場に内弟子として引き取られた。」

試衛館‥‥というのは千鶴も何度か聞いた事がある。

「近藤さんの‥‥道場ですよね?」

沖田は微笑んで頷いた。

千鶴が知っているのは試衛館道場というのは近藤の道場で‥‥幹部のほとんどがその道場で知り合ったらしい。

皆家事を手伝いながら剣術の修行を見てもらっていたのだと、京にいた頃教えて貰った。

 

沖田は懐かしむように目を細めて続けた。

「近藤さんは昔から面倒見が良くて、僕に剣術の稽古をつけてくれたり、遊びに連れ出してくれたり‥‥」

彼には優しい思い出があるのだろう。

暖かな思い出を告げる声は、柔らかく‥‥優しい。

「僕にとって、兄のような人だった。」

その声音に、表情に、彼がどれほど近藤を慕っていたのかが感じられた。

でも、と呟くとすぐに彼は複雑そうな苦笑を浮かべる。

「その近藤さんと誰より仲良しだったのが、我が侭で俺様で不器用で自分勝手な誰かさん。」

それが土方だというのは名を上げられなくても分かった。

同時になんとなく、彼がそんなことを突然語り出した理由も分かった気がした。

近藤と過ごした大切な記憶の中には――土方もいたのだ。

土方に辛く当たっていることもあったが、向けている想いは決して悪意ではない。

それよりも、もっと、優しくて、暖かいもの。

 

「‥‥私、分かった気がします。」

 

沖田にとって、土方もまた『特別』なのだ。

近藤には及ばないとしても、思いの方向性が異なるとしても。

 

彼は、土方の事を嫌ってなど‥‥いない。

憎んでなど、いない。

 

それが分かった。

 

うん、と彼女は一つ頷くと、優しい笑顔を男に向ける。

 

「土方さんに会いに行きましょう。」

今度こそ、彼に会って‥‥真実を確かめようと彼女は言った。

そんな彼女に沖田は目を瞬く。

「君は、僕を止めたいんだと思ってた。」

「さっきまでは少し悩んでました。

でも‥‥」

千鶴はどう伝えればいいのか迷って、

「沖田さんが沖田さんだから。」

彼は‥‥近藤の事を大切に思っているから。

過ごした記憶を愛おしんでいるから。

重ねてきた彼らとの思い出を、あんなに優しい顔で語れるから。

 

「私、信じてます。」

 

彼は、間違った答えを選ばない。

 

彼はいつだって真っ直ぐで‥‥強くて、

でも、

優しい人だと分かっているから。

 

だから、信じる。

 

真っ直ぐに見つめる大きな瞳に、心底驚いたような表情の男が映り込む。

男は目を見開いていた。

口を大きく開けていた。

驚いた顔をしていた。

 

――私、信じてます――

 

彼女はよく、そんな言葉を口にした。

 

昔はその言葉を聞くだけで吐き気がするほど苛ついた。

所詮そんなの口だけだ。

そう昔は思ったけど‥‥

 

「‥‥」

 

にこりと微笑む彼女はとても不器用な子だというのを知った。

真っ直ぐすぎて不器用な子だと。

その感情を隠すことが出来ない、不器用な子だと。

 

彼女は何度もそうやって信じるのだろう。

自分のことを。

嘘でも気休めでもなく、

心の底から信じてくれるのだろう。

 

「っ」

 

沖田は細い息を吐き出した。

途端泣き出す寸前みたいな顔になったかと思うと、

 

「え‥‥」

 

不意に伸びた手に、抱きしめられていた。

すっぽりと逞しい腕に包まれて、千鶴は一瞬呆け、すぐに顔を真っ赤にした。

「あ、あのっ‥‥!?」

「突然、ごめん。」

慌てる千鶴の耳元で囁きが聞こえる。

でも腕は緩まない。

「自分でもよく分からないんだけど‥‥今は、君を抱きしめたくてたまらない。」

彼の腕は慈しむかのように、千鶴を優しく包み込んでいる。

 

「妙に切なくて、抑えきれない。」

 

震えた声が耳朶を打つ。

 

「溢れて‥‥止まらない。」

 

戸惑いながらも、彼は思いを伝えた。

そんな彼がひどく愛おしくて、堪らない。

 

「沖田、さん‥‥」

 

気恥ずかしさよりも強く強く感じた愛おしさ。

千鶴は気付けばその広い背中に手を伸ばして、抱きしめた。

甘えるように胸に額を寄せてくる彼女に沖田はふっと目元を細める。

更に強く抱きしめた。

壊れないように、でも、強く。

 

「‥‥君は、本当に不思議な子だ。」

 

不思議な子だと彼は思った。

 

