慶応四年、六月。

新政府軍の動きが激しくなっていった。

旧幕府軍討伐に向け、彼らは北上を開始する。

一足先に会津へと向かった大鳥達や、斎藤達を追いかけ、土方もほどなくして北上する事を決めた。

傷は塞がったものの完治ではない。

それを不安に思ったけれど、その場に留まり続ける方が危険だと分かっていた。

 

そして、

六月某日‥‥彼らは会津の少し手前。

白河城へと足を踏み入れた。

 

 

「ご無沙汰しております。」

彼らを迎えたのは江戸で別れた斎藤の姿だ。

実に久方ぶりに顔を合わせる彼の様子は、とても疲れているようだが、無事なようで‥‥土方はほっと胸をなで下ろした。

会津は第一線という事もあり、激しい戦禍に見舞われていると聞いたからだ。

「おまえも無事なようでなによりだ。」

苦笑に、安堵の表情を滲ませ、広間にどさりと腰を下ろした。

その前に斎藤はやはり礼儀正しく座し、口を開く。

ここにははいない。

彼女は到着するや否や、あちこちへと指示を飛ばしに走りに行ってしまった。

終わり次第こちらへと顔を見せる事だろう。

 

「再び生きてお会いできた事‥‥心より嬉しく思います。」

言葉の最後に、

「土方局長――

違和感のある呼び方。

それを土方は嫌そうな顔で窘める。

「その呼び方はやめてくれ。俺は、局長って器じゃねえ。

それに‥‥新選組の大将は近藤さんだろうが。」

今ここにはいないとしても、新選組の局長は近藤勇、ただ一人だ。

そして自分は副長であると言うと、斎藤は真剣な面もちで、否と唱えた。

 

「局長は‥‥あなたです。」

土方さん。

 

きっぱりとした言葉に、土方は今度こそ眉根を寄せた。

 

どういうことだ?

 

と問いかけるようなそれに、斎藤は一度、その瞳に黒い影を落とす。

 

どきりと胸が音を立てる。

それは次第に早くなるにつれて、ふと、土方はあの夢の、彼の言葉を思い出してしまった。

『トシ‥‥おまえはまだこっちには来るなよ。』

あの言葉の意味は――

 

「‥‥近藤局長が‥‥亡くなりました。」

 

静かな声が、残酷な事実を突きつけた。

 

 

 

が白河城へと戻ってきた時、陽は大分傾いていた。

あらかた必要な用事を済ませ、軽く町の様子を見ながら買い出しに行っていたのだ。

「土方さんは一と会えたかな?」

そんな事を言いながら足取り軽く入城する。

城の中はやはり連日の戦いのせいか、少しばかり空気が張りつめていた。

それでも皆の顔が暗くないのは土方ら一行が合流したからだろう。

 

軽くあちこちを見回しながら広間へと向かっていると、

 

「失礼。」

 

そこの‥‥と呼び止められた。

 

「?」

振り返ると、そこには見慣れぬ男の姿があった。

とはいえここには新選組隊士以外に、幕軍の兵士達が多く集っている。

おまけに、京でも、江戸でもなく‥‥初めて訪れる知らない土地でもあった。

知っている人間の方がもしかしたら少ないかも知れない。

それに、

彼はどうやら兵士ですらないようだ。

身なりは町人のそれで‥‥腰には刀さえ差していない。

柔和な、どこか、人なつこい印象を与える顔立ちのその人は、多分、よりは年上なのだろう。

「私ですか?」

「ああ、突然呼び止めて申し訳ない。」

彼はこちらへと近付いてきて、ぺこりと頭を下げた。

「私は、山口周造と申します。」

「‥‥」

「城下で薬問屋を営んでおります。」

ここ白河の城主と縁があって、此度やってきた旧幕府軍に薬を卸しているだと彼は言った。

薬の知識のついでに、医術を囓っており、その腕を見込まれてお抱え医師として上がっているらしい。

「私はと申します。」

続いては名乗る。

「新選組副長土方歳三の、助勤を勤めています。」

「へえ、あの土方さんの?」

山口は驚いたように目を丸くした。

「君のような若い子が‥‥?」

信じられないと言う呟きにはだろうなと笑った。

鬼の副長の噂がここまで届いているかは分からないが、人斬り新選組の噂は誰もが知っている事だろう。

その新選組を事実上束ねている副長の助役が、まだ二十そこそこという若輩者が勤めているとは思うまい。

十の頃には人を何十人と殺めていた‥‥と聞いたら仰天する事だろう。

 

