好きになったきっかけは、多分、あの男と同じ。

 

琥珀の瞳だった――

 

 

 

あっという間に五十という敵兵をほとんど一人で殺してのけたのは、ただ一人の女である。

かつて、数百という人間をまだ十であった彼女が斬り殺したという話を思い出した。

鬼の姫の強さ‥‥というのは半端ではないらしい。

これでまだ力を半分も出していないというのだから驚きだ。

は、まだ鬼の力を解放してはいない。

 

「‥‥」

 

刃を収めはすたすたと足早に戻ってきた。

彼女からはひどい血のにおいがしたが、その身体のどこにも血の色は見えない。

外套が黒いせいだ‥‥

銃弾の嵐の中無傷で戻ってきた彼女を、

あの人数を一人で倒した彼女を、

隊士達は驚きと羨望の眼差しで迎えた。

 

しかし、土方は表情を硬くしている。

少なくとも、二発、彼女が傷を負ったのは知っているから。

 

、傷を‥‥」

 

「島田さん、頼みたいことがあるんですが‥‥」

傷を診せろと言う土方を綺麗に無視して、は島田の手を引きながら告げた。

「おい、。」

無視をするなと土方も二人に続くがは聞こえないふりをしている。

木陰に腰を下ろし、人目を隠すように洋服の釦を外す。

「あ、あのっ」

釦を外せばその下には白い素肌が見えた。

女のその身体に島田はおろおろするばかりである。

だが、

「っ!?」

その下に隠していた真っ赤に染まる傷口に、島田は目を見開いた。

右の脇腹。

毒々しい赤い色を晒している傷口には、弾丸が食い込んでいる。

ぶつかった衝撃で拉げ‥‥傷口を大きく抉っていた。

 

肩の傷がすぐに癒えたのとは逆に、脇腹の血が一向に止まらないのに気付いていた。

貫通していなかったのだ。

 

「‥‥弾、抜いてくれます?」

 

は短刀を差し出した。

えぐり出せというのだ。

「え、あ‥‥でも‥‥」

島田は戸惑いの表情を浮かべた。

確かに弾丸が身体の中に残り、そこから黴菌でも入り込んで傷口が化膿したら大変である。

取り出して傷口を綺麗に洗い流すのが一番なのは分かっているが‥‥でも、それには相当の痛みが伴う。

しかもどうやら深く弾はめり込んでいるようで傷を広げる必要があるのだ。

 

「じ、自分は‥‥」

 

と言って土方を見上げる。

どうすればいいのだろうかと局長の指示を仰ぐつもりだった。

だが、先ほどから黙っている男はその目を見て、続きを止めた。

対しては彼を見もしなかった。

ただ、

 

「お願い。」

 

と言って島田の手に短刀を握らせ、手拭いを取りだした。

「平気だから。」

きっぱりと言って、それを噛みしめる。

迷いのない琥珀の瞳に島田は逡巡した、が、

 

「はい。」

分かりましたと男は頷くと、神妙な面持ちで刃を受け取った。

「‥‥いきます。」

「‥‥」

はこくりと頷く。

そして、ちら、と男へと一瞥をくれると、

 

「局長。」

 

と彼を呼んだ。

びくり、と男の肩が震える。

その瞳には‥‥ひどく餓えた色が浮かんでいた。

血を見たせいだろう。

顔色がひどく、青い。

握りしめた拳は、力を入れすぎて白くなっている。

 

彼は戦っていた。

血を欲する衝動と。

 

そんな彼に、は言い放つ。

 

「隊士達を集めて、先に進んでください。」

 

ぐずぐずしているとまた追っ手に追いつかれる。

 

じりと刃が肌を裂くのを感じながら、は淡々と告げた。

 

 

 

深い森の奥で今日は休むことになった。

火を焚き、皆が身を寄せ合って休んでいる。

怪我人は幸いな事に一人も出なかった。

いや、

一人だった。

 

彼女だけ。

 

 

「土方さん?」

 

一人姿が見えないと思い、は彼を捜していた。

一人でふらっと林の奥へと向かったと隊士の一人が教えてくれた。

今日の戦いぶりは凄かったと皆に称えられ、は苦笑で応えておいた。

 

