12
――幸せで‥‥生きてくれるならそれでいい――
男は何度も、心の中でその言葉を繰り返した。
生きてくれるならそれでいいと、
自分に、言い聞かせるみたいに。
「‥‥‥」
やがて、文を握りしめて立ち上がる。
「おい‥‥」
呼び止められたのは、年若い隊士の一人だ。
出立の用意に忙しくしている所に声を掛けると、彼は局長を目の前にして慌てた様子で背を正した。
「は!なんでありましょうか!」
男は‥‥誠実な目をしていた。
土方はその瞳をじっと見据え、手に持っていたそれを、彼へと差し出す。
「ちっとばかし、頼まれて欲しい。」
「‥‥文‥‥ですか?」
どなたに?と訊ねる彼に、土方は諦めにも似た表情で笑う。
「会津にいる――この男に――」
もう、託せるのはその人しか‥‥いない。
慶応四年、十月。
新選組含む旧幕府軍は蝦夷地へと渡るべく仙台港を一路目指すこととなった。
「いよいよ、蝦夷に渡るんですね。」
は‥‥と白い息を吐きながら行軍を続ける一同を見守る。
「蝦夷ってやっぱりここよりも寒いんでしょうか?」
「まあ‥‥ここよりも北だからな‥‥」
「へえ。」
「雪がとんでもなく降るらしい。」
「それは楽しそうですね。」
ふふっとは笑い、雪が積もったら、とまるで緊張感のない言葉を口にする。
「雪合戦でもします?」
「‥‥ガキじゃあるまいし‥‥」
「若さに嫉妬?」
「誰が年寄りだ!」
睨み付けて反論すれば、は楽しそうにあははと笑った。
冗談ですよとその笑顔のままに言われ‥‥土方はどうだろうなと疑わしそうに瞳を眇めた。
睨まれてもはくつくつと笑うばかりで、その瞳をすっと前に向けて、でも、と再び口を開く。
「雪は‥‥嫌いじゃありません。」
「‥‥」
「私の世界の始まりは、雪の日だったから。」
懐かしそうに語る彼女の横顔に、ちくりと、痛みが胸を走る。
彼女の世界の始まりはそう、雪が降った日。
一面の白銀の世界で‥‥彼女は、最愛の人に名前を貰った。
新選組という居場所を貰った。
世界を‥‥貰った。
「だから、私、雪は嫌いじゃないです。」
は思い出を振り払うように頭を緩く振った。
そして土方に視線を向けると、に、と悪戯っぽく口の端を引き上げた。
「寒いのは勘弁ですけどね。」
「‥‥どっちなんだよ。」
ふっと小さく笑いを漏らすとはあははと声を上げて笑った。
楽しそうな笑い声に、少しだけ、笑った。
笑っておいた。
多分‥‥もう、
そんなことは出来ないと分かっていたから。
「土方さん?」
ふいに、土方の纏っていた空気が固くなる。
男は呼びかけに反応せず、一瞬、紫紺の双眸を、苦しげに細めた。
くしゃっと手の中に握りしめた文が、嫌な音を立てた。
まるで、彼の心が悲鳴をあげるみたいに。
やがて、
「。
おまえを局長助勤から、解任する。」
土方は振り返ると、琥珀の瞳をしっかりと見据えてそう告げた。
「‥‥え?」
突然の言葉に、は小さく声を上げ、僅かに目を大きくした。
あまりに唐突すぎる言葉に‥‥彼女は理解できなかったようだ。
ならば‥‥もう一度言うまでだった。
「おまえを‥‥局長助勤から、解任する。」
きっぱりと、告げた。
それが、最良の方法だった。
「おまえを‥‥解任する。」
土方は言い放ち、吐息を漏らすと、笑った。
「これでおまえは自由だ。
どこへなりと行け。」
彼女に傍にいて欲しかった。
傍にいて、笑っていて欲しかった。
失うことが怖くて、その手を手放すことが出来なかった。
だけど、
そうすることで彼女を永遠に失ってしまうというのならば、その手を離した方がいい。
その手を離して、自由になればいい。
自由に、
彼女が生きてくれたらそれが一番。
「‥‥な、に言ってるんですか‥‥」
漸くその言葉に思考が追いついた頃、は指先から痺れて、冷たくなっていくのが分かった。
がつんと、頭を殴られたように、ずきずきと頭が痛む。
一瞬言葉に詰まった。
「ちょっとそれ、笑えない冗談。」
はは、とは乾いた笑いを口にする。
冗談でないはずがない。
こんな時に、
戦いが激しくなるこんな時に、
自分を、
隊から出すなんて。
自分はまだ戦える。
まだ‥‥彼の役に立てるはずだ。
それに、
彼は言った。
地獄の底まで一緒だと。
最期まで共にいさせてくれると彼は昔約束した。
だから、冗談に違いない。
冗談でなければいけないのだ。
「‥‥冗談じゃねえ。」
彼は静かに言い放った。
