11

 

空に鮮血が舞う。

その人が刃を振るうたびに、

血が、悲鳴が、空を、舞う。

 

男はその小さな背中をじっと見つめていた。

 

時折、その小さな身体が見えない敵から繰り出された一撃によって傷ついていくというのに。

 

ただ、何も出来ずに見つめていた。

 

――やめろ――

やめてくれ――

 

彼女は背を向けたまま戦い続ける。

自分がどれほどに傷ついても‥‥その手を休めることなく、戦い続ける。

 

やめてくれ、もうこれ以上――

 

ざん、

と彼女は刃を振るった。

 

恐ろしいくらいの静寂が‥‥世界を支配する。

 

大きく上下する華奢な肩にはいくつかの傷が刻まれていた。

腕からも、足からも、

ぽたぽたと血が滴っている。

彼女の足下は気がつくと血だまりになっていた。

 

――もう、いい――

 

男はもうやめてくれと何度目か分からない言葉を口にした。

その瞬間、ふわと飴色を揺らしてその人は振り返る。

その綺麗な顔にも、傷が刻まれていた。

痛ましい傷だらけの顔で、彼女は、だけどにこりと笑った。

いつものように笑ってくれた。

 

男が‥‥ひどく安心する眩しい笑顔で‥‥

 

笑って、

 

ひじかたさん。

 

と名前を呼んでくれる。

 

いつものように。

凛とした声で。

呼んで、

 

ぱぁん

 

という軽い破裂音が唐突に響いた。

 

瞬間、琥珀が見開かれ‥‥

 

「っ――

 

ゆっくりと、まるで糸が切れた操り人形のように、その人はごとり、と地面に倒れ込んだ。

自らが作った血の池に、ばしゃりと、倒れ込んだ。

赤が世界に飛び散る。

倒れ込んだ女の胸元が‥‥見る見る間に赤く染まっていった。

濃紺のそれはあっという間に赤で染められ‥‥こぼれ落ちる血は‥‥男の足下に絡みついた。

 

あ‥‥あ‥‥

 

大きく見開かれた美しい琥珀から‥‥色が、消えていく。

澄んだそれが、

濁っていく。

 

もう、その人は何も言わない。

もうその人は‥‥微笑んでもくれない。

 

ただ抜け殻になったその虚ろが‥‥何も映さずにそこにあるだけ。

 

もう、その人は、

 

自分を映してさえ、くれない。

 

その人は‥‥死んだ。

 

瞬間、

 

男を襲ったのは――

 

 

 

「土方さん?」

真夜中に突然やってきた男に、は目を丸くする。

寝間着に着替え、布団をきちんと敷いていた所を見ると、今から寝るところだったのだろう。

「‥‥こんな時間に、悪い。」

男は謝った。

別に用事があったわけではない。

ただ、

 

‥‥彼女の顔が見たかっただけだった。

 

まるで愛の言葉みたいだが、そんな甘い気持ちは皆無だった。

 

夢を、見たのだ。

 

彼女が、

死ぬ、夢を。

 

彼女が死んで、二度と今のように自分を見てくれなくなる、夢。

 

「‥‥」

 

飛び起きた瞬間、夢だと分かったのに、彼は確かめるみたいにここにやって来ていた。

こうして、の顔を見て、ひどく安心している。

 

馬鹿だ。

そんなのただの夢、なのに。

 

「‥‥」

 

は暗いままの男の表情を見て、一つふむ、と頷く。

そうして、

 

?」

 

彼の手を掴むと引っ張った。

部屋の中に引き入れ、障子戸を閉め、そうして、

 

「‥‥はい、どうぞ?」

 

ぽんぽん、と布団の上を叩く。

ここに寝ろ‥‥という事らしい。

 

土方は思わず眉間に深い皺を刻んだ。

 

「どういうつもりだ‥‥」

「うん、一緒に寝ようって誘ってます。」

 

あっさりと告げられた言葉に男は盛大な溜息を吐く。

こんな時間に部下とはいえ女の部屋にやって来た事は間違いだったかもしれない。

だけど、それ以上にどうかしているのは、目の前の女だ。

男を部屋に入れ、あまつさえ、一緒に寝ようと言うのだから。

 

異性として見られていない事の悲しさもあるが、それ以上に彼女の女としての危機感の無さには呆れて溜息しか出ない。

 

こんな時間に男を部屋に入れるな‥‥というか、せめて女なら寝間着の上に何か羽織れ。

隠しもしない胸の膨らみに男はどこを見て良いのか迷ってしまうではないか。

 

「‥‥部屋に戻る。」

自分で押しかけておきながら付き合いきれんと踵を返す彼を、えいとは裾を掴んで引き留める。

「別にいいじゃないですか。」

「良くねえ、いいから離せ。」

「何もしませんよ?」

「‥‥」

小首を傾げてそう言われ、土方は言葉に詰まる。

普通それは男の科白だ。

っていうか、なんで男である自分が女である彼女に何かされると警戒しなくちゃいけないのだか‥‥

 