林の奥。

木々の切れ間から柔らかな月光が差し込むひっそりと静まりかえった場所に男は立っていた。

呼びかけるとその背中がぴくりと反応した。

だけど、振り返らない。

 

「こんな所にいたんですか。

一人でいると危ないですよ。」

またどこから追っ手がやってくるか分からない。

一人の所を狙われたらひとたまりもない。

「せめて一人くらいつれて歩いて貰わないと。」

彼は新選組の局長なのだから。

倒れられては困る。

そう告げながらそういえばかつて近藤も、たまに一人でふらりと出掛ける事が多かったなと思い出す。

あの時はまだ平和だったから良かったけれど、土方はその度に険しい顔をしていたっけ?

 

「まあ、小用とかならあれなんですけどね‥‥」

は茶化して笑うが、

「‥‥」

彼は相変わらず無言だった。

 

その様子に彼女はひょいと肩を竦めて、さくさくとわざと足音を立てて近付いてやる。

僅かに男の肩が強ばったのが見えた。

それにも気付かない振りをして、

 

「土方さん?」

 

ひょいと顔を覗き込んでやった。

 

「‥‥」

 

男は憮然とした面もちだった。

こちらをじろりと睨むのはひどく不機嫌そうな瞳だ。

だけど、それは微かに歪み、頼りなげに揺れている。

 

ああもう、とは内心で呟いた。

そんな顔をされると‥‥愛しくて堪らなくなるじゃないか。

しかもその顔をしている理由が自分にあるのだとしたら、不謹慎とはいえ嬉しくなる。

 

「仕方ないじゃないですか。」

 

仕方ないじゃないか。

 

「あの時は島田さんにお願いするしかなかったんだから。」

 

傷を診せろと言った土方を無視して、島田に頼んだのは当然のことだ。

あの状況で彼に手当をさせるのは酷、というものだ。

 

羅刹だから悪いというのではない。

別に彼が欲しいというのならば、いくらだって血をあげる。

でも、

あの場は皆の前だし、なにより彼が発作で欲しがったのではない。

どうしても血が必要な状況ではない限り、化け物じみた行為をさせたくはなかった。

 

彼は誇り高き侍なのだから。

 

「何も無駄に刺激をする必要はないじゃないでしょ。」

 

わざわざ餌をちらつかせて、衝動を起こさせる必要はないのだ。

だから、島田に頼んだ。

それだけだ。

 

とこう言うのだけど彼の表情は晴れない。

 

「土方さん?」

「‥‥違う。」

 

彼が言いたかったのはそれじゃない。

彼が不満だったのは、が自分を気遣って島田に手当をさせたことではない。

そうじゃなくて‥‥

 

「どうして、俺の前に‥‥」

 

自分の前に飛び出した?

何故自ら傷を負おうとした?

 

傷を負うことも、死ぬことも恐れてはいない。

そんなもの武士になると決めた時から捨ててきた。

痛みなんぞ屁でもない。

それに自分は羅刹で‥‥傷を受けてもすぐに塞がるというのに。

 

何故彼女は‥‥

 

「‥‥」

 

何故と問うて、自分で理由が分かった。

藤堂や山南の事を覚えているから。

彼らがどうやって消えていったのかを覚えているから。

呆気なく、儚く、

止める間さえ与えてくれず、

無情に消えていったのを。

 

「‥‥んな簡単に俺は消えたりしねえよ。」

 

男は呟いた。

 

「行く末を見届けるまで死ねるもんか‥‥」

 

まるで誰かに約束でもするかのように、彼は言い放つ。

 

「‥‥」

 

はその言葉を聞いて、ふいと視線を落とした。

 

行く末を見届けたら‥‥

この戦いが終わったら‥‥

彼はこの世に未練を残さずにいってしまうのだとわかった。

彼を今、この世に繋ぎ止めているものが近藤と、皆と共に見た夢だけなのだと分かった。

 

それがなんだか‥‥悲しかった。

 

「私はもっと‥‥」

 

私はもっと‥‥

彼に生きていて欲しい。

 