ふいに苦笑で誤魔化すの顔を見て、男は「おや」と声を上げた。

「君の目は‥‥」

「はい?」

凝視され、もじっと見つめる。

男は澄み切った琥珀が、まばゆい金に染まった色を見た。

目の錯覚だったかそれは一瞬だけですぐに色を戻してしまう。

しかし、金色ではなくともその瞳は美しい、不思議な色をしていた。

澄み切った、濁りのないそれは、凛とした強さの中にどこか甘さを内包していた。

逸らさずじっと見つめていると吸い込まれてしまいそうな‥‥そんな力がある。

その奥にある甘さをもっと知りたい‥‥とそんな事さえ思わせる。

 

「あの?」

声を掛けられ、はっと男は我に返った。

初対面の人の顔をまじまじと凝視するなど失礼な事この上ないだろう。

すまないと慌てて謝罪しながら彼は話題を戻した。

「そんな方に気軽に声を掛けてはまずかったでしょうか?」

「いえいえ、大丈夫ですよ。」

は苦笑で頭を振った。

幹部、とはいえ、正式な部下もいなければ、土方のように位があるわけでもない。

普通に接してくれて構わないと言えば、山口は目元を眇めて、ありがとうと言った。

「それで‥‥何かご用でした?」

「ああいや、新選組の方々が入城したと聞いたもので‥‥」

山口はかりかりと頭を掻く。

「君たちの活躍を聞かせてもらっていて‥‥どんな方々なのか、興味がありましてね?」

好奇心故に声を掛けたのだと彼は言った。

 

「特に宇都宮城での土方さんの戦いぶりには驚かされました。」

彼は目を輝かせて口を開く。

あの後、残念ながら城は奪い返されてしまったが、彼の活躍はこちらまで届いているらしい。

どうやら彼にとって『新選組』というのは『憧れ』の存在らしい。

は誇らしい思いで、はい、と頷いて、目元を細めた。

 

「土方さんはすごい人なんです。」

 

真っ直ぐで、

強くて、

揺るがないものを持っている人なのだとは言う。

 

「あの人こそ‥‥本当の侍です。」

 

誰がなんと言おうと、新選組の仲間は‥‥土方は‥‥「侍」だと胸を張って言える。

元もが百姓だろうが貧乏道場の子だろうが、関係ない。

彼らの魂は真の侍だ。

 

「侍‥‥か‥‥」

山口が感心したように呟いた。

「私も一度お会いしてみたいものです。」

羨望の眼差しで自分も会えるだろうかと彼は呟いた。

勿論、とは頷いた。

「ああでも‥‥機嫌が悪いときは止めた方がいいと思いますよ。」

「何故ですか?」

「凶悪な殺人鬼みたいな顔してますから。」

まるで内緒話でもするみたいに悪戯っぽく告げる彼女に、山口は噴き出す。

「じゃあ、土方さんの機嫌がいいときに伺わせてもらいます。」

「ええそうしてください。

それじゃ、私、ちょっと急ぎますので。」

 

今頃一人で忙しくしているだろう男を思いだしてはぺこりと頭を下げる。

呼び止めて申し訳ない、とすまなさそうに言う山口にいいえと頭を振ると、広間へと急いだ。

 

彼女が駆け出した瞬間、ふわりと風に靡く飴色の髪から、甘い香りがして‥‥

 

「‥‥」

 

男にしては不似合いな香りに、つい、視線だけで追いかけた。

 

 

 

