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「‥‥」
話し終えた彼は、は、と一つ小さな溜息を漏らした。
酷く、部屋の中は静まりかえっていた気がする。
風の音さえも聞こえない。
まるで‥‥彼の死を悼むかのようだった。
は黙って聞いていた。
涙は零さない。
ただ、膝で固く握りしめた拳が震えていた。
彼女に世界を与えてくれた、大切な人が‥‥死んだ。
「そう、ですか‥‥」
どうにか口から出たのはそんな言葉だけだ。
何も言えなかった。
だって、彼はもう、死んだのだから。
二人は揃って黙り込み、ただ、自分の手元を見つめていた。
蝋燭さえ灯さない室内に闇が忍び寄る。
しかしやがて、淡い月の光がぼんやりと、室内を照らした。
それをただぼうっと待っていた。
「‥‥殴っても良いぞ。」
不意に、土方が口を開いた。
なに?
視線を上げると土方は苦笑を浮かべて、を見た。
「おまえから、近藤さんを奪っちまった。」
彼が捕らわれたのは、自分のせいだと彼は言った。
「おまえがずっと大事にしてたもんを‥‥俺は全部奪っちまった。」
彼女がずっと大事にしていた居場所を、家族を、土方が奪ってしまった。
だから、
「俺を殴ってもいいぞ。」
と彼は言った。
そんな言葉を、優しい眼差しで言う。
は狡いと思った。
自分だけ、加害者になって、罪を背負うなんて狡いと。
自分だって同罪だ。
彼を一人で行かせた。
同じなのだ、土方と。
彼が一人で背負う必要なんて、ないのだ。
優しくて、狡くて――殴ってやりたいと思った。
「‥‥ねえ、土方さん。」
は静かに呼びかける。
きっと、自分も背負うと言っても彼は聞いてはくれない。
今までだって‥‥彼がに罪を背負わせてくれたことはなかった。
ただの一人で全ての責任を背負って、この人は生き続けるつもりだ。
最期の瞬間まで。
それでも、
は共に彼と重荷を背負うと決めた。
彼と同じ罪を、痛みを、悲しみを。
彼が拒もうと一緒に背負うと。
「近藤さんは‥‥きっと、楽しかったと思いますよ。」
ここまで走ってこられて、彼はきっと楽しかったに違いない。
言葉を土方は黙したまま聞いていた。
「色んな人に支えられて‥‥
彼のなりたい者にもなれたじゃないですか。」
彼は、武士になれた。
主のために、刀を持って戦えた。
自分の信念を貫き通せた。
それに‥‥
「土方さんがいた。」
何より大事な仲間がいて‥‥
楽しい事や苦しい事を一緒に共有できた。
同じ夢を見て走っていられた。
最期の瞬間までずっと‥‥彼は夢を見る事が出来た。
土方が、仲間が、一緒だったから。
「‥‥だから、きっと近藤さんは‥‥」
もう十分だと、満足だと言ってあの世に逝けたと思う。
刑場にて首を刎ねられるその前に、
死ぬ直前、彼は、
『楽しかった』
確かにそんな事を零した。
それをは知らなかったが、彼ならきっとそう思っていると知っていた。
近藤勇という人は、そういう人だ。
「だから‥‥」
「かなわねえなあ。」
ふと空気が抜ける音が聞こえた。
土方が苦笑を漏らしたのだ。
「かなわねえよ。」
困ったような顔で笑った。
彼はどこか吹っ切れたようなそれで、
「おまえにそう言われると、そうだったんじゃねえかって思えちまう。」
そう、呟いた。
近藤の死は、確かに自分のせいかもしれない。
でも、
彼は少なくとも、自分たちと共に夢を見続けた事を後悔していないと‥‥
いや、
死の直前まで、死してもなお‥‥
彼は土方と共に戦い続けられた事を誇りに思っていると。
彼は‥‥
幸せだったのだと、
本当はどうだったのか彼らは知らない。
でも、
そう、
信じたくなる。
に――言われると――
彼女が近藤を良く知っているという理由もあったのだろう。
彼ならそう言うに違いないと知っているからだと。
でも、それだけじゃない。
信じてみたくなるのだ。
彼女の言葉を。
「きっとそうだな。」
土方は、そうだ、と頷いた。
それから、ふと笑みを浮かべると、
「ありがとな。」
礼の言葉を口にすると、は首を振った。
不思議な事に、彼女の言葉でふっと、心が軽くなった気がした。
大切な人を失ったという喪失感は大きいけれど‥‥虚しくはない。
悲しいけれど‥‥でも、全てがどうでも良くなって投げ出してしまいたいとは思わなかった。
「ひとりじゃねえから‥‥かもしれねえな‥‥」
『おまえの周りには色んな人がいるだろう。』
近藤の言葉をもう一度、思いだした。
そう、彼は一人ではない。
色んな人が彼の周りにいる。
彼の周りにいて、支えてくれている。
「‥‥ひとりじゃねえってのは‥‥悪くないもんだな。」
思い返すといつだって‥‥土方が一人きりになった事はなかった気がする。
全てを失ったと思ったあの時も、今も、
いつも、
そばに、
――彼女がいた。
それが当たり前のように。
「なんですか?」
彼の零した言葉が聞こえなかったらしい。
首を捻って訊ねる彼女に、土方は、
「いや、なんでもねえよ。」
と頭を振り、立ち上がった。
立ち上がり、心の中でもう一度、ありがとうと言葉にする。
妙に暖かくてくすぐったい気持ちで男は誤魔化すように笑い、
「そうだ、やっぱり茶を‥‥」
持ってきてくれないか?