そう願いたかったけれど、口にすることは出来ない。

 

そんなの自分の我が儘だから。

 

 

はふるりと頭を振って考えを追い払った。

「それじゃ私先に戻りますね。」

土方さんも早く戻ってきてくださいと告げ、はくるっと背を向ける。

しかしその瞬間、

「っ」

ふらりと身体が傾いだ。

!」

慌てて手を伸ばせば、今度は届いた。

届いたけれど、触れた身体は酷く熱を持っているのに気付いた。

 

‥‥おまえ‥‥」

「‥‥」

「さっきの傷‥‥」

 

くそ、気付かれたか、とは舌打ちをする。

 

傷口は塞がったのだけど、多分弾丸が錆びていたのだろう。

それが体内に残ってしまい‥‥普通の人間ならば傷口が腐り、死に至るだろうがは違う。

鬼の血故に死ぬ事はないが、それでも侵入した異物に内部から蝕まれているのは確かだった。

 

白状してしまうと呆気ないものだ。

一気に瞳は熱に潤み、がくりと膝が折れた。

どうしてそんな身体でここまでやってきたというのだろう。

ああそうだ、きっと別れ際に自分が情けない顔でも見せてしまったのだろう。

それを気にして、彼女はここまでやってきた。

 

「馬鹿野郎が。」

「すいません。」

 

呟きにすかさず謝罪の言葉が返ってきた。

それは彼女に対してじゃないのに。

 

は何度か大きく息を吸うと、やがて足下に力を入れて身体を持ち直した。

そうしてふらふらとした足取りで陣へと戻ろうとする。

 

。」

「見なかった事にして‥‥」

 

は強がった。

そのまま数歩だけよろよろと進んだ後、手近にあった太い木の幹にもたれ掛かると、ごろんとまるで倒れ込むように背を

預けた。

喘ぐように何度も呼吸を繰り返す。

熱い吐息を荒く漏らす様は‥‥ひどく色っぽい。

不謹慎だが、思った。

 

「少し、ここで休みます。」

 

朝までにはしゃんとしますから見逃してくれとは言って、目を閉じた。

火のない所で眠るのは無謀だ。

熱は身体を内側から蝕んでいるけれど、空気は冷たい。

目を閉じるの唇はみるみる内に青くなり‥‥微かに身体が震え始める。

 

このまま放っておいたら確実に‥‥凍死だ。

 

「この、馬鹿が‥‥」

 

土方は一人ごち、の腕を強く引く。

 

もうこのままにして欲しい。

立ち上がるのも億劫だった。

 

恨めしげには瞳を男へと向けたが、だが、彼は無理矢理を連れていこうとはしなかった。

ただ黙って、

 

「‥‥え‥‥」

 

どっかと先ほどが寄りかかっていたそこへと腰を下ろすと彼女を引き寄せる。

そうして、華奢な身体を横抱きに抱えると、己の膝の上へと下ろし、しっかりと抱きしめた。

横抱きにこう、抱きしめられる形だ。

 

「ちょ、土方さん!?」

 

「いつかの借りを返すだけだ。」

 

文句があるのかと、彼は強い語調で言った。

いつかの‥‥ああ、あれか。

仙台へと行軍している最中、強引に休ませたあの時の。

いやでもあれは貸したのは肩や膝であって‥‥

 

「こうすりゃ寒くねえだろ。」

 

土方は言って、ぎゅっとを抱きしめた。

 

衣を通して男の体温が自分に伝わってくるのが分かる。

そのまま触れていると彼の温度に染められそうで、どきりと心臓が震えた。

 

こんな状況だというのに抱きしめられて喜ぶ自分を、は恥じた。

 

「い、いいです。」

大丈夫、と胸を押し返して身体を離そうとする。

衣越しでもしっかりと感じる逞しい胸板にまた鼓動が跳ねた。

いつもは気付かない振りをしている、彼の『男』の部分に自分の『女』の部分が反応しそうになる。

 

「土方さんがっ‥‥休めないじゃないですか‥‥」

 

声が裏返りそうだった。

しかし、そう言うと、

 

「駄目だ。」

 