出会いは最悪だったのに‥‥

何度も殺すと口にしたし、意地悪して何度も傷つけたというのに、

彼女は自分の傍にいてくれた。

力なんてないくせに、なのに彼女が傍にいると心が落ち着いた。

優しくなれた。

 

本当に、不思議な子。

 

「少し、気恥ずかしいのかな。」

沖田は誤魔化すみたいに笑った。

「こんな話をしたのは君が初めてだから。」

微かに照れたような声に、千鶴はううんと首を振る。

まるで甘えてすり寄せる仕草のようで‥‥堪らない。

「私‥‥嬉しいです。」

千鶴は小さく呟いた。

 

話を聞かせてくれたことも、

抱きしめてくれたことも‥‥

自分を、大切に扱ってくれたことも、その心に触れさせてくれたことも。

 

「きっと僕は知りたいだけなんだよ。

土方さんが何を考えているのか、ね。」

沖田はそっと千鶴の身体を離して、おどけた様子で言った。

 

だから‥‥大丈夫だと。

 

そう言われた気がして、千鶴はもう一度頷いた。

 

 

 

行き先は弘前か‥‥とりあえず海へと出るつもりかも知れないなと沖田が言った。

その先は蝦夷しかない。

蝦夷へ彼らは渡るつもりだろうか。

 

突然抱きしめられた嬉しさと気恥ずかしを感じながら歩いていた千鶴は、ふいに、ずきんっと激しい頭痛に見舞われた。

 

途端に、話し声が遠く感じ、一気に押し寄せてくるのは得体の知れない吐き気だ。

ぐると腹の奥底から嫌な感じが這い上がってくる。

まるで自分の身体の中から何かが蝕んでいくかのような、感覚。

 

「‥‥千鶴ちゃん?」

 

返答のない彼女に気付いたらしく、沖田が振り返った。

振り返ったその時、ぐらりと千鶴の身体が傾いだ。

 

「千鶴ちゃん!」

 

強い声に呼ばれて一瞬遠のきそうだった意識が覚醒する。

気がつくと逞しい腕が背中へと回されていた。

顔を上げれば、すぐ傍に沖田の顔。

 

「大丈夫?」

 

彼は心配そうな顔で訊ねてきた。

大丈夫‥‥と答えようとして邪魔するように血が、騒いだ。

 

「もしかして‥‥」

 

沖田はそんな様子にもしかしてと真剣な表情へと変えて呟いた。

彼が何を言いたいのかすぐに理解できた。

 

――血が欲しいの?

 

「‥‥違います。」

千鶴はきっぱりと頭を振った。

やせ我慢ではない。

変若水の効力に、鬼の肉体が反発しているのだと‥‥何故か分かった。

「っ」

身体がきしむような痛みに包まれる。

でも、

「‥‥大丈夫です。」

千鶴はもう一度きっぱりと言い切った。

その症状は、発作ほど強いものではない。

彼が味わっている苦しみよりももっと、もっと、軽い。

この程度で弱音なんて吐いてはいられなかった。

「ちゃんと、歩けます。」

大丈夫と千鶴は笑った。

弱々しい笑みに沖田は心配そうに眉を寄せて、

 

――かさ――

 

「っ!?」

 

その瞬間、沖田の瞳の色が変わる。

険しさを増し、すぐに刀の柄に手を掛けると千鶴を背に庇って構える。

 

途端にぴりりと空気が張りつめた。

 

気配の読めない千鶴にもこれは傍に敵がいるのだと知らしめた。

息苦しくなるくらいの重苦しさ‥‥だ。

 

「‥‥」

 

それに、沖田が動けずにいる所をみると‥‥相手は相当の手練れ。

 

「っ」

 

知らず、千鶴は彼の背にしがみついていた。

これじゃ咄嗟の時動けないだろうということは分かっていたが、それでも手を離すことは出来なかった。

重苦しい沈黙が世界を支配する。

見えない糸がぴんと張りつめ、まるで息をすることさえも躊躇われるくらいの緊張に千鶴は目眩を起こしそうだった。

 

だが不意に、

 

「‥‥これ、まさか‥‥」

 

沖田の口から小さな呟きがもれる。

 

何かに気付いたようだった。

 

そうして、

 

「そこにいるのは分かってるよ。」

 

次いで挑発とも取れる軽口が飛び出した。

その逆、彼の身体からは殺気が消えている。

これはどういう‥‥

 

かさ、と茂みが揺れた。

次の瞬間、

 

「やっぱりおまえだったか‥‥」

 

茂みを揺らして出てきたその人は、

 

さん!!」

 

なんだかとても久しぶりに会う‥‥仲間の姿。