そう続けようとしたその時だった。
ぞく――
背中を慣れた、嫌な感覚が這い上がった。
これは、
「っぐ!」
次の瞬間、土方は声を堪えようと口を押さえたが、一足遅かった。
漏れた声にが異常を察したその時には、彼の髪が、先ほど見た斎藤のそれと同じになっていた。
「っ、ぐ‥‥ぁ‥‥」
口からこぼれ落ちるのは苦しげな声。
苦悶の表情を浮かべる男の姿に、は迷わずに刃を抜き、
「土方さん。」
彼の手へと握らせた。
くそ。
彼は一人呟く。
与えられた刃を投げ捨てる力はなかった。
「‥‥」
緩められた襟元に手を伸ばし、刃を押し当て、浅く、裂く。
「っ」
途端溢れる鮮血と、血のにおい。
本能が求めるままに唇を寄せた。
肩口に唇を押し当てると、血の味が滑り落ちる。
でも、何故だろう。
求めていたのは血のはずなのに、それよりも‥‥触れた肌の感触を、味を、
男は鮮烈に感じた。
滑らかで柔らかい、絹のような感触と‥‥
甘美な、味。
それが口の中に広がった瞬間、脳髄まで蕩けてしまったかのように頭が痺れ、
「っ‥‥!」
次に衝動が、身体を支配した。
気がつくと、土方は強く皮膚を吸い上げていた。
「ぁっ‥‥」
きつく、肌を吸う感触にはじんと痺れが背骨を走ったのが分かった。
思わず身を捩れば土方の逞しい腕が遮るようにその身体を抱きしめ、
「ぁ‥‥ぅ‥‥」
強く抱きすくめられ、更にきつく肩口を吸われる。
血をしぼり出すように肩口に歯を立て、唇で啜るそれは女の身体に疼きをもたらす。
もっと、
縋るように伸びそうになる手を、必死で握りしめ、爪を立てる。
もっと‥‥触れて欲しい。
思わず浮かんだ感情を、無理矢理抑えつけるように、は掌に血が滲むほど爪を立てる。
「っん‥‥」
べろりと熱い舌が肩口から首筋へと滑る。
そこにきつく噛みつかれ、は微かに艶の混じった声を漏らした。
その瞬間、拘束していた男の腕の力は更に強くなり‥‥まるで壊すかのように強い力で抱きしめられる。
「動く‥‥なっ‥‥」
はぁ、と熱い艶の混じった声が漏らしながらべろりと舌で汗を舐った。
そうするほどに、ふわりと噎せ返るほどの甘い香りが彼女の肌からあふれ出した。
その香りは、男の思考を蝕んだ。
かり、
と柔肌に歯を立てる。
噛みつくというよりもただ、その肌の感触を楽しむかのように。
ゆったりと皮膚の下で、甘い血が溢れたが、それが流れ出る事は無かった。
「それ」が欲しかったのではなかった。
――気付いているだろうか。
吸血衝動はとうに治まっているということに。
彼らは気付いているだろうか――
その行動は、
血を吸うそれとは違うことに。
そう、
まるで、
男が女を求めるかのような――
「‥‥は‥‥」
ふと、零れた溜息めいた声に気付き、土方は目を開けた。
ぼんやりと自分が映しているのは、女の細い首筋で‥‥
「‥‥っ」
この時になり、初めて自分は傷口とは全く違うところに唇を寄せていたのだと気付く。
彼は慌てて身体を離し、
「悪い‥‥」
と謝罪を口にしながら口元を拭った。
解放されたは、緩く振り、
「大丈夫。」
平気、と聞こえた声はいつものそれよりも少し‥‥重たく聞こえた。
は呼吸を落ち着けながら緩めた襟元を正す。
するりと肩口を衣が滑った。
その時、
肩口から首筋にかけ、いくつも、赤い痕が残っている事に気付いた。
まるで華が散ったかのようなそれは、刃でつけた傷ではない。
その傷はとっくの昔に塞がり、もうどこに傷を付けたのかわからない。
彼女の白い肌に残るのは‥‥男が唇で、あるいは歯で、つけた傷跡。
それは血を吸う為のそれではなく‥‥
「‥‥」
土方はふいっと視線を落とした。
自分の行いから目を逸らすかのように。
「‥‥悪かった。」
「平気ですって。」
彼女は笑ってくれた。
彼女は気付いているのだろうか。
いや、きっと気付いていなくても、気付いていたとしても。
何も見ていないと。
何もなかったと。
全てを許すかのように、笑ってくれたに違いない。
笑って、
いつものように傍にいてくれるに、違いない。
何もなかった――
どくん、と鼓動が一つ跳ねた。
――そんなわけがないのに――

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