局長命令だと無茶苦茶な事を言って土方は首を横に振った。

そればかりか逃げられないようにきつく抱きしめられてしまう。

‥‥苦しかった。

身体がじゃない。

心が。

 

「いいから寝ろ。」

 

大きな手が、自分の肩を抱いている。

なんて大きいんだろうとは思った。

そして自分はなんて小さいんだろうと。

彼の腕の中にすっぽり埋まってしまって‥‥そのまま強く抱きしめられたら折れてしまいそうだって。

 

「寝ろ。」

 

上から降ってくる優しい声。

ああもうくそ、と内心で呟いた。

 

「‥‥わかりました。」

 

少しだけですよと、不満ありげに呟いた。

そのくせに‥‥気がつくと彼の服をしがみつくみたいに握っている自分がいて、笑える。

 

だって、仕方ないじゃないか。

 

好きなんだから――

 

 

 

好きになった理由を挙げるのは愚かしい事だと思う。

そんなものとってつけたようなものだ。

その人が好きだから好き。

それだけなのである。

 

だけど、何に惚れたかと言われたら、彼はこう応えるだろう。

 

――瞳に――と。

 

思えば最初にその輝きを見たときから、惹かれていたのだ。

どこまでも美しく澄み切った琥珀を見たときから、気になっていた。

 

そして、その強さを知り、

弱さを知り、

甘さを知った。

 

こちらが驚くほどの強い眼差しで見つめる癖に、

時に触れたら崩れてしまいそうな脆さを見せ、

どこに隠していたのかと思うほどの甘さを漂わせる。

 

彼女の瞳は不思議な色を湛えていた。

 

多分、弱さを見たときには‥‥落ちていた。

守ってあげたいと。

その瞳を曇らせたくないと思ったときには‥‥もう、嵌っていたのだ。

 

彼女の女である部分は自分だけが知っていればいいと思うくらい。

そして、

彼女は自分だけを見ていればいいのにと思うくらい。

 

末期――

 

 

「ん‥‥?」

 

かさりと木の葉を踏みしだく音が聞こえた。

意識が緩やかに浮上する。

瞳をゆっくりと柔らかな光さえ眩しくて、目を眇める。

手を翳して光を遮ると、ぼんやりとした世界に人影がやっぱりぼんやりと映った。

 

誰だ?

 

問いかけてふと、自分の腕の中から温もりが消えている事に気付いた。

 

 

いつの間に朝になっていたのだろう。

木々の葉をすり抜けて、木漏れ日が差し込んでいた。

その柔らかい光を、彼女は受けて佇んでいた。

 

傷はもう大丈夫なのだろうか?

もう熱は下がったのだろうか?

 

そんな事を問いかけるよりも前に、

 

「‥‥」

 

その世界の中で柔らかく微笑むその人の姿に目を奪われる。

 

優しい世界を見つめる瞳は同じように、いやそれよりも優しい。

 

彼女は世界を慈しむかのように見つめて、笑っていた。

 

その姿が――ぼんやりと霞んで見える。

あまりの眩しさのせいなのかもしれない。

彼女の輪郭がぼんやりと霞んで、曖昧になって見えた。

まるで、春の月のように。

春の夜空にぼんやりと浮かぶ月のように。

その姿は曖昧で、頼りなげで。

どことなく儚くて‥‥美しくて‥‥

誰にも、

手が、

届かないような‥‥

 

それに、今の彼女は似ている。

春の月に。

 

美しい月のように。

世界に愛されている彼女だから、

 

そのまま世界に溶けて、

消えていってしまいそうで――

 

「っ――

 

男は走っていた。

 

「‥‥土方さん?」

 

気がつくと、まるで引き留めるかのようにその手を掴んでいた。

手の中には暖かな感触が確かにあった。

小さくて細い。

まるで刀など似合わない、手だった。

 

「どうしたんですか?」

 

困惑気味に、だけどどこか照れたように、彼女は笑う。

琥珀の瞳は柔らかな光を受けて、甘い飴のような色に変わった。

 

その瞳が自分を見ていることが心底ほっとした。

 

ほっとした自分は、何に恐れていたのだろうか?