「土方さん。」

遅くなってすいません。

と襖を開けて広間に滑り込む。

すると、先客だった人物がくるりとこちらを振り返り、

「一!」

にこりと控えめに微笑む斎藤の顔を見た瞬間に、嬉しそうな声が上がった。

思わずは畳の上を走って、

「久しぶりっ!」

がばっと抱きつく。

飛びつかれた斎藤は些か驚きの表情で一歩、後ろへと下がり‥‥

「‥‥相変わらずのようだな。」

安心したような声が耳元で聞こえる。

確かに感じる温もりに、は「よかった」ともう一度呟いた。

呟いた自分の声が震えていて、その時になって漸く、は彼とは二度とこうして会えないのかも知れないと言う不安

を抱えていたのだと気付いた。

だからこそ今、こんなにも嬉しくて‥‥涙が出そうになるのだと。

は一度ぎゅっと強く抱きついた後、離れ、

「おまえも、元気そうで良かった。」

彼の顔を改めて見て目元を細めて笑った。

 

ぺしぺしと斎藤の肩を叩いて満足げに頷いた後、土方の方へと視線を向ける。

「お話、終わりました?」

「いや、まだだ。」

「それじゃ、お茶でも用意を‥‥」

と言いかけたのを土方は遮った。

「すぐに話も終わる。」

「私‥‥いても‥‥」

大丈夫ですかと訊ねれば土方は一つ頷いた。

その瞳に暗い影を落とし、

「おまえに‥‥後で聞いて欲しい話がある。」

真剣な面もちでそう言った。

 

どくん、

 

の鼓動が一つ跳ねた。

彼の様子になんだか嫌なものを感じたが、土方はすぐに視線を斎藤へと戻し、別の話題を口にし始める。

 

「今後の戦いは俺が前線で指揮を執る。」

「‥‥」

その言葉には誰にも気づかれないように息を飲んだ。

敵も味方が多く集う会津の前線‥‥となれば戦いが激しくなるのは必然だった。

まだ怪我も治りきっていないというのにそんな所に赴くのは無謀だと。

 

「討ち死になさるつもりですか?」

 

そんなの言葉を代弁したのは、斎藤だった。

彼は鋭い眼差しを土方に向けていた。

 

「みすみす殺されてやるつもりはねえよ。」

土方は苦笑を浮かべて、首を横に振る。

「今まではおまえが前線に出てたんだろ?

局長が仕事を肩代わりするのは当然だろうが。」

確かに。

局長が前線に出れば士気は上がるかもしれない。

でも‥‥もし彼が死んだら‥‥一体誰が新選組を率いていくというのだろう?

いや、それ以前に彼が死んだら‥‥

「っ」

はぞくりと背中が震えた。

一瞬にして世界が真っ暗になった気がした。

考えたくなかった、そんなことは。

 

「土方局長のお言葉には一理あるかと思います。」

斎藤は淡々と言葉を紡ぐ。

「ですが、俺の代わりを務めるというのであれば――

しかし次の瞬間、ぞくりと背筋が寒くなるほどの殺気を男は孕み、

「っ――!?」

「せめて、俺を倒してから向かってください。」

斎藤は土方を前にして、戦う姿勢を見せたのである。

 

「‥‥」

呆気にとられたのはだけだった。

土方はまるでこうなることが最初から分かっていたかのように口元に楽しげな笑みを浮かべている。

 

「もし土方局長が俺に劣る程度の腕前でしたら、前線へ向かっても犬死にするだけでしょうから。」

「ずいぶん、言うようになったじゃねえか。」

 

土方は薄い笑みを浮かべ、応えるようにすらりと刃を抜いた。

 

「ちょっ‥‥」

 

が我に返った時には、双方が武器を構え、相手を睨み据えていた。

 

「‥っ‥」

 

止めたかったけれど、ぴりりと張り詰めた空気がそれを許さない。

 

いや、それ以前にもうこうなったら誰の声も届かないのだろう。

 

はもうと心の中で吐き捨てた。

もうこうなったら、二人の動向を見守るしかない。

拳を握りしめ、二人がどうか怪我などしないようにと‥‥祈るしか‥‥

 

ぴりぴりと互いに纏う張りつめた空気が、

二人の間で、

ちり、

と触れあった、

その瞬間、

 

――

 

土方は声もなく地を蹴った。

その早さは人のものではない。

彼は遠慮のない一撃を、斎藤へと見舞った。

 

次の瞬間に勝敗は決する。

 

――キィン!!