「‥‥いいから、ほら。」

 

難しい顔で睨み付けていると、は悪戯っぽく笑っていいからとやや強引に引っ張った。

本来ならば抗える力だったのだけど‥‥何故か、

「‥‥」

男はその力に負けた。

否、

負けた、ふりをした。

とすっと温もりの残る布団の上に腰を下ろすと、は優しい笑顔で横になってと言う。

無論そこまでは出来ない。

局長とその助勤という間柄ではあるが、彼女は女、自分は男なのだから。

 

「仕方ないなぁ。」

 

はそれならと布団をばさりと男の肩に掛ける。

 

「おい、これじゃおまえが寒いだろうが‥‥」

 

布団は一式しか用意されていない。

宿の主人にでも頼めばもう一式出して貰えるかも知れないが、生憎とこんな時間だ。

もう寝入っているだろう。

 

「俺はいい。」

 

布団を肩からはぎ取るとの身体に掛ける。

ついでに目に毒なその胸元を隠すように巻き付けてやった。

 

「土方さん風邪ひいちゃいますよ?」

「そんなに柔に出来ちゃいねえよ‥‥」

 

いいから被っとけ、と言われはひょいと肩を竦めた。

 

それから何を言うでもなくただ向かい合ったまま、土方は黙り込んだ。

こんな時間に部屋にやってきて、黙り込む‥‥なんて迷惑にも程があると思うのだが、不思議と話題が出てこない。

巧い言い訳も、出てこなかった。

こんな時間にやってきた巧い言い訳が。

 

「‥‥ただの、夢ですよ。」

 

ふいに、が小さく呟いた。

なんだ?と視線を向けると彼女は悪戯っぽく笑っていた。

 

「覚えてます?

私、昔土方さんの寝床に潜り込んだことあったでしょ?」

「人聞きの悪い事言うんじゃねえよ。」

潜り込んだ、なんてまるで彼女に夜這いをかけられたみたいじゃないか。

「おまえが情けない面してやってきたから、入れてやったんだろうが。」

事実はそうじゃないと訂正すれば、

「そうそう、そうでしたね。」

はくすくすと笑った。

 

あれは‥‥まだ試衛館道場にやってきて間もない頃だった。

は夢を見た。

今思えば里を滅ぼした時の記憶が蘇ったのだろうが、あの時はただ漠然と、悪夢としか認識していなかった。

ひどく恐ろしい夢‥‥

 

たかだか夢だと分かっていたのに、は何故かその場に一人ではいたくなくて‥‥誰かに一緒にいてほしくて邸の中を

彷徨いていたのだった。

本当は、沖田や近藤の所に行くはずだった。

彼らならの不安を取り除いてくれると知っていたから。

なのに気がついたらは、ろくに話したこともない、土方の所に来ていた。

怪訝そうな顔で出迎えられたのを‥‥覚えている。

 

どうしてそこに来てしまったのか‥‥自分でも分からなかった。

 

「だって土方さんってば、子供相手に睨み付けたりするような愛想の欠片もない人だったし。」

「ほぅ‥‥あの時てめえはそんな事を思ってたってことだ?」

 

半眼で睨み付ける土方にはちょっとだけねと茶化してみせる。

 

別に土方が怖かったわけではない。

ただ、彼が招き入れてるくれるなんて思わなかった。

それも布団の中にまで入れてくれるなんて‥‥

 

「あの時、土方さんは『ただの夢だ』って言ってくれた。」

 

だってそんなの分かり切っていた。

それでも、不安で堪らなかったのだ。

 

でも、

 

「土方さんが隣にいてくれたから‥‥安心できた。」

 

彼の優しい手が、

温もりが、

の不安を取り去ってくれた。

 

だから‥‥とは、にこっと笑った。

 

「今日は、私が土方さんの傍にいます。」

 

自分が隣にいることで、彼の不安を拭えるかどうかは分からない。

なんの役に立てるか、なんて分からないけど‥‥

 

「傍にいます。」

 

ずっと傍にいる。

だから安心して欲しい。

 

そう、真っ直ぐに、迷いのない瞳を向けられる。

慈しむような優しい色を混ぜた‥‥綺麗な瞳。

それを見ていると急に、

 

「おまえ‥‥死ぬのが怖いと思った事はあるか?」

 

そう、問いたくなった。

 

彼女は思った事があるだろうか?