逸らすことなく、紫紺をこちらへと向けて、言い放った。
「おまえは、もうこの隊においておけねえ。」
話は以上だ、と勝手に終わらせて彼は歩き出そうとする。
「待って!」
だけど、は納得できないと声を上げ、男の前に回り込んだ。
突然の解任に納得なんて出来るはずがなかった。
彼の言うとおり、このまま引き下がるなんて事は絶対に出来なかった。
「私、直します!」
「‥‥」
は必死に訴えた。
もし、解任の理由がにあるとするのならば‥‥それを改善すると彼女は言った。
「土方さんの命令通りに動くし、勝手な事もしない。
二度とふざけたりもしません。」
切り捨てろと言うのならば全ての感情を切り捨てて彼に従う。
煩わしいというのならばお節介も焼かないし、するなというならば無茶もしない。
「強くなれっていうならもっと強くなる。」
もし必要ならば、
は震える拳をぎゅっと握りしめて叫んだ。
「私の鬼の力だって使う!」
鬼の力を解き放って、彼の為に戦う。
鬼の力を解き放つ。
それは即ち、がでなくなる事を意味している。
自分ではなくなっても‥‥化け物と成り果てても、彼女は彼の役に立ちたいと言った。
だから、
ここに置いてほしい。
そう、
願った。
自分を消し去ってまで共に戦いたいという彼女の願いは‥‥ひどく男を苦しませた。
怖くないわけがない。
自分が自分でいられなくなるのが、怖くないわけがない。
だというのに彼女はまた、自分のために犠牲になろうというのだ。
そんなことをさせたいわけじゃない。
そんなことを望んでいるんじゃない。
男が求めているのはただ――
「‥‥おまえに‥‥」
紡ぎかけた言葉を、押しとどめる。
土方は決して気取られないように奥歯を噛みしめ、自分の感情を、自分の最奥へと押し込める。
そして、かつて鬼の副長と言われるに相応しい冷酷な表情と声で、
「おまえは、足手まといだ。」
だから、連れて行けないと、その願いをあっさりと切り捨てた。
言葉と共に、
心が、
死んでいくのが分かった。
冷たく、
凍っていくのが。
足手まといだ。
否、違う。
足手まといなのは‥‥
自分の、
「‥‥あとは好きにしろ。」
男は迷いを振り切るように言い切って、彼女の横を通り過ぎる。
さく、と雪を踏みしだく音に反射的に、
「土方さん!」
手を伸ばしていた。
伸ばせば届いたから。
でも、
ぱしん――と、
その手を振りほどかれた。
まるで、拒絶するみたいに。
もう、追いかけてこないでくれ。
男は願った。
もう、手を伸ばさないでくれ。
男は払いのけた手を、自分の手を、爪が食い込み己の皮膚を裂くくらい強く握りしめた。
もう、十分だ。
ありがとう。
今までずっと、共に戦ってくれて。
支えてくれて。
――ありがとう。
ありがとう。
その言葉の代わりに、
「おまえは‥‥いらない。」
残酷な言葉を突きつける。
その瞬間、
世界から、音と色が消えた。
の世界が――終わった――
「土方局長‥‥
あれ、助勤は?」
一人戻ってきた彼を目にして島田が当然のように問いかける。
それを無視してざくざくと進むと、慌てて彼は、
「あの、助勤は?」
どこに‥‥と問いかける。
じりっと胸を痛みが走った。
いや、
自分の痛みなど大したことなどない。
自分よりももっと‥‥彼女の方が‥‥
「‥‥島田、行くぞ。」
土方は固い声で短く言った。
それ以上、
何も聞くなというみたいに――
そんな彼に、島田は悲しそうな声ではいと一言頷いただけだった。
脳裏に焼き付いて、離れない。
いらないと言われた瞬間の、彼女の、ひどく、傷ついた顔が、焼き付いて離れない。
まるで男を責め続けるように、その傷ついた瞳が、頭の中をぐるぐると回る。
悪い。
男は心の内で呟き、踵を返した。
もう振り返らない。
振り返れば、きっと揺らいでしまうから。
彼女の瞳をもう一度見れば‥‥この気持ちが変わってしまいそうだから。
悪い。
謝罪の言葉をもう一度、紡ぐ。
そして、
男はそっと灰色の空を見上げて、苦しげな顔で、零した。
「生きろ――」
最初から願っていたのは君の幸せ。
君が笑って生きられる未来。
どれほどに彼女を傷つけようと、恨まれようと、
ただ、
彼女が幸せに笑っていられる方法を‥‥選ぶ。
ただ、
幸せに‥‥
生きていられる方法を。
「死ぬな‥‥」
出来れば、自分の分も生きて‥‥笑って欲しい。
『ただ、願ふ
――君、死にたまふことなかれ――
君に、幸あれ――』

|