 

「っな!?」

 

驚きの声が上がった。

しかし上がったのは、斎藤の口から、ではなかった。

土方と‥‥の口からだ。

 

羅刹となったはずの土方が、力で押し負けたのだ。

 

何故‥‥?

 

ふわりと闇の中でもよく映える白が風に揺れた。

 

「嘘‥‥だろ?」

 

は呆然と呟いた。

驚きに見開かれた瞳に映っていたのは斎藤の姿だ。

白い、色を失った髪と‥‥

赤い、血の色を持つ瞳を持つ、

羅刹となった斎藤の、姿。

 

「おまえ‥‥」

土方が驚きの表情から、苦い表情へと変えて呟いた。

「変若水を‥‥」

飲んだのか?

その問いかけに、斎藤はこくりと頷いた。

「自ら進んで‥‥力を欲した結果です。」

「‥‥」

言葉に土方は奥歯を噛みしめる。

 

羅刹となって戦わなければ勝てない状況だったのだ。

それほどに、

彼は苦しい戦いを繰り広げていたのだと、この時分かった。

 

どこか悔しげに唇を噛みしめる土方を見つめ、斎藤は口を開いた。

「自ら激戦地に向かいたいという心境、少なからず理解できているつもりです。」

「‥‥」

「分かるからこそ、行かせるわけにはいかない。」

彼は淡々とした声で断言した。

そして刃を収め、姿を常のそれへと変えながら続けてこう言った。

「戦いの最中に身を置いていれば、どんな苦痛も忘れられるかもしれない。」

しかし、

「土方さんには忘れてもらっては困る。

目を背けてもらうわけにはいかないんです。」

その声にはどこか切実な響きがあった。

 

「‥‥それは‥‥俺が新選組の局長だからか。」

 

長い沈黙の後、土方は苦しげに呟いた。

『局長』

と自らを呼ぶその言葉にどんな想いを抱いているのか‥‥は痛いほどよく分かった。

でも、

分かっていたのは彼女だけではない。

きっと彼も分かっていた。

だから、

 

「あんたが新選組を統べる人だからです。」

 

揺るがない想いを、彼は言葉少なに音に乗せた。

 

「‥‥」

「‥‥」

 

双方無言のまま互いの瞳を見つめていたが、やがて、土方がため息を吐いた。

 

「わかった。

会津の前線指揮はおまえに任せる。」

どこか諦めたように呟けば、斎藤がほっと安堵のため息を漏らすのが分かった。

だがすぐに、

「少なくとも俺の傷が癒えるまでは、な。」

挑発するような眼差しで言えば、斎藤は目元を綻ばせ、

「ありがとうございます。」

と、こちらも応戦するかのように楽しげに目元を細めて笑うのだった。

 

 

 

やがて斎藤が退室し、二人きりになった部屋の中土方が溜息を零した。

 

「どいつもこいつも人の言う事聞きやしねえ‥‥」

勝手ばかりしやがってとぼやく彼に、はくすくすと苦笑を漏らしてから傍へと近付いていった。

「土方さんが勝手ばかり言って聞いてくれないから、ですよ。」

だから皆も学んだのだと言うと彼はくしゃと眉間に皺を寄せた。

文句を言いたげな顔でこちらを睨み付け、だがすぐに溜息を零して腰を下ろす。

「まったく‥‥」

なんとも複雑な表情をして、今し方斎藤が消えていった方向を見つめている。

そんな彼の表情は、斎藤が危惧した通り‥‥あまり良くはない。

やはりここまで強行軍で来た疲れが出ているのだろう。

 

「お茶でも‥‥持ってきましょうか?」

 

と言うが、土方はいい、と首を振った。

それより‥‥

 

「少し、いいか?」

 

瞳に、真剣な色を滲ませて彼はこちらを見つめてきた。

 

「‥‥」

 

は黙って頷き、その場に腰を下ろす。

彼と真っ直ぐに向き合い、彼の言葉を待った。

 

土方は一度、視線を伏せ、迷いを振り切るように瞼を落とす。

 

そしてもう一度を見て、こう、言った。

 

「近藤さんが‥‥死んだ。」

 

 

慶応四年。

四月の二十五日。

新選組局長である近藤勇は、斬首にて処された。

 

武士として腹を切って死ぬ事を許されず、罪人として裁かれた――