 

死ぬことが、怖いだなんて――

 

なんの脈絡もない質問に、はきょとんと目を一瞬丸く見開く。

しかし次の瞬間、彼女らしくあっさりとした返答があった。

 

「ありません。」

 

即答かよ。

予想通りの言葉に土方は顔を僅かに顰める。

 

「土方さんだって、怖くないでしょ?」

「当たり前だ。」

死ぬのが怖かったら刀なんぞとっくのとうに放り出している。

「死ぬ覚悟も出来てねえで、刀なんて握れねえよ。」

なんて潔い男だろう、とは誇らしく思った。

彼は恐らく、自分の信念を貫き通すなら、どれほど悲惨な死が待っていようと‥‥恐れたりはしない。

きっと挑発的な笑みさえ湛えて挑み、そして満足しきった顔で果てるのだろう。

俺はやり遂げたと‥‥そう、言うみたいに。

 

「私も同じです。」

 

はひょいと肩を竦めて言う。

「私も‥‥近藤さんを守ると刀を抜いたときから、覚悟は決めてます。」

いつか、誰かに斬られて、殺される覚悟を。

彼らと共にいて、もそうありたいと思った。

死さえも恐れずに戦うその真っ直ぐで堂々とした姿を見て、も同じでありたいと思った。

にとって、彼ら新選組は‥‥憧れだった。

愚かだと皆に言われながらも、自分が守ると決めたものを信じて貫き通す生き様は‥‥

だから、

は願った。

 

共に戦うこと。

自分も自分の心に決めたものを守って‥‥死にたいと思った。

 

そう、

はまだ十歳という幼い時に、死ぬ覚悟を決めた。

そして、人を斬る覚悟を決め、土方に戦わせて欲しいと言った。

ただ、彼らを守るためだけに、自分は刃になると‥‥

小さな身体で、

守るのだと、

彼女は言った。

そして今も、

彼女は自分よりも小さな身体で、自分の盾となって戦っている。

 

死ぬことに、恐れを感じずに。

男を守ることに、微塵も迷いを抱かずに。

彼は‥‥近藤ではないというのに‥‥

それなのに、

彼女は、

自分を守り続ける。

彼の――代わりに。

 

「ね、土方さん。」

 

そっと琥珀の瞳が細められた。

彼女は困ったような顔で、苦しそうな顔をしている男を見つめて、訊ねた。

 

「‥‥死ぬのが怖くないというのなら‥‥何が‥‥」

 

何が、

 

「あなたは、怖いんですか?」

 

そんな顔をしなければいけないほど。

彼は何に恐れを感じているというのだろう?

 

 

――俺が怖いと思うのは――

 

慈しむような琥珀の瞳には、今、自分だけが映っている。

綺麗で、澄んだ‥‥瞳。

 

死ぬことでは、ない――――

 

この世のどんな宝石よりも綺麗な、瞳。

生命力に満ちたそれを見て‥‥男は安心した。

ここに、彼女はまだ在るのだと。

 

――俺が、怖いと、思うのは――

 

「‥‥っ‥‥」

 

唐突に、

男は今まで自分が抱えていた不安の正体に気付いた。

彼女を好きだと認めてから‥‥今までずっと胸の内に潜んでいた不安の正体。

という人を好きだと気付いた瞬間から、

 

彼は、恐れを感じていた。

 

――という女を――失うこと――

 

彼女が傷を負うたびに、

戦うたびに、

いつか来るかも知れない永久の別れを‥‥恐れた。

 

失いたくないと思った。

彼女を。

失いたくないと。

死なせたくなんかないと。

 

その瞳を‥‥あんな空虚な色に変えたくない。

その身体を‥‥抜け殻になんかしたくない。

 

ぱん、と破裂音が頭に響き、先ほど見た悪夢の光景が蘇る。

 

――それでも――

彼女は近くない将来、

自分を庇って死ぬ。

このままでは確実に、彼女は、死ぬ。

 

死なせたくない。

失くしたくない。

 

彼女には笑っていて欲しい。

いつまでも生きて、笑って‥‥

 

 

――幸せで‥‥生きてくれるならそれでいい――

 

 

男はああと溜息にも似た声を漏らした。

 

答えは決まっていた。

最初から、答えは決まっていたのだ。

 

彼女を失いたくない。

『死なせたくない』

 

そう思っていながら、その手を離すことが出来なかったのは、

同時に彼女が『自分の傍から失くなる』ことも恐れていたのだ。

 

どちらも同時に叶える事は出来ず、どちらかが確実に目の前に差し迫っているというのならば‥‥

 

すべき事はただ、一つだった。

 

 

――彼女には生きていて欲しかった。

 

 

そうしたらもう、答えは、

出ているじゃないか。

 

 

 

「土方さん?」

そっと伸びた大きな手が、を引き寄せた。

衝動的に、その腕に抱きしめ、温もりを確かめるように強く‥‥抱く。

ふわりと優しく甘い香りが男を包んだ。

触れる温もりに泣きたくなるほどの安堵感を覚える。

 

「‥‥土方‥‥さん?」

 

躊躇いがちに自分を呼ぶ声がある。

 

どうか今だけは何も聞かないでくれ。

何も言わないでくれ。

 

ただ黙って、

この温もりを刻みつける事を許してくれ。

 

これが‥‥